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「君の魔道具はガラクタだ」と婚約破棄されたので『快適な生活インフラ』を全て回収して実家に帰ります。~潔癖症の辺境伯様に「君からは石鹸のいい香りがする」と溺愛されました。今さら復縁?するわけないでしょ~

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/07

 

「サブリナ・バーンズ! もう我慢ならない! 君のような機械油臭い女との婚約は破棄する!」


 王太子の私室に、ヒステリックな絶叫が響き渡った。


 目の前で仁王立ちしているのは、この国の王太子であるオリバー殿下。


 そして、その腕にまとわりついているのは、露出度の高いドレスを纏った品のない女、男爵令嬢、シルビア。


「サブリナ様の周りはいつも変な薬品の臭いがして、生理的に無理なんですぅ。オリバー様には、私のような華やかな癒やしが必要なんです!」


 シルビアが甘ったるい声で同意し、オリバー殿下の腕に豊かな胸をわざとらしく押し付ける。


 そのオリバーの顔と言ったらまあ。


 鼻の下を伸ばして今にも鼻血を出しそうなほどみっともない。


(まるで猿ね)


 私は手に持っていた報告書(王城内全域の『魔導式下水処理システム』のメンテナンス計画書)を、ゆっくりと閉じた。


 怒りは湧いてこない。


 悲しみも、一切ない。


 私の胸の内に去来したのは、圧倒的な安堵感と、魂の底から震えるほどの歓喜だった。


(はー……。やっと解放される……!)


 私の前世は、ブラック企業でエンジニアとして酷使され、30歳を前に過労死したTHE・社畜。


「来世こそは、楽をして生きたい」


 そう願って転生したこの世界でも、魔道具師の名門バーンズ子爵家に生まれたせいで、そのスキル(主に前世の現代知識×魔力)を見込まれ、王太子と婚約させられていた。


 けれど、それは婚約とは名ばかりの、24時間365日体制のインフラ管理業務だったのだ。


「聞いているのか、サブリナ! 君がいつもいじくり回している薄汚い魔道具も、城の美観を損ねる! はっきり言わせてもらうが、君の魔道具はガラクタだ! 全て回収して出ていけ!」


 オリバーが、部屋の隅で静かに稼働している白い箱――『全自動空調結界石(エアコン)』を指差して叫ぶ。


 ガラクタ。


 彼は今、この国の中世レベルの生活水準を、一気に現代日本レベルにまで引き上げている私の最高傑作たちを、ガラクタと呼んだ。


 この部屋が一年中、春のように快適な温度なのも。


 不快な虫が一匹も入ってこないのも。


 トイレが臭わないのも。


 全て、私の「魔道具」のおかげだというのに。


 私はスッと背筋を伸ばし、完璧な淑女の礼をとった。


「オリバー殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「ふん、やっと理解したか。慰謝料などは期待するなよ! 君のような女を今日まで置いてやった温情に、むしろ感謝するんだな!」


「はい、感謝しております。……つきましては、ご命令通り、私が設置した『私物』は全て回収させていただきます」


 私の言葉に、オリバーは鼻で笑った。


「ああ、構わん! さっさと持っていけ! 維持費がかかるとか言って、毎月請求書を送ってくるのも正直鬱陶しかったしな!」


「ありがとうございます。では、失礼いたします」


 私は微笑んだ。


 これまでの人生で一番、清々しく、邪悪な笑顔だったと思う。


(言質は取ったわよ。後で泣きついても知らないから)


 私は指をパチンと鳴らす。


 収納魔法を発動。


 まずは、広い部屋の四隅に設置していた『全自動空調結界石(エアコン)』を回収。


 ブゥン……という低い駆動音が止まる。


 途端に、王城の分厚い石壁が溜め込んでいた「本来の熱気」が、雪崩のように部屋へ押し寄せた。


 エアコンを消して、窓を開けた途端にむわっと入ってくるあの不快な熱と同じだ。


 断熱なんて概念のないこの世界では、一瞬で蒸し風呂状態になるのがオチだろう。


 しかも、今は真夏だ。


 外気温は軽く35度を超えている。


 じわり、と不快な湿気が部屋に満ち、肌にまとわりつく。


「きゃっ、なんか急に暑くない? 汗かいちゃう」


 シルビアが不満そうに声を上げ、扇子をパタパタと仰ぐが、汗は止まらない。


 次は、窓枠に設置していた『対害虫超音波バリア』を回収。


 これで、王城の豊かな庭園から、蚊やハエ、そしてこの世で最も忌まわしい()()()たちが、自由に侵入できるようになる。


「な、なんだ? 空気が淀んだような……」


 オリバーが眉をひそめ、襟元を緩める。


 いいえ、殿下。


 淀んだのではありません。


 それが「文明の利器」がない世界の、ありのままの空気です。


 私はさらに、寝室へと繋がるドアの向こうへ意識を向けた。


 そこには、私が睡眠時間を削って開発した『低反発ポケットコイルマットレス・きわみ』と、王城の硬水を軟水に変えて湯温を一定に保つ『全自動給湯システム』。


 そして何より、私の前世の記憶の結晶である『温水洗浄便座付き水洗トイレ・ネオ』がある。


 これらは全て、魔石を触媒にした私の魔力で動いている、正真正銘の私の「私物」だ。


「回収」


 ボシュッ。


 遠くで、空気が抜けるような間の抜けた音がした。


 それらは全て、私の亜空間倉庫へと収納された。


 代わりに残されたのは、この国で一般的である「木の板の上に硬いマットを敷いただけのベッド」と、「ぬるい水が出るだけの水瓶」。


 この世界の生活水準……インフラシステムは、ハッキリ言って、私の知るファンタジー世界の中でも最底辺だ。


 トイレなんて、木製のおまるだし。


 情緒もへったくれもない。


 この世界のデザイナーたちが無能なのか、そもそも、そういう世界観なのか。


 とにかくこの世界は、私が『いなければ』、理想の異世界ライフとは程遠い、表面のみがキラキラしているだけの世界なのだ。


「おい、何を突っ立っている! さっさと出ていけと言っただろう!」


 何も気づいていないオリバーが、ハンカチで額に浮かんだ玉のような汗を拭いながら怒鳴る。


 暑さでイライラし始めているのが目に見えてわかった。


 私は優雅に一礼した。


「ええ、全て回収いたしました。オリバー殿下、シルビア様。どうぞ、お二人が望まれた『ありのままの自然派生活』を、存分にお楽しみくださいませ」


 私は踵を返し、部屋を出た。


 背後で「なんかカビ臭くない?」「気のせいだ、僕のシルビア」という会話が聞こえたが、もう私には関係のないことだ。


 あなたたちの不幸は、この最高の魔道具(インフラ)たちを知ってしまったことだろう。


 知らぬが仏とはよく言ったもので。


 私はスキップしたい衝動を必死に抑えながら、早足で王城を後にした。




 ◇◆◇




 王城を出て、実家であるバーンズ子爵家に戻った私は、すぐさま両親に事情を説明した。


 父は紅茶を噴き出し、母は「あらあら」と頬に手を当てたが、二人ともすぐに表情を引き締めた。


「あの馬鹿王子……とうとうやりおったか」


「サブリナちゃんの魔道具がないと、あのお城、一日たりとも機能しないのにねぇ」


「ええ。でも『ガラクタだから持って行け』と言われたので、遠慮なく回収してきました」


 私は亜空間倉庫から、巨大なジャグジーバスや、ふかふかのソファを取り出して見せた。


「これからは、この快適グッズを全部、私たち家族のために使います!」


「おお! ついに我が家に『エアコン』が来るのか!」


「お母様は『全自動食器洗い機』が欲しいわ!」


 バーンズ家は、その日から「王都で最も快適な要塞」へと進化した。




 ◇◆◇



 それから数日。


 私は今、実家の庭の離れを改装した――通称『サブリナの楽園』で、至福の時を過ごしていた。


「はぁ……。生きててよかった……」


 湯気の中に、私の感嘆の声が溶けていく。


 目の前にあるのは、最高級のヒノキ材(に似た香りの木)で作った広々とした露天風呂。


 そこには、肩まで浸かれるたっぷりの白濁したお湯が満たされている。


 もちろん、私が開発した『循環式浄化加熱魔道具』によって、お湯は常に適温に保たれ、汚れも自動的に分解されている。


 見上げれば満天の星空。


 虫の音は聞こえるが、強力な結界のおかげで、私の半径50メートル以内に蚊が一匹たりとも侵入することは許されない。


 手元には、氷魔法でキンキンに冷やしたフルーツ牛乳。


「残業なし。呼び出しなし。休日出勤なし。最高すぎる……」


 前世で夢見たスローライフが、ここにある。


 王城では、オリバーが「熱い!」だの「ぬるい!」だの文句を言うたびに調整に走らされていたが、今は自分のためだけにこの技術を使えるのだ。


 私が湯船の縁に頭を預けて脱力していると、脱衣所の扉がノックされ、ゆっくりと開いた。


「お嬢様、夜分に申し訳ありません。お客様がお見えです」


「え? こんな時間に?」


「はい。それが……北の辺境伯、ウォルター様でいらっしゃいます」


 その名前に、私は思わず湯船の中で滑りそうになり、お湯を飲んでしまった。


「ごふっ! う、ウォルター様!?」


 ウォルター・フロスト辺境伯。


『氷の貴公子』と呼ばれる、この国で一、二を争う美貌の持ち主であり、若くして北方の広大な領地を治める実力者だ。


 しかし、極度の潔癖症かつ人間嫌いで有名で、社交界には滅多に顔を出さないはずだが。


「……わかったわ。すぐに出る」


 私は急いで体を拭き、肌触りの良いシルクのパジャマの上にガウンを羽織って、応接間へと向かった。


 応接間に入ると、そこには、オリバーと同じ人間とは思えないほど美しい青年が座っていた。


 銀色の髪は月光のように輝き、切れ長の瞳は涼しげな青。


 ただ、その目の下には、まるでパンダのような濃いくまがあり、頬はこけ、生気がまるでなかった。


 死にかけの美青年がそこにいた。


 死にかけ顔なのに、それでもこれだけ美しいというのが、正直怖いが。


「夜分にすまない、バーンズ子爵令嬢。……どうしても、君に頼みたいことがあって来た」


 彼の声は低く、枯れている。


 私は思わず、商人としての(あるいは技術者としての)血が騒ぎ、彼の向かいに座った。


「初めまして、辺境伯様。……だいぶお疲れのようですが」


 ウォルター様は、縋るような目で私を見た。


 その目は、砂漠で水を見つけた遭難者のようだった。


「君の屋敷に入った瞬間……救われた気がしたんだ」


「はい?」


「空気が……綺麗だ。埃っぽさがなく、カビの臭いもしない。温度も湿度も完璧だ。……私は、汚いものが駄目なんだ。埃も、虫も、他人の触れたものも。だから旅の宿にも泊まれず、ここ数日、馬車の中で座ったまま一睡もしていない」


 なるほど。


 潔癖症というのは噂以上らしい。


 この世界の中世レベルの衛生観念では、彼のような過敏な体質の人は生き地獄だろう。


「噂を聞いたんだ。君がいなくなった途端、王城が悪臭と害虫の巣窟になったと。オリバー殿下が『トイレが臭い!』と叫びながら庭で用を足しているという、とんでもない噂まで」


「ぶっ」


 私は思わず吹き出した。


 あのプライドの高いオリバーがねぇ。


「つまり、君がいた時は、あの不潔な城が清潔に保たれていたということだ。……頼む、サブリナ嬢。君の魔道具を売ってくれ。金ならいくらでも出す。国家予算並みの額でも構わない。私の領地を、私の屋敷を、人が住めるレベルまで浄化してほしいんだ!」


「私はもう……蕁麻疹が出そうなんだ!!」


 切実だった。


 氷の貴公子と呼ばれた彼が、なりふり構わず頭を下げている。


 私は彼の顔色の悪さを見て、ふと提案した。


「商談は構いませんが……その前に、少し休まれますか? 体調が優れないようですので。せっかくの美貌が台無しですよ」


「休む? しかし、私は他人の屋敷のベッドなど……生理的に……」


「ご心配なく。私の『ゲストルーム』は、王城にあったものよりハイスペックですよ。リネンは最高級のシルク、ダニも埃も除去結界で完全ブロック。マットレスは雲の上の寝心地です。一度寝たら、朝まで起きられませんよ?」


 ウォルター様がゴクリと喉を鳴らした。


「……失礼させてもらっても、いいだろうか」


「どうぞ。お風呂も沸いていますよ。シャンプーも、私が調合した『薔薇とハーブの特製ブレンド』をご用意します」




 ◇◆◇




 一時間後。


 風呂上がりのウォルター様は、別人のようになっていた。


 強張っていた表情筋が緩み、肌は血色を取り戻し、湯上がりの銀髪が色っぽく濡れている。


 彼はリビングのソファ(私が作った『人を駄目にするソファ改』)に深く沈み込み、呆然と天井を見上げていた。


「……信じられない」


「お気に召しましたか?」


「ああ……。湯船に髪の毛一本浮いていないなんて。それに、あの『シャワー』という湯の雨。体を洗った時の爽快感。上がった後の肌のサラサラ感……ここは……天国か?」


 彼はそのクールな印象から一転、子供のように目をキラキラと輝かせていた。


「ふふ、我が家の自慢のバスルームですから」


「それに、この部屋の空気だ。埃っぽさが微塵もない。適度な湿り気と、涼しさ。呼吸をするのがこんなに楽だなんて……生まれて初めてだ」


 彼は私の方を向き、真剣な眼差しで見つめてきた。


 その瞳の熱量に、私は少しドキリとする。


「サブリナ嬢。君は天才だ。いや、女神だ。君はこの世界から私を救い出してくれた」


「大袈裟な。私はただの魔道具オタクです」


「結婚してくれ」


「…………はい?」


 私は飲んでいた紅茶を、盛大に吹き出した。


「えー……、聞き間違いでしょうか? 今、け、結婚……とか聞こえた気がするのですが?」


「そう言った」


「…………今日初めて会ったばかりですが!?」


「ああ。この数時間で確信した。君なしの人生など、もう考えられない。あの風呂と、この空調と、君がいなければ、私はこの汚い世界でもう生きていけない。私の領地に来てくれ。君の好きなように改造していい。全財産を君に預ける」


「い、いや、魔道具を買っていただければ、私がいなくても……」


「駄目だ。メンテナンスが必要だろう? それに……」


 彼は立ち上がり、そっと私の手を取った。


 その手は震えておらず、優しく、温かい。


「不思議なんだ。他人に触れるのは嫌悪感があるはずなのに、君だけは……平気だ。むしろ、触れていたいと思う」


「なっ……!?」


 彼は鼻を近づけ、うっとりとした表情で目を細めた。


「君が私をこんな風にした。その責任を取る必要があると思うのだが?」


「わ、私はただおもてなしを……!」


「それに……君からは石鹸のいい香りがする。人工的な香水じゃない、清潔で、優しい香りだ」


「へ……?」


「君はとても清潔だ。魂まで澄んでいる気がする。……どうやら私は、一目惚れしてしまったようだ」


 至近距離で見つめられる美貌の破壊力。


 前世も含めて恋愛経験の乏しい私(というか喪女)は、顔が沸騰しそうになった。


 いや、爆発しそうになった。


「あ、あの、私、婚約破棄されたばかりの傷物ですよ? 王太子殿下に捨てられた女ですよ!?」


「傷物? 誰がそんなことを言った。君は宝石だ。あの王太子が目の腐っている愚か者で助かったよ。おかげで私が君を見つけられた」


「ちょっ……誰かに聞かれたら不敬罪になりますよ!?」


「知るか。私はもう、君の匂いと、君の魔道具と、君にメロメロなんだ」


 彼は私の手の甲に、恭しく口づけを落とした。


 その瞬間、私の心臓が早鐘を打ち始めた。


(……わ、わ、悪くない。いや、むしろ超優良物件では?)


 顔良し、家柄良し、金払い良し。


 そして何より、私の技術(魔道具)を心から必要とし、評価してくれているし、会ったばかりなのに何故だか私のことを凄く大切にしてくれてる。


 それに、彼の領地である北方は寒さが厳しいと聞く。


 私の『床暖房』や『断熱結界』の技術を活かすには、最高のフィールドだ。


 開発費も使い放題と言っていた。


「……ま、前向きに、検討させていただきます」


「ありがとう。君を世界一幸せにすると誓うよ。……まずは、この素晴らしいソファで、君の膝枕で眠ってもいいだろうか?」


「それはさすがに早すぎます!」


 この人、心臓に悪いよ。




 ◇◆◇




 一方その頃、王城では地獄絵図が展開されていた。


 サブリナがいなくなってからの三日間で、王城の環境は著しく退行していた。


「あついぃぃぃ! なんでこんなに暑いのよぉぉぉ!」


 シルビアの叫び声が響く。


 彼女の自慢の巻き髪は、湿気と汗でベタベタに張り付き、見る影もない。


 ドレスは汗染みだらけで、高価な化粧もドロドロに溶けている。


「おい! 誰か氷を持ってこい! 氷だ!」


 オリバーもまた、パンツ一丁の姿で叫んでいた。


 しかし、メイドたちは冷ややかな目で彼を見るだけだ。


「申し訳ございません、殿下。氷を作る魔道具はサブリナ様が回収されましたので、ございません」


「なっ……じゃあ、水だ! 冷たい水を浴びたい!」


「貯水タンクの浄化装置も回収されましたので、今は藻が湧いておりますが……」


「ふざけるなぁぁぁ!」


 さらに深刻なのが、トイレ問題だった。


 サブリナの『水洗トイレ』に慣れきっていた彼らにとって、汲み取り式の「おまる」の臭気は、拷問に等しかった。


 廊下の隅々にまで漂うアンモニア臭。


 そして、それに誘われてやってくるハエ、ハエ、ハエ。


「いやぁぁぁ! 私のスープに虫が入ってるぅぅ!」


「か、痒い……! ベッドにダニがいる! 背中が痒くて眠れないんだ!」


 オリバーはボリボリと背中を掻きむしる。


 かつての麗しい王太子の姿はどこにもない。


 ただの、不潔で不機嫌な男がそこにいた。


「どうしてこうなったんだ……。サブリナがいた時は、こんなことなかったのに……」


 オリバーは、ここ数日で初めて元婚約者のことを思い出した。


 彼女はいつも涼しい顔で仕事をしていた。


 彼女の周りだけは、いつも清潔で、良い香りがした。


 そして何より、彼女が毎月のように「メンテナンス費用」の請求書を持ってきていたことを思い出す。


『殿下、快適さを維持するにはコストがかかるのです』


『うるさい! 金のことばかり言うな!』


 そう言って、支払いを拒否し続けていたのは自分だ。


「もしかして……あの『ガラクタ』って……」


「ちょっとオリバー様! なんとかしてよ! 私、こんな豚小屋みたいな生活、耐えられないわ!」


 シルビアがヒステリックに叫ぶ。


 その口元には、食べたものが付着し、体からは数日風呂に入っていないえた臭いが漂っていた。


 オリバーは初めて、シルビアを見て「汚い」と思った。


「うるさい! お前がサブリナを追い出せと言ったんだろうが!」


「なんですってぇ!? オリバー様だって『地味な女はいらない』って言ったじゃない!」


 サブリナの魔道具という『楽園』を知らなければ、彼らはまだこの世界でもまともに暮らせたはずだ。


 しかし、彼らは蜜の味を知ってしまった。


 それを奪われるのは、どんな拷問よりも彼らの心と身体を抉った。


 そして、いとも簡単に二人の愛(という名の浅い情欲)は、生活環境の悪化とともに、音を立てて崩れ去ったのだった。




 ◇◆◇




 それから二週間後。


 バーンズ子爵家の門の前に、一台の豪華な(しかし泥だらけの)馬車が止まった。


 馬車から転げ落ちるように出てきたのは、オリバーだった。


「サブリナ! サブリナはいるか!?」


 その姿に、庭師が鼻をつまんでギョッとして後ずさる。


「くっさ……」


 風呂に入っていないのか? と思うほどの悪臭。


 髪はボサボサ、肌は荒れ、目の下には濃い隈。


 オリバーはふらふらと門に近づこうとした。


 その目は完全に血走っている。


「頼む、サブリナに会わせてくれ! もう限界なんだ! シルビアのやつは『実家のほうがマシ!』って逃げ出しやがった! 身体が痒くて……俺も、一睡もできてないんだ!」


 彼は半狂乱で叫んだ。


「サブリナがいないと駄目なんだ! あの快適な部屋を戻してくれ! 婚約破棄は撤回する! 今すぐ戻ってきて、俺の世話をしろ! これは命令だ!」


 オリバーが門に手をかけようとした、その時。


 ザシュッ!


 殿下の足元のアスファルト(私が舗装した)に、鋭い氷の槍が深々と突き刺さった。


「ひいっ!?」


「……我が愛しの婚約者の実家に、何の用だ? 不潔な害獣よ」


 絶対零度の冷気と共に現れたのは、ウォルター様だった。


 私の実家に滞在中の彼は、いつでも私を守れるようにと、門の警備魔法を自ら強化していたのだ。


 ウォルター様は、絹のハンカチで鼻と口を覆いながら、本気で汚物を見るような目で殿下を見下ろした。


「ウ、ウォルター……? なぜお前がここに……」


「私はサブリナ嬢に求婚し、受け入れてもらった。彼女は今、私の領地へ導入する『全領土床暖房化計画』の設計で忙しい。不潔な部外者は立ち去ってもらおうか」


「求婚だと!? ふざけるな、そいつは俺の元婚約者だ! 俺のために働くべき女だぞ! ガラクタを作るしか能がない地味女だぞ!」


「『ガラクタ』だと?」


 ウォルター様の目がスッと細められた瞬間、周囲の気温が十度は下がった。


「貴様には、彼女の偉大さが理解できないのか。あの神ごときトイレの座り心地を。あの慈母のごときマットレスの包容力を。……それをガラクタと呼ぶ貴様こそ、存在する価値のない廃棄物だ」


「なっ……何を訳のわからないことを!」


 私は屋敷の二階の窓から顔を出してモグモグしながらその様子を眺めていた。


 手には、焼き立てのチョコクッキーと、冷えたアイスティーを持っている。


 隣では、私の作った最新型の『超強力空気清浄機・改』が静かに稼働し、オリバーの放つ悪臭を完璧にシャットアウトしてくれている。


 (ま、わざわざ辺境まで来てくれたし、挨拶くらいはしてやるか)


 私はクッキーを一口で頬張り、バルコニーへ出てオリバーに声を掛けた。


「ほんにひふぁ〜。おりふぁーふぇんふぁ(こんにちは〜。オリバー殿下)」


「サブリナ!? サブリナ!! 戻ってきてくれ! 悪かった、俺が悪かったから! あの箱(魔道具)がないと、俺は生きていけない! 公務どころじゃないんだ! 金なら払う! いくらでも払うから!」


 オリバー殿下が涙目で私を見上げる。


 その顔には、かつての傲慢さは欠片もなく、ただただ生理的欲求に敗北した人間の、惨めな姿だけがあった。


 私は、クッキーをアイスティーで流し込み、にっこりと微笑んで言った。


「いや、無理ですが?」


「なっ……」


「私は今、愛するウォルター様との『清潔で、快適で、お互いを尊重し合えるスローライフ』で忙しいのです。殿下はどうぞ、ご自身の選んだ『ありのままの自然』を謳歌し、自然と仲良く暮らしてくださいませ。羨ましいです。ナチュラルライフ」


「そんな事言うなよぉぉ! 頼む、サブリナ! お前しかいないんだぁぁ! 俺はもう気が狂いそうなんだぁ!!」


 みっともなく泣き叫ぶオリバーを見下ろしながら、私はクッキーを齧る。


「ほうれふか、ふぉひのふぉふひ(そうですか、お気の毒に)」


「サブリナ」


 ウォルター様が、バルコニーの私を見上げた。


 その表情は、殿下に向けるものとは真逆の、溶けるような甘い笑顔だった。


「そろそろティータイムにしないか? 私もその、君の焼いたクッキーが食べたい。……あんな汚いものをこれ以上見続けると、食欲が失せる」


「ええ、そうですねウォルター様」


「そ、そんな……! サブリナァァァァ! トイレだけでも! せめてトイレだけでも置いてってくれぇぇぇ!」


「ウォルター様。玄関でお出迎えしますね」


「ありがとう。サブリナ」


 ウォルター様は、指先一つ動かして、巨大な氷の壁を門の前に出現させた。


 ドンッ!


 オリバーが壁にぶつかり、尻餅をつく音が聞こえた。


「二度と来るな。次にサブリナの視界に入ったら、その薄汚い存在ごと凍結粉砕処理する」


「お……俺は……王子だぞっ……! 不敬罪にすることだって……!」


「あの〜。オリバー殿下。そうなると、私は完全にブチ切れますので、今後、『交渉の余地』すらなくなりますが、よろしくて?」


「なっ……!? ま、まだ可能性があるのか!?」


「まあ、気が変わるかもしれませんので」


「そ、そうか……! なら、この件は不問にする! だから頼む!!」


「考えておきますので、今日のところはお帰りくださいませ〜」


「わ、わかった……! 早めの連絡を頼むぞ!!」


 情けないオリバーをゴミを見るような目で一瞥したあと、ウォルター様は屋敷の中へと戻ってきた。


 私は彼を玄関で出迎える。


 彼からは、私の作った石鹸のいい香りがした。


 玄関の扉が閉まり、『完全防音・防臭結界』が作動し、オリバーの声と悪臭は、私たちの世界から完全に遮断された。


「焼きたてのクッキーの香りもいいが、私はやっぱり……この香りが好きだ」


 ウォルター様が私の首筋に鼻をこすりつける。


「もう……」


「今日はとことんまで、君の香りを嗅いでいたいな」


「クッキー、焼きたてですよ?」


「また焼けばいい。今は君が欲しい気分なんだ」


 完全防音のこの部屋の中に、チュッという音だけが何度も響く。


「ん? 今日のクッキーはチョコ味だな?」


「なんで分かったんです?」


「君から少し、チョコの味がしたから」


「……バカ」


 部屋の中は、今日も完璧に管理された快適な温度と、清潔な空気、愛おしい人の笑顔で満たされている。


 それと、クッキーよりも甘い愛情も。




 ◇◆◇




 後日談。


 王城はその後、衛生環境の悪化による謎の奇病(主に水虫とシラミと食中毒)が蔓延し、国政が完全にストップした。


 オリバーは「不潔な王子」という不名誉なあだ名をつけられ、廃嫡。


 代わりに、隣国に留学していた優秀な第二王子が帰国し、即位することになった。


 新国王は、事態を重く見て、北の辺境伯領に巨額の「技術提携料」を支払い、サブリナ印の魔道具を再導入することで国を立て直したという。


 もちろん、その莫大なライセンス料は、サブリナとウォルターの快適な新婚生活と、さらなる魔道具開発の研究費に充てられたことは言うまでもない。


 北の辺境の地は今、世界で最も清潔で、暖かく、快適な楽園として知られている。

 


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