第2話 魔法使いをやめた日Ⅱ ―風の残響―
あの日から、三か月が過ぎた。
森の丘は、まだあの風を覚えている。
燃え落ちた村の残り香、焦げた木々の匂い、そして――風が通り抜けるたび、墓の上の草がざわめく。
まるで誰かがまだ、笑っているようだった。
墓にはただひとつ、古びた杖が突き刺してある。
今は、もう魔力の欠片も残っていない。
俺はその前に腰を下ろし、煙草を一本くわえた。
「……お前のせいで、すっかり忙しくなったぞ、エリオ」
返事はない。
代わりに、風がふっと頬を撫でた。
あの時の声に、少しだけ似ていた。
◆
村の人々は、俺を“賢者様”と呼ぶようになった。
笑わせる。俺みたいな抜け殻のどこが賢いというのか。
魔法を使えなくなってからの俺は、ただの老人だ。
魔法を放ったあの日、何かが壊れた。
体の奥の、もっと深いところ――魂の根っこのようなものが、ちぎれた感覚。
あれ以来、炎ひとつ灯せやしない。
村長が訪ねてきたのは、そんなある晩だった。
夕暮れの光の中で、彼は深く頭を下げた。
「レオン殿、どうかお願いです。村の子どもたちに、魔法を教えてやってはもらえませんか?」
「……冗談はやめてくれ」
「彼らは皆、あの少年――エリオに憧れているんです。彼のように――人を助けられる魔法使いになりたいと」
俺は煙草をもみ消し、窓の外を見た。
夕焼けが、あの時の炎に見えた。
「俺に教える資格はない」
「しかし――」
「帰れ」
冷たく言い放った。
村長は寂しげに頷き、静かに出ていった。
残ったのは、沈黙と風の音だけ。
ふと、夜の焚き火の中に、あいつの顔が浮かぶ。
“師匠、風はどこへ行くんですか?”
――お前が聞いた問いに、俺はまだ答えられずにいる。
◆
ある朝、戸を叩く音がした。
珍しい。今どき、俺を訪ねてくる人間などいないはずだが。
「失礼します……あの、レオン様、ですよね?」
扉の向こうには、十七、八の少女が立っていた。
茶色い髪を三つ編みにし、胸の前で小さなノートを抱えている。
「そうだが……お前は誰だ?」
「ミナといいます。村にある、パン屋の娘です」
「パン屋? ……うまいのか?」
「え?」
「パンが、だ」
「は、はい……たぶん」
頬を赤くしながら、差し出したノートを俺に見せた。
古びた紙に、見覚えのある文字。
――それは、エリオの字だった。
「……どこで見つけた?」
「村の井戸のそばで拾ったんです。もしかして、これ……」
「……あいつのノートだ」
ページをめくると、未完成の魔法陣が描かれていた。
『風の循環を通して、命の力を流す』
まるで、癒しの術を応用したような内容だった。
「母が病気で……薬も効かなくて。でも、この魔法なら、助けられるかもって」
「……子どもの考えだな」
「でも、エリオさんは本気だったと思います」
その言葉に、俺は黙った。
火の粉のように小さな希望――それを笑うほど、俺は冷たくなりたくなかった。
「……いいだろう。手伝ってやる」
「ほ、本当ですか!?」
「ただし、期待はするな。俺はもう、魔法使いじゃない」
少女はそれでも嬉しそうに笑った。
あいつと同じ笑い方だった。
◆
ノートをもとに、少しずつ研究を始めた。
古い術式、複雑な円環構造。理論は完成に近いが、核心が抜けている。
まるで、誰かが続きを書くことを託したかのように。
ミナは不器用ながらも俺の助手を務めた。
薬草を潰しては瓶を割り、魔法陣を描けば逆に靴に墨をこぼす。
俺は呆れつつも、どこかで笑っていた。
「師匠って、大変ですね」
「誰が師匠だ」
「だって、教えてくれてるじゃないですか」
「俺はただの手伝いだ」
「……ふふっ、じゃあ“先生”にします」
「……もっとやめろ」
そう言いながら、少しだけ口元が緩んだ。
だが夜になると、痛みが襲った。
魔力の流れが滞るたび、胸の奥で黒い風がざわめく。
――灰の風。かつて俺が戦争で使った、破壊の呪い。
その残滓がまだ、俺の中に息づいている。
魔法を取り戻すことは、それを呼び覚ますことでもあった。
◆
その夜、風が変わった。
湿った匂い、空の色。
森の奥から、低いうなりが聞こえる。
「嫌な予感がする」
俺は立ち上がり、外へ出た。
空には黒い雲。稲妻が走り、風が渦を巻く。
――封印が、破れた。
森に眠っていた古の魔獣、|"風喰い"《ウィンド・デヴァウア》が、再び目を覚ましたのだ。
村に向かって暴風が走る。
屋根が飛び、人が吹き飛ぶ。
ミナの叫び声が風の中に消えた。
「ミナ!」
彼女は、井戸の側に取り残されていた。
風喰いの影が迫る。
俺はためらわず、杖を握った。
――もう、失わない。
「《灰より生まれし風よ、我が名に従え!》」
空が裂け、光が走る。
風と風がぶつかり合い、世界が震えた。
灰の風が、俺の中を通り抜けていく。
痛みも、恐れも、何も感じなかった。
ただ、あの時の声が聞こえた。
『師匠、風はどこへ行くんですか?』
「行くべきところへだ――」
最後の言葉を吐くと同時に、風喰いの体が崩れ落ちた。
嵐が静まり、森が沈黙した。
ミナが駆け寄る。
俺の杖は粉々に砕け、灰となって消えていく。
「先生! 目を開けてください!」
「……やかましいな」
「だって、また勝手に――」
「……生きてるだろうが」
笑うと、彼女は涙をこぼした。
「……あの馬鹿弟子が、やっと笑う理由をくれたよ」
風が、頬を撫でた。
まるで誰かが、そこにいるように。
◆
季節が巡った。
村の丘に、新しい小屋が建った。
子どもたちの声が聞こえる。
看板には、こう書かれている。
「風の学舎」
ミナが始めた小さな学校だ。
文字も、薬草の扱いも、そしてほんの少しの魔法も教えている。
俺はその裏で、畑を耕している。
もう杖も魔法もいらない。
ただ風を感じ、土の匂いを吸い込む。
墓の前に、杖の欠片を供える。
手を合わせ、静かに言った。
「……お前の魔法は、生きている。ちゃんと、続いてるぞ」
丘の上を、柔らかな風が吹き抜けた。
草が揺れ、光がきらめく。
それはまるで、誰かの笑い声のようだった。
俺は目を細め、煙草を取り出す。
火を点けることはできない。
だから、ただ指先で転がす。
風が、煙の代わりに香りを運んでいく。
「……行け。行くべきところへ」
風が頬を撫で、遠くへ消えた。
その静けさの中で、俺はふと気づいた。
――この世界は、まだ、捨てたもんじゃない。
空を見上げる。
青がどこまでも広がっていた。
まるで、新しい物語の始まりを告げるように。




