10.青ひげ
娼館に置いてあるかのような真っ赤なアームチェアに身を押し込んでいる様は、さながらB級映画のスクリーンを闊歩するマフィアと言ったところ。ただし、その表情はあくまでも沈痛なままである。つんとした上唇の中央を噛み締め、閉じた腫れぼったい瞼の上で刻まれる縦線を指で揉み解しながら、先ほどからLは一言も口を開こうとしなかった。もちろん、名目上部下であるGにも発言の権利はなく、ひたすら正面で立ち竦んでいるしかない。
気ままで知られる男が、感情を抑制している。分厚いガラスの天板越しに、投げ出された脚が見えた。太腿から脛までの緊張と、靴の底を白と黒のタイルへ押し付ける力のこもり具合はまで、はっきりとGに伝わってくる。それは時おりひくつく口角と相まって、内側で荒れ狂う嵐を如実に知らしめていた。
立ちっぱなしでだるい足を持て余し、たるんだ上半身の重みに耐えかねた骨盤の軋みは、腿の筋を伝わって踝の辺りまで垂直に落ちてくる。とうとうGは組んでいた手を解き、ブザーの傍で開かれたままのゴシップ誌を引き寄せた。
「俺たちがオハイオ州立大学にいたときの話だ。覚えてるか」
たった二人でも、30分あれば閉め切った部屋の空気を淀ませることが出来る。じりじりと喉元を締め上げるぬるさを、Lは低めた声で掻き分けた。
「俺が退学する年だった。お前があんまり女から逃げまわすもんだから、言っただろう」
「ああ、確か」
顎を潰すようにして眼を落とす。
「不能だったか?」
「違う」
多量の感情は短い言葉から溢れ出し、ざらついた紙面上にぶちまけられた。
「女と遊ばないと、人間の感情の機敏が理解できないぞ、って」
黒い染みのように見える細かい記事の中身を眼で追う気力はない。最近老眼が混じり始めた眼には余りにも酷だった。潰れた文字も品のない文体も安っぽい印刷も。一番酷いのは二段抜きで強調された見出しだった。『ボードウォークの天使』。センスのかけらもない。
「おまえ、宣伝広報部長だろう」
丸い指先を眉間から離し、Lは天井を仰いだ。
「この記事、どういうわけだ」
「大したことは書いてない」
憎たらしい名前を指で叩く。
「病院に女が運び込まれた。女は頭を殴られて、自分の素性に関する記憶がない。けれど不思議と人をひきつけるところがあって、何をするでもないのに入院患者たちの尊敬を集めてる。教会病院に舞い降りた、現代の聖女だ」
「これが発売されたのが昨日」
もう一枚、隅の方に乗せてあった紙を滑らせる。
「で、こっちがそのクソッタレな記事を書いた奴が今日送ってきたメールだ」
手に取り、乾燥した眼に映す。文章は羅列として頭へ入ってくるのに、内容がさっぱり汲み取れない。
「ご子息の交友関係に関わる重要な案件」
そのまま読み上げ、Gは顔を上げた。
「何の話だ、これは」
「俺が聞いてるんだ!」
勢いよく身を乗り出せば、10日間の入院生活で分厚さを増した腹が、デスクの縁に食い込む。小さく身震いしたガラスは、乗っていたゴールドのペンを床に振り落とした。
身を竦めたまま、それでもGは頭を抱え込んでしまったLが放つ不明瞭な言葉を聞き取ろうと必死に努力をした。けれど整髪量で膨らませた髪は指の間から零れ続け、いよいよ表情を隠してしまう。
「またFが何かやらかしたのか」
「私が把握してる限りでは、何も」
唸りの合間に聞こえてきた言葉に、努めて冷静な声色を返す。
「最近は大人しくしてる」
「だがこいつは違うと」
血走った瞳での上目遣いは、均衡の綱のど真ん中に辛うじて留まっていた。
「俺にはこう読めるんだがな。Fがしたことをもみ消すために俺とBが共謀して、その天使を監禁してるって」
Gは再びプリントアウトを持ち上げた。やっと稼動し始めた回路でその通りの結論を組み立て、首を振る。
「事実無根だ」
「それを確かめるために、さっきFを呼んだ。じき来るだろう」
ぐったりと手の甲に顔を押し付け、再び目を閉じてしまう。憔悴しきった顔は2週間前の退院間際、医師から授けられた忠告を記憶の底から浮かび上がらせた。『もうしばらく、あまり興奮するようなことは避けられたほうがいいですよ。根をつめすぎるのもいけません』
「おまえ、変なところで甘いからな。そのうち何かをしでかすと思ってたが」
舌打ちに失敗し、捲りあげただけの結果に終わった唇の隙間から、Lは言葉を吐き捨てた。
「なんでそんな訳の分からん野郎をうろつかせたんだ」
「まさかこんなことになるとは」
「先のこと考えて処理するのがおまえの仕事だろうが」
Gが口を開く前に、鬱陶しげな口ぶりで遮る。
「言い訳はいらない。問題はこれから先の対処だ」
額に滲んだ汗が、身体の具合を示している。まだまだ本調子とまでは行かない。病院から戻って以来、Lの精神はどこか動きが鈍っているように思えた。癇虫から来る鋭利さこそ健在だが、その起伏の激しさと表づらの間を、分厚い膜が阻んでいるようで、どうにも態度が煮え切らない。先ほどのように感情の赴くまま喚き散らされたほうが、扱うほうとしては格段に楽だった。
「Fは何もしてないんだろう。だったら、騒ぐ必要なんか何一つない」
「何も無いと言い切れるか?」
安っぽいコピー用紙は手の汗を吸い、くんにゃりと曲がって遮った視界を開いてみせる。握り締めた指の背に頬を預けたLは、まだ目を閉じたまま唇を動かしている。
「そこがおまえの駄目なところなんだよ。人の感情がまるで分かってない」
不意に開かれた瞼の下から、青い瞳が垣間見える。思いのほか、気だるげに弛緩していた。
「おまえ、今まで何人の女と寝た?」
今度はGの方が目を閉じ、大きく息を吐き出した。
「そうだな。6人」
「何人か忘れてるとしても、大したことないな」
鼻を鳴らし、ブルーノマリのローファーで黒いタイルに又一つ擦り傷を作る。不愉快な音に被せる勢いで、Gは抗弁した。
「例え一時的であっても、本気になれない女とは付き合えない」
「堅物め」
「不誠実よりずっとマシだ」
「何事も経験が多いのはいいことさ」
妻の兄を目の前にして臆面もなく言い放つ図太さには慣れたつもりだったが、やはり眉根がよってしまう。
ようやく張り詰めていた表情が緩み始め、Lの目元に皺がよる。
「もっと遊べばいい。女と付き合うこと、これが人間を知る一番の方法だぞ。眼が肥えたら、寄って来る女の質も上がってくるしな」
「よく言うよ」
「いや、本当だ。前から思ってたんだが、お前の女の趣味はひどすぎる。男に逃げられたパートタイマーに、胡散臭いコールガールに、暗い奴ばっかり」
「同情」
ざわめく胸のうちをしっかりと噛み締めながら、Gは言った。
「同情するんだよ」
Lの顔を見返すことが出来ない。念入りに作ったポーカーフェイスの中、唯一隠すことの出来ない瞳の揺れを隠すためには、メールをそのまま印刷した用紙の一番下、わけのわからない通信販売の広告バナーを見つめるしかなかった。
「女性に優しくしたいって思うのは、当たり前のことじゃないか」
心の中で何度も繰り返したおかげで、本心を言い訳だと認識できるようになりつつある。声色だって、呆れているかのように平坦でさりげないものだった。それでもくたびれた笑みを浮かべたままのLは気まぐれを武器に、何も知らぬまま首をじわじわと締め上げてくる。
「おまえの妹が嘆いてたぞ。さっさと結婚すればいいのにって」
息が止まりかける。
噛み締めた奥歯を、Lは散漫な注意力のおかげであっさり見逃した。眼の前の男に不信感を抱くどころか、哀れみの眼差しすら向けている。
「同情か。それこそ、例の天使と結婚すればいい。多分、世界で一番不幸な女だぞ」
「考えてたところだ」
事実を誤魔化そうと笑ったが、強張った顎は口を開く前に一度がくんと音を立てた。
「そう、この前見舞いに行ったら、泣いていたよ。私は不幸だってね」
ちょうど、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた妹のように。
『私ほど不幸な人間はいないわ』
エルメスの上掛けと兄の腕に絡めとられた妹は、いつまで経っても身を固くしたままだった。
『こんなの、赦されるわけない。Lは女のところから帰って来ないし、しまいには、こんなこと』
『もう泣くなよ』
母親に似て長い首筋に鼻先を埋め、Gは呟いた。
『Lと別れたいなら、別れればいい。子供だって。望むことは何でもしてやる』
胸元で反発する肩胛骨の動きから、呼吸が上擦ったのを知る。
『可哀相に』
『哀れんでるのね』
乾いた声は、新婚夫婦の寝室には余りにもそぐわなかった。
『兄さんは、いつもそう。慰めて、相手が幸せになったら、それでおしまい。飽きて捨てちゃうの』
『そんなことない』
『今更どうでもいいわ。知ってて誘いに乗った私が馬鹿だったのよ』
ベッドが軋み、眼の前に柔らかく肉のついた背中が聳え立つのを、Gはだらけきった眼で眺めていた。綺麗に並んだ背骨は、白く固く、まっすぐに伸びている。
『心配しないで。子供、産むから』
ブラインドの縞模様で切り刻まれたまろい肩の震えを見たときに感じた、胸が詰まりそうなほどの温もり。目が離せないでいるGを知ってか知らいでか、彼女は鼻声で言葉をみっともなく震わせるという芸当までやってのけたのだ。
『だからもう、ここには来ないで』
その瞬間、彼ははっきりと欲情を自覚した。
Lが周りに侍らせる女性の数は、子供が生まれる前と後で格段に違う。日に日に母親としての強さを持ち合わせるようになった妹の傍には、約束どおり近付いていない。妹も、血縁者の優しさを以って彼を無視し続けた。
叩きつけられるようにして開かれた扉の外から、冷たい空気が流れ込む。
「何だよ、一体」
父親そっくりのがなり声を轟かせ、Fはずかずかと現実と感傷の間に足を踏み入れてきた。
「こんな高いとこにオフィスなんか作りやがって、上ってくるだけで一苦労だ」
「どこにオフィス作ったところで、仕事の報告なんか来ないだろう」
椅子に腰を据えなおし、Lは鼻を鳴らした。
「働け」
「説教なら帰るぜ」
「そうじゃない」
幻想から何とか帰還し、Gは張り詰めた空気の間に手の中の紙を差し出した。
「これのことなんだが、心当たりないか」
猿のようなすばしっこさでひったくったFは、初めてクロムハーツのサングラスを指先でずらした。
「ひどい言いがかりを付けられてる」
大きな瞳は律儀に紙を左右に往復しているが、動じている様子は全く見られなかった。明らかに格下だと考えるGだけではない。Lの懇願すらも完全に無視し、わざと時間をかけて字面を追う。
「ガセに決まってるだろ、ったく」
ようやく口を開いたのは、読み終わった紙をくしゃくしゃに丸め、父親のデスクに投げ返したときだった。
「なんだよ、親父。真っ青だぜ」
これは母親からそのまま受け継いだ、悲しさと冷たさが入り交じった動きで、唇がつりあがる。
「息子のこと、信用しないって」
組んだ手の甲に顎を乗せ、突き刺すような視線を向けていたLは、やがて諦めたように息をついた。
「本当だな」
「こんな女、知らねえよ」
馬鹿にしたような顔で顎を持ち上げる。
「不自由してないからな」
明らかに気分を害したと分かる尊大な面持ちで、Lは息子を見上げた。
出会いがしらにぶつける目つきはどちらも強烈で、悪辣だった。だが、じっと覗き込めば分かる。色こそ違えど、その虹彩の奥で輝いている源は、虚脱だった。
長いこと睨みあう親子は、怒りながら、諦めながら、そして怯えながらお互い探っている。
「事実無根だと、記者の方には返しておく」
もどかしいものでしかない親子の絆を断ち切るため、Gはわざとらしく手を振った。
「それで、ネタのなくなった彼には、今週末の慰問の記事を書かせたらいい」
「土曜日だ。お前もちゃんと来いよ」
眼の端を吊り上げたまま、Lは息子に言った。
「前々から言ってあったからな。用事が出来たとは言わせないぞ」
「分かってるって」
Fは苛立ちも露に言葉を返す。
「うちの人間は嘘が得意だから、屁でもねえさ」
まるで魂が抜け出してしまったかのように、今の光景を天井から見下ろす自分がいることを、Gは途切れつつある集中力の中で確かに感じていた。
LとFは、とてつもなく哀れだった。
そして、こんな二人に形だけの情けをかけられる天使は、輪をかけて不憫だった。確かにLの言葉は間違っていない。今現在Gが知る中で自尊心の最下層にいるのは、間違いなくあの女だろう。
身寄りがないのなら、世話をしてやるのもいいかもしれない。包帯を巻かれたせいで顔はおろか髪の色すら思い出せないが、なかなか良い造作だったように思う。
ぼけた表情で涎を垂らす女に無理やりヴァージンロードを歩かせ、祭壇に立つBの、哀れで愛しい息子の前で愛を誓う自らの姿を想像した時、Gはここのところ久しく感じていない、痛いと言っていいほどの爽快感が全身を駆け巡るのを感じた。