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12.野の白鳥 中

廊下は部屋に比べて暖房が効いているとの話だったが、それにしても微々たるもの。空気を重く淀ませているのは、病院関係者の慌しさと、今日の主賓に部屋を覗いてすらもらえない、長期入院患者たちの体臭だった。通りすがりに声を掛けてきた男のジャージは辛うじてこざっぱりしているが、通りすがりに声を掛けられた時、背後について回っていた停滞の匂いが鼻を擽る。昨晩許可された彼女の特例を除き、風呂は週に一度だけだった。



「めかしこんで、別嬪だな」

 失った左腕の軽さによる特徴的な歩みは、女が面白がるとわかってわざと大袈裟に行っているものだとは、無論知っていた。無視しようと思ったが、結局立ち止まり、短い距離でもだるさを覚える身体を塗装の剥げかけた壁につけた。

「気分はどうだい」

「最悪よ。疲れちゃう」

「今から疲れてちゃ身がもたないぜ」

 黄ばんだ歯をむき出して笑い、無事なほうの腕を差し出す。

「ま、このニュースが流れたら、家族が迎えに来てくれるかもしれないからな。せいぜい頑張りな」

「あなた、私にいなくなって欲しいの?」

 片眉を上げてきつい口調を作れば、あっけなく表情は暗い方向へと転落する。掌をジャージのズボンに擦りつけながら、男は項垂れた。

「そんなことは露とも考えちゃいないが」

 向けられた卑屈な上目遣いを無視し、女はそっぽを向いて見せた。

「やらせてもくれないから、どうでも良くなったんでしょ」

「そんなそんな」

 やるという言葉を吐いたときには、男の方が激しく顔を顰めていた。

「ただ俺たちは、あんたに幸せになって欲しいだけさ」

「ここを出たって幸せになるとも限らないわよ」

「そりゃそうだが……あんたがいっつも言ってるとおり、ここは肥溜めみたいな場所だからな」

「確かにね」



「その様子だと、大丈夫そうだ」

 背後から顔を出した担当医が、長い脚を大股で動かす、きびきびした動きで近付いてくる。他の医師たちと違い彼だけは喧騒に巻き込まれることなく、いつもの鷹揚な笑みを崩さない。

「ゲストはさっき到着しましたよ。今一つ下の階で、小児病棟の子供たちの話を聞いているはずです」

 長い首から落ちそうな聴診器を引っ掛けなおし、ゆったりとした仕草で腕のロレックスを掲げた。

「そうですね。あと30分くらいで三階に上がってくるでしょう」

「だから俺も、病室へ帰るように追い立てられたのさ」

 今はない左腕を振り回し、男はいきまいた。

「どうせ俺のところになんか来やしないって言うのに。封じ込め政策って奴だ」

「そういう訳でもありませんが、あまり周りがざわついていたら落ち着かないでしょうから」

 男は眼鏡の向こうで細めた瞳を、二人の患者へ交互に振りまいた。

「なにせ病み上がりの人間に、人のざわめきは苦しい」

「あれ、ここに入院してたのか」

「いいえ。メタノール中毒で、私立病院のほうに」

「はっ、金持ちは病気になってもこんなところへはおいでにならないってわけか」

 医師の思惑通り、男が皮肉な口調で鼻息を噴き出すのを、女は醒めた目で眺めていた。

「身分が違うから、俺達みたいな奴がプリンセスの周りをうろついてるのなんか、見たくないわけだ」

「来るつもりだったの?」

 女は顔を顰めた。

「インタビューの間も?」

「だってさ、不安だろう」

 当然と言った調子で、男は胸を張った。安全ピンで留められたジャージの腕が、ひらひらと揺れる。

「昨日、リコやディーディーと話し合ったんだ。酷いことをされないように、俺達が見張っといてやろうって」

「インタビューやお見舞いなんかで、そんな酷い目にあわせるわけないじゃないの」



 光景が目に浮かぶようだった。談話室の汚いソファの中で背筋を伸ばし、凛とした表情のまままっすぐ正面を見据える自分。有り余る同情を湛え、神妙な顔つきで自分の一言一句に頷く顔も見たことのない院長の父親。傍で逐一メモを取る、太った新聞記者。彼らが発言するたびに真顔で茶々を入れる、いつもの不完全な取り巻きたち。がなり声を思い出すだけで、ぞっとする。

 この時ばかりは、院長の配慮に感謝する気持ちになった。冷たい目つきで寝癖のついた男の頭を見つめると、彼は居心地が悪そうに身を揺らした。

「大丈夫、結構よ」

「見舞いは一応、病室で行う予定だったんだが」

 そのとき、医師は綺麗な指先で顎を撫でながら呟いた。

「それだけ元気なら、談話室でやっても問題はなさそうだ。病室は狭いし、重症の患者が寝込んでいるから、あまり騒がしくやられるとまずい」

 男を覗き込み、にっこり笑う。

「大人しくしてるって言うのなら、円卓の騎士諸君を招集してもいいんじゃないかな。一人もいない談話室って言うのも不自然だし、崇拝者がいるって設定の方が、神秘性が増して面白い」

「そんなの」

 女は愕然として言った。

「うるさかったら、病み上がりの人間は苦しくなるんでしょう?」

「ただ座ってるだけなら問題ないでしょう。まさかプリンセスの晴れ舞台を台無しにするつもりなど、ありませんよね」

「勿論」

 医師の問いに、男は何度も頷いた。

「邪魔なんかしない」

「この病院の経営者の父親なのに。院長が怒るわよ」

「肩書きは何であろうと、所詮見舞い客ですから」

 女の怒りなどどこ吹く風で、医師は典型的なWASPの呈で肩を竦めた。

「それほど特別待遇をしなくてもね。人間は皆平等だと、神も言っている」

 医師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、女はその場から歩み去っていた。寄った眉根を見せたくはない。

「プリンセス」

 後ろから、困惑気味の声が追いかけてくる。いつの間にか人通りが絶え、静まり返った廊下では、甲高いかすれ声がよく響いた。

「心配しなくても、何か嫌な目にあったら、俺達がとっちめてやるよ」

「違うわよ、馬鹿」

 正面で待ち構える、人気のない談話室に向かって怒鳴りつける。今男が浮かべているであろう、混じりけのない憧憬など見たくもなかった。理想ばかり見すぎてぼけてしまった頭が、現実に現れたどんな言葉も理解しないであろうことは、分かりきっていた。

「すぐにみんなを呼んでくるから」

 とどめの言葉は心の奥底で絶大な違和感となり、談話室の天井を覆うヤニの如くへばりついた。



 言葉を違える事はなく、男は女が談話室の中央を陣取ってから10分もしないうちに、仲間を呼んできた。足場から転げ落ち両足首を骨折した元建設業者。耳が遠くなりつつある黒い肌の老人。ギャングの手下になってすぐ銃で撃たれ、十二指腸を吹き飛ばされたプエルト・リコの青年。彼らに向かって、男は健在な右腕をシャーマンの如く掲げて見せ、真面目な顔で告げる。

「プリンセスは今、気分が良くない」

 そしてお互いの絆を確認するよう頷き合うと、女の背後、部屋の隅にあるソファへ収まった。密やかに交わされる気遣いの言葉が不愉快で堪らない。



 いつも座る窓際ではなく、小さな合成樹脂のテーブルを挟んで4人掛けのソファが向き合う形の席は妙に肌寒かった。カーディガン一枚ではとても耐えられるものではない。腕を摩り、固めの背凭れに身体を押し付ける。それでもぬくもりはやってこなかった。




 蔓延する寒さで期待は縮こまるばかり。本当にやってくるのだろうか。一体何を話すのだろうか。せめて質問の内容を教えて欲しい。認めたくはなかったが、女は今更ながら巨大な不安が身を襲うのを、如実に感じ取っていた。



 頭痛が起こらないよう脳と感情に相談しながら、思い出せる限りで記憶を辿る。いつの間にか、ベッドに寝ていた。それ以前のことは、白く柔らかな光となって溶けてしまった。光に手を伸ばすことは、勿論美しいとすら感じてはいけない。首を捻り、誰もいない窓辺に向ける。アルミサッシのはまったガラス窓は、壁の上半分を占めるほどの広く、差し込む光を余すことなく部屋に連れてきてくれる。ぴったりと一致するとは言わないまでも、特に午前中の明るい色は、頭の中を漂うあの白さと良く似ていた。温度はそれほど高くないが、包み込まれていれば少なくとも安心は出来る。時が経ち、光が橙色に変わるまで、女はよく一人用のソファを占領し、今という時間を感じていた。

 それがいつの間にか、人が集まり、しがらみを押し付けられ。



 どうせ無理やり動かされるなら、もっと圧倒的な誰かに救い出して欲しい。



 二の腕に爪を立てていたら、いつの間にか傍に来ていたチンピラが、自らが着ていた紺のスポーツジャケットを差し出した。無言で引ったくり、袖を通す。彼が常に首筋へ振りかけているパコ・ラバンヌの匂いが身体中の傷を疼かせる。

「私って何なの」

 目を合わせたまま女が問えば、寡黙な青年は困惑の表情を浮かべた。畳み掛けるように、質問を加える。

「これからどうなるの」

 振り返った青年が発したSOSに答えられる人間は、誰一人としていなかった。皆が一様に戸惑っているのが、苛立たしい。

「哲学的だ」

 足をギプスで固定された男が、車椅子の中で遠慮がちに笑う。

「あんたは『プリンセス・マイア』で『ボードウォークの天使』」

 半分だけしかない左腕と共に、隣から男が助け舟を遣す。

「それで、これからきっと、幸せになれる人間さ」

「本当に?」

 掠れた声で女は聞いた。彼らの前で、こんなにも弱気をさらけ出してしまったのは、初めてかもしれない。



 頭痛はしないが、大人しいと思っていた動悸が不意に大きく聞こえる。今まで努めて意識しないようにしてきたのに。苦しくて、今までのようにもったいぶっている余裕すらない。曝け出してしまわなければ気が済まなかった。

張り裂けそうな胸の鼓動を、掻き合わせたジャケットの前で隠しながら、女は素直な気持ちで尋ねた。

「本当に私、幸せに」





「まだ来てないみたいだな」

 言葉なんてあっけない。全ての注目が視界の中へ飛び込んできたスーツの色に攫われたのは、彼女の舌が乾きのあまり口の中でこんがらがってしまった瞬間だった。

 蔦緑色のスーツと目に痛いほど白いシルクのシャツは明らかにヨーロッパ製のもので、念入りに後ろへ撫で付けられた髪と、派手な顔立ちに良く栄えている事は事実だった。しかし全てがくすんだこの部屋の中ではあまりにも場違いで、空気の色すら変えてしまっている。

「『マイアミバイス』のソニー・クロケットみたいだな」

 老人が呟くのを流し聞きながら、女は立ちはだかる男をぼんやりと見上げた。

「あなた、誰」

 青年は驚いた顔で、大きな瞳を更に丸くした。

「覚えてない?」

 腰を叩いてみせる動作の意味をはかることが出来ず、女は首を振った。

「こんな悪趣味な服着てる人、知り合いにいなかったわ」



 傷だらけのタイルを踏みしめる鰐皮のローファーを見下ろせば、傷の辺りに溜息が降ってくる。確かにソニー・クロケット。流石に靴下は履いていたが、うっかりするとやくざものと勘違いされかねない様相だった。病院どころか、アトランティックシティという街そのものから、数インチほど浮いている。

「もしかしてあなた」

 女の背後に控える患者達へ小馬鹿にしたような視線を送るのを中断し、青年は絵に描いたかのような綺麗さで、整えた眉を吊り上げた。

「私を迎えにきてくれたの?」

 目の奥で燃やす感情だけはここへ来た時から一切変えないままで、青年は鼻を鳴らした。

「馬鹿いえ」

 女が安堵する間も与えず、彼はぐるりと篭った匂いに占められつつある部屋を見回した。

「しかし貧相なところだな。え? 天使さん」

 からかいを含んだ口調の端々に、西海岸風のアクセントが見え隠れしている。背後で誰かが立ち上がろうとする前に、女は口を開いた。

「何の用?」

「あんたじゃない。新聞記者さ、知ってるだろう」

「インタビューに来る人?」

「そう」

 落ち着きなく目をうごめかし、男達にも無言で答えを求める。彼らが首を振ったことを女が知ったのは、ぽんぽんと威勢よく言葉を吐き出していた唇が強く噛み締められたことで知った。

「くそっ、Lたちについてまわってやがるのか」

「何があったんだ」

 片腕の男が声を上げた。

「プリンセスに危ないことでも?」

「プリンセス?」

 青年は大仰に声色を高めた。

「男を突き飛ばすのに飽きて新興宗教でも始めたのか」

 女はあまり使うことのない忍耐を呼び出し、青年の言葉を待った。

 片腕男を哀れむように見下ろし、青年は首を振った。

「心配しなさんな、プリンセスには直接は関係ない。あるとしたら、今こっちに向かってる奴のほうさ」

「ゲストなら、もうすぐこっちに来るって言ってたわ」

「知ってる。入り口の前にベントレーが停まってるのを見た」

 舌打ちをし、忙しない身振りで廊下の突き当たりまで視界を広げる。

「出来たら、本人には会いたくなかったんだけどな」

 斜め下から見た彼の口元が引き攣るのと、遠くから甲高いベルの音が聞こえるのは、ほぼ同時の出来事だった。

「くそっ」

 低められた声に、騒がしい足音の群れが混ざる。誰よりも早く、女はソファの上で姿勢を正し、俯いて乱れ気味の髪に指を入れた。

「言ってる傍から」

「来たぞ。みんな」

 片腕男は引き連れた仲間を見渡した。

「大人しくするんだ」



 

 先頭を歩いていたのは先ほどよりもにこやかさを三倍水増しした医師で、動かない表情をそのまま、座っている女達に向けてくる。

「お待たせしました」

 一瞬眼鏡の奥で光る碧色の瞳が、それと殆ど同じ色のスーツを着た青年を捉える。しかし取り立て焦るでもなく、むしろ面白がっているかのような表情で、医師は一歩身を引き、女の背後に回った。



「お前、どうしてこんなところに」

 続いて談話室に入ってきたのは、入院してすぐの頃、毎日のように花を届けにきていた男だった。忘れることのないほど地味なスーツを着た彼は真面目そうな顔を歪め、女の腰掛けたソファに手を置く青年を睨む。

「今日は昼から仕事じゃないのか、ミスター・ペッパーミル」

「有給を消費してる真っ最中さ」

 幾分か挫かれてしまった気勢を奮い立たせ、Dは言った。

「それよか、あんたがここにいるほうがおかしいと思うんだけどな」

「仕事だよ」



「Cには、うちの馬鹿息子を探すのを手伝ってもらったんだ」

 グレーだが地味ではないスーツと、清潔そうな白いシャツの男が顔を出した途端、どこかまとまりのなかった一団の空気が、抑えこまれたように鎮まる。今まで年齢の割には押しの強い態度だったCすらもが、彼に肩を叩かれた途端、軽く息を詰める。

「無理やり引っ立ててきたんだが、奴はまだ、下にいる。随分と子供に懐かれてな、意外なことに」

 何事も臆することのない堂々とした歩みで近付くと、男は、今日のゲストであるLは、皆が何かを言う前に女の傍へしゃがみ込んだ。同じ高さから、魅力的な青い瞳で女の顔を覗き込む。

「君が『ボードウォークの天使』か。確かに、美しいお嬢さんだな」

 徹底的に軽蔑してやろうと厳重に構えていたにも関わらず、気付けば胸元にまで潜り込まれている。全てにおいてだらしのない男。良い噂など何一つ聞かないのに、僅かながら持ち上がった口角の親しみやすさは、誰も真似することが出来ないに違いない。



「挨拶する前から口説くなんて、マナー違反だぞ」

 Cや看護師を押しのけるようにして前へ出てきた男が、割れるような声を上げた。いつも身軽な呈の彼にしては珍しく、左手のテープレコーダーの他に、逞しい猪首から旧式のライカをぶら下げている。

「天使、いや、プリンセスの方がいいのか」

 身を寄せ合い身構える男達に視線を投げてから、Rは露骨な好奇心を女に向けた。

「いよいよ戴冠式ってわけだ」



 必死の形相で探していたにも関わらず、DはRの頭の天辺を睨むばかりで固く口を噤み続けるばかりだった。Rに至っては、最初に群集の一角として認識しただけで、後は取材の準備に忙しく、見向きもしない。彼の代わりを引き受けたと言わんばかりに、Lの傍に控えたCが鋭い視線を送り続けている。



「申し訳ありませんが、取材は短めでお願いします」

 無言の対峙を避ける上っ面の明るさで、Wが微笑む。

「患者の体調のこともありますしね」

「俺も『元』患者だぞ」

 少し引き攣れる独特の笑いを浮かべたLは、彼女が腰掛けている隣のソファに腰を落とした。

「だが、いや、残念だな」

「差し出がましいことですが」

 表情を解凍させたCが、上司の方に身を屈める。

「広報宣伝部長がおいでになってから始められたほうが」

「それもそうだな」

 すっかりリラックスした態度で頷く。レコーダーを手にしていたRへ首を捻ると、いかにも慣れた動作で片腕を上げた。

「じゃあ、今はオフレコで」



 Rは肩をすくめ、スイッチをオフにした。空気は変わらない。女は頬杖をつき、溜息をついた。さきほどまであれほど寒々しかったのに、今はニット帽の中が蒸れるほどの熱気が襲い掛かってくる。脱いでしまいたかったが、いつ写真を撮られるか分からなかったし、第一今まで医師と看護師以外の誰一人にも、その傷跡を晒したことはなかったのだ。



 我慢をすればするほど頬は火照るばかりだった。幾ら紅顔が良いと言っても、これでは写真うつりとしてあんまり過ぎる。自分はあくまでも。女は乾いた唇を舐めた。自分はあくまでも天使や王女であって、哀れな被害者ではない。

 仕方なく、ちょうど良いほどのぬくもりを保っていたジャケットを脱ぎ捨てる。思ったとおり少し肌寒かったが、一つ良い点があるとすれば、パジャマの襟元から覗く、くっきりとした胸の谷間を強調できるようになることだろうか。

 Lの視線が思ったとおりの場所へ注がれたことに満足してから、女は鷹揚な態度で脚を組んだ。



 沈黙の中、10歳の子供の眼で辺りを観察していたRが、仏頂面に表情を切り替えたCへ身を寄せた。Dを顎でしゃくり、空々しい声色で問いかける。

「彼は? おたくの従業員?」

「カジノで働いてる」

 皮肉満載の口調でDは叩き返した。

「こんな派手な格好をしてるのはリノ出身を気取ってるからでも80年代に憧れてるからでもなくて、他のスーツが全部水浸しになってるせいだぞ」

「水浸し?」

 はっきりと、Rの眉が不安の色を帯びる。

「どうして」

「同居人が馬鹿をな。ったく、こんな格好」

 ふんと鼻を鳴らし、ポケットに手を突っ込む。どこか衆目を意識しているかのようなポーズに、言葉の半分以上が嘘であることは、すぐに知れ渡った。

「結局行くってさ。止めたんだけど、目を離した隙にクローゼット中の服をバスタブへ放り込みやがった」

 この場へ横たえるにしては不自然な沈黙が、ますます上がりつつある室温の間に居座る。どうやらRから伝染したらしい不可思議な胸騒ぎを抱きすくめ、女は言葉を待ち受けた。



「それで」

 頭の回転が速い男にしては長すぎるだんまりの後、Rは干上がった声で呟いた。

「そいつは出て行った?」

「ああ。予定通りに」

 Dは深く頷いた。

「残念ながら」

 それっきり、二人は固く口を閉ざしてしまった。




「なかなか勇ましいお嬢さんを相手にしてるらしいな」

 よどんだ空気をあっけなく切り裂いたのは、Lの放ったのんき極まりない破顔だった。彼はむっつり顔のDへ、親しみの篭ったからかいを向けた。

「俺も色々な女と付き合ってきたが、流石に服を全部駄目にするような猛女はいなかったよ。一度、銃を突きつけられたことはあったが」

 一度言葉を切って辺りを見回すが、真面目な顔で聞いているのは傍で控えているCくらいのものだった。

「そういうタイプには、さっさと謝ったほうがいいぞ。女の無茶ってのは、愛情表現の裏返しだからな」

「それは経験で?」

 片腕男のふざけた茶々に、涼しい顔を向ける。

「まあな」

 言いながら茶目っ気たっぷりに声を潜め、片眉を吊り上げてみせる。本来なら醒めていてもおかしくないはずであるその場の雰囲気が、未だ殺伐としていることに、女の中の不安は益々膨らむばかりだった。

「はあ」

 Dは気の抜けた声で返した。

「そうなりゃ良いんですが」

 それ以上は、どこか遠くを見るような目で、天井の辺りに視線をやっている。その瞳を追いかけようと、腰で手を組み、どっしりと立ちはだかっていたCが、口を開こうとして結局噤んだ。欲求不満がありありと浮かんでいるが、隙のない目つきはLとDを秤にかけたまま、動かない。




 欲求不満に陥っているのは女も同じことだった。退屈そうに自らの結婚指輪を見ているL以外は、誰もが感じているに違いない。もっと情報が必要だった。Rが目元に浮かべる哀れみの意味も、Dの喉の辺りで蟠っている言葉の内容も。表に出てきたのは芝居の台詞よりも陳腐な綺麗ごとばかりだった。まるで自らの記憶を阻む白い光のような不安要素に、女は苛立ちを微かな頭痛が沸き起こるのを感じた。それは胸騒ぎから発して脳にたどり着くと、はっきりとした危険信号に形を変える。



 背後を振り返れば、相変わらず烏合の衆。ひそやかに交わされる言葉は小さく、こちらにまで聞こえてはこなかったが、内容は予測できる。大方、Lのウイットにでも当てられたに違いない。あざ笑いつつも、彼らの本質がLのジョークを好むようなものであることは、出会ったときから分かりきっていた。



 だが女が何よりも許せないことは、自らが全ての輪から取り残され、無視され続けていることだった。この取材の目的は何だか彼らが忘れたわけではあるまいが、いつまで経ってもレコーダーは回らず、カメラのフラッシュも輝かない。今現在、誰の瞳もこちらには向けられていない。その両方を持ったRに視線を送るが、時おり廊下へ横目を向けるばかりで注意の欠片すら与えようとはしなかった。ゲストであるLに至っては手首に嵌めたオメガの腕時計をちらちらと窺いながら、早くこの時を終わらせるきっかけが始まるのを心待ちにしている。



 憤りを何とか飲み込み、女は毅然とした態度で胸をそらした。

「まだかしらね。私、疲れてきたわ」

「病室に戻りますか」

 不意に、今まで気配を感じさせなかったWが背後から覗き込む。

「無理は禁物だ」

「もうすぐ来ますよ」

遮るようCは言った。

「何なら呼んできましょうか」

「いや、来たぜ」

 片腕男が長い首を伸ばした。一斉に立てられた聞き耳には、廊下から談話室まで一直線に続く静寂を裂く靴音が、確かに届いてくる。どこからか、安堵の溜息が零された。ただ一人Rの顔色だけが、目に見えるほど悪くなっていく。



 一度部屋の前を行き過ぎそうになったGは、群集の注目に絡めとられると、上品ぶった顔立ちを謝罪の色に染めた。

「遅れてすまない」

「遅いぞ」

 歎息するLの傍から、Cは渋々と言った呈で僅かに間隔を空けた。その間に何の抵抗もなく滑り込んだGに、彼と縁戚関係にある上司は首をかしげて見せた。

「Fは?」

「まだ遊んでる」

「いじめてるんじゃないだろうな」

「子供たちが離そうとしない。精神年齢がそう変わらないから」

「言えてるな」

 お手上げと言わんばかりに掲げられたLの腕よりも少し上から注がれる視線の意味を、女は知っている。見舞いに訪れ、親切な提案をいくつか挙げるときも、同じような顔でこちらを見つめていた。包み込み、絡みつくような熱意をどこかでも受け取ったような気はするが、いつもあと一歩のところで思い出せない。

「人間は誰しも、素晴らしい一面を有しています」

 集まった注目を臆することなく身に受ける青年の顔を見て、ぱっと弾ける様に連想が繋がる。あの慈愛は父子ではなく、伯父と甥の間に受け継がれたものらしい。



 音もなく部屋に入ってきた院長は、Dとソファの間へ割り込むようにして身を落ち着けた。

「見下すような真似は、神がお許しになりませんよ」

 本物の父親の方はと言えば、うんざりしたように首を振っただけで、言葉を発する気もないようだった。

「まあ、これで殆ど揃ったことだから」

 Gが焦りに任せるまま二人の間へ割って入り、汗ばんだ微笑を向ける。

「約束どおり、取材を」

 促されたRは、これまでの熱意を微塵も見せようとはしなかった。どこかもたつきながら、丸く煙草の焼け焦げを見せるテーブルに、レコーダーを乗せる。もう一度だけDの様子を窺い、らしくもないため息をついた。

「日本製の高い奴だから、そんながなりたてなくてもちゃんと入ってるよ」





 最初はまた、要領の悪い職員が粗相でもしたのだろうと考えていた。しかしあっけないほど軽い破裂音の後からついてきた喚き声は、女の頭にしっかりと残る縫合の下、もっと重大な場所で、圧迫的な痛みとなって叩きつけられた。

「いい加減にしろよ、この野郎」

 叫んだ途端甲高くなる声色を一番先に認知したのは、Lだった。

「Fか?」

 リノリウムの上で物を引きずる耳障りな音と勇ましい足音、聞くに堪えない罵詈雑言は一つに丸められて談話室まで転がされる。全てが膜を張ったようにぼやけて聞こえるのは、急速に高まる心音のせいに違いない。脂汗と窒息の感覚に襲われ、女は思わずパジャマの襟元が千切れるほど強く掴んだ。理由すら考える余裕がない。Cが喉を締め上げられたような声で呟いた。「銃声、今の」。身を丸めたにも関わらず、誰も気付いてくれない。皆が外を見ている。誰も見てくれない。誰も助けに来ない。

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