婚約破棄を告げられた瞬間、会場中が拍手しました。私以外の全員、この日を待っていたそうです
★連載版はじめました! 三百四十二通の手紙に返事を書きに行く、リゼットとディートリヒのその後を毎日19時更新中です。(作品ページ下のリンクから読めます)
【連載スタートしてます!】
「リゼット・オルフェ。君との婚約は、今夜をもって破棄する」
夜会の大広間に、レオンハルト殿下の声が響いた。
楽団の演奏が止まる。シャンデリアの光の下で、グラスを持った招待客たちが、波が引くように私たちの周りから離れていった。
私はドレスの裾を握らないよう、指に力を込めた。
──ああ、やっぱり。
この三年間、いつかこの日が来ると思っていた。
「理由を、うかがってもよろしいでしょうか」
「分かりきっているだろう」
殿下は、腕にしがみついた桃色のドレスの令嬢を見下ろした。男爵令嬢セシリア・ブラン。小さく震えて、私と目を合わせようとしない。
「セシリアから聞いた。君は茶会で彼女を無視し、わざと冷たい言葉を浴びせ、居場所を奪おうとしたそうだな」
「…………」
「君は昔からそうだ。愛想がなく、誰にも心を開かず、他人を寄せつけない。そんな冷たい女が、王子妃にふさわしいはずがない」
否定の言葉は、喉まで出かかって、消えた。
だって、「嫌われている」ということだけは、本当だから。
三年間、私に話しかけてくれる人はほとんどいなかった。
茶会へ行けば、私が席につくと同時に会話が途切れる。廊下ですれ違えば、誰もが目を逸らして足を速める。手紙を書いても、返事は一通も来ない。たった一人の友人だったクララでさえ、三年前から、挨拶を返してくれなくなった。
味方は、侍女のミナと、弟のルークだけ。
先月の茶会でも、そうだった。
空いていた席に腰を下ろすと、隣の夫人が弾かれたように立ち上がり、反対側の端まで移ってしまった。向かいの令嬢たちは、一斉にカップへ視線を落とす。誰も、私の顔を見ようとしない。
いたたまれなくなって、私は早めに席を立った。
そのとき、背中のほうで、小さな声が聞こえた気がした。
『……ごめんなさい』
気のせいだろう。そう思って、振り返らなかった。
殿下はよく言っていた。
『君は人に好かれない性質なんだ。名前を出せば反発を受ける。だから、君の仕事は僕の名前で発表する。君のためでもあるんだぞ』
そうなのだと思った。実際、そうだったのだから。
三年前、王都を襲った灰熱病。眠らずに書いた隔離と水の煮沸の計画書も、毎月の孤児院への支援も、北区の水路の改修図面も。広場で発表されるたび、拍手を浴びるのは殿下だった。私は群衆のいちばん後ろで、その音を聞いていた。
私の名前は、どこにも残らなかった。
今でも覚えている。灰熱病が広がった、最初の冬の夜のことを。
蝋燭の灯りの下で、私は二日目の徹夜をしていた。患者を分ける手順、使う水の煮沸の時間、病人の世話をする者が守るべき決まり。頭の中にある限りを、一枚ずつ紙に起こしていく。
「お嬢様、少しだけでもお休みください」
ミナが温かいスープを置いてくれた。湯気の向こうで、彼女が心配そうに眉を下げている。
「あと少しなの。これが間に合えば、北区の人たちは助かるかもしれないから」
そこへ、殿下が入ってきた。書き上げたばかりの束を、ぱらぱらとめくる。
「いい出来だな。これは僕の名前で出そう」
「……え?」
「君が出したら、誰も読まない。冷たい女の言うことなど、民は聞かないからね。僕の名前なら、皆が従う。人が助かるのが一番だろう?」
言い返せなかった。人が助かるのが一番だ、というのは、本当だったから。
だから私は、頷いた。
あの夜から三年、ずっと。
それでも、人の役に立てたのなら構わない。そう自分に言い聞かせてきた。
それに──婚約者である間、王家の内情を外に漏らせば不敬罪になる。そう殿下に言われていたから、私は誰にも、何も言えなかった。
「承知いたしました」
私が頭を下げると、殿下は拍子抜けした顔をした。
「それだけか。弁解もないのか」
「ございません」
「ならば、さっさと去れ。君の顔を見ていると、セシリアが怯える」
終わったのだ、と思った。
背を向けようとした、そのときだった。
パン、と、乾いた音がした。
壁際で、侍女のミナが手を叩いていた。
パン、パン。
次の音は、弟のルークだった。それから、近くにいた伯爵令嬢が。壮年の貴族が。給仕の青年が。
一人、二人、十人、百人。
気づけば、大広間の全員が、私に向かって手を叩いていた。
「……え?」
殿下の間の抜けた声が、拍手に呑まれる。
私は、凍りついたまま立っていた。
──嘲笑だ。
そう思った。冷たい女が、ようやく追い出される。ざまあみろ、と。三年分の「いい気味だ」が、一斉に降ってきたのだ。
そっと視線を上げて、周りを見る。
誰もが私を見て、手を叩いている。目を赤くしている人もいる。口元を押さえて、肩を震わせている人もいる。
──笑いをこらえているのだ。
そう、解釈した。そう解釈するしかなかった。三年間、そういう目で見られてきたのだから。
顔が熱くなる。唇を噛んだ。
最後まで、泣かない。泣いたら、本当に「かわいそうな女」になってしまう。
うつむいたまま、足を踏み出そうとした私の視界に、黒い騎士の長靴が入ってきた。
足音が、目の前で止まる。
顔を上げると、騎士団長ディートリヒ・アークが、私の前で片膝をついていた。
「リゼット嬢」
低く、静かな声だった。
「ずっと、この日を待っていました」
「……え?」
「あなたに、礼を言える日を」
意味が分からなかった。
礼? 誰が、誰に?
「ディートリヒ! 無礼だぞ!」
殿下が叫ぶ。団長は立ち上がり、殿下を真っ直ぐに見た。
「殿下。婚約者である間、リゼット嬢が王家の内情を口にすれば不敬罪に問う。そう仰ったのは、あなたです。だから皆、待っていた。彼女が、自由になる日を」
「な……何を言っている」
「証拠は、すべて揃っています」
団長が振り返ると、人垣の中から、一人の令嬢が進み出た。
「リゼット」
クララ・ベルモント。私が唯一「友人だった」と思っていた人。三年前から、何も返してくれなくなった人だ。
「ごめんなさい。あなたを避けていたのは、わざとなの。殿下の取り巻きが、私たちを見張っていたから。あなたと親しくしたら、あなたの立場がもっと悪くなると思って」
「…………」
「あなたの悪評を流していたのは、殿下よ。『リゼットは冷たい』『近づくな』って。みんな、本当は信じていなかったわ。信じたふりをして、あなたを守っていたの」
クララは、少しだけ笑った。
「毎年、あなたの誕生日に、白い花が届いていたでしょう? 差出人のない」
「……あの花は」
「私よ。名前を書けないから、せめて花だけでもって」
声が出なかった。
毎年、誰かは分からないけれど、誰かが覚えていてくれると思っていた。それだけを支えに、誕生日の夜を越えてきたのに。
殿下が、顔色を変えた。
「でたらめだ! 花など、何の証拠にもならない! 僕はこの国のために、孤児院にも通っているんだぞ!」
「いいえ」
人垣が割れた。
灰色の修道服を着た、小柄な老婦人が、杖をつきながら歩いてくる。王都の外れの孤児院の院長、マルタさんだった。
「殿下は、一度もいらしておりません。私が院長になってから、一度も」
殿下の喉が、ひゅっと鳴った。
「毎月、夜遅くにパンと薬を抱えて来てくださったのは、ベールで顔を隠した、背の高い娘さんでした。名前はけっして名乗らず、子どもたちには『ベールのお姉さん』と呼ばれておりました」
マルタさんは、私を見て、くしゃりと顔を崩した。
「リゼット様。ずっと、あなただと分かっておりました」
──顔を、見せたくなかった。
名前を出せば反発を受けるから、せめて顔だけでも隠して。そうしなければ、子どもたちが怯えてしまうと思ったから。
そんな私を、ずっと知っていてくれた人がいた。
「ぐ……そ、それがどうした。たかが孤児院の老婆の──」
「たかが、ではありません、殿下」
殿下の背後から、側近のブルーノが進み出た。手には、麻紐で束ねた大きな紙の束を抱えている。
「殿下のご命令で、リゼット様宛ての手紙は、すべて私が処分することになっていました。ですが、どうしても捨てられず、保管していました」
束が、私の足元に置かれた。
「三百四十二通あります」
私は、震える手で、一通を拾い上げた。
『北区の水路のおかげで、今年は麦が流されませんでした。ありがとうございます』
別の一通。
『灰熱病で妻を亡くす覚悟をしていました。隔離のおかげで、生きて帰ってきました。あなたが考えてくださったと、人づてに聞きました』
その次も。その次も。
全部、私への手紙だった。
返事が来なかったのではない。
届いていなかったのだ。
「姉上」
弟のルークが、分厚い帳面を抱えて駆け寄ってきた。
「姉上の功績の証拠です。疫病対策の原案、孤児院の支援台帳、水路の図面。全部、姉上の字で、署名入りです。三年かけて、集めました」
十六歳の弟は、泣き笑いの顔をしていた。
「姉上は、冷たい人なんかじゃない。僕が一番知ってる」
ルークが帳面を差し出した先に、いつの間にか、国王陛下が立っていた。
「……レオンハルト」
陛下は、無言のまま帳面をめくり、ゆっくりと息子へ顔を向けた。
「これは、どういうことだ」
「ち、父上、これは捏造で──」
「署名の筆跡は、先代の宰相閣下が検めてくださいました。決裁書の控えも、ここにあります」
ブルーノが、静かに言った。殿下の唇が、色を失っていく。
「お嬢様」
ミナが、いつの間にか隣に立っていた。この三年、一度も私を見捨てなかった侍女は、真っ赤な目で笑っていた。
「三か月前、ブルーノ様が教えてくださったんです。殿下が、近いうちに婚約を破棄するつもりだと。それで、皆で相談しました。破棄されるまでは、お嬢様は殿下の婚約者。何を言っても、お嬢様が不敬に問われてしまう」
「…………」
「でも、拍手なら。拍手なら、誰も咎められないでしょう?」
ミナは、涙をこぼしながら続けた。
「だから、合図を決めました。破棄が告げられたら、私が最初に手を叩く。その音を聞いたら、全員が続く。皆さん、ずっと待っていたんです。お嬢様に、ありがとうって伝えられる日を」
──ああ。
そうだったのか。
あの音は、嘲笑なんかじゃなかった。
三年分の、「ありがとう」だった。
「あの……リゼット様」
おずおずと進み出たのは、先月の茶会で、私の隣から席を移した夫人だった。
「先月は、失礼いたしました。殿下の取り巻きの方が、すぐ後ろの席にいらして……。お声をかければ、あなた様が咎められると思って。あのとき、ごめんなさいと、お伝えしたのですけれど」
──聞こえていた、あの声。
気のせいではなかったのだ。
マルタさんが、懐から、色褪せた紙の束を取り出した。
「子どもたちが、毎月書いていた手紙です。殿下に宛てるよう教えられていましたが、どの子も、宛名だけは守りませんでした」
広げられた紙には、拙い字が並んでいる。
『りぜっとさま ぱんをありがとう。あったかいふくもありがとう。ぼくは おおきくなったら きしになります』
視界が、滲んだ。
気づけば、頬が濡れていた。泣かないと決めていたのに。
私は、嫌われてなどいなかった。
ただ、誰も、私に「ありがとう」を言わせてもらえなかっただけだったのだ。
「そんな……」
かすれた声が、人垣の端から聞こえた。
セシリアが、真っ青な顔で立っていた。殿下の腕から、いつの間にか手が離れている。
「私……殿下から、リゼット様は冷たくて怖い人だと、ずっと聞かされていて……。一度も、確かめなかった」
彼女は、私の前で深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。何も知らずに、あなたを悪者に」
「セシリア! 君は僕を──」
「私が好きになったのは、優しい殿下でした」
セシリアは、顔を上げなかった。
「他人の功績で笑っている殿下では、ありません」
殿下が、膝から崩れ落ちた。
国王陛下の裁定は、その場で下された。
「レオンハルトを廃嫡とする。北の修道領にて、三年の謹慎を命じる」
衛兵に両脇を抱えられて連れ出される殿下は、一度も私を見なかった。
「リゼット・オルフェ」
陛下が、私に向き直る。そして、王冠を戴いたまま、深く頭を下げた。
大広間が、ざわめいた。
「王として、そして一人の親として、詫びる。そなたの三年を、息子が奪った。気づけなかった私にも、咎がある」
「陛下、どうか、お顔を……」
「そなたの功績は、王国の全ての民に公表する。王国功労勲章を授けたい。受けてくれるか」
大広間が、静まり返った。
私は、一度だけ目を閉じて、それから首を横に振った。
「勲章は、結構でございます」
「……何故だ」
「私が欲しかったのは、『ありがとう』の一言でした」
手の中に、三百四十二通の手紙がある。孤児院の子どもたちの、拙い字がある。
「それは、今夜、もういただきましたので」
一拍の沈黙のあと。
大広間は、さっきよりも大きな拍手に包まれた。
*
夜風の吹くバルコニーで、私は手すりにもたれていた。
泣きすぎて、頭がぼんやりしている。拍手の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
「寒くありませんか」
振り向くと、ディートリヒ団長が立っていた。無言で外套を、私の肩にかけてくれる。
「三年前、灰熱病が王都を襲った年」
彼は、夜の庭を見つめたまま話し始めた。
「私の部隊は、あなたの隔離計画のおかげで、一人も欠けませんでした。誰が考えたのかを知ったとき、礼を言いに行こうとしましたが、殿下に止められた。婚約者に近づけば、あなたが不敬に問われる、と」
「……そう、だったのですね」
「だから、待ちました。三年も、遅くなってしまった」
団長は、胸の内ポケットから、小さく畳んだ紙を取り出した。角が擦り切れて、何度も開いては閉じた跡がある。
「これは、あの冬、あなたの計画書の写しを、私が部隊に配るために書き写したものです。この三年、ずっと持っていました。あなたの字の癖まで覚えてしまいました」
「……変な方ですね」
「自覚はあります」
真顔で言うので、思わず吹き出してしまった。
笑ったのは、いつぶりだろう。
団長が、私に向き直る。
「リゼット嬢。あなたは、自分は冷たい人間だと思っているかもしれない。ですが私は、あなたは雪解けの水のような人だと思っています。静かで、澄んでいて、触れると温かい」
心臓が、大きく跳ねた。
「あなたの隣に立つ許しを、いただけますか」
私は、少しだけ笑った。
手に残った手紙の束が、風に揺れる。
「……私、愛想がありませんよ」
「存じています」
「冷たい女だと、言われてきました」
「それは、あなたを知らない人間の言葉です」
団長は、少しだけ照れたように目を伏せた。
「では、これから、知ってください」
大広間の中から、まだ、かすかに拍手が聞こえる。
嘲笑だと思って、怯えた音。
けれど、今は分かる。
拍手というのは、こんなにも温かい音だったのだ。
*
それから、十日が過ぎた。
王都の広場に、私の名前が掲げられた。灰熱病の計画書の写し。孤児院の支援の記録。北区の水路の図面。すべてに、「リゼット・オルフェ」と署名が添えられている。
市場を歩けば、八百屋の主人が帽子を取った。パン屋の女将さんが、焼きたてのパンを袋いっぱいに押し付けてきた。見知らぬ老人が、「あんたのおかげで、孫が生きとる」と、私の手を握って離さなかった。
そのたびに、私は慌てて頭を下げて、うまく返事ができなくて、真っ赤になった。
「お嬢様、お顔が真っ赤です」
「……だって、どう返したらいいのか分からないの」
「簡単ですよ。『どういたしまして』って言えばいいんです」
ミナが、くすくす笑う。
試しに、次に声をかけてくれた小さな男の子に、言ってみた。
「どういたしまして」
男の子は、ぱっと顔を輝かせた。
ああ、こんなに簡単な言葉だったのか。
気がつくと、私の隣には、背の高い影があった。
「顔が緩んでいますよ、リゼット嬢」
「……団長は、見すぎです」
「あなたを見るのが、私の仕事になりましたので」
いつの間にそんな役職ができたのだろう。
でも、悪い気はしなかった。
王都の空は高く、広場には、まだ、ところどころ拍手が起きている。
その音の中で、私は、生まれて初めて、胸を張って笑った。
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『婚約破棄を告げられた瞬間、会場中が拍手しました。私以外の全員、この日を待っていたそうです【連載版】』
届かなかった342通の「ありがとう」に、
リゼットが今度は自分の名前で、一通ずつ返事を書きに行くお話です。
真顔の団長も、ずっとそばにいます。
ページ上の「シリーズ」から、すぐに読めます。
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たくさんの拍手(評価)、本当にうれしいです。
連載版、はじまりました。
レオンハルトとセシリアのその後。リゼットが陰でしてきたこと、そのすべて。
そして、ディートリヒが「隣に立つ」までの話です。
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