第6話 魔法使いをやめた日Ⅵ ―風の継承―
夜が降りていた。
一旦引き下がりはしたが、嵐の気配はまだ消えない。
森の奥で、何かが蠢く音がする。
風は止まり、世界が呼吸を止めたようだった。
学舎の灯りだけが、闇の中にぽつりと浮かんでいる。
その光の中に、ミナの影がひとつ。
机の上に広げた魔法陣の写しを握りしめ、何度も指でなぞっていた。
「……また乱れてる。やっぱり、私には――」
「諦めるのか?」
背後から聞こえたのは、低く掠れた声を発したのはレオンだった。
杖を持たない彼の姿は、どこか絵から抜け出したように静かで、存在感だけで空気を変える。
ミナは顔を上げる。
師の瞳は穏やかだが、その奥に燃えるものが見えた。
それは、かつて全てを失った人間だけが宿す光――静かな、絶対の覚悟。
「恐怖を隠す必要はない。恐れながらも立ち向かう。それが、風を操る者の強さだ」
ミナは唇を噛み、視線を魔法陣に戻す。
「……でも、あの嵐を抑えるなんて、私ひとりじゃ――」
「お前はひとりじゃない」
レオンが、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
「風は、お前を見ている。お前が逃げない限り、風も逃げない」
その言葉は、胸の奥で確かに響いた。
何かが音を立てて、恐怖と迷いの間から剥がれ落ちる。
ミナは深呼吸をし、目を閉じる。
嵐の音を聞いた。木々の軋み、遠雷の唸り、風の震え。
そして――その奥に、静かに脈打つもうひとつの“呼吸”を感じた。
風が、応えている。
外では、嵐が再び動き出していた。
雲が低く垂れ込め、空が裂けるように光が走る。
魔獣の影が森を割り、学舎へ向かってくる。
子どもたちは奥の部屋に避難しているが、扉越しに響く彼らの泣き声が、ミナの耳に届いていた。
その声が、恐怖を浄化する。
あの子たちを守らなければ――それだけが、彼女を支えていた。
ミナは杖を掲げる。
魔法陣を空に描く。
線が浮かび上がり、夜気を裂いて光が流れ出す。
ひとつ、またひとつと線が重なり、形を成す。
「循環符号、固定……風の環、解放――!」
地面に刻まれた魔法陣が一斉に輝いた。
教室の床を伝い、廊下を抜け、学舎の外壁を這うように光が走る。
そのすべてが一点へ収束する。
風が――目を覚ました。
轟音とともに、森の奥から突風が吹き抜けた。
枝が折れ、落ち葉が舞い、世界の色が一瞬で変わる。
だがそれは破壊の風ではない。
ミナが描いた魔法陣が、風の流れを制御していた。
学舎の周囲で空気が螺旋を描き、まるで透明な壁のように守りを形成していく。
その中心に立つミナの髪が、夜の風に激しく揺れる。
目を開いた彼女の瞳は、もう恐れてはいなかった。
「風よ――」
ミナは囁くように言葉を紡ぐ。
「私の声を聞いて。暴れたいなら、暴れたっていい。ただ……この子たちだけは、傷つけないで」
風が一瞬、止まった。
次の瞬間、突風が巻き起こり、周囲の空気が逆流する。
それは拒絶ではなく肯定だった。
レオンが静かに呟く。
「……風は、お前の言葉を受け入れたな」
ミナはうなずき、杖を強く握りしめる。
空に描かれた魔法陣が回転を始め、光が線となって彼女の周囲を巡る。
風が一気に流れ込み、身体の奥から熱が溢れる。
痛いほどの熱。
けれど、それは生きている証。
風と心が繋がる感覚が、指先から全身へと駆け抜けていく。
嵐の中心で黒い魔獣が風壁を破ろうと咆哮する。
その声は雷鳴と重なり、地を震わせた。
ミナは構えを崩さず、魔法陣の中心に手をかざす。
空気が震え、光が収束する。
「今度こそ――」
言葉は風に溶けた。
魔法陣が閃光を放ち、暴風が爆発する。
その風はただの力ではなく、彼女自身の意志。
学舎を包むように風が広がり、魔獣の進行を完全に止める。
目には見えない刃が、風の流れの中で交錯し、空間が唸る。
風が咆哮を飲み込み、音そのものを断ち切る。
世界が一瞬、無音になる。
ミナは目を閉じた。
光の渦の中で、彼女の髪が白く照らされ、瞳が淡い碧に輝く。
その姿は、どこか神聖で――まるで、風そのもののようだった。
やがて、風は鎮まった。
魔獣の影は霧のように消え、森が静寂を取り戻す。
木々の葉がそっと揺れ、夜の星々が雲間から姿を現した。
ミナはゆっくりと膝をつく。
息が乱れ、指先は震えていた。
けれどその顔には、確かな笑みがあった。
「やった……できた……」
レオンが歩み寄る。
手を差し出し、静かに言う。
「風は、もうお前の中にある。誰かに教えられて使うものじゃない。……自分で掴み取ったんだ」
ミナはその手を握り返す。
温かく、力強い手だった。
彼の掌に残る傷跡が、長い年月を語っていた。
「……ありがとう、師匠」
レオンは小さく笑った。
「師匠って柄じゃない。ただの元・魔法使いだ」
「でも、私に風を教えてくれたのは、やっぱりあなたです」
その一言に、レオンは一瞬だけ言葉を失った。
長く閉ざしていた心の奥が、静かに解けていく。
かつて戦場で散った仲間たちの笑顔が、風の中でよみがえる。
「……そうか。なら、少しくらい誇ってもいいかもしれんな」
風が二人の間を抜けていった。
柔らかく、優しい風。
それはもう、破壊の風ではなかった。
夜明けが来た。
森の木々の間から、淡い光が差し込む。
学舎の屋根が朝日に照らされ、瓦が黄金色に輝く。
子どもたちが扉の向こうから顔を覗かせる。
「先生……!」
「ミナ先生!」
「すごかったよ!」
泣き笑いの声が一斉に広がる。
ミナは恥ずかしそうに笑い、髪をかきあげる。
風が頬を撫で、彼女の髪を優しく持ち上げた。
その風は、彼女の呼吸に重なっていた。
レオンは丘の上に立ち、遠くを見つめていた。
朝霧の中で、かつての仲間の声が聞こえた気がした。
「お前はもう、十分やったよ」と、懐かしい声が風に混ざっていた。
ミナが後ろからやってくる。
「師匠。今日も風、少し荒れてますね」
レオンは空を見上げた。
「そうだな。でも、悪くない風だ」
ミナは隣に立ち、同じ空を見上げる。
空の彼方で、風がひとつに溶けていく。
その瞬間、レオンは静かに微笑んだ。
――風は続いていく。
たとえ魔法をやめても、その意志だけは、誰かに受け継がれるのだ。
そして、ミナの風が吹いた。
新しい時代の始まりを告げるように。




