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私を賭けた婚約者は、お断りします

作者: 歩人
掲載日:2026/10/23

 新しい手袋の指先が、掌に食い込んだ。


「今、私と踊る約束を賭けたのですか」


 フィルメナが尋ねると、婚約者は卓の札から顔を上げた。


「最初の一曲だけだよ。レストンが君を誘いたいと言うから」


 ヴァレクは隣の青年に笑いかけた。レストンの手元には、まだ伏せてある札があった。


 遊戯室の戸は開いている。向こうの広間では楽団が音を合わせ、夫人たちの笑い声に弦の高い音が重なった。


「お断りしたと、お話ししました」


「大勢の前で声を掛けて、恥をかかせては悪いだろう」


 フィルメナはレストンを見た。彼は杯に手を伸ばしかけ、そのまま止めていた。


 一昨日の茶会で、彼から今夜の踊りを申し込まれた。最初の一曲は婚約者と踊るからと、フィルメナは断った。その後、ヴァレクにも伝えた。自分に代わって約束をしないでほしい、とも。


「どちらが勝っても、私はレストン様とは踊りません」


「まだ勝負はついていないよ」


「踊る相手は、自分で決めます」


 卓の向こうで男が小さく笑った。レストンも口の端を上げたが、フィルメナと目が合うと杯を持ち直した。


「大袈裟に考えないでくれ。僕が勝てば、あの栗毛を借りられるんだ。一曲で名馬に乗れるなら、悪い話ではないだろう?」


「私が踊るのに?」


 ヴァレクの眉が上がった。


「冗談だよ。君ならわかってくれると思ったのに」


 フィルメナは指を開いた。手袋を破くつもりで買ったのではない。速い曲で踊っても手を伸ばせるようにと、店で何度も指を曲げた。鏡の前では、靴のつま先まで揃えてみた。


 今夜はオルトラ夫人の舞踏会で、二人の婚約を披露してもらうことになっていた。


 この遊戯室に来るまでは、広間のどこで一曲目を待とうかと考えていたのだ。


「嫌だと申し上げても、聞いてくださらないのですか」


「フィルメナ。そんな顔をすることじゃない」


 このあと笑えば、いつもの顔に戻れる。


 ヴァレクは友人へ向き直るだろう。フィルメナも隣の椅子に座り、勝負が終わるのを待てる。誰も居心地の悪い思いをしなくて済む。


 彼女は椅子の背から手を離した。


「失礼します」


「どこへ?」


「お母様のところへ」


 入口の左で、ムニが通り道を空けるように椅子を壁へ寄せかけていた。侍女の裾が伸び、片足が後ろへ引かれる。


「待って。そのまま動かないで」


 フィルメナは身を屈めた。脚先の欠けに布が挟まっている。引き抜こうとしたムニの手を止め、布を押さえて椅子の脚を浮かせると、裾はするりと外れた。


「ありがとうございます。破くところでした」


「よかった。ムニ、馬車をお願いできる?」


「お帰りになりますか」


 広間から、調弦を終えた楽器の短い響きが届いた。


「そのつもりです。支度ができたら教えて」


 ムニは頷いて客の間を抜けていった。傷んだ椅子だけが入口の壁際に残った。


 母は回廊で知人と話していた。フィルメナに気づくと、扇を少し持ち上げた。


「ヴァレク様は見つかった?」


「お母様。お話ししたいことがあります」


 母は一緒にいた夫人へ断り、彼女と回廊の端へ寄った。


 何と言えばいいのか。実際に起きたことを伝えれば済むはずなのに、口を開く前から笑いが浮かびそうになる。困った人なの、と先に笑っておけば、聞く母も驚かずに済む。


 フィルメナは口元を緩めず、賭けのことを話した。


 母の扇が胸元で止まった。


「一曲を、勝負に?」


「嫌だと伝えました。それでも、私が笑わないことを気にしていらっしゃいます」


「それは……お二人の冗談が、少し行き過ぎたのね」


 フィルメナの指がまた曲がった。


 母が使ったのは、以前と同じ言葉だった。


 あれは、春の茶会のことだ。


 若い令嬢の帽子には大きな羽根がついていた。少し傾くたび、横の人の頬へ羽根の先が近づいた。


 フィルメナが笑ったのは、帽子を被った娘自身が困って笑っていたからだった。


 そのうちヴァレクが、フィルメナにも被ってほしいと言い始めた。


「似合うよ。君が被れば、もっと楽しい」


 帽子の娘が席を外している間に、フィルメナは断った。人の大切なものを借りたくない。羽根を傷めたら困るから、と。


 ヴァレクは片手を振り、もう頼んであると言った。


 戻ってきた娘は、帽子を外してこちらへ差し出した。髪を留めていたピンを一緒に抜いてしまい、片手で髪を押さえていた。


「お気になさらないで。被りませんから、どうぞそのまま」


 娘が手を止めた時、ヴァレクがため息をついた。


「せっかく外してくださったのに。フィルメナ、ひと言くらいあるだろう」


 フィルメナは謝った。


 それからはフィルメナが話すたび、ヴァレクが、帽子は勧めない方がいいね、と添えるようになった。


 帰りの馬車で母に話すと、愛想よく受け流せばよかったのにと言われた。


 明るく笑っていれば、あんな話は長く続かなかったでしょう、と。


 フィルメナも、そのつもりでいた。帽子の令嬢は悪くなかったし、茶会そのものは楽しかったと思いたかった。


 次からはうまく笑おうと決めていた。


「お母様。あの帽子の時も、先に嫌だとお伝えしたのです」


 回廊の壁に掛かった灯りが、母の扇の骨に透けた。


「そうだったの?」


「二人だけの時に。皆様を困らせないよう、静かにお話ししました」


 母は扇を下ろした。


「今夜も、一昨日のうちにお話ししています。踊りを代わりに約束しないでほしいと」


「私は知らずに……」


 母の唇が動いたところで、回廊の向こうから名前を呼ばれた。


 ヴァレクだった。レストンも一緒に来る。後ろには遊戯室で笑っていた男もいた。


「フィルメナ。馬車を頼んだと聞いたが、本気じゃないだろうね」


 フィルメナが返事をする前に、ヴァレクは母へ礼をした。


「夫人、ご心配には及びません。ちょっとした行き違いです」


「娘は先に断ったと言っています」


「ええ。ですから僕も考えているんです。ただ、こうして急に帰られたのではレストンにも気の毒でしょう」


 レストンは母を見て、それからフィルメナへ視線を戻した。


「お嫌なら無理にとは。しかし、初めから大事にしなければ」


「初めからお断りしています」


「皆が聞いたあとで話が違うと言われても、こちらも困りますよ」


 母がフィルメナの前へ出かけた。彼女は母の腕にそっと触れ、隣へ戻ってもらった。


 自分で答えたかった。今度も母に伝えてもらったら、また、二人だけで話したことになってしまう。


「レストン様は、お断りしたことをご存じでした」


「それは知っています。ですから君の婚約者に相談したのでしょう」


 薄い革越しに、自分の爪の形がわかった。


 ヴァレクは小さく両手を開いた。


「こうしよう。君も広間へ戻って、笑ってくれればいい。ほんの遊びだと皆にわかれば、あんな約束は取りやめる」


「私が笑ったら?」


「君が本気で嫌がっていないとわかるだろう」


 フィルメナは彼の顔を見た。いつもの、困った娘を宥める時の顔だった。


 自分が怒っていないように見せれば、彼は約束を取り消してくれる。


 今夜を取り戻したかった。婚約を祝う人たちの前で、いつものように彼の腕を取れるなら。


「それから一緒に踊ればいい。一曲目の前でよかったよ」


 ヴァレクの手が、彼女の肘へ近づいた。


 フィルメナは手を重ねなかった。


「オルトラ夫人へ、ご挨拶をしてきます」


「僕たちは広間で待っている。ゆっくり考えておいで」


 彼が離れてからも、肘には触れられそうになった感触が残っていた。


 母が何か言おうとする。その顔を見た途端、フィルメナは笑いかけそうになった。


「大丈夫だと、申し上げるところでした」


「フィルメナ」


「お母様までお困りになったら、そう言わないといけない気がして」


 母は一度、口を閉じた。フィルメナの手を取ろうとしていた腕も下ろす。


「私は大丈夫。あなたの話を聞くわ」


 フィルメナは息を吸った。


「今は、笑いたくありません」


「わかったわ」


 母の声は低かった。あの人の前ではそう見せないように、と続く言葉を待ったが、それだけだった。


 主催夫人に会うため回廊を戻ると、遊戯室の入口にゼルガードがいた。


 礼装の袖口を引き上げ、壁際の椅子へ手を掛けている。さっきムニの裾を外した一脚だった。


「ゼルガード様。その椅子はお使いにならない方が」


 彼は持ち上げかけた手を止めた。


「何かありますか」


 フィルメナが脚先を指すと、彼は椅子を置いて屈んだ。


「本当だ。気づきませんでした」


「先ほど、ムニの裾が挟まってしまって。お客様のお召し物も傷めるかもしれません」


「教えてくださってありがとうございます。こちらを片付けてもらえますか」


 近くの使用人に椅子を任せ、彼は隣の椅子を選んだ。


「控えの間で休めるように、オルトラ夫人から頼まれたんです。病後で立ち続けられない方もいらっしゃるので」


 母が彼へ挨拶をし、先に夫人を捜してくると言った。フィルメナが頷くと、母は回廊を進んでいった。


 傷んだ椅子は使用人が奥の戸へ運んでいる。ゼルガードは傷んでいない椅子を両手で抱え、こちらに体を向けた。


「僕もそちらへ。道を塞いでしまいますが、よかったら先にどうぞ」


「一緒に参ります。後ろから椅子が来ると思うと、裾が気になって」


「それはいけない。今の話を聞いたばかりでした」


 彼はフィルメナの歩みに合わせ、椅子の脚を反対側へ向けた。


 母の集まりで何度か顔を合わせた相手だ。いつも椅子に背筋を伸ばして座り、どちらかといえば口数の少ない人だと思っていた。


 控えの間で椅子を下ろすと、彼は小さく息をついた。


「踊る前に腕を疲れさせてしまったな」


「ゆったりした曲をお選びになれば?」


「そういう曲ほど、気が抜けないんです。ほとんど歩く速さなのに、走ったあとより疲れる」


 フィルメナは顔を上げた。


「遅い曲はお苦手ですの?」


「速い方が好きです。足を動かしている方が楽しくて。ただ、あまり跳ねると落ち着きがないように見えるかと」


「それで、いつもゆっくりした曲を?」


「ご覧になっていたんですね。ええ。ずいぶん堂々とした顔で歩いていたでしょう」


 覚えがあった。前の集まりで、彼が真面目な顔をして腕を差し出していた姿。ゆっくり回るあいだ、正面を見つめすぎて、踊っているというより何かを見張っているようだった。


 フィルメナは目を逸らした。


「笑ってもかまいませんよ。僕も今、何をしていたんだろうと思いましたから」


「見張りをなさっているのかと」


「見張り?」


「すみません。とても真剣に前をご覧になっていたので」


 ゼルガードは少し考え、椅子の背に置いた手で顔を隠した。


「そのつもりは……いや、たしかに前ばかり見ていました」


 声が少し籠もっていた。こちらへ戻した顔は、口元が笑っている。


 フィルメナもつられて笑いかけ、唇を押さえた。


「私も速い曲の方が好きです。うまく踊れるとつい口を開けて笑ってしまうので、気をつけているのですけれど」


「それはいけないことですか」


「……どうでしょう」


 ヴァレクと踊る時は、笑みを深くしすぎないようにしていた。彼が友人に話しかけられたら会話を止め、踊り方を褒められれば、ヴァレクのおかげだと言った。


 靴も手袋も自分で選んだのに、一曲を終えると肩が痛かった。


「いけないとは、思いません」


「よかった。僕も次から少し跳ねられます」


 彼は椅子の背から手を離し、客が座りやすい向きへ置き直した。


 フィルメナを誘う手は出さなかった。


 母がオルトラ夫人を連れてきた。


 主催者は彼女の前で足を止め、胸元の飾りに触れかけた手を下ろした。


「お帰りになりたいと聞いたけれど、具合が悪いの?」


 フィルメナはゼルガードへ礼をし、夫人たちと隣の小さな部屋へ移った。扉は母が閉めた。


「お招きいただいたのに、申し訳ありません。身体の具合ではないのです」


 夫人は空いた椅子を示した。フィルメナは座らずに、ヴァレクが一曲を賭けた経緯を話した。初めて嫌がったのではないことも、人前で笑えば取りやめると言われたことも。


 自分が口にすると、何が起きたかが少しずつ耳に戻ってきた。話しているのは恋人同士の愉快な揉め事ではなかった。


 けれど、夫人の眉が寄ると、フィルメナはまた先を急ぎそうになる。


「あの、せっかくの夜会を」


「今夜のことは私が考えます。あなたのお話を聞かせて」


 フィルメナは腰の前で両手を重ねた。まだ話は終わっていなかった。


「私は、嫌だと申し上げました。それを冗談のわからない娘のように、皆様の前で」


「そう」


 オルトラ夫人は顔をしかめたまま、最後まで聞いた。


「私の家で、客にそんな約束をさせたのね」


「その約束が、できているようにお話しになりました。私が選べない一曲など、本当はありませんのに」


 夫人が彼女の手元を見た。


「フィルメナ嬢。今夜の婚約のお披露目を取りやめると、私からお二人へ伝えます。まだ皆様にはお話ししていませんから」


 フィルメナは顔を上げた。


 広間の端で、母とヴァレクが並び、自分もその隣に立つはずだった。オルトラ夫人が紹介をし、拍手を受け、最初の一曲が始まる。


 そのための靴だった。手袋だった。鏡の前の練習だった。


 何もかもを片付けていただいて帰りたい。体調が悪かったと、あとから母に伝えてもらえばいい。


「夫人。取りやめる前に、お時間をいただけませんか」


「どうしたい?」


「自分でお返事をします。ヴァレク様は広間で、私が戻るのを待っていらっしゃいますから」


 母の肩が動いた。


 夫人はすぐには返事をせず、フィルメナの顔を見た。


「そこで、何を伝えたいの」


「結婚は、いたしませんと」


 声にすると、背中にひやりと汗が浮いた。


 半年前、婚約を承諾した時は、こんなに自分の声を聞いていなかった。両親が喜び、ヴァレクが喜び、その中へ顔を上げればよかった。


 今は手袋の内側で指を動かすだけでも、布が擦れる。


「私は今夜、ヴァレク様と踊るのを楽しみにしていました。でも、あのように笑ってからではもう踊れません」


「お父様はご存じ?」


「これからお伝えします。帰宅したらお話ししたいです」


「わかりました。家同士のお話は、そのあとにね」


 オルトラ夫人は母を見た。母も頷いたが、フィルメナは自分でも答えた。


「両親と相談いたします。今夜は、私の返事を聞いていただきたいのです」


「では、私も広間へ行きましょう」


 夫人は扉を開けた。


 先に歩いていく背を、母はすぐには追わなかった。


「フィルメナ。帽子の時のこと、ごめんなさい」


 彼女は母を見た。


「あなたが笑えば済むと言ったのは、私が困りたくなかったからでもあるわ。私の顔色まで、あなたに見させていたのね」


 そう言った母の手は、扇を握り締めていた。


 フィルメナはその指に触れた。開いてもらうと、扇の骨が掌に赤い筋をつけていた。


「私も、ずっとそうしていました」


「今夜は聞くわ。あなたが言い切るまで」


 フィルメナは頷き、母と部屋を出た。


 控えの間ではゼルガードが、年配の夫人へ椅子を勧めていた。彼に目で挨拶をすると、礼を返される。


 その向こうからムニがやってきた。


「馬車の支度ができております」


「ありがとう。もう少し待っていただける?」


「承知しました。お手元も、お直ししましょうか」


 手袋の口が捩れていた。何度も指を曲げたせいで、手首に細い皺が寄っている。


 ムニは布を引っ張りすぎず、縫い目を手首の横へ戻してくれた。


「そのままだと、踊った時に痛みます」


 言ってから、ムニが手を止める。


 フィルメナは手首を軽く振った。


「今も痛かったわ。直してくれてありがとう」


 ムニは手袋の口を整え終え、玄関で待つと告げた。


 母が広間へ続く戸の前で待っている。フィルメナが歩き出すと、向こうから短い笑い声が届いた。


 ヴァレクの声だった。


 足が止まった。顔を上げたらどんな表情をすればいいのか、わからなくなる。


「フィルメナ嬢」


 振り向くと、ゼルガードが戸を押さえていた。彼の後ろでは、先ほどの夫人が椅子に腰を下ろしている。


「お通りになりますか」


「あ……参ります」


 彼が開けた戸の幅へ歩きかけ、また足元を見た。


「裾が、通れますか」


「おそらく。椅子を抱えた僕も通れましたから」


 フィルメナは思わず彼の肩から自分の袖へ目を動かした。


「それでは、私より椅子の方が細かったら?」


 ゼルガードは戸をもう少し開き直した。


「ここまで開ければ大丈夫です」


「ありがとうございます」


 少し笑って言えた。ゼルガードはそこを指摘せず、フィルメナが通り終えるまで戸を持っていた。


 彼女は母の隣へ並んだ。


 広間の灯りが手袋の色を白くした。


 ヴァレクは小卓のそばに立っていた。彼女を見つけると、仲間との話をやめてこちらへ来る。


「戻ってきたね」


 フィルメナの歩く速さを確かめるように、彼は少し先で立ち止まった。


「取りやめよう。君の勝ちだ、フィルメナ」


 差し出しかけた手を止め、友人たちへ笑いかける。


「ほら、笑って。これで終わりだ」


 フィルメナは手袋の縫い目を親指でなぞった。


 もう笑って帰ろう、と体が覚えていた。あの人たちが安心すれば、自分も椅子に座れる。


 母は隣にいる。それでも、笑う前に顎を少し下げる癖は止まらなかった。


 ヴァレクが一歩近づいた。


 差し出された手は、取らなかった。


「終わるのは、私たちの婚約です」


「……そこまで言うことか?」


 笑い声が途切れた。


 小卓の端にいたレストンが、杯を置く。底が硬く触れた音に、フィルメナの背中が伸びた。


「君と踊りたいと言う者がいた。それだけだろう。嫌なら初めから断ればよかった」


「断りました」


 喉が乾いた。手袋の内側で、爪が掌に当たる。


「さっきも、一昨日もお断りしました。一昨日は、あなたにだけ聞こえる声で」


「皆の前で僕を責めたいのか」


「皆の前なら、聞いていただけると思いました」


 ヴァレクは彼女の後ろを見た。フィルメナも振り向きそうになって、そのまま立った。


 自分の言葉をどんな顔で聞かれているかは、今は見なくてよかった。


「私は、もう……今夜は、結構だ」


 レストンが杯を離し、小卓を回った。フィルメナにもヴァレクにも手を差し出さず、壁際へ去っていく。


 ヴァレクの腕が下がった。


「フィルメナ。君が怒るほどのことではない」


「私が何を嫌がるかも、あなたがお決めになるのですか」


 彼の口が開いたまま止まる。


 母が半歩寄った。ずっと持っていた扇を閉じて、フィルメナを見ていた。


「私も、あなたに笑って収めるようにと言ってしまったわね」


「夫人、ですから、こんな遊びは」


「娘からの返事を、聞いてちょうだい」


 フィルメナは母の腕に触れた。母は押しも引きもしなかった。


 ヴァレクの視線が二人の手の間を行き来する。


「僕は君が好きで、楽しませようとしただけだ」


 彼女は顔を上げた。


「私も、あなたと踊るのを楽しみにしていました」


 止まっていた彼の手が少し上がる。


「今は、あなたとは踊りません」


 フィルメナは母の腕から手を離した。


 胸の奥まで息が入った。いつから止めていたのか、わからなかった。


 ヴァレクが母を見た。


「明日、伯爵と話をします。今夜は一曲だけでも」


「馬車の支度はできています」


 フィルメナはそう答え、彼の手の届かないところへ下がった。


 ヴァレクの後ろからオルトラ夫人が来た。


「ヴァレク様。レストン様も、こちらへ」


 壁際にいたレストンが戻る。夫人はレストンへも顔を向けた。


「今夜はお帰りください。私が招いた方の返事を、私の家で聞かなくてよいとは思いません」


「夫人、お騒がせしたことは謝りますが」


「次のご招待も差し上げません」


 ヴァレクが顔を上げた。


「……これから先も、ですか」


「フィルメナ嬢が嫌だと伝えたのに、踊る約束を勝負に使う方には。レストン様も同じです」


 レストンは返事をせず、杯のあった小卓へ目を向けた。


 ヴァレクは母とフィルメナを見た。母は夫人へ挨拶をし、フィルメナも礼をした。


「お招きいただき、ありがとうございました」


 ヴァレクの横を通り過ぎた。戸の前へ着いても呼び止められず、そのまま回廊へ出る。


 帰りたくないと思って選んだ靴が、玄関の石を踏んだ。


 ムニは馬車の前で待っていた。


 ムニの手を借り、フィルメナは母と乗り込んだ。膝に置いた指には、白い手袋がまだきちんと収まっている。


「お父様に、お伝えしないと」


「帰ったら二人で話しましょう。明日はあなたも一緒に、ヴァレク様とお話しして」


「私も、いていいのですか」


 母は驚いたように顔を上げた。それから、すぐには答えずに彼女の手を見た。


「あなたにいてほしいわ」


 フィルメナはゆっくり指を開いた。掌に残った爪の跡を、反対の手の親指で撫でた。


 * * *


 翌日の応接室は、窓が開いていた。


 手首に風が当たる。外出の予定もないのに、フィルメナは朝から手袋をつけていた。昨夜のように握った手が隠れるように。


 父が向かいの侯爵に挨拶をし、ヴァレクへも目を向ける。昨夜、帰宅後に話を聞いた父は、まず娘と同席して話したいと相手の家へ伝えていた。


 ヴァレクは父親の隣に座っていた。こちらの母と視線が合うと、普段より丁寧に頭を下げる。


「お披露目前で助かりました。少々気まずい夜にはなりましたが、あれは冗談です。僕も途中でやめると申し上げました」


 父はそれにすぐ返さず、フィルメナを見た。


「昨夜と、気持ちは変わらないか」


「変わりません。ヴァレク様との婚約を解消したいです」


「フィルメナ」


 ヴァレクが身を乗り出した。


「君があの場所で一人にならないよう、いつも気をつけていたんだよ。それが、たったあれだけで」


 フィルメナは窓のそばにある小卓を見た。今日は杯も札もない。茶器はまだ置かれていなかった。


 あの時は何も言えなかったと、あとで思い返すのは嫌だった。


「三日前、レストン様とは踊りたくないとお伝えしました。その時は、二人だけでした」


「それはもう、昨夜も聞いた」


「では、聞いていらしたのですね」


 ヴァレクは唇を噛んだ。


「私の気持ちは変わりません」


 今度は手袋の中で、指を握り込まなかった。


 ヴァレクの父親が彼を見た。何も言わず、そのまま待っていた。


 ヴァレクは椅子に背を戻した。


「望まない方を引き留めるつもりはありません。解消に同意します」


 彼は少し顎を上げて言った。フィルメナは聞き終えて頷いた。


 父が侯爵へ両家の婚約を解消することを確かめた。侯爵も承諾し、その場で同じ内容の書面に目を通す。


「これで、両家とも異存はありません」


 父がそう言うまで、フィルメナは自分の席に座っていた。


 * * *


 舞踏会の招待状を机の引き出しへしまったのは、その晩だった。


 持ち帰った手袋も一緒に置くと、白い布の上に薄い影が落ちた。


 あの夜はもう、婚約を祝われた夜にはならない。


 フィルメナは引き出しを閉め、寝室へ戻った。


 翌朝、ムニが手袋の手入れを済ませて持ってきた。


「糸が少し緩んでおりましたので、お針子にお願いしてあります」


 縫い目の辺りを引っ張っていたせいだろう。フィルメナが礼を言って受け取ると、ムニは手袋を戻す場所を尋ねた。


「……まだ、置いておいて。着けるかもしれないから」


「いつもの箱でよろしいでしょうか」


「お願い」


 ムニが布を広げ、片方ずつ箱へ収める。その手つきを見ながら、フィルメナは机に置かれた小さな書きつけを取った。


 母の昼の集まりの日取りだった。以前から続けている、友人とその家族を招く小さな集まりだ。


 何か聞かれたらどうしよう。笑えなかったら、客たちに気を遣わせてしまう。


 紙を元へ戻しかけ、もう一度持った。


「お母様に、お伝えしてくれる? 今度のお集まりには、私も出たいと」


 その集まりでゼルガードを見かけた時、フィルメナはカップを落としそうになった。


 顔を合わせる機会はあると思っていた。母と彼の母が友人なのだから。けれど本当に同じ部屋で、あの夜の続きを話せるとは思っていなかった。


 彼はフィルメナに挨拶をし、向かいの椅子へ座った。


「先日は椅子を教えていただいて、助かりました」


「もう、お使いになっていませんか」


「片付けたと聞きました。あのあと別の方から、おかげで腰を下ろせたと礼を言われてしまって」


「運ばれたのはゼルガード様ですもの」


「椅子を選んだ手柄は、お返ししておきたかったんです」


 フィルメナが笑うと、彼もカップへ手を伸ばした。


 ヴァレクのことを聞かれはしなかった。フィルメナも、先に説明して謝ることをしなかった。


 母が新しい茶を持ってきた時、先日の舞踏会の音楽が話題になった。


「ゼルガード。あなたはずいぶん遅くまで踊っていたそうね」


「はい。速い曲が続いたので。僕も好きな曲がありまして」


 彼は一度カップを置き、指で卓を叩いた。


「これです。この曲が一番好きなんです。風車の歌」


 フィルメナは口元を押さえた。


「それは、葡萄摘みです」


「……そうでしたか」


「風車の歌は、こう」


 彼女が小さく歌うと、彼は途中から頷き始めた。


「それも、好きです」


「曲の名前を取り替えて覚えていらしたのね」


「二曲とも、誰にも頼まれずに足が動くので」


 笑いを止められなかった。母がこちらを見ていたが、口を閉じるのが間に合わない。


 ゼルガードまで笑った。


「よかった。間違えた甲斐がありました」


「わざとでしたの?」


「いいえ。本当に間違えました。今のは、格好をつけました」


 それでまた笑ってしまう。彼は彼女が落ち着くまで、続きを言わずに待っていた。


 手を膝に戻すと、手袋の指先が少し余った。


「先ほどから、たくさん笑ってしまって」


「僕が間違えたので」


「それだけでは、ないと思います」


 彼は顔を上げた。フィルメナもカップを取り、ひと口飲んだ。


 薄い茶器の縁が唇に触れる。まだ少し笑いが残り、うまく飲めなかった。


「私も、速い曲が好きです。次に踊る時は、あまり気をつけすぎないようにしようと思って」


「それはいいですね。僕ももう、見張りはやめました」


 母が彼女の隣で小さく笑った。


 その笑いに応えて顔を上げた時、フィルメナは自分から次の舞踏会の話を始めていた。


 * * *


 オルトラ夫人から、また招待状が届いた。


 今度は身近な人だけを集める小さな舞踏会だという。母から誰と一緒に行くか尋ねられ、フィルメナは自分の手で返事を書いた。


 会へは母と出席する。踊りたい相手のことは、本人に伝えたかった。


 当日、ムニが手袋の口を直してくれた。縫い目は手首の横へ収まり、指を曲げても引っ張られない。


「いってらっしゃいませ」


「行ってきます」


 玄関を出る時、フィルメナはもう一度箱の中を確かめたり、鏡の前へ戻ったりしなかった。


 広間へ入ると、楽団はまだ演奏を始めていなかった。オルトラ夫人は母に挨拶をし、フィルメナには、今日はどの曲がよいかと尋ねた。


「葡萄摘みを、お願いできますか」


「結構よ。楽団に伝えておきましょう」


 夫人が離れ、フィルメナは客の間から濃い茶の髪を捜した。


 ゼルガードは窓のそばで、彼の母親と話していた。顔が見えるとフィルメナの足が遅くなる。


 間違われたらどうしよう。踊れる相手がいなくて頼みに来たのだと思われたら。


 何も言わず、相手がこちらを向くのを待てば、いつもの顔で挨拶はできる。


 フィルメナは胸の前で重ねていた指をほどいた。


 それをしていたら、また最初の曲が終わってしまう。


 ゼルガードのそばへ行くと、彼はすぐに礼をした。


「フィルメナ嬢。今日は、とても」


 彼は少し口を閉じた。母親が二人を見比べ、近くの夫人へ挨拶に向かった。


「とても?」


「お似合いです。その、手袋も」


 フィルメナは自分の手を見た。


「前と同じなのですけれど」


「それは気づいていました。前はこんなに近くで拝見しなかったので、今さら、すみません」


 笑いそうになる。さっき言いよどんだ顔を思い出した。


 聞いてみたかったが、今日はその前に言うことがあった。


「ゼルガード様。最初の曲を、私と踊っていただけますか」


 彼は返事をしかけ、母が立ち去った方へ目を向けた。


 フィルメナは自分から手を出した。


「あなたと、踊りたいのです」


 ゼルガードがこちらへ向き直る。


「僕もです。ぜひ、ご一緒させてください」


 伸びてきた手が、彼女の掌の手前で待った。フィルメナは自分から、その上へ手を重ねた。


 彼が息を吐いた。こちらまで息を止めていたと気づき、フィルメナも小さく笑う。


「誘っていただけて、嬉しいです」


「私も、嬉しいです」


 隣へ並んだゼルガードが、広間の中央を見た。楽団の弓が動き、速い調べが始まる。


「風車の歌ですね」


 フィルメナは立ち止まった。


 彼も止まり、こちらを見る。それから目を丸くした。


「……また、間違えましたか」


「葡萄摘みです」


「今度こそ覚えたつもりだったのですが」


「私が覚えていますから」


 ゼルガードは困った顔で笑った。フィルメナも笑って一歩を踏み出す。


 拍子に合わせて踵を上げ、彼の腕の中を回った。


 途中からは口元を隠せなかった。ゼルガードが少し先に笑い、彼女も顔を上げた。曲が速くなるところでは二人とも足を踏み出しかけ、互いに譲ってしまい、もう一度笑う。


 踊り終えた時、手袋の内側は少し湿っていた。


 ゼルガードは彼女の手を離し、息を整えた。


「あとで、もう一曲お願いしてもいいですか」


「あとで、とおっしゃらずに」


 フィルメナは次を待つ楽団へ目を向けた。


「今夜は、何曲でも」


 彼が笑い、首を横に振った。


「それは、僕だけが嬉しすぎます。少しお話もしたい」


「踊っている時は、お話ししませんものね」


「練習します。踊りながらでも、もっとあなたのお話が聞けるように」


 彼女が笑っても、ゼルガードは笑わずに待っていた。


「今日だけではなくて。次の集まりでもその次も、お会いしたいんです」


 フィルメナは彼の顔を見た。


 ゼルガードは彼女を見て、返事を待っていた。


「私も、お会いしたいです。今日も、踊る前からお話ししたくて捜していました」


 ゼルガードの唇が動いたが、声が出るまで少し間があった。


「今度は僕から、ご訪問してもよろしいでしょうか」


「お待ちしています。家にも、私からお伝えします」


 フィルメナは手を差し出した。彼も差し出し、二人で広間の端へ歩き始める。


 薄い手袋の縫い目が、彼の掌にやわらかく触れていた。

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