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12.野の白鳥 下

「立たなくていい、手も挙げなくていい」

 扉の前で足を踏ん張っている青年の声で、辺りは水を打ったように静まり返った。まだ胸の圧迫が去ることはないが、脈打つ首筋をそろそろと持ち上げる。この苦しさの理由が分からなかった。分かるのは、本当は今この時が、顔を上げるには相応しくないということだけ。だが女は、強張った肩を無理に動かし、抱え込んでいた頭を移動させた。突き刺さるような痛みが動かした部分から蔓延する。帽子の中がかつてないほど熱を持ち、蒸れていた。溢れすぎた感情で涙腺はあっけなく決壊しかけていたが、この空調のことだ。眼を開けば乾燥して、何とかなるかもしれない。限界まで、目尻が裂けてしまうほど瞼をこじ開け、最後の一息で顎を持ち上げる。




 見たことがある、では済まされない男の背後へ隠れるようにして、その青年は少しずつ前へにじり寄ってきた。

「動いちゃいけない。動いたら、どうなるか」

 男の後頭部にもう一度拳銃を強く押し付け笑う。こちらからは、歯軋りをしているようにしか見えなかった。

「およそ最悪の事態だな」

 傍にいる人間にしか聞こえない程度の低さで、Dが零した。目ざとく反応し、青年は思ったよりも落ち着いた返事をかえした。

「まだなってない」

 張り付いたようにソファへ腰を落としたLに冷え切った表情を向けるまでに、院長が幾分上擦った、それでも確かな威厳を漂わせる声をあげた。

「ここは教会の敷地内ですよ」

「あんたに言われたくない」

 つまらないと言わんばかりの鼻息が項を擦ったのか、人質にされたFは痙攣するように肩を揺らした。まだ最後のふてぶてしさを捨てきれない表情で、青年より先に父親へ向き直る。

「頭おかしいんだ、こいつ。自分の事、あんたの隠し子だって言い張ってる」

「お前が知るわけないさ、生まれる前だったんだから。25年前に」

 細めた目の隙間から暗い色の瞳を覗かせ、青年はLに顔を近づけた。

「経済学部のブルネットと付き合ってなかった?」

「O、ここには来るなと」

 日焼けした顔色を紙のような白さに変え、Gは言った。

「また今度連絡すると、話はついたはずだ」

「何の話だ」

 いきり立ったLが声を低める。直接当たる空調のせいか、理解出来ていない事態に振り回されつつあるせいか、カメラ映りを気にして念入りにセットされていた前髪が、いく筋か落ちて額に掛かっている。

「お前、俺に何か隠してることがあるのか?」

「煩わすようなことじゃないと判断したんだ」

「いつもそうさ、あんたが止めちゃって、何も伝わりゃしない」

 Oの嘲笑は、乾燥した空気と同じ濃度で広がる。

「他にも隠してることが一杯あるだろう」

「落ち着け」

 髪をかきむしっていたRは、ようやく自らがその言葉を掛けられても対処できるほどの心理状態になったらしい。肉のついた腹を前へ押し出し、手を伸ばした。

「そんな物騒なもの振り回さなくても、話は出来るだろうが」

「あんたにはここであったこと、全部記事にしてもらわなくちゃならないんだ」

 幾らしつこく食い下がることで有名なジャーナリストとは言え、銃を向けられれば元の場所へ戻らざるを得なかった。何度か小さな唇を噛むように動かしたが、結局力なく腕を下げてしまった。



 Oは凝視し続けるLに再び視線を向け、それから彼へ突きつけるようにしてFの腕をねじり上げ、対面させる。食いしばった歯の内側から怒りの唸りを発する青年の横面に背後から頬を寄せ、掛けたままだった銃の安全装置を解除した。

「似てないのはご愛嬌だ。整形したからね」

「経済学部だって?」

 Lは慎重に言葉を選び、返事をする。

「人違いじゃないか」

「ほら、やっぱり覚えてない」

 誰に言うでもなく呟いた言葉に、Rだけが首を振ってみせた。

「思い出したほうが身のためだと思うぞ」

「本当に覚えがない」

 Lは身を乗り出した。指差した先を糾弾するように、一際声を張り上げる。

「こんな奴、知るもんか」

 Oは薄い笑みを口の端に乗せた。

「だろうと思った」

「くそったれ」

 Fが吐き出すように呟いた。

「適当に認めときゃ、息子がさっさと助かるとか、考え付きもしねえんだ」

「酷い父親だね」

 軽く引金を引いては離す硬い音の神経質さに飲まれたよう、張り詰めた空気が緩められることはない。女は先ほどから、背後で続けられる院長の身じろぎのせいで、いつにない巨大な苛立ちを覚えていた。断続的ではあるものの、止む事もない。



「条件は一つだけ。お袋に慰謝料を払うこと」

 渦巻く感情に全く動じることなく、Oは言い放った。

「今すぐに書類を持ってこさせて手続きをしろ。そう、D」

 鬼のような形相で睨みつけるCから逃れるため今にも崩れそうな愛想笑いを浮かべているDを、顎でしゃくる。

「電話して、弁護士を。908−×××−××××」

「何でうちの嘱託の連絡先を」

 あっけにとられた表情のLを冷たく見下ろし、Oは言った。

「調べたからに決まってるじゃないか」

 


 女が座っているソファへ足をぶつけながら、院長が前へ進み出て来たのは、その瞬間だった。

「私が代わりに人質に」

「やめるんだ、B」

 Gが制止するよりも早く、彼は女の前へ立ちはだかるよう、その身を晒していた。決意が盛り上がり、どこまでも強い口調で、さらに言葉を続ける。

「彼は私と血の繋がった弟です。今まで罪を犯しては来ましたが、まだ償いを済ませてはいません」

 この距離ならば息を吸う音まで克明に聞こえてくるから、辛うじて彼の人間らしさを理解できる。それさえ覗けば、確かに聖職者を名乗る院長の姿は、神のようなものだった。

 それほど年の変わらない青年に、彼は精一杯の誠意と丁重さを込めて哀願した。

「父の息子を盾にすると言うのなら、私であっても問題はないでしょう。抵抗はしません。死も恐れません」

「馬鹿なこと言うんじゃない」

 腰を浮かしかけたLが叱りつける。

「こんな時に教義を振り回すのはよせ」

「そうだ、やめるんだ」

 再び呻いた声へ呼応するように、Gの肩はわなわなと激しい震えを擁していた。



「やめろ」

 三人の親族をぐるりと見回してから、Oは馬鹿にしたような口調で言い捨てた。

「あんたを人質にしても意味がない」

 それから、何をも恐れぬまっすぐな視線で、院長を突き刺す。光のない黒い瞳の底が動くことはなく、人質の腕を掴む手に慈悲が加えられることもない。

「あんたは奴の息子じゃない」

「それ以上言うな」

 Rが苛立ちを露にして言葉を断ち切る。

「話をややこしくしてどうする」

「いいじゃあないか、あんただって儲かる話なんだから」

 息音すら漏らさず、教会に掲げられた十字架の如く身動きをやめた院長へ、Oは愉悦の色さえ込めて止めを刺した。

「異父兄弟とは仲良くすべし、って、聖書でも言ってるからね」

 



 雄弁とは言いがたいが、それまで自らの意思に包みこまれた神の御心を必死で紡いでいた口は、凍りついたまま二度と言葉を吐こうとはしなかった。その心構えを裏切るように悲鳴一歩手前の声を上げたのはGだった。瘧のようだった肩の震えはぴたりと止んでいる。

「大嘘だ、違う。違う、そんな訳がない」

「万が一俺にあんたの血が混じってないとしても、これだけは確実だよ。あんたの妹から聞いたんだから」

 Oは醒めた口調で告げ、最後にもう一度院長に微笑みかけた。

「神に誓ってもいい」

「とんだでたらめだ。そんなわけが……あいつが、そんなこと言うわけない」

 爆発のような勢いで主張してから、Gは裂け目のような薄い唇を強く結び、動くことをやめてしまったBを見つめる。性格どころではない。相手を捕らえようとする上目遣いの送り方が、この二人の関係をはっきりと示していた。



 一方的な疎通の両端を、Lは往生際も悪く何度も何度も見返していた。

「何だって」

 やがて、縺れるような声色を辛うじて搾り出すことに成功したが、答えるものは誰もいなかった。Rはただ、この情景を焼き付けておこうとでも言いたいのか、目を皿のようにしているのみ。Dの傷一つない表情が歎息を漏らしている間に、Cが唇を噛み締め様子を窺っていた。片腕男の問いかけが、嫌でも静寂の隙間へ潜り込んでくる。

「それって、近親相姦って奴か?」

「さあ」

 医師が視界の端で飄然と肩を竦めた。

「まあ、なんにせよ珍しい話じゃない。アダムも自分の肋骨から生まれた女と交合した」



「何の話だ」

 Lはもう一度、頭の悪い口調で繰り返した。

「そのまんまだろ」

 まだ青ざめているものの、Fはこの中で誰よりも冷静な表情を浮かべていた。

「俺とあいつは半分しか血が繋がってないってことさ」

「間違いなく兄弟だ」

 噛み付くようにGが身を乗り出す。

「何を今更」

「とにかく、たった一人の息子を助けたいなら」

 電話を握り締めたDが、視線に気付き慌ててボタンを押す。

「何番だって」

「908−×××−××××」

「お前ら、知り合いなのか」

 Cが、毅然とした態度で口を開いた。

「やけに親しそうだな」

「知り合いって程じゃないよ」

 Oが首を振ったことで、Dの表情は格段に緩んだ。

「とてもそうは思えない」

「あんた、なんでそんな俺に辛く当たるんだ」

 食い下がられたところでもう怖いものはないと言いたげに、幾分芝居がかった語調で畳み返す。

「自分の地位を狙われるとでも思ってるのか?」

「まさか」

 聞き分けのない子供を宥めるときに用いる身振りで、DがCの眼前に手を突き出した。集中する意識を妨げ続けるGの溜息ばかりが、辛気臭く部屋で存在感を表明している。

 


 一度つければ二度と離せないと分かってはいたが、結局女は不自然に腕を捻じ曲げられているFの顔を見つめたいという衝動に従った。あってはならない退屈に頭を押さえつけられるよりは、よほど自然なことだと思ったのだ。



 乾燥した空気の中でも、Fの眼は決して干からびることなく、強烈な潤みを保っている。あの時も、彼は泣いた後の僻みを連想させる瞳でそっぽを向いていた。幾分黄ばんだシーツに投げ出された掌と、左胸に刻まれたトライバルのタトゥーが何を象っていたか、狼のような、犬のような、とりあえず動物であったことは確かだった。記憶は浮かびあがるあぶくのように次々と姿を現す。はじけるたびに、あの時のことをしっかりと補強していく。あの時、逞しい彼の胴にまたがって、女は確かに思っていたのだ。どうしてこんなに拗ねているのかしら。



 今、男はこの場にいる誰とも目を合わそうとせず、遠くを見るような視線を壁に掛かった下手くそな油彩画の花へ丸投げしていた。その立場にも関わらず、弛緩した表情からは恐怖など一切感じとれない。黄色い照明から受け取った光を目に溜めたまま、一度口を窄め、そして瞼を閉じる。再び、いかにも面倒だと言わんばかりゆるゆると持ち上げられた睫に、涙の粒が引っかかっていた。女が見ている間だけでも、彼は背後で苛立つ暴漢に見られぬよう、三度は同じ動作を繰り返した。三度目など、耐え切れなかった唇が綻び、子供のような吐息さえ漏らしてみせる。



 本来緊迫していなければならない空間は、取り返しのつかないほど拡散し、だらけつつあった。

「まだなのか」

 ソファへ深々と身を沈めたLが、疲弊した声で尋ねた。

「こんな時間帯だ。留守かもしれん」

「でしょうね」

 受話器から耳を外したDを皮切りに、部屋中の意識は再び銃を持つ男に向けられる。

「幾らでも掛けてやるから、携帯電話の番号、教えろよ」

 こずるい視線を浴びることで、Oは一瞬にして動揺を開きかけた口元から消し去った。

「かかるまで篭城だ」

「なあ、いい加減終わりにしないか」

 Rが首を伸ばし、Oへこの上なく優しげな視線を送る。

「そろそろ潮時だぞ」

 Oは黙って、右手の銃を握りなおした。構わず今度は身体ごと前へのめらせ、そろそろとテーブルの上のレコーダーを引きよせる。

「記事は書かせてもらうよ」

「何を言ってるんだ」

 Gがあまりにも勢いよく振り返ったので、隣に佇むCが大きく身を揺らした。

「これはプライベートの話だぞ」

「どうせ最後は表沙汰になる」

 Rが悪びれた様子もなく首を竦めたのに答えるよう、Oも頷いた。

「逮捕くらい幾らでもされてやるよ」

「下手な記者に書かせるよりも、よっぽど同情的な話を仕立て上げてやるぜ」

「それでも」

「同情的?」

 Oが自嘲を漏らした。

「そうなると、今度は俺が取調室であんたの欺瞞を暴くことになるのか」

「ジャーナリストに誇張はつき物だからな」

「心配すんなよ」

 Dも携帯電話をポケットに落とし込み、腰に手を当てた。

「こいつの文章力は悪くない。この前マケインの記事読んだけど、上手いこと褒めてあったじゃないか」

「どうも」

「共和党支持者は嫌いだけどな」

「許可は出さない」

 Gは固い表情で告げた。

「とんでもない」

「どうしてここで腰を折るんだ」

 Rも思わず立ち上がる。

「せっかく話がまとまりかけてるのに」

「あんたにとっては人事だろうが」

 硬直する身体を無理に向き直らせ、Gは同じ高さにあるRの顔を鋭く睨みつけた。

「こっちは家族なんだからな」

「家族なら、今までどうしてほったらかしにした」

 Oが声高に怒鳴りつけ、Fの腕を限界までねじ上げた。

「おまえら、どれだけ面の皮が厚いんだ」

「違う、いつかはちゃんと説明しようと」

「誰に? こいつにか?」

 振り回しながら向けられた銃口が向けられた先で、Lが息を呑んだ。Gが支離滅裂な叫び声を発し、追いかけるように今まで縮こまっていた女の護衛たちが喚いた。こちらも内容は混ざり合い弾きあい、あるものは野次馬の声でけしかけ、あるものは被害者の声で制止する。Oは全てを無視していた。静かだが明白な怒りを発散させ、黒光りする銃の先端にまで尖った神経を行き渡らせる。作り変えられたことで発露の役目が鈍った目元でも分かるような感情の奔流を、精一杯抑えた声に乗せて言った。



「あんたが忘れてる間も、お袋はずっとあんたのことを愛してた」

 Lの青い瞳は、ほんの数十センチ前にある黒い金属の塊ではなく、更に黒光りする眇められたOのまなこへと向けられていた。

「俺が外で白い目を向けられるたびに言ってたよ。いつかは父さんが迎えに来てくれるって。誰よりも金持ちで、誰よりもハンサムなんだって」

「O、落ち着け」

「うるさい」

 Rの呼びかけを無視し、Oは引金に掛けた人差し指を痙攣のように一度動かした。

「俺はそんなこと信じちゃいなかったけど。愛してるだって? とんでもない。あんたは俺たちのことなんか忘れてる。それでもいい。そのほうがいいんだ。だって、そうでなきゃ」




 その場の全てを制圧していた言葉は、干された空気を踏み荒らすようにして近付いてきた靴音で途切れる。首を逸らしたOにFが見事な頭突きを食らわせ支配を逃れたのは、ほんの僅かな瞬間の出来事だった。



 恰幅の良いRが飛び掛るようにして体当たりすると、まだ体勢を整いきれていないOの身体はあっけなく後方に吹き飛ばされた。汗ばんだ右手から拳銃が飛び出し、リノリウムの上を滑る。

「そこのあんた、それを拾ってくれ!」

 遅れて飛んできたGと共にOを床に押さえつけながら、Rは部屋の前で立ち尽くす青年に叫んだ。彼が押していた車椅子の中で、撥ね放題の栗色の髪を持つ女性が、ぼんやりと宙を見ている。車輪のゴムチューブにぶつかり、拳銃はようやく動きを止めた。

 青年は反射的に屈み込み銃把を握ったものの、立ち上がってからは、その場に足が吸い付いてしまったかのように動きを止めてしまう。




 呆然とした表情を浮かべる青年の顔を、女は簡単に記憶の底から掬い取ることが出来た。確かに彼は、女を求めていた。ベッドの中を覗き込む欲情の顔つきは浅ましかったが、隠し事など何一つなく、心から安心することが出来た。代償として身を差し出してもよいと思えるほど。

 今の彼もまた、無防備だった。傍の女性を守るようにして立ちはだかっているものの、手の中の銃は力なくぶら下がっている。

「なんだよ、ったく」

 命からがら、女の傍までたどり着いたFが、吐き捨てるようにして悪態をつく。

「王子さまのつもりか?」



 

 頭を殴られたかのような衝撃は、頭を殴られた瞬間の痛みをじかに記憶中枢へ呼び戻した。見上げた先にある長い睫と、黒い瞳。真上の照明が影を作る。モーテルの部屋で、真っ赤に染まった視界へ収めたものとそっくりそのままだった。あの時彼は、この黄色く安っぽい光を反射させる、重いランプを掲げ、なんと言ったか。眼を潰しながれ流れていた血が、今頭の中で再びぶちまけられる。

「撃って!」

 女は硬直した青年に向かって身を乗り出し、声の限りに叫んだ。

「この男を撃って!」

 焦点を結び損なっていた瞳が急速に縮まり、女の顔を確認した瞬間に動きを止める。青年は顔を引き攣らせながらも、懸命に唇を動かし、何かを紡ごうとした。だがそれを遮るよう、女はもう一度、驚愕の表情を浮かべるFの顔に指をつきつけ、はっきりと命令を下した。

「撃つのよ、私の王子さま!」

 糸で引かれるようにして持ち上がった腕が、銃を構えた。



 Rが上げた声など、火薬の爆発には到底及ばない。奇跡的に眉間の真ん中を撃ち抜いた銃弾はFの後頭部を貫通し、背後の窓ガラスを粉々に砕いた。吹き上がった血の霧が視界を覆った瞬間、女自身も頭を弾が通り抜けた感覚に襲われ、その場に突っ伏した。

「プリンセス!」

 片腕男の悲鳴と、無様な足音が幾重にも身体へ覆いかぶさってくる。




「しっかりしな」

 そのまましばらく身を横たえていたかったのに、大柄な老人が女を抱き起こした。視界の端で、仰向けに倒れるFの首を抱えているのか、締めているのか分からない手つきで掴むCが、食いしばった歯の隙間から言葉を漏らしている。

「あんたが死んだら困るんだ」

 指の力を強めながら、何度も何度も同じ文句を繰り返す。

「あんたは馬鹿だから、死なれちゃ困る」

「どいて!」

 医師がCを突き飛ばし、その場にしゃがみ込む。右手で瞼を捲り上げ、反対側の指を首筋につける。しばらくその姿勢で動かなかった頭が、ゆっくり振られたのは、Rに詰め寄られた青年が言い訳を終え、駆けつけた職員に羽交い絞めにされた後だった。

「女を撃つつもりだった!」

 青年は必死で訴えた。

「あの女は悪魔だ!」

 廊下を引きずられながらも、まだ金切り声を上げている。もがき暴れながら、必死で伸ばそうとする手を、差し出された車椅子の女性は見向きもしなかった。やがて彼女も、看護師に連れられ元来た方向へ去っていく。声を張り上げ続ける青年の顔は真っ赤に染まり、涙と鼻水で元の形が分からないほど汚れていた。

「違うんだ! 今でもずっと、君の事を愛してるんだ!」




 青年の悲鳴が後を引く中で、医師は顔だけの神妙さで、ゆっくりと立ち上がった。その場で棒のように立ち尽くす院長の肩に手を乗せ、わざとらしいほど悲しげな声を作る。

「ここから先は君の領域だ」

「出来ません」

 吹き荒ぶ風のような虚ろさで、院長は言った。

「出来ない。私は、聖職者に相応しくない」

「そんなことは」

 いつの間にか傍にやってきていたGが、真っ黒なジャケットの肩に手を伸ばそうとする。

「B」

「あんたのせいだ!」

 突如感情を爆発させた院長は、間にある遺体を蹴飛ばしながらGに詰め寄り、スーツの襟元を捻りあげる。流れ出た血に塗れた靴で床を踏みしめ、これまで誰も見たことのない怒りを、包み隠さず叩きつける。

「私はあんたたちの罪が許されるよう、毎日祈り続けてきた! それなのに、私自身が罪から出来た人間だなんて!!」

 いつもは人形のような白さを持つ肌が高潮し、目尻に涙を浮かべながら、声を限りに叫び散らす。

「こんな恐ろしいこと、神が許すはずがない。私は救われない。あんたたちも地獄に落ちる。みんな一緒に業火で焼かれるんだ!」

 シャツを引き裂かんばかりに握り締めていた掌の力が抜け、崩れるようにしてその場にへたり込んだ彼の顔もまた、滂沱の極みを尽くしていた。靴だけではなく、スラックスもジャケットの裾も、じわじわと範囲を広げつつある赤黒い血に染まっていく。足元で泣き咽ぶしかできない息子を、Gはただ呆然と見下ろし続けていた。




 重い安全靴が床を叩き、屈強な警備員が二人室内に駆け込んでくる。彼らは床に座り込んだままのOを引っぱり立たせると、傍の医師に一言二言話しかけた。医師が首を振って指をさせば、そのまま両脇から細い身体を挟みこみ、室内に連れ出そうとする。

「待て」

 それまで茫然自失でしかなかったLが、確固たる声で引き止める。俯いていたOが空虚の表情で顔を上げる。



 Lはよろめきながら、Oの正面まで回りこんだ。すっかり髪は乱れ、血の気などとうに失っていたが、蒼瞳は確かに眼の前の顔を捉えていた。向けられるOの黒い瞳から決して眼を逸らすことなく、彼はただ見つめ続けていた。

やがて開き気味の唇から言葉が零れ出したとき、彼の目尻はもう度重なる衝撃と疲労のあまり、感情を偽ることができなくなっていた。

「おまえ、俺の息子なんだな」

 その表情を目にし、言葉を耳にしたOは、目に見えるほど青ざめた。

 警備員達が目配せをし、彼の華奢な肩を掴みなおす。

「違う」

 震える唇が続きを紡ぐ前に、彼らはその身体を部屋の外へ引きずり出していた。

「違う、あんたなんか父親じゃない」

 姿が見えなくなるその瞬間まで、凍りついた瞳はLの顔に吸い付いたまま離れようとしなかった。

「やめろ! そんな顔するな!」



 

 更に何かを語ろうと足を動かしかけたLの腕を、Rが引き戻した。

「今はやめておけ」

「本当に」

 Dも首を振り、庇うように押さえていた腰を拳で叩いた。

「もう少し頭を冷やしたらいい」

 それから、傍らにて苦虫を噛み潰した顔で押し黙るCへ唇を吊り上げて見せた。

「あんたもな。傀儡政権の夢が潰れて、残念だったな」

「息子が駄目なら直接その地位につくまでさ」

 ぶっきらぼうに言い捨て、血だらけの手をDの悪趣味なジャケットへなすり付ける。

「なんにせよ、お前はクビだよ。不穏分子と関わってた」

「どうだかね」

 Dは肩を竦めた。

「もしかしたら、誰かが引き止めてくれるかもよ」




 全てはまさに他人事。女はようやく、男の腕から身を起こした。全てが水槽越しに眺めているかのように味気ない。誰も、自分を見てくれる人はいない。ここにはいない。

 呼び止める取り巻きたちの声が遠くに霞む。死体を跨ぎ、断絶した親子の傍を横切る。医師はやってきた職員に指示を飛ばし、誰はばかることなくこの場を取り仕切っていた。ささやかないがみ合いを続ける男たちのどちらかが一度だけ視線を送ったが、すぐさま興味をなくして元の場所に戻っていった。少しだけ期待を抱いていたゲストはもう何の意味も持たず、隣に立っていた新聞記者だけが、冷静に声を掛けてきた。

「警察が来るまで、ここを動かないほうがいいぞ」

「嫌よ」

 女はそっけなく言い返した。

「ここには王子さまがいないもの」

 ふんと鼻を鳴らし、Rは自嘲めいた笑みを口の端に乗せた。

「そんなの、世界中のどこにだっていやしないよ、プリンセス」

「エリサよ」

 振り返り、鋭さと茶目っ気が半分ずつの眼で睨みつける。

「そんなくだらない呼び方はやめて。私の名前はエリサなの」

 Rが驚いたように叫ぶ。

「あんた、自分がだれか分かったのか」

 彼が言葉の続きを言う前に、エリサは駆け出していた。





 ――了――

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