11.豚飼い王子
連絡などしてこないものだと思っていたが、律儀なことにRは第一稿が掲載された三日後にはもう、アパートへとやってきた。応対しているDの声はまだ半分寝ぼけていて、キッチンまではっきりと届かない。もうもうと湯気を噴き上げる寸胴鍋からおたまを引き上げ、Oは満足のため息を漏らした。わざわざトリガラを買い込んできた甲斐があり、チキンスープの出来は今のところ完璧だった。
太った人間特有の叩くような足音と共に入り込んできたRがあまりにも嬉しそうに吼えるから、もう片方、こちらは中火で煮込み続けている鍋の蓋を取り払う。空腹も、薔薇の強烈な芳香には耐えかねたらしい。一歩後ずさり、テーブルに大きな尻を乗せた彼の顔は、くしゃくしゃに縮まっていた。
『ボードウォークの天使』は相変わらずガードが固く、何度病院の受付で駄々をこねても面会はおろか、見舞い品さえ受け取ろうとはしない。仕方なく持って返った花束の半分は、メッセージカードをつけたままの状態でシンクに乗せてある。どれもこれも中途半端に綻んだままの赤い花弁が、安物の包装紙と相まって、花の格を下げていた。
ローズウォーターはもう15分も煮込めば完成するだろう。後はチキンスープのアクをとり、米とたまねぎと少しのハーブといためれば、薔薇のリゾットが出来上がる。手の込んだ料理を作るたび、暇人だと笑いながら全て平らげているDは、先ほどから一歩もキッチンに近付こうとしない。薔薇の花が食用ではないことに恐れをなしている。
コンセントを刺したままのフードプロセッサーを脇にどかし、コーヒーメーカーを取り上げる。適正温度を維持しているようには到底思えなかった。椅子に腰掛けなおしたRは受け取ったコーヒーカップを揺らし、ぬるい液体から無理やり香りを引き出そうとしているが、時間の経過はモカの香りを先細りにしている。投げ出してあるレコーダーのスイッチは回り始めたばかり。Oは肩を竦め、薔薇の入った鍋を顎でしゃくった。
「この良さが分からないなんて。味は保障する、お袋直伝だぞ」
「分かるもんか。それじゃあ、10月×日、一時半をまわったところ、昼食には少し遅い」
「文句言うなら食べるなよ」
「『ボードウォークの天使』に関する連載差し止めについて新聞社に抗議しにいってたんだぜ。少しは労わってくれ」
「どうなった?」
「駄目だな。早速手が回ってやがる。代わりに、明日病院で開かれる慰問を取材して来いとさ。ホテルのオーナーどのが、自分の息子がやってる病院で貰い泣きしてる様子なんて、誰が見たがる?」
「見たがらないね」
「だろう。仕方ないから、また違うところに売り込むさ。さあ、昼飯が出来るまでに、面白いほうの取材を終わらせよう。名前と略歴を」
「O。24歳。前科一犯」
「罪状は賭博法違反?」
「いや、18の時に偽造小切手を換金し損ねて。2年間州立刑務所に」
「州立刑務所? あそこは凶悪犯罪者ご用達だろう。たかだが小切手偽造で」
「色々ね。ゴタゴタが重なって」
「それで、2年で出てきたと」
「上手く言い逃れした。今は無職、ホテルにも病院にも出入りできない」
「出生地はアトランティックシティでよかったかな」
「キャムデン。俺を産んだ時、お袋はまだラトガーズ大学に通ってた」
「頭良いんだな」
「良かったらあんなろくでなしに引っかかるもんか」
「Lと母親の成り行きは聞いてない?」
「お袋の友だちの友だちがLの本妻だってさ。それ以上は聞いても話さないし、奴も会いに来ない」
「一度も」
「一度も。けど、誰だっけ……その本妻の兄貴は、わりとしょっちゅうね。半年に一度くらいは」
「G」
「ああそう、そういう名前。養育費払えってね。お袋が何回か電話して、それを宥めに。寝てたんじゃないかな」
「え」
「Gとお袋」
「見たのか」
「流石に覗いちゃいないけど、あるじゃないか、そういう雰囲気」
「そういうのな」
「俺が学校行ってる間に来てたみたいで、直接顔は合わさなかったけど」
「Lの女性関係は確かに派手だが、まだ想定の範疇だ。だが、お前が言ってたとおり、Gのほうは隠れてとんでもなく乱脈なことをやってるみたいだな。Bの件、本当なのか」
「父親はGだよ。奥さんが、お袋に打ち明けた」
「Lとお袋さんが付き合ってたこと、知らなかったのか?」
「ああ。お袋の腹が膨らんできてバレて、向こうから絶縁状突き出してきたってさ」
「そりゃあ、そうなるだろうな」
「俺がこれだけ態度でかいのは、お袋の血筋なんだ。諦めてくれ」
「恐ろしきもの、汝の名は女なり、か」
「本当に。絶縁した女の兄貴まで手を出そうとしないよ、普通。とんだ淫乱」
「ま、疑わしきは罰せずだ」
「別に罰しようなんて気はないけど」
「Gが来てたってことは、認知はされてるのか」
「されてない。養育費も慰謝料もなし」
「お袋さん、訴えてないみたいだな。この前地元の裁判記録を覗いたが、Lの女絡みに関する訴訟は一つもない。他の人間が泣き寝入りしたとは思えないから、上手く遊んでるってわけだ」
「みたいだね。お袋が奴の悪口言ってるの、見たことないから」
「それはつまり」
「愛してる? ちょっと違うな。情って言うのか、女の細やかさかな」
「それはつまり、まだ嫌ってないってことじゃないか」
「俺に聞かれても。一つ言えるのは、お袋はとてつもない馬鹿だってことだけさ。いつまで経っても昔の男のことばっかりウジウジ悩んで金もふんだくれず……まあ、養ってくれたっていうのはあるけど、それだって殆ど実家の仕送りだもんな。それに正直、本当に大学行ってたかどうかも怪しいもんだ。ナイチンゲールとウグイスは同じ鳥だって、つい最近まで勘違いしてたもんな」
「ウグイス?」
「お袋の故郷でよく飛んでる鳥だよ。でも、歌は上手かったな。いつも料理作りながら『いとしのアウグスチン』を歌ってた」
「それも立派な教養さ」
「歌っても金なんか入ってこないじゃないか。馬鹿だよ。馬鹿」
「もしくは……こんなこと言うのもなんだが、怒るなよ。お袋さんがLと付き合ってた時期、他にも男がいたって可能性は?」
「ないってお袋が言ってるんだから、信用するしかないじゃないか。それに、今は手術してこんなだけど、俺も弄る前は、結構Lと似てたんだぜ。目とか、鼻とか」
「やっぱり整形してたのか」
「ムショ仲間に街で会って声を掛けられるなんて、最悪じゃないか。思い出したくもない」
「あそこは酷いって噂だからな」
「酷いも何も…………掃き溜め以下さ。本筋から離れたな。出てからすぐ手術を受けた。思いっきりお袋に似せてくれって注文したから、多分誰も気付かないだろうさ」
「どうしてまた」
「もうかたっぽに似せたくなかったからだよ」
「似せたほうが、いざというとき信憑性があるんじゃないか」
「たとえそうだとしても、真っ平ごめんだね。それに……いつか奴に会った時、お袋のこと思い出すかもしれないだろう。今はもう、完全に忘れてるだろうから」
「幾らなんでも、自分とそれだけ深く関わりを持った人間の顔、忘れやしないだろう」
「期待はしない。一つこっちから質問いいか、天使の話」
「院長の政敵に掛け合って1度だけ接見したんだが、記憶喪失のままだ。無理に話を聞こうとしたら、錯乱した。精神安定剤を打たれて、そのまま病室に連れ戻された、それで終わり」
「役に立たない」
「そう簡単にはいかないさ。だが、慰問にはFも来るらしいぞ」
「一体どういう厚顔だ」
「今までの罪状から考えて、らしいといえばらしいがな。ホームレスへの暴行、営業妨害、婦女暴行も以前に何度か。そのたびに親父が上手くとりなしてるって話は間違っちゃいない、裏も取れた」
「だろう。それなのに」
「意に介さず、女に会いに行く気だ」
「馬鹿なのか、肝が据わってるのか」
「今までの話が正しければ、あんたの腹違いの兄弟ってことになるな」
「よしてくれよ。そんな不肖の弟、困る」
「しかし、これまでの情報で、一個もはずれが無いって言うのに驚いた。裏の繋がりで?」
「嫌な言い方だけど、その通り。この家に転がり込んでるのも、つてだしな」
「少しだが、Dから話は聞いてる。リノにいたとき組んでたって」
「あいつがペッパー・ミル・ホテルでカリビアンスタッドのディーラーをやってたときに。もう一人いたんだけど。俺とそいつがテーブルの下でカードを交換して、Dが見て見ぬふりするってね。目ざといピット・ボスがいて、すぐバレたけど。俺が怖気づいて、Dが逃げ出して、でも三人目はとんだ豚野郎、髪を染めたらまたリノで稼げるって思った。そして」
「そして?」
「どこかのホテルで腕でも折られたか、それこそ記憶が飛ぶほど殴られたか。俺達が捕まってないところを見ると、警察には突き出されてないらしいな」
「映画みたいな話だな」
「そんな派手じゃないけどね。せこい仕事だよ」
「聞いてみたいな、ルポが一本書けそうだ」
「それは又の機会に。にしても、可哀相な女だと思わないか」
「だれが?」
「天使」
「ああ。なかなか顔が割れないところを考えたら、地元の人間じゃなさそうだな」
「多分ね」
「エスコート・サービスの線も調べてみたんだが、特に該当者は見当たらない」
「可哀相に」
「同情的だな」
「普通同情するよ。殴られて、ごみみたいに捨てられるなんて」
「だが性器に傷はないとかで、どうやら合意の上で寝てたらしい」
「それでも」
「まあ、代償としちゃ確かに重すぎるな」
「所詮そういう女って、言ったらおしまいだけど。いいネタじゃないか」
「そう、崇められてるから。それに今の状況で何かしでかしたとしても、『錯乱してたから』の一言で済まされる」
「なにかあったのか」
「ああ……ニンフォマニアだったとさ」
「それ、イタリア料理?」
「一言で言えば男狂いって奴だな。何人か誑かしてた」
「へえ」
「何人かに話を聞いた。病院側に見つかって、完遂した奴はいないらしいのが幸いだな」
「誰にでも身体を許してたってこと?」
「最近は至って真面目な顔で君臨してるから、大丈夫だ」
「そう、所詮……ってわけか」
「知ってると思ってたんだが」
「まさか。そんなこと分かってたら、他の手だって考えたのに」
「他の手?」
「まあ、明日奴らが病院に来るならそれでいいんだけどね」
「明日病院に行くのか? それはやめたほうが」
「迷惑は掛けないよ。顔を見せたいだけ」
「慰問が終わってから、俺の方の伝で上手く取り計らってみてもいいんだぞ」
「うん。でもそんな話聞いたら、行かなきゃって気になった。そうか。あの女がね」
「あれはだが、本当に錯乱だったんだ。酷い目に遭わされて、混乱してた。それだけの話だ」
「分かってる」
「本当に?」
「心配するなって。あんたが酷い目に遭うわけじゃないんだから」
「ああ」
「それにしても、女が」
「今は真面目な聖女さ」
「薔薇が好きなのかな。歌が好きなのかな、『いとしのアウグスチン』歌えるかな」
Rがまた不毛な質問を繰り返す前に、Oは椅子から立ち上がった。完成間近のチキンスープを覗き込む。つい心を許して話し込んでしまった罰か、ぶよぶよとしたあくは鍋の表面を覆いつくしていた。玉杓子で掬い取れるか、ざるを使うべきか。首を捻っている間に、Rは肩を回しながらキッチンを出て行った。巨体が消えスペースは開いたはずなのに、一人の部屋は妙に息苦しく感じた。火から下ろしたばかりなローズウォーターのせいかもしれない。今になって思い出す、言いたくても言えなかった言葉が喉の奥で詰まっているせいかもしれない。
リビングから聞こえるDの間延びした声は、湯の中から生まれるあぶくの息吹では消すことが出来ないほど無神経だった。ガキなんだって。家に戻れば母親だっているのに、意地張って帰らないんだ。
ボウルに入ったタマネギを取ろうと手を伸ばした時、ふとテーブルに眼をやると、小さなレコーダーには電源が入っている証のランプが煌々と輝いている。正面の窓から差し込む日差しの強さにも負けない赤い光をつまんで掲げ、Oは機械がはっきり認識してしまうほど大きなため息をついた。
「一つ、俺が家に帰ったら、お袋は泣いて喜ぶ。だから今はまだ帰れない」
ステンレスのボウルに映った母親とよく似た顔は、吐き気を催すほど歪んで見えた。
「帰るところがあるって幸せだよね、安心できるから。その点女は可哀相」
仕事用のシャツに袖を通しながら中を覗き込んだDは、Oの姿を確認して一瞬空腹の苛立ちを引っ込めた。虚を突かれた顔と、まだ腰の辺りに残る青痣が滑稽に思えて、Oは笑った。普段なら、こんなくだらないことには鼻すら引っ掛けないのに、せめて笑いでもしないとやりきれない気分だった。
「二つ、やっぱりLに会いに行くよ。女の話を聞いて決めた。そんなビッチだったなんて、知らなかったから」
米とタマネギをフライパンにあけてしまう。ローズウォーターとチキンスープもまとめて注げば、換気扇を付け忘れていたキッチンは凄まじい匂いに覆われた。鼻がもげそうになる。母が作っていたのはこんな料理だったかと今になって不安が湧き上がるが、構いはしなかった。きっちりと昼食を取ったOは、最初から食べないつもりだった。余ったら夕食にまわそうと思っていたが、Rに全部押し付ければ良い。
「喜んでくれるといいね」