第3話 魔法使いをやめた日Ⅲ ―学舎の朝―
丘の上に建つ小さな学舎は、まだ秋の朝の冷たい光に包まれていた。
瓦屋根に反射する光は、森の木々を淡いオレンジ色に染め、木の床に柔らかな陰影を落としている。
窓から差し込む光は、埃の粒子を金色に輝かせ、空気の静けさを際立たせた。
教室の中では、子どもたちが小さな円になり、鉛筆や筆を握って魔法文字をなぞっていた。
「よーし、みんな。魔法は目には見えないけれど、確かに存在するからね。風を感じるんだ。手で、心で」
ミナは胸を張って立ち、手を机の上の文字に重ねる。
指先には微かに温もりが伝わるような感覚があった。
空気の流れがわずかに変わる瞬間、子どもたちは息をのみ、指先に力を込めた。
紙の上の文字がかすかに震える。
その揺れを見て、歓声を上げる子どもたち。
まるで初めて自分の手で世界を動かしたかのような喜びが広がった。
学舎の裏庭では、レオンが鍬を握り、畑を耕していた。
魔法はもう使えないし、杖も手元にはない。
だが、子どもたちの歓声が風に乗って届くたび、彼の頬にわずかな笑みが浮かぶ。
かつての弟子、エリオのことを思い出す。
あの小さな背中が必死に魔法を学び、風を操ろうとしていた日々を。
そして、命を落としたあの瞬間のことを。
胸の奥に穴が開いたような、重く冷たい感覚が蘇る。
しかし今、この丘の上で風を操る者がいる。
エリオの想いを引き継ぐ少女――ミナがここにいる。
彼女の決意と努力が、この世界に新しい風を吹かせている。
丘の上の空を見上げると、青が広がり、白い雲がゆっくり流れていた。
静かに胸の奥が温かくなるのを感じた。
授業を進めていく中で、子どもたちは次第に魔法の感覚を掴み始めていた。
男の子の手のひらから微かに風が立ち上り、目を見開く。
女の子は机の上の紙がほんの少し揺れるのを見て声をあげる。
「できた……!」
ミナは目を細め、肩の力を少し抜いた。
まだ不安だし、自信もない。
しかし、子どもたちの笑顔を見て、胸の奥が熱くなる。
自分がここに立つ意味を、初めて強く感じる瞬間だった。
昼が近づくと、学舎の空気は柔らかく温かくなり、子どもたちは窓を開け放った教室で風の感覚を楽しんだ。
校舎の外では、鳥の声や遠くの森のざわめきが混ざり、静かな朝の時間がゆっくりと流れる。
「先生、風が見えます!」
小さな手が空にかざされ、光に反射した埃の粒がかすかに揺れる。
その様子を、レオンは畑の端から静かに眺めた。目元にわずかに笑みを浮かべながら、心の中で呟く。
「エリオ……あいつの想いは、こうして生き続けている」
風が丘を吹き抜け、木々を揺らす。
葉のざわめきが、かすかに笑い声のように聞こえ、静かで、穏やかで、そして希望に満ちた朝だった。
授業の合間、ミナは廊下で子どもたちと話す。小さな男の子が腕に擦り傷を作り、泣きそうな顔で近寄ってくる。
「大丈夫、私が治すからね」
そう言ってミナは微かに微笑み、手をかざす。
小さな魔力が流れ、傷がかすかにふさがっていく様子に、男の子は驚きと喜びで目を見開いた。
「先生、魔法ってすごいね!」
「うん、でも魔法は力だから、必ず使い方に気をつけようね」
小さな日常のやり取りに、ミナの心は少しずつ安定していく。
まだ不安はあるが、確かに自分がこの学舎でやるべきことを理解し始めていた。
昼休み、子どもたちは校庭に飛び出して走り回る。
小さな笑い声、転んで泣く声、励まし合う声が至るところで聞こえる。
学舎はまるで小さな世界そのもののように活気づく。
ミナは庭の片隅に座り、静かに息を整える。
空気の匂い、風の動き、遠くの森のざわめき。
それらすべてを感じながら、心の中で決めた。
「私……本当に、この子たちに教えられるのかな」
不安が胸をよぎる。
まだ未熟な自分が、あのエリオの魔法を完全に理解できているとは言えない。
しかし、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
子どもたちの未来は、今この瞬間の自分の行動にかかっている。
風を感じる手を正しい方向に導くのは、自分しかいないのだ。
午後になり、空気がわずかに冷たくなる頃、森の方から小鳥の群れが飛び立った。
光が斑に揺れ、学舎の中に影を落とす。
窓を開けた教室の空気が微かに流れ、子どもたちは髪を揺らす風に目を輝かせた。
「見て!風が指先に触れるの!」
「ほんとだ、私も感じる!」
その声にミナは小さく笑う。
胸の奥で、エリオの声が重なったような気がした。
あの少年が、風を愛し、魔法を信じていた日々の記憶が、今ここで静かに息づいているのだ。
日が傾きかける頃、ミナは一息つき、学舎の屋上にあがった。
眼下には校庭、遠くには森と村の屋根々。
金色の夕日に染まる景色を見渡しながら、心の奥底で決意を固める。
「私が……風を制御する。私が、この学舎を守らなくちゃ」
背後で、レオンが静かに微笑む。
「……そうか。なら、任せよう」
丘を吹き抜ける風が、二人の決意を運ぶ。
葉のざわめきが、かすかに祝福のように聞こえた。
学舎の朝は終わりを告げたが、風はまだ、希望を運び続けていた。




