12.野の白鳥 上
普段はナースコールを押してもなかなか来ない看護師が、自ら病室にやってきた。廊下の端から二番目、4人部屋は満室にも関わらず、空間は寒々しい。よく通る低めの声は、昼食後でまだ煮物の匂いが残る空気を抵抗なく突き抜け、リハビリとして推奨されている編み物に勤しんでいた女の頬に、直接ぶつかる。
「少し綺麗にしましょう」
櫛と鏡、パジャマとニット帽を手にした看護師自身、いつもよりも化粧が濃い。窓から差し込む白い光を真正面から受け止めているせいで、ファンデーションを塗りたくった顔は起伏を失い、人間離れして見えた。ほうれい線どころか、ただでも低い鼻が一層丸く見える。緑色の毛糸で編んだベストを、贈り物の日用品で埋まったサイドテーブルに放り出し、女は露骨な冷笑を浮かべて見せた。
「貴女も写真撮ってもらうつもりなの?」
背後に回った看護師がどのように表情を変化させたのか確かめようと首を捻るが、傷んだ赤毛が横顔を隠している。がっかりしてベッドから降り、パジャマを見下ろす。卵色のそれは一度も洗濯された事がないのか、固い動きでシーツの上に広がっている。上に置かれたニット帽は赤い木の葉模様。酷い組み合わせだと思った。
「これ買ったの、誰?」
「院長先生が購入してくださいました」
「そうじゃなくて、買ってきたのは」
いつもの無表情が向けられたのは一瞬だけで、視線はすぐに手元のおまるに落とされた。
「私です」
ふんと鼻を鳴らし、女は顔を持ち上げた。
「そう。道理で」
看護師は何とも答えなかった。
「来るのは何時くらいになるかしら」
「さあ。病院の到着は2時だそうですが、他の患者さんのところも回りますからね」
「取材があるから、一番最後かしらね」
身を起こしたときに見せる爬虫類のような横目など、気にすらならない。むしろ望んでいた程度よりも足りないほどだった。
「どう思う?」
もう一度聞けば、大きな溜息が、正面から聞こえる鼾で占領された空気の余白に響く。
「そうですね」
もう、顔を上げようともしなかった。
ようやく満足して、中身を捨てに行こうとする後姿を締め出すようにしてカーテンを引く。
「早く来ないかしら」
声が浮ついていることに気付き、頬を押さえる。まだ外側でぐずついている看護師にばれてしまったかと思ったが、彼女の体型同様丸い影は、緩慢な動きを見せるだけだった。それでも遠ざかってしまう前に、腹立ち紛れでもう一度叫んでおく。
「長いこと起き上がってたら、疲れるじゃないの」
のりのついたパジャマはごわごわとして、かさついた皮膚に引っかかる。襟のラベルが痒くて仕方なかったし、色もデザインも気に入らない。周りの親切な人たちに買ってもらったものの方が幾分良いか知れなかった。彼らも、自分達が与えたものを身につけていたほうが喜ぶに違いない。これを着用している間は、あの哀れな男達に会いたくなかった。だって私は。カーテンで区切られ薄暗い空気をそのまま取り込んだ胸の奥に、しっかり言い聞かせる。だって私は、彼らに慕われている、可哀相な男たちをがっかりさせるなんて、そんな酷いことを出来る女ではない。
無論、女は自分の容姿を知っている。襟ぐりから覗く首筋や、ぶかぶかしたシャツの中で泳ぐ肩のラインが、周囲の人間にどういう感情を催させるか、ちゃんと理解していた。嫌いだと言いつつも、この服が今のやせ細った身によく似合っていることは、誰の眼にも――勿論、自分の眼も含めて――明らかだったのだ。
顎を引き、ここだけはまだ豊満な乳房に手を這わせる。長い入院生活は身体から張りを奪い、醜い弛緩した肉塊に身を変化させていた。特に酷いのは二の腕と下半身で、近頃は身を動かすたび、揺れながら衣服へぶつかる筋肉が変化した贅肉の柔らかさを自覚せねばならなかった。少しでも状況を打開しようと腹筋をしたら傷口から血が滲んだという事実に縋り、ここ1ヶ月は運動らしい運動もしていない。世界へ戻る前に、元の姿に戻るのが目標だったが、果たす自信はなかった。そもそも、自らが本来どのような姿をしていたのかすら、記憶にない。
きっと、誰もがこの胸に顔を埋めたがったのだろう。先細りの冷えた爪先に口づけするため、男達は列を成していたのだろう。今周りを取り巻く男達は、女に好色の視線を向けようとすることは決してなかった。壊れ物を扱うかのような恭しさに、悪い気分はしない。けれど、彼らの態度はそこでぷつんと切れていた。今はそれでもいい。けれど、再び世界に出る日が来たら。
ニット帽を深く被り、目を閉じる。大きく深呼吸してから、コップの隣に置いてある手鏡を掴んだ。カーテン越しの薄暗いクリーム色の光しか与えられていないにも関わらず、鏡面に映る顔は、心を安定させることが出来るほどには美しかった。唇の色が悪いという難点はあれど、雑誌に掲載された写真を見て、人々は思うことだろう。『確かに、天使というだけのことはあるね』。
カーテンを開け放った時、看護師は向かいで眠る老婆の腕から伸びる点滴を調整しているところだった。この日課は、始終無言で行われる。彼女に声を掛ける人間と言えば診察に来た医師くらいのもので、看護師も女も、閉じたカーテンの内側に篭り続けるヒスパニックの少女も、おしゃべりなことで知られる両足を骨折した白人の中年女すらも、誰一人として会話を交わしたことなどなかった。少なくとも女が入室して以来、見舞い客も来ていない。
世界から無視され続けているにも関わらず、老婆はまだその命の火を絶やそうとはしなかった。目は始終閉じられている。呼吸も浅い。それでも時おり、思い出したかのようにシーツから飛び起き、暴れようとする。枯れ木のような身体を振り回し、意味のない言葉を叫ぶ。けれど、真っ白なシーツの上に横たわった今の姿は、生きていないのも同然のように思えた。転落防止のためベッド脇の柵に縛り付けられた両腕が、洗濯しすぎのタオルに締め付けられて一層細く見える。
一つ咳をして、女は看護師に自分の存在を知らせた。
「派手すぎない?」
まだ固い毛糸に指で触れながら、転がり落ちたストローを拾う尻に向かって尋ねる。
「真っ赤なんて、私には似合わない気がする」
半分だけ嘘を含ませて言う。ストローを使うことのない歯ブラシとコップだけが乗せられたサイドボードに戻し、看護師は顔を上げた。殆ど横目に近い視線に、緊張を身構えへと切り替える。
「髪も短くなっちゃったし」
「お似合いですよ」
こちらを見ることもないそっけなさで看護師は言った。しゃがみ込んで弄っているのは、カテーテルの袋だろう。濁った茶色をした尿が青いプラスチックのバケツの底で跳ね返り、間抜けな音を立てる。すぐさま忍び寄ってきた匂いを遮ろうと、袖口を鼻に押し付ける。
「前から思ってたんだけど、その人生きてるの?」
「ええ、勿論」
「ずっと寝込んでるみたいだけど」
「2ヶ月ほど前に運ばれてきて、それから寝たきりです」
「道理で、まともにしゃんとしてるのを見たことないはずだわ」
「まともですよ」
前かがみのまま首を捻る無理な体勢なのに、看護師の眼はまっすぐ女の顔を見据えていた。茶色の瞳はいつもどおり乾いているのに、淀みは一切ない。
「呼吸もしているし、胸だって上下してる。脈拍だってしっかりしてるし、動かなくても、ちゃんと生きてるんです」
あまりにもきっぱりとした口調だったので、言い返すことが出来なかった。何故だか無性に悔しくて、バケツに放出された尿を枕元の表に記入している背中を、無言で睨みつけた。無論、相手が振り向くわけはない。湧き上がる腹立ちは危うく唇から飛び出してしまうところだったが、渾身の気力で抑え込み、口の中で噛み砕くに留める。こんな看護師なんかに。女は舌だけを動かして呟いた。私のこと、分かってたまるもんですか。
バケツを運び出す前に、看護師は女の顔ではなくサイドボードの櫛と鏡に、いつもの眇目を向けた。
「櫛、使ってくださいね」
「梳くほどないわよ」
憮然としながら、女は結局二つを手に取った。帽子は脱がず、ようやく耳や額の中ほどにまで掛かるようになった髪にだけ、申し訳程度に櫛の歯先を当てる。
「もう少し生え揃ってから、写真を撮って欲しかった」
かえって来ない返事の代わりに、自ら乱暴にベッドの上へ腰を落とし、軋みを上げさせる。鏡の中で目深に帽子を被った自分の顔は、実際の動きよりも大きく揺れる。収まってはっきりと顔が見えてしまう前に、シーツの上に放り出してしまう。赤いニットと顰め面ではなく、影が綺麗な模様を這わせる天井が表面いっぱいに映り込んだ。
閉じたも同然のカーテンは意外と分厚く、外界の音を遮断してくれる。女は腕を組み、先週会った記者の顔を思い出そうとした。太ってはいたが、日焼けしていかにも健康そうな体躯。睫の長い、全てを見透かそうとするようなエメラルドブルーのまなこ。二重顎の持ち主。その全てが病院にそぐわない男だった。灰色の小さなレコーダーを掲げ、ちょっと垂れ気味の目尻で抜け目なく観察を続けながら、彼は矢継ぎ早に問い続けた。
『何も覚えてない?』
『ここの暮らしに満足してる?』
『特別扱いされてるとか、何か不審に思うことは?』
『家族は待ってると思う?』
記憶を遡るだけで、頭が重くなる。答えなど、最初から決まっているのに、この男は何故こうも馬鹿げた質問を繰り返すのだろう。
『そんなこと、分かるわけない』
脈打つような鋭い痛みに、額を押さえた。聞こえていると思った声が本物ではないことくらい、知っている。あの男は気に食わない。この病院にいるには相応しくない。
何しろ彼は何かを引き出そうとするばかりで、自尊心の一欠すら与えてはくれないのだ。
それでも女は、彼が来ることを心待ちにしていた。今まで眠っていたはずの第六感が、胸をざわめかせているにも関わらず。絶対に自らの何かを乱すことが分かっているにも関わらず。
「私を誰だかも知らないくせに」
慢性的に傷口を覆う、腫れぼったくて疼くような痛みではない。脳全体が痺れる。小さく鋭利な波が、絶え間なく襲い掛かる。根の張った草を引き抜くようにずるずると続く、その前の時間を探ろうとするたびにやってくる苦しみは、どれだけリハビリを重ねたところで決して慣れることはない。蒸れただけではない汗が滲み出した生え際に触れ、指先に絡む湿り気を汗腺に押し込もうと強くこすりつける。細い金色の髪が縺れるばかりで、痛みは一向に治まってはくれなかった。強く歯を食いしばる。柔らかい病院食しか口にしない臼歯が、嫌な音を立てて軋んだことが、余計癇に障る。激しくなりつつある動悸が輪を描くように広がるたび、背中や胸乳に汗が湧き出た。
何も知らないくせに。
視線などないと分かっていたが、少し開け気味だった襟元を掻き合わせる。寒さではない。理解できない感情が身を苛み、苦しいほどの羞恥を呼び寄せた。
控えめなノックの音に顔を上げる。左側から殆ど身体を揺らすことなく移動してくる影はまるで幽鬼のようで、更に身を縮こまらせた。
「起きていますか」
聞き慣れた声に安堵し、手を伸ばす。毛玉が指にざらつく化繊布の向こうから、人目で高価だと分かる真っ黒なジャケットが現れた。
「気分は?」
再び広がった光が煮詰まった思考を浸食し、頭痛は嘘のように引いた。重い息をつき、声の主を見上げようと顔を上げる。思ったよりも差し込む太陽は強く、生理的な痛みが眼球を突き抜けた。
女が目を細めるのを、病院長は慈しみの眼差しで見下ろした。長身の彼は、いつでも少し身を屈めながら相手に言葉を掛ける。端整な顔立ちと相まって、物憂げな動作は時に神々しくすら見えた。もっとも彼は聖職者なので、神掛かっているのも当たり前の話なのだが。
「大丈夫」
女はまっすぐに男と視線を付き合わせ、少し笑った。
「取材を受ける元気くらいあるわ」
袖口のほつれた紺色のカーディガンは、まだ上掛けに覆いかぶさったままだった。羽織ると冷えかけていた背中の汗を知覚し、余計に薄寒さが増したような気がした。
院長は立てかけてあったパイプ椅子を開くと、まるで肉体を感じさせないような動きで腰掛けた。手にしていた旧約聖書だけが、膝の骨に当たって固い音を立てる。長居するつもりだと分かりうんざりしたが、口には出すのは辛うじて耐えた。
浮かない顔つきの女を上目で窺い、彼は気遣わしげな声を出した。
「顔色が良くありませんね」
「何でもない」
組み合わせた両手の指に力を込め、女は言った。
「ただ、苦しくて」
静かに頷きながら、男は古びた書物の表紙を撫でている。看護師はバケツを洗浄しに行ったまま帰ってこない。彼女のことなど好きだとは到底言えなかったが、今この時ばかりはあの無愛想な赤毛が恋しかった。
「取材、気乗りしないのでしょう」
静かな声に、顔を上げる。沈痛な面持ちで、院長は女の動作をつぶさに観察していた。まるで全てがお見通しだと言わんばかりの態度で。
「無理をしなくて良いのですよ」
剥げた皮に刻まれた金色の文字の上で、指先は神経質に動く。
この男は何を言い出すのだと、女は思わず眉を吊り上げた。
「でも、ファーザー」
「何なら、慰問自体を取りやめてもいい」
「平気よ」
女が懸命に首を振っても、男の気持ちが晴れることはないようだった。
「これではまるで見世物だ」
しみじみとした嘆きは溜息に絡まり、宙に浮く。
「ここを何に使うつもりだと言うのだろう。神の家に、地上の利害関係など入り込んでいいはずがない」
「だから貴方が」
うんざりとして、頭を逸らす。
「入り込まないように一生懸命やってるんでしょう」
「限度があるからね」
男は気弱に微笑んだ。
「私の力が及ばないことも……勿論、できる限りのことはやっているが」
「それじゃ、何も問題ないじゃない」
「そりゃ、私は問題がないかもしれない。けれど、父は」
唇を噛み締めたせいで、浮かべていた笑みは見事に潰れてしまう。
「この御世をお作りになったほうではなくてね。ご存知だったかな。今日来るのは、私の父親なんだ」
そんなことは病院にいる誰もが知っていたが、女は黙って軽蔑の色を浮かべ続けた。
「彼は欲望に囚われている。あのような生き方で、本当に楽しいんだろうか。神の愛も知らず、ひたすら眼の前のものを追いかけ続けて」
言いながらひたと視線を合わせ、いつもの悲しげで、そしてあくまでも高貴な瞳を潤ませる。このヘーゼル色と、少し面長の顔立ちが何かに似ていると、女は今までずっと考え続けてきた。積極的に見つめ返し、汚れた窓から降り注ぐ陽光の中、一人で輝く男の姿から今度こそ何かを引き出そうとする。白い輝きは女には眩しすぎたため、片手で全開になっていたカーテンを閉めながら、すっと通った鼻筋に集中する。俳優のような気がしたが、思い浮かばなかった。もしかしたら、過去に会った男の顔かもしれない。また頭痛がしそうなので記憶を手繰り寄せようとするのは止めておく。
「貴女が心配なのです」
見つめる顔を動かすことなく、男は言った。
「貴女もそのような……何かを、それが何なのかは分からないが、求め、渇望しているように思えるのです。まるで追い立てられるかのように」
「そうかしら」
「そして、その事実にまだ気付いていない。どうです」
ふっと息をつき、目元を緊張させる。
「話してくださったら、何か手助けできるかもしれません」
女が機嫌を損ねたことなどお構いなしに、言葉は一つ放たれるごとに真剣みと荘厳さを帯びた。
「貴女は、何を恐れているのですか」
女の言葉を待ち続ける、薄く開き気味の唇に、何かが足りないような気がする。首を傾げた。眼の前の顔も、視界と一緒に傾く。
何のことはない。ぱちんと泡がはじけるように景気よく飛び出してきたイメージは、彼の眼ではない、鼻でもない、口でもない。首からぶら下がり、左手で時おり触れられるロザリオが運んできた。
斜めから光が当たった時の表情が、どこか神の御子、ジーザス・クライスト・スーパースターに似ていた。
思い至った途端、芽吹いていた嫌悪は一気にその丈を伸ばした。神が嫌いなわけではない。眼の前の男が人間であることを知っていたから、怒りが湧いてきた。
「そんなこと、あなたに話さなくちゃいけないの?」
不機嫌も露に喚いても、返事はない。男は磔刑を目前にしているかのような大人しさで、じっと視線を注ぎ続けているだけだった。ヘーゼルがやわい瞼の動きで時おり輝く様は、感情を一層逆撫でした。全て受け止める、とでも言いたいのだろうか。
「何様のつもりよ、話してみろとか手助けするとか! そんな偉そうに言うもんじゃないわ! あなたの父親はどうか知らないけど、私は悪人なんかじゃない。自分の周りで起きてることを正直に受け取ってるだけよ、それが悪いこと?」
苛立ちを発する根元にある存在が何か、女はちゃんと分かっていた。けれど怒りと軽蔑は心の許容量を軽くあふれ出し、口から垂れ流され続ける。溜まった唾を飛ばし、身に留まれば毒となり頭痛をもたらすであろう感情を一緒に吐き出してしまう。
「まるで周りの人間がみんな悪者だって言い方、聞いててイライラするわ。あなただって同じでしょ。どうやって院長になったか、みんなが話してるの聞いて、知ってるんだから!」
久しく出さない大声で、息は簡単に上がった。ミント味の唾液は飲み込むたび血のような味になる。
「自分一人が正しいって顔してるけど、そんなの言い切れる? 自分は悪い人間じゃないって、堂々と胸を張るなんて、それこそ悪人以外の何者でもないじゃないの」
一息に最後まで言い切ってしまい、目つきを険しくする。少しでもまともな言葉が返ってきたらお慰みだ。摩り替わった優越感に満足し、女は唇を少し綻ばせた。
身動き一つせず話を聞いていた男の、鮮やかな虹彩にある感情が動くことはない。普段と変わることなく、肩をいからせ組んだ手を握り締め、ひたすら悲しげに目を潤ませている。余りにも澄みきった風貌は威圧を感じさせるほどで、ただ唇だけが少し緩んでいた。鉄壁だった。その顔は確かにこちらへ向けられているはずなのに、突きつけられた全ての期待をものの見事に弾き飛ばしている。
「ねえ、聞いてるの。あなたはどう?」
先に焦れてしまい尖った声を出せば、開きかけていた唇の隙間はようやく静かな言葉を漏らす。
「私も確かに、完璧な人間とはいえないでしょう」
女が勝ち誇った表情を浮かべる前に、話は継がれる。
「ですが私を含め、人々は常に救われたいと願い、神の意思に沿おうとします。その努力を、きっと神は認めてくださる」
あらかじめ用意されていたかのように微笑み、男は聖書を開いた。
「人間誰しも原罪を背負っています。けれど私は幸いなことに、取り返しのつかない罪というものを犯していない。貴女もおそらくは」
「取り返しのつかないって、なに」
「言葉には出来ないようなおぞましい罪」
目を伏せ、慣れた動作でページを捲っていく指先にまで神妙さが行き渡っている。
「時にそれは、自分の力ではどうにもしようがないこともあります。たとえばアダムが最初の妻リリスを連れ戻すことが出来ず、リリスが悪徳の子を産み続けたように。けれど、私たちは清く正しい心を持っていれば、そのようなことには」
目的の場所を探しえたのか、口元の笑みが自然なものに変わった。持ち上げられた顔の美しさは、確かにとてつもない。神の言葉を堂々と振りかざす権利があるように思える。
女は歯軋りすることで、握り締めた拳を振り上げようとするのを懸命に抑えた。
「貴女は今まで、多くの苦悩や痛みに晒されてきたし、これからもそうあるでしょう。けれど全ては試練なのです。挫けてはいけない。神は貴女をいつでも見守っているのですから」
目を細め、開いた場所を指で辿りながら読み始める。余りにも有名なその節が彼のお気に入りで、しかもかなりの時間を要するものであることは、以前無理やり引き出された説教の際の引用で嫌というほど知っていた。
「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した」
訥々と紡がれる言葉は、音楽に近い。中身を認識しなくとも、声色だけを聞くのならば悪いものではなかった。女は憮然としたまま正面を見つめた。この男は今まで目にしてきた中でも、かなり上玉といえる見目と地位を有している。それなのに、色目はおろか、一人の女として感情を持たれているかすら怪しいものだった。『院長先生に限ってそれは』。誰だったか、取り巻きの男が恐れおののいた口調で告げていたのを思い出す。『あの方は、神に仕える人間としては非の打ち所がない潔白な性格の持ち主ですよ』。
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、3日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」
キリストが苦しんでいる場面のはずなのに、男はどこか甘く、柔らかい不思議な微笑を浮かべている。細められた瞼の奥に、男の本性を見たような気がして、女は打ちひしがれていた心がまた少しずつ鎌首をもたげて来るのをはっきりと感じた。更なる粗を探そうと青灰色のまなこを見開き、姿勢を正す。
最後の山場、彼は幾分声を高め、創造主を崇める人間ならば誰もが知っている台詞を、ゆっくりと、誇らしげに吐き出した。
「3時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』」
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
これ以上ないほど皮肉な口調で、女は後を継いだ。
「息子にすら信用されてない神なんて」
「今の言葉は聞かなかったことにしておきますが」
興奮で少し赤らんだ頬を持ち上げ、ほっと息をつく。
「御子は神への賛辞を告げようとして息絶えたのです。この言葉は、その冒頭に過ぎません」
「それでも最後まで言えなかったなら、みんな勘違いするだけじゃないの」
冷たく言い放つと、立ち上がってカーテンの向こう側に足を踏み出す。こちらが光の中に入った瞬間、幻滅する。あれほど荘厳さを掻きたてていたはずの、聖書を抱え込むようにして身を丸めた黒いジャケットが、とてつもなく野暮臭いものに見えた。
陰気な仕草で、男は首を振った。今回は、これくらいにして諦める気になってくれたようだった。
「いつかは貴女も、身を以って知ることになるでしょう」
スニーカーからはみ出した足の甲を這い上がってくる寒気に少し身を震わせてから、女は強気に鼻を鳴らして相手を見下ろした。
「そのときは、よっぽど面白いことになってるでしょうね」