私を賭けた婚約者は、お断りします
新しい手袋の指先が、掌に食い込んだ。
「今、私と踊る約束を賭けたのですか」
フィルメナが尋ねると、婚約者は卓の札から顔を上げた。
「最初の一曲だけだよ。レストンが君を誘いたいと言うから」
ヴァレクは隣の青年に笑いかけた。レストンの手元には、まだ伏せてある札があった。
遊戯室の戸は開いている。向こうの広間では楽団が音を合わせ、夫人たちの笑い声に弦の高い音が重なった。
「お断りしたと、お話ししました」
「大勢の前で声を掛けて、恥をかかせては悪いだろう」
フィルメナはレストンを見た。彼は杯に手を伸ばしかけ、そのまま止めていた。
一昨日の茶会で、彼から今夜の踊りを申し込まれた。最初の一曲は婚約者と踊るからと、フィルメナは断った。その後、ヴァレクにも伝えた。自分に代わって約束をしないでほしい、とも。
「どちらが勝っても、私はレストン様とは踊りません」
「まだ勝負はついていないよ」
「踊る相手は、自分で決めます」
卓の向こうで男が小さく笑った。レストンも口の端を上げたが、フィルメナと目が合うと杯を持ち直した。
「大袈裟に考えないでくれ。僕が勝てば、あの栗毛を借りられるんだ。一曲で名馬に乗れるなら、悪い話ではないだろう?」
「私が踊るのに?」
ヴァレクの眉が上がった。
「冗談だよ。君ならわかってくれると思ったのに」
フィルメナは指を開いた。手袋を破くつもりで買ったのではない。速い曲で踊っても手を伸ばせるようにと、店で何度も指を曲げた。鏡の前では、靴のつま先まで揃えてみた。
今夜はオルトラ夫人の舞踏会で、二人の婚約を披露してもらうことになっていた。
この遊戯室に来るまでは、広間のどこで一曲目を待とうかと考えていたのだ。
「嫌だと申し上げても、聞いてくださらないのですか」
「フィルメナ。そんな顔をすることじゃない」
このあと笑えば、いつもの顔に戻れる。
ヴァレクは友人へ向き直るだろう。フィルメナも隣の椅子に座り、勝負が終わるのを待てる。誰も居心地の悪い思いをしなくて済む。
彼女は椅子の背から手を離した。
「失礼します」
「どこへ?」
「お母様のところへ」
入口の左で、ムニが通り道を空けるように椅子を壁へ寄せかけていた。侍女の裾が伸び、片足が後ろへ引かれる。
「待って。そのまま動かないで」
フィルメナは身を屈めた。脚先の欠けに布が挟まっている。引き抜こうとしたムニの手を止め、布を押さえて椅子の脚を浮かせると、裾はするりと外れた。
「ありがとうございます。破くところでした」
「よかった。ムニ、馬車をお願いできる?」
「お帰りになりますか」
広間から、調弦を終えた楽器の短い響きが届いた。
「そのつもりです。支度ができたら教えて」
ムニは頷いて客の間を抜けていった。傷んだ椅子だけが入口の壁際に残った。
母は回廊で知人と話していた。フィルメナに気づくと、扇を少し持ち上げた。
「ヴァレク様は見つかった?」
「お母様。お話ししたいことがあります」
母は一緒にいた夫人へ断り、彼女と回廊の端へ寄った。
何と言えばいいのか。実際に起きたことを伝えれば済むはずなのに、口を開く前から笑いが浮かびそうになる。困った人なの、と先に笑っておけば、聞く母も驚かずに済む。
フィルメナは口元を緩めず、賭けのことを話した。
母の扇が胸元で止まった。
「一曲を、勝負に?」
「嫌だと伝えました。それでも、私が笑わないことを気にしていらっしゃいます」
「それは……お二人の冗談が、少し行き過ぎたのね」
フィルメナの指がまた曲がった。
母が使ったのは、以前と同じ言葉だった。
あれは、春の茶会のことだ。
若い令嬢の帽子には大きな羽根がついていた。少し傾くたび、横の人の頬へ羽根の先が近づいた。
フィルメナが笑ったのは、帽子を被った娘自身が困って笑っていたからだった。
そのうちヴァレクが、フィルメナにも被ってほしいと言い始めた。
「似合うよ。君が被れば、もっと楽しい」
帽子の娘が席を外している間に、フィルメナは断った。人の大切なものを借りたくない。羽根を傷めたら困るから、と。
ヴァレクは片手を振り、もう頼んであると言った。
戻ってきた娘は、帽子を外してこちらへ差し出した。髪を留めていたピンを一緒に抜いてしまい、片手で髪を押さえていた。
「お気になさらないで。被りませんから、どうぞそのまま」
娘が手を止めた時、ヴァレクがため息をついた。
「せっかく外してくださったのに。フィルメナ、ひと言くらいあるだろう」
フィルメナは謝った。
それからはフィルメナが話すたび、ヴァレクが、帽子は勧めない方がいいね、と添えるようになった。
帰りの馬車で母に話すと、愛想よく受け流せばよかったのにと言われた。
明るく笑っていれば、あんな話は長く続かなかったでしょう、と。
フィルメナも、そのつもりでいた。帽子の令嬢は悪くなかったし、茶会そのものは楽しかったと思いたかった。
次からはうまく笑おうと決めていた。
「お母様。あの帽子の時も、先に嫌だとお伝えしたのです」
回廊の壁に掛かった灯りが、母の扇の骨に透けた。
「そうだったの?」
「二人だけの時に。皆様を困らせないよう、静かにお話ししました」
母は扇を下ろした。
「今夜も、一昨日のうちにお話ししています。踊りを代わりに約束しないでほしいと」
「私は知らずに……」
母の唇が動いたところで、回廊の向こうから名前を呼ばれた。
ヴァレクだった。レストンも一緒に来る。後ろには遊戯室で笑っていた男もいた。
「フィルメナ。馬車を頼んだと聞いたが、本気じゃないだろうね」
フィルメナが返事をする前に、ヴァレクは母へ礼をした。
「夫人、ご心配には及びません。ちょっとした行き違いです」
「娘は先に断ったと言っています」
「ええ。ですから僕も考えているんです。ただ、こうして急に帰られたのではレストンにも気の毒でしょう」
レストンは母を見て、それからフィルメナへ視線を戻した。
「お嫌なら無理にとは。しかし、初めから大事にしなければ」
「初めからお断りしています」
「皆が聞いたあとで話が違うと言われても、こちらも困りますよ」
母がフィルメナの前へ出かけた。彼女は母の腕にそっと触れ、隣へ戻ってもらった。
自分で答えたかった。今度も母に伝えてもらったら、また、二人だけで話したことになってしまう。
「レストン様は、お断りしたことをご存じでした」
「それは知っています。ですから君の婚約者に相談したのでしょう」
薄い革越しに、自分の爪の形がわかった。
ヴァレクは小さく両手を開いた。
「こうしよう。君も広間へ戻って、笑ってくれればいい。ほんの遊びだと皆にわかれば、あんな約束は取りやめる」
「私が笑ったら?」
「君が本気で嫌がっていないとわかるだろう」
フィルメナは彼の顔を見た。いつもの、困った娘を宥める時の顔だった。
自分が怒っていないように見せれば、彼は約束を取り消してくれる。
今夜を取り戻したかった。婚約を祝う人たちの前で、いつものように彼の腕を取れるなら。
「それから一緒に踊ればいい。一曲目の前でよかったよ」
ヴァレクの手が、彼女の肘へ近づいた。
フィルメナは手を重ねなかった。
「オルトラ夫人へ、ご挨拶をしてきます」
「僕たちは広間で待っている。ゆっくり考えておいで」
彼が離れてからも、肘には触れられそうになった感触が残っていた。
母が何か言おうとする。その顔を見た途端、フィルメナは笑いかけそうになった。
「大丈夫だと、申し上げるところでした」
「フィルメナ」
「お母様までお困りになったら、そう言わないといけない気がして」
母は一度、口を閉じた。フィルメナの手を取ろうとしていた腕も下ろす。
「私は大丈夫。あなたの話を聞くわ」
フィルメナは息を吸った。
「今は、笑いたくありません」
「わかったわ」
母の声は低かった。あの人の前ではそう見せないように、と続く言葉を待ったが、それだけだった。
主催夫人に会うため回廊を戻ると、遊戯室の入口にゼルガードがいた。
礼装の袖口を引き上げ、壁際の椅子へ手を掛けている。さっきムニの裾を外した一脚だった。
「ゼルガード様。その椅子はお使いにならない方が」
彼は持ち上げかけた手を止めた。
「何かありますか」
フィルメナが脚先を指すと、彼は椅子を置いて屈んだ。
「本当だ。気づきませんでした」
「先ほど、ムニの裾が挟まってしまって。お客様のお召し物も傷めるかもしれません」
「教えてくださってありがとうございます。こちらを片付けてもらえますか」
近くの使用人に椅子を任せ、彼は隣の椅子を選んだ。
「控えの間で休めるように、オルトラ夫人から頼まれたんです。病後で立ち続けられない方もいらっしゃるので」
母が彼へ挨拶をし、先に夫人を捜してくると言った。フィルメナが頷くと、母は回廊を進んでいった。
傷んだ椅子は使用人が奥の戸へ運んでいる。ゼルガードは傷んでいない椅子を両手で抱え、こちらに体を向けた。
「僕もそちらへ。道を塞いでしまいますが、よかったら先にどうぞ」
「一緒に参ります。後ろから椅子が来ると思うと、裾が気になって」
「それはいけない。今の話を聞いたばかりでした」
彼はフィルメナの歩みに合わせ、椅子の脚を反対側へ向けた。
母の集まりで何度か顔を合わせた相手だ。いつも椅子に背筋を伸ばして座り、どちらかといえば口数の少ない人だと思っていた。
控えの間で椅子を下ろすと、彼は小さく息をついた。
「踊る前に腕を疲れさせてしまったな」
「ゆったりした曲をお選びになれば?」
「そういう曲ほど、気が抜けないんです。ほとんど歩く速さなのに、走ったあとより疲れる」
フィルメナは顔を上げた。
「遅い曲はお苦手ですの?」
「速い方が好きです。足を動かしている方が楽しくて。ただ、あまり跳ねると落ち着きがないように見えるかと」
「それで、いつもゆっくりした曲を?」
「ご覧になっていたんですね。ええ。ずいぶん堂々とした顔で歩いていたでしょう」
覚えがあった。前の集まりで、彼が真面目な顔をして腕を差し出していた姿。ゆっくり回るあいだ、正面を見つめすぎて、踊っているというより何かを見張っているようだった。
フィルメナは目を逸らした。
「笑ってもかまいませんよ。僕も今、何をしていたんだろうと思いましたから」
「見張りをなさっているのかと」
「見張り?」
「すみません。とても真剣に前をご覧になっていたので」
ゼルガードは少し考え、椅子の背に置いた手で顔を隠した。
「そのつもりは……いや、たしかに前ばかり見ていました」
声が少し籠もっていた。こちらへ戻した顔は、口元が笑っている。
フィルメナもつられて笑いかけ、唇を押さえた。
「私も速い曲の方が好きです。うまく踊れるとつい口を開けて笑ってしまうので、気をつけているのですけれど」
「それはいけないことですか」
「……どうでしょう」
ヴァレクと踊る時は、笑みを深くしすぎないようにしていた。彼が友人に話しかけられたら会話を止め、踊り方を褒められれば、ヴァレクのおかげだと言った。
靴も手袋も自分で選んだのに、一曲を終えると肩が痛かった。
「いけないとは、思いません」
「よかった。僕も次から少し跳ねられます」
彼は椅子の背から手を離し、客が座りやすい向きへ置き直した。
フィルメナを誘う手は出さなかった。
母がオルトラ夫人を連れてきた。
主催者は彼女の前で足を止め、胸元の飾りに触れかけた手を下ろした。
「お帰りになりたいと聞いたけれど、具合が悪いの?」
フィルメナはゼルガードへ礼をし、夫人たちと隣の小さな部屋へ移った。扉は母が閉めた。
「お招きいただいたのに、申し訳ありません。身体の具合ではないのです」
夫人は空いた椅子を示した。フィルメナは座らずに、ヴァレクが一曲を賭けた経緯を話した。初めて嫌がったのではないことも、人前で笑えば取りやめると言われたことも。
自分が口にすると、何が起きたかが少しずつ耳に戻ってきた。話しているのは恋人同士の愉快な揉め事ではなかった。
けれど、夫人の眉が寄ると、フィルメナはまた先を急ぎそうになる。
「あの、せっかくの夜会を」
「今夜のことは私が考えます。あなたのお話を聞かせて」
フィルメナは腰の前で両手を重ねた。まだ話は終わっていなかった。
「私は、嫌だと申し上げました。それを冗談のわからない娘のように、皆様の前で」
「そう」
オルトラ夫人は顔をしかめたまま、最後まで聞いた。
「私の家で、客にそんな約束をさせたのね」
「その約束が、できているようにお話しになりました。私が選べない一曲など、本当はありませんのに」
夫人が彼女の手元を見た。
「フィルメナ嬢。今夜の婚約のお披露目を取りやめると、私からお二人へ伝えます。まだ皆様にはお話ししていませんから」
フィルメナは顔を上げた。
広間の端で、母とヴァレクが並び、自分もその隣に立つはずだった。オルトラ夫人が紹介をし、拍手を受け、最初の一曲が始まる。
そのための靴だった。手袋だった。鏡の前の練習だった。
何もかもを片付けていただいて帰りたい。体調が悪かったと、あとから母に伝えてもらえばいい。
「夫人。取りやめる前に、お時間をいただけませんか」
「どうしたい?」
「自分でお返事をします。ヴァレク様は広間で、私が戻るのを待っていらっしゃいますから」
母の肩が動いた。
夫人はすぐには返事をせず、フィルメナの顔を見た。
「そこで、何を伝えたいの」
「結婚は、いたしませんと」
声にすると、背中にひやりと汗が浮いた。
半年前、婚約を承諾した時は、こんなに自分の声を聞いていなかった。両親が喜び、ヴァレクが喜び、その中へ顔を上げればよかった。
今は手袋の内側で指を動かすだけでも、布が擦れる。
「私は今夜、ヴァレク様と踊るのを楽しみにしていました。でも、あのように笑ってからではもう踊れません」
「お父様はご存じ?」
「これからお伝えします。帰宅したらお話ししたいです」
「わかりました。家同士のお話は、そのあとにね」
オルトラ夫人は母を見た。母も頷いたが、フィルメナは自分でも答えた。
「両親と相談いたします。今夜は、私の返事を聞いていただきたいのです」
「では、私も広間へ行きましょう」
夫人は扉を開けた。
先に歩いていく背を、母はすぐには追わなかった。
「フィルメナ。帽子の時のこと、ごめんなさい」
彼女は母を見た。
「あなたが笑えば済むと言ったのは、私が困りたくなかったからでもあるわ。私の顔色まで、あなたに見させていたのね」
そう言った母の手は、扇を握り締めていた。
フィルメナはその指に触れた。開いてもらうと、扇の骨が掌に赤い筋をつけていた。
「私も、ずっとそうしていました」
「今夜は聞くわ。あなたが言い切るまで」
フィルメナは頷き、母と部屋を出た。
控えの間ではゼルガードが、年配の夫人へ椅子を勧めていた。彼に目で挨拶をすると、礼を返される。
その向こうからムニがやってきた。
「馬車の支度ができております」
「ありがとう。もう少し待っていただける?」
「承知しました。お手元も、お直ししましょうか」
手袋の口が捩れていた。何度も指を曲げたせいで、手首に細い皺が寄っている。
ムニは布を引っ張りすぎず、縫い目を手首の横へ戻してくれた。
「そのままだと、踊った時に痛みます」
言ってから、ムニが手を止める。
フィルメナは手首を軽く振った。
「今も痛かったわ。直してくれてありがとう」
ムニは手袋の口を整え終え、玄関で待つと告げた。
母が広間へ続く戸の前で待っている。フィルメナが歩き出すと、向こうから短い笑い声が届いた。
ヴァレクの声だった。
足が止まった。顔を上げたらどんな表情をすればいいのか、わからなくなる。
「フィルメナ嬢」
振り向くと、ゼルガードが戸を押さえていた。彼の後ろでは、先ほどの夫人が椅子に腰を下ろしている。
「お通りになりますか」
「あ……参ります」
彼が開けた戸の幅へ歩きかけ、また足元を見た。
「裾が、通れますか」
「おそらく。椅子を抱えた僕も通れましたから」
フィルメナは思わず彼の肩から自分の袖へ目を動かした。
「それでは、私より椅子の方が細かったら?」
ゼルガードは戸をもう少し開き直した。
「ここまで開ければ大丈夫です」
「ありがとうございます」
少し笑って言えた。ゼルガードはそこを指摘せず、フィルメナが通り終えるまで戸を持っていた。
彼女は母の隣へ並んだ。
広間の灯りが手袋の色を白くした。
ヴァレクは小卓のそばに立っていた。彼女を見つけると、仲間との話をやめてこちらへ来る。
「戻ってきたね」
フィルメナの歩く速さを確かめるように、彼は少し先で立ち止まった。
「取りやめよう。君の勝ちだ、フィルメナ」
差し出しかけた手を止め、友人たちへ笑いかける。
「ほら、笑って。これで終わりだ」
フィルメナは手袋の縫い目を親指でなぞった。
もう笑って帰ろう、と体が覚えていた。あの人たちが安心すれば、自分も椅子に座れる。
母は隣にいる。それでも、笑う前に顎を少し下げる癖は止まらなかった。
ヴァレクが一歩近づいた。
差し出された手は、取らなかった。
「終わるのは、私たちの婚約です」
「……そこまで言うことか?」
笑い声が途切れた。
小卓の端にいたレストンが、杯を置く。底が硬く触れた音に、フィルメナの背中が伸びた。
「君と踊りたいと言う者がいた。それだけだろう。嫌なら初めから断ればよかった」
「断りました」
喉が乾いた。手袋の内側で、爪が掌に当たる。
「さっきも、一昨日もお断りしました。一昨日は、あなたにだけ聞こえる声で」
「皆の前で僕を責めたいのか」
「皆の前なら、聞いていただけると思いました」
ヴァレクは彼女の後ろを見た。フィルメナも振り向きそうになって、そのまま立った。
自分の言葉をどんな顔で聞かれているかは、今は見なくてよかった。
「私は、もう……今夜は、結構だ」
レストンが杯を離し、小卓を回った。フィルメナにもヴァレクにも手を差し出さず、壁際へ去っていく。
ヴァレクの腕が下がった。
「フィルメナ。君が怒るほどのことではない」
「私が何を嫌がるかも、あなたがお決めになるのですか」
彼の口が開いたまま止まる。
母が半歩寄った。ずっと持っていた扇を閉じて、フィルメナを見ていた。
「私も、あなたに笑って収めるようにと言ってしまったわね」
「夫人、ですから、こんな遊びは」
「娘からの返事を、聞いてちょうだい」
フィルメナは母の腕に触れた。母は押しも引きもしなかった。
ヴァレクの視線が二人の手の間を行き来する。
「僕は君が好きで、楽しませようとしただけだ」
彼女は顔を上げた。
「私も、あなたと踊るのを楽しみにしていました」
止まっていた彼の手が少し上がる。
「今は、あなたとは踊りません」
フィルメナは母の腕から手を離した。
胸の奥まで息が入った。いつから止めていたのか、わからなかった。
ヴァレクが母を見た。
「明日、伯爵と話をします。今夜は一曲だけでも」
「馬車の支度はできています」
フィルメナはそう答え、彼の手の届かないところへ下がった。
ヴァレクの後ろからオルトラ夫人が来た。
「ヴァレク様。レストン様も、こちらへ」
壁際にいたレストンが戻る。夫人はレストンへも顔を向けた。
「今夜はお帰りください。私が招いた方の返事を、私の家で聞かなくてよいとは思いません」
「夫人、お騒がせしたことは謝りますが」
「次のご招待も差し上げません」
ヴァレクが顔を上げた。
「……これから先も、ですか」
「フィルメナ嬢が嫌だと伝えたのに、踊る約束を勝負に使う方には。レストン様も同じです」
レストンは返事をせず、杯のあった小卓へ目を向けた。
ヴァレクは母とフィルメナを見た。母は夫人へ挨拶をし、フィルメナも礼をした。
「お招きいただき、ありがとうございました」
ヴァレクの横を通り過ぎた。戸の前へ着いても呼び止められず、そのまま回廊へ出る。
帰りたくないと思って選んだ靴が、玄関の石を踏んだ。
ムニは馬車の前で待っていた。
ムニの手を借り、フィルメナは母と乗り込んだ。膝に置いた指には、白い手袋がまだきちんと収まっている。
「お父様に、お伝えしないと」
「帰ったら二人で話しましょう。明日はあなたも一緒に、ヴァレク様とお話しして」
「私も、いていいのですか」
母は驚いたように顔を上げた。それから、すぐには答えずに彼女の手を見た。
「あなたにいてほしいわ」
フィルメナはゆっくり指を開いた。掌に残った爪の跡を、反対の手の親指で撫でた。
* * *
翌日の応接室は、窓が開いていた。
手首に風が当たる。外出の予定もないのに、フィルメナは朝から手袋をつけていた。昨夜のように握った手が隠れるように。
父が向かいの侯爵に挨拶をし、ヴァレクへも目を向ける。昨夜、帰宅後に話を聞いた父は、まず娘と同席して話したいと相手の家へ伝えていた。
ヴァレクは父親の隣に座っていた。こちらの母と視線が合うと、普段より丁寧に頭を下げる。
「お披露目前で助かりました。少々気まずい夜にはなりましたが、あれは冗談です。僕も途中でやめると申し上げました」
父はそれにすぐ返さず、フィルメナを見た。
「昨夜と、気持ちは変わらないか」
「変わりません。ヴァレク様との婚約を解消したいです」
「フィルメナ」
ヴァレクが身を乗り出した。
「君があの場所で一人にならないよう、いつも気をつけていたんだよ。それが、たったあれだけで」
フィルメナは窓のそばにある小卓を見た。今日は杯も札もない。茶器はまだ置かれていなかった。
あの時は何も言えなかったと、あとで思い返すのは嫌だった。
「三日前、レストン様とは踊りたくないとお伝えしました。その時は、二人だけでした」
「それはもう、昨夜も聞いた」
「では、聞いていらしたのですね」
ヴァレクは唇を噛んだ。
「私の気持ちは変わりません」
今度は手袋の中で、指を握り込まなかった。
ヴァレクの父親が彼を見た。何も言わず、そのまま待っていた。
ヴァレクは椅子に背を戻した。
「望まない方を引き留めるつもりはありません。解消に同意します」
彼は少し顎を上げて言った。フィルメナは聞き終えて頷いた。
父が侯爵へ両家の婚約を解消することを確かめた。侯爵も承諾し、その場で同じ内容の書面に目を通す。
「これで、両家とも異存はありません」
父がそう言うまで、フィルメナは自分の席に座っていた。
* * *
舞踏会の招待状を机の引き出しへしまったのは、その晩だった。
持ち帰った手袋も一緒に置くと、白い布の上に薄い影が落ちた。
あの夜はもう、婚約を祝われた夜にはならない。
フィルメナは引き出しを閉め、寝室へ戻った。
翌朝、ムニが手袋の手入れを済ませて持ってきた。
「糸が少し緩んでおりましたので、お針子にお願いしてあります」
縫い目の辺りを引っ張っていたせいだろう。フィルメナが礼を言って受け取ると、ムニは手袋を戻す場所を尋ねた。
「……まだ、置いておいて。着けるかもしれないから」
「いつもの箱でよろしいでしょうか」
「お願い」
ムニが布を広げ、片方ずつ箱へ収める。その手つきを見ながら、フィルメナは机に置かれた小さな書きつけを取った。
母の昼の集まりの日取りだった。以前から続けている、友人とその家族を招く小さな集まりだ。
何か聞かれたらどうしよう。笑えなかったら、客たちに気を遣わせてしまう。
紙を元へ戻しかけ、もう一度持った。
「お母様に、お伝えしてくれる? 今度のお集まりには、私も出たいと」
その集まりでゼルガードを見かけた時、フィルメナはカップを落としそうになった。
顔を合わせる機会はあると思っていた。母と彼の母が友人なのだから。けれど本当に同じ部屋で、あの夜の続きを話せるとは思っていなかった。
彼はフィルメナに挨拶をし、向かいの椅子へ座った。
「先日は椅子を教えていただいて、助かりました」
「もう、お使いになっていませんか」
「片付けたと聞きました。あのあと別の方から、おかげで腰を下ろせたと礼を言われてしまって」
「運ばれたのはゼルガード様ですもの」
「椅子を選んだ手柄は、お返ししておきたかったんです」
フィルメナが笑うと、彼もカップへ手を伸ばした。
ヴァレクのことを聞かれはしなかった。フィルメナも、先に説明して謝ることをしなかった。
母が新しい茶を持ってきた時、先日の舞踏会の音楽が話題になった。
「ゼルガード。あなたはずいぶん遅くまで踊っていたそうね」
「はい。速い曲が続いたので。僕も好きな曲がありまして」
彼は一度カップを置き、指で卓を叩いた。
「これです。この曲が一番好きなんです。風車の歌」
フィルメナは口元を押さえた。
「それは、葡萄摘みです」
「……そうでしたか」
「風車の歌は、こう」
彼女が小さく歌うと、彼は途中から頷き始めた。
「それも、好きです」
「曲の名前を取り替えて覚えていらしたのね」
「二曲とも、誰にも頼まれずに足が動くので」
笑いを止められなかった。母がこちらを見ていたが、口を閉じるのが間に合わない。
ゼルガードまで笑った。
「よかった。間違えた甲斐がありました」
「わざとでしたの?」
「いいえ。本当に間違えました。今のは、格好をつけました」
それでまた笑ってしまう。彼は彼女が落ち着くまで、続きを言わずに待っていた。
手を膝に戻すと、手袋の指先が少し余った。
「先ほどから、たくさん笑ってしまって」
「僕が間違えたので」
「それだけでは、ないと思います」
彼は顔を上げた。フィルメナもカップを取り、ひと口飲んだ。
薄い茶器の縁が唇に触れる。まだ少し笑いが残り、うまく飲めなかった。
「私も、速い曲が好きです。次に踊る時は、あまり気をつけすぎないようにしようと思って」
「それはいいですね。僕ももう、見張りはやめました」
母が彼女の隣で小さく笑った。
その笑いに応えて顔を上げた時、フィルメナは自分から次の舞踏会の話を始めていた。
* * *
オルトラ夫人から、また招待状が届いた。
今度は身近な人だけを集める小さな舞踏会だという。母から誰と一緒に行くか尋ねられ、フィルメナは自分の手で返事を書いた。
会へは母と出席する。踊りたい相手のことは、本人に伝えたかった。
当日、ムニが手袋の口を直してくれた。縫い目は手首の横へ収まり、指を曲げても引っ張られない。
「いってらっしゃいませ」
「行ってきます」
玄関を出る時、フィルメナはもう一度箱の中を確かめたり、鏡の前へ戻ったりしなかった。
広間へ入ると、楽団はまだ演奏を始めていなかった。オルトラ夫人は母に挨拶をし、フィルメナには、今日はどの曲がよいかと尋ねた。
「葡萄摘みを、お願いできますか」
「結構よ。楽団に伝えておきましょう」
夫人が離れ、フィルメナは客の間から濃い茶の髪を捜した。
ゼルガードは窓のそばで、彼の母親と話していた。顔が見えるとフィルメナの足が遅くなる。
間違われたらどうしよう。踊れる相手がいなくて頼みに来たのだと思われたら。
何も言わず、相手がこちらを向くのを待てば、いつもの顔で挨拶はできる。
フィルメナは胸の前で重ねていた指をほどいた。
それをしていたら、また最初の曲が終わってしまう。
ゼルガードのそばへ行くと、彼はすぐに礼をした。
「フィルメナ嬢。今日は、とても」
彼は少し口を閉じた。母親が二人を見比べ、近くの夫人へ挨拶に向かった。
「とても?」
「お似合いです。その、手袋も」
フィルメナは自分の手を見た。
「前と同じなのですけれど」
「それは気づいていました。前はこんなに近くで拝見しなかったので、今さら、すみません」
笑いそうになる。さっき言いよどんだ顔を思い出した。
聞いてみたかったが、今日はその前に言うことがあった。
「ゼルガード様。最初の曲を、私と踊っていただけますか」
彼は返事をしかけ、母が立ち去った方へ目を向けた。
フィルメナは自分から手を出した。
「あなたと、踊りたいのです」
ゼルガードがこちらへ向き直る。
「僕もです。ぜひ、ご一緒させてください」
伸びてきた手が、彼女の掌の手前で待った。フィルメナは自分から、その上へ手を重ねた。
彼が息を吐いた。こちらまで息を止めていたと気づき、フィルメナも小さく笑う。
「誘っていただけて、嬉しいです」
「私も、嬉しいです」
隣へ並んだゼルガードが、広間の中央を見た。楽団の弓が動き、速い調べが始まる。
「風車の歌ですね」
フィルメナは立ち止まった。
彼も止まり、こちらを見る。それから目を丸くした。
「……また、間違えましたか」
「葡萄摘みです」
「今度こそ覚えたつもりだったのですが」
「私が覚えていますから」
ゼルガードは困った顔で笑った。フィルメナも笑って一歩を踏み出す。
拍子に合わせて踵を上げ、彼の腕の中を回った。
途中からは口元を隠せなかった。ゼルガードが少し先に笑い、彼女も顔を上げた。曲が速くなるところでは二人とも足を踏み出しかけ、互いに譲ってしまい、もう一度笑う。
踊り終えた時、手袋の内側は少し湿っていた。
ゼルガードは彼女の手を離し、息を整えた。
「あとで、もう一曲お願いしてもいいですか」
「あとで、とおっしゃらずに」
フィルメナは次を待つ楽団へ目を向けた。
「今夜は、何曲でも」
彼が笑い、首を横に振った。
「それは、僕だけが嬉しすぎます。少しお話もしたい」
「踊っている時は、お話ししませんものね」
「練習します。踊りながらでも、もっとあなたのお話が聞けるように」
彼女が笑っても、ゼルガードは笑わずに待っていた。
「今日だけではなくて。次の集まりでもその次も、お会いしたいんです」
フィルメナは彼の顔を見た。
ゼルガードは彼女を見て、返事を待っていた。
「私も、お会いしたいです。今日も、踊る前からお話ししたくて捜していました」
ゼルガードの唇が動いたが、声が出るまで少し間があった。
「今度は僕から、ご訪問してもよろしいでしょうか」
「お待ちしています。家にも、私からお伝えします」
フィルメナは手を差し出した。彼も差し出し、二人で広間の端へ歩き始める。
薄い手袋の縫い目が、彼の掌にやわらかく触れていた。




