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9.おやゆび姫

「さて」

 ぱん、と手を叩き合わせたWは、燻したような金色の頭頂部に声をかけた。

「プリンセス・マイア。そろそろ診察の時間ですよ」

 得意の笑顔を突きつけると、女は本物の王侯顔負けの優雅な仕草で振り返る。立ち上がろうと軽く弾みをつけた脚は薄桃色と白のパジャマに包まれている。女の取り巻きが、歯ブラシ一つ持っていない女のために、少しずつ金を出して買い与えたものだった。少し長い裾から覗く爪先の傍にしゃがみ込む男も出資者の一人で、失業保険を切り崩して数ドルを捻出したのだという。女の正面に座る老年の黒人が、神聖さを破るかしわでに非難の眼を向ける。腕をなくしたジャンキーが言った。「先生、もう少し待ってくださいよ」。

「悪いね。でも、外来患者が首を長くして順番を待ってるんだ」

 雄牛のように逞しい看護師が近付けば、男たちも渋々と身を引く。

「もっと優しく扱ってやれよ」

ふらつく女の身体を支えたる手の力強さに、女が来るまで他者とコミュニケーションをとろうとしなかったプエルト・リコ人の青年が不明瞭な非難の声をあげた。看護師は一瞥を叩きつけただけで、無言のまま女を輪の中から押し出した。彼らの視線は、風に揺れる洗濯済みのシーツの動きで移動する女に向かい、次いで新人の看護師にカルテを持たせたままのWに移る。切り替えの瞬間加算された敵意に苦笑しながら、Wは手を振った。

「君たちも午後から診察なんだから、準備しといてくれよ」




 乱暴に看護師の腕を振りほどき、女は3歩先を歩くWの傍に並んだ。まるで自分が今まで共にいた患者達の仲間ではなく、病院側の人間であるかのように堂々と胸を張る。

「困るわ。今ミスター・アッカーマンの話を聞いていたのに」

「もういい加減覚えただろうに」

 受け取ったカルテに目を落としたまま、Wは穏やかに言った。

「建設現場の足場から落ちて失業した話だろう」

「それで奥さんと、11歳の女の子に逃げられたの」

 頭に貼り付けた大きな絆創膏が剥がれそうな勢いで頭を振る。

「彼は哀れよ」

 きっぱりとした断定形に、思わず頭一つ分下にある額を見つめてしまう。

「ここはそういう人間の巣窟だからね」

 当たり前すぎて滅多に口にしない事実を言い聞かせても、女は憤慨した表情を崩さなかった。

「私は違う」

 青灰色の瞳が射るように輝いている。出かかった言葉を一度飲み込み、Wは後ろの看護師に助言を求めた。聞いてもいないようだった。ぼんやり引きずられるようについてきているだけで、顔を見ようともしない。



 昨日入浴したのか、女の髪はぴくりとも空気の動かない廊下でも、さらさらと軽やかに流れている。立ち止まった時、Wは絆創膏からはみ出した髪の先に、思っていることとは正反対の言葉を与えた。

「そうだね」

 満足げに反らされる背中を先に診療室へ押し込み、男の手にも重過ぎるスライドドアを閉める。聞き流した話に弁解をするときの癖で、ちょっと肩を竦めながら、相変わらず呆けた顔の看護師に尋ねる。

「まだ自分の置かれてる状態をよく理解していないようだね」

「記憶は戻りませんし、警察からも連絡は来なくて」

 狂った女よりも酷い弛緩した目が、やっとのことで気だるげに持ち上がる。

「自分を救世主か何かだと思っているようです」

 言葉が気に入ったので、大仰に微笑んでやる。

「まあ、せいぜい大切に扱ってやろう」





 乾いた血と軟膏がついたままの手で受話器を取り上げ、家の留守番電話を呼び出す。本来整形外科を担当していたWが、州の反対側にある総合病院へ引き抜かれていった脳外科医の仕事までこなすようになって二ヶ月経つが、聖職者がやってくるばかりで、医者が増える様子は一向になかった。昨日も結局、家に帰ってすぐ寝てしまった。



『昨日病院で話したRだが、あんたの言うとおり、その患者は金の卵を産む鶏だぞ。郊外にあるオーデンセっていうモーテルのおやじが、弟と女が部屋を取ったのを覚えてた。女の方は真っ赤なドレスを着てたそうだ』


 

「綺麗なもんです。痒いところは?」

 まるで心に残る傷にまで触れられているかのように、女は身を縮め、黙りこくったままだった。今まで保っていた威厳はどこかに消え去り、丸めた足指の背と張り詰めた視線を、床に押し付けている。処置をするときはいつもこうだったから、慣れたものだ。

「大分良くなってきましたよ」

 むき出しになった縫合の周りでぷっくりとふくれる地肌はまだ薄紅色だった。日に焼けない場所だからこんなにも目立つのであって、経過は良好。左側頭部から後頭部に走るラインは、あまり上手いとはいえない縫合のせいでジッパーのように見えた。瑞々しい柔らかさと、汗のおかげで余計に赤らんで見えるその縁を、指でそっと押した。

「来週くらいには、抜糸しても大丈夫かな」

 身じろいだ女が顔を上げる前に、背後で突っ立ったままの看護師を顎でしゃくる。

「鏡を」

 一枚だけ持ってくるので、ため息と共に首を振る。

「いや、二枚。傷を見せるんだから」

「一枚しかありません」

「適当に探してくれ」



『――かなり粘ったんだが、なかった。失踪届、捜索願共にヒットしない。それどころか、捜査もなおざりだ。このご時勢、傷害なんて大したことないのかな、世知辛いこった――』



「そんなものですよ」

 鏡を覗き込み残念そうな声色を作れば、水銀の中でそっぽを向いたままの青灰色が歪む。

「心配しなくとも、髪が生えてくれば目立たなくなります」

「無理よ」

 傷跡を見ようともしないまま、女は鼻声を出した。

「それならもう、このまま包帯を巻いていたほうがいいわ。このままずっと、病院にいる」

 鏡を引っ込め、Wは首を傾げた。

「今頃家族が、一生懸命探しているはずですよ。貴女がいなくなって、とても悲しんでいるに違いない」

「そんな人いないわよ。私、みなしごに違いないわ」

「決め付けちゃいけない。誰かが誰かを愛してるって、歌でも言ってる」

「けれどここに居ないじゃない」

 関節が白くなるほど握り締めた手が痛々しい。

「ここの人たちは違うわ。いつでも私を見て、好きだって言ってくれるもの」

「あなたほど美しい患者は少ない」

 消毒液のたっぷりついた脱脂綿をピンセットで摘み取り、唇の先だけで言ってのける。

「勿体無いですよ」

「あの人たちが引き止めるに決まってる」

 不意に顔を上げるので、耳の辺りに手を添えて再び俯かせる。自信に満ち満ちた顔に、歎息しか出てこない。

「私は愛されてるの」



『――奴は蛇蝎の如く忌み嫌ってるから鵜呑みには出来ないが、一度こっぴどい眼に遭わされたって。病院で聞き取りしたときも、とんでもないことをやらかしてるって怒ってる連中がいた。なんていうんだ、誰彼構わず男をベッドに引き入れるって、こういうの、心の病気なんだろう? セックス依存症?――』



「ニンフォマニア的な兆候は?」

「最近出てません」

「それは何より」

 たっぷりと軟膏を塗ったガーゼを貼り付けながら、Wは頷いた。

「精神的にも落ち着いてきた証です」

「外に出たい」

 ぽつりと女は呟いた。

「太陽の光を浴びたい」

「日光浴、させてないのか?」

「今まで行きたがらなかったので」

「それはいけない。後で中庭を散歩させてあげなさい」

 露骨に晒す渋い顔は無視する。人員削減で、看護師達のシフトが日々厳しくなっているのは承知だった。色は生白いが血色の良い女と、鉛色の眼元の看護師を見比べる。後者に向かって得心の顔を作っても、相手は一向に騙されることなく顔を背けた。サージカルテープを取ってくれそうになかったので、後ろ手にテーブルを探る。

「記憶の件については、気長に捉えるしかありませんが」



『――それを恐れてるんだ。もしこれが事実だとしたら、一大隠蔽工作だからな。次男がコトを起こす。バレたのか泣きついたのか、父親が隠蔽を指示する。患者は長男を院長に据えてある病院へ担ぎ込んで、情報が漏れないよう厳重に隔離だ。面会禁止扱い。そこでだ。あんたの知りたいことってのは、院長殿がどこまでこれに関わってるかってことだろう。あんたの嫌ってる――』




「院長が司祭でしょう」

 口元を歪めたまま、Wは俯いたままの女を見下ろした。

「迷える子羊を放り出すような真似はしません」

「迷ってなんかないわよ」

 女は吐き捨てた。

「私は私だもの」

「そうですね、その通り」

 搬送されたときは女性の柔らかさを具現したかのようだった肩から肉はそぎ落とされ、骨ばった鋭さを増している。丸みは全て、自信を滾らすために消費されたようだった。限界まで膨らんだ自尊心は、毒花のような芳香を以って、痩せこけた全身を覆っている。心の弱った人間にとって、余りにも刺激が強すぎるに違いない。

「きっと以前のあなたと、何一つ変わらないのでしょう」

 カルテの隅にドイツ語で書き加えておく。『人格変化、衝動性、抑制の欠如』

 なかなか立ち上がらない女に手を差し出せば、やっとのことで自ら腰を上げる。

「今日はこれで終わりですよ」

 無言で去っていく、これだけは果敢ない後姿が消えもしないうちに、Wは一つ大きなあくびを漏らし、長い腕を天に突き上げ伸びをした。

「記憶が戻ってなかったら、一週間後に」



『――それだけの間、病院の中を自由に動き回らせてくれたら、情報を提供する。万が一関係者に見つかっても、あんたの名前は絶対に出さない――』



「どうせ何も分からんだろうが」



『――あんたは座ってるだけでいい。俺が運んできてやる――』


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