魔法使いをやめた日
世界がまだ、奇跡という言葉を信じていた時代。
俺は、魔法使いだった。
千年を生き、数えきれぬほどの人間を見てきた。
王も、英雄も、盗賊も、乞食も。
皆、同じように願い、同じように滅びていった。
かつて俺は「黒の賢者」と呼ばれた。
戦乱の時代、王の軍勢を支え、数多の敵を葬った。
そして、同じ数だけの民を救った。
だが最期に残ったのは、感謝ではなく、恐怖と憎悪だった。
彼らは俺の存在を“災厄”と呼んだ。
千年生きる化け物だと。
……その通りだと思う。
俺はもう、人間ではない。
魔法を使えば使うほど、魂が削れていく。
他人を救うたびに、何か大事なものを失っていく。
そうして残ったのは、灰のような心と、果てしない時間だけ。
だから俺は、人の世を離れた。
森の外れに小屋を建て、畑を耕し、煙草をふかし、ただ陽が沈むのを待つだけの暮らし。
もう二度と魔法は使わない。そう決めた。
――あの日までは。
◆
「……ここが、レオン様の小屋ですか?」
その声は、まるで長い眠りの中で聞く夢のように響いた。
振り向くと、まだ少年と呼ぶのがふさわしい年頃の青年が立っていた。
背は高くも低くもなく、やせぎすで、目だけがやたらとまっすぐだ。
「お前は?」
「村の者です。あの……魔法を教えていただきたくて」
あまりに唐突な言葉に、俺は思わず吹き出した。
「はっ、魔法だと? もうそんなもの、どこにも残っちゃいねぇよ」
「でも、あるはずです。俺、見たんです。夜に、森の奥で光が――」
「見間違いだ。帰れ」
そう言って、扉を閉めた。
だが、翌日も来た。
その次の日も。
雨の日も、風の日も、俺の小屋の前に立っていた。
最初は鬱陶しく思った。だが、日が経つにつれて、不思議とその姿を待つようになっていた。
俺が畑を耕している間、少年は黙々と石をどけ、倒れた柵を直した。
言葉少なに働き、日が沈む頃になると、飯包みを置いて帰っていく。
粗末なパンと干し肉。だが、それが久々に食う“人の手の味”だった。
◆
一週間が過ぎた頃、俺はとうとう折れた。
「……おい、坊主」
「はいっ!」
「そんなに魔法を習いたいのか」
「はい! 本気です!」
「なら、教えてやる。ただし――退屈だぞ」
少年はぱっと顔を輝かせた。
その笑顔に、何故か胸が少しだけ痛んだ。
「名前は?」
「エリオです!」
エリオ。
素朴で、古い村に似合いそうな名だった。
俺は空を見上げた。
灰色の雲の切れ間に、細い陽が差していた。
「……久々だな、人に名前を聞いたのは」
◆
教えるといっても、最初は“遊び”のようなものだった。
火を点ける術、風を集める術、水を浄める術。
どれも千年前には子どもでもできた初歩中の初歩。
だが、エリオは一つ一つに驚き、喜び、目を輝かせた。
その反応が、懐かしくも新鮮だった。
「これが……本当に、魔法なんですね」
「まあ、今となっちゃ、ただの現象操作だがな」
「それでも、俺には奇跡に見えます」
俺は苦笑した。
そうだ、昔の人間もそう言った。
“奇跡だ”“神の力だ”と。
けれどそれは、いつだって祈りの代用品にすぎなかった。
「……師匠」
「誰が師匠だ」
「だって、教えてくれてるじゃないですか」
「口が減らん小僧だ」
だが、心の奥では悪くなかった。
久しぶりに“誰かと過ごす時間”というものを思い出していた。
◆
季節が少しだけ進んだころ、夜の焚火の前で、エリオがぼそりと言った。
「俺、魔法で人を助けたいんです」
「助ける?」
「俺の母さん、病気なんです。村の薬師にも見放されて……でも、魔法なら治せるって、昔の本に」
俺は焚火の炎を見つめた。
それは、遥か昔、同じように“誰かを救うため”に魔法を学んだ少年の姿を思い出させた。
それが誰だったのか、もう思い出せないけれど。
「エリオ。魔法はそんな便利なもんじゃない。犠牲の上に立つ術だ」
「それでもいいです。俺、誰かを助けたい」
純粋で真っ直ぐな瞳で告げるその声に、ため息が漏れた。
「なら勝手にしろ。ただし、命は落とすな」
「はい!」
素直すぎて、少し怖かった。
◆
それからの日々、俺は本気で教えるようになった。
魔力の流れ、詠唱の理、意思の集中――。
エリオは一つ覚えるたびに、子どものように喜んだ。
彼の成長は遅かった。
だが、努力だけは俺の誰よりも上だった。
何度倒れても立ち上がり、呪文を唱え続けた。
俺はその姿を見ているうちに、かつての“人間らしさ”を取り戻していくのを感じた。
夜、眠る前に、焚火の前で話した。
くだらない世間話や、魔法の失敗談。
エリオはいつも、俺の話を面白がって聞いた。
俺が笑うと、彼も笑った。
――笑うという行為が、こんなにも温かいものだと、忘れていた。
◆
そんな穏やかな日々が、いつまでも続くと思っていた。
だが、世界はいつだって残酷だ。
ある日、村の方から煙が上がった。
黒く、濃い、焼けるような煙。
「師匠、盗賊です!」
エリオが叫びながら駆けてくる。
「村が襲われてます!」
「落ち着け! 村に戦える者は?」
「いません! みんな逃げて――」
その言葉を最後まで聞く前に、エリオは走り出した。
「待て!」
「俺、行ってきます! 俺の魔法で、少しでも――!」
「やめろ、まだ未熟だ!」
「でも、母さんが!」
その名を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。
あの目。あの真っ直ぐな瞳。
千年前、同じように“誰かを救おう”とした自分と重なった。
気づけば、俺も杖を握っていた。
◆
村は地獄と化していた。
家々は炎に包まれ、悲鳴と剣の音が混ざり合う。
エリオはその中央で、必死に魔法陣を描いていた。
「エリオ! やめろ!」
「師匠……俺、できるんです。みんなを守りたい!」
未熟な術式。崩れた詠唱。
止める暇もなかった。
白光が走った。
爆風が全てを呑み込み、炎と風と悲鳴が混ざった。
俺は反射的に叫んでいた。
「《永劫の環よ、我に還れ――》!」
千年封じていた魔法。
世界が軋むほどの力が、空を割った。
次の瞬間、全てが静まり返った。
風も、炎も、音さえも止んでいた。
焦げた地面の中央に、エリオが倒れていた。
「馬鹿野郎……」
抱き起こすと、彼はかすかに笑った。
「師匠……すごいです。風が……止まった」
「お前が止めたんだよ」
「俺……できた、んですね」
「ああ、立派な魔法使いだ」
その言葉を最後に、エリオの瞳から光が消えた。
◆
夜明け。
村は静かだった。
焦げた木々の間を風が吹き抜け、朝の光が差し込む。
俺は小高い丘の上で、エリオを埋葬した。
杖を地に突き立て、静かに手を合わせた。
墓標に刻む言葉は、何も浮かばなかった。
ただ一言、呟くだけ。
「お前の風が、村を救ったぞ」
その瞬間、杖の先から小さな光が生まれた。
風が吹き、草が揺れた。
まるで彼の笑い声のように、柔らかい風だった。
俺は杖を見つめ、ゆっくりと手を離した。
木の杖は、土に沈み、やがて草に覆われた。
それを見届けると、胸の奥で何かが静かにほどけた。
「……これでいい」
俺は空を仰いだ。
初めて、朝焼けが美しいと思った。
何百年も繰り返した夜明けの中で、ようやく心から感じた“始まり”だった。
俺はそっと呟いた。
「今日から俺は、ただの人間でいい」
◆
その日を境に、森の小屋には誰も来なくなった。
だが、風だけはいつも吹いていた。
春の風、夏の風、秋の風、冬の風。
それは、まるで少年の笑い声のようだった。
魔法など、もう使う必要はない。
風が吹く。陽が昇る。人が笑う。
それで、十分だ。
――俺は、魔法使いをやめた。
そしてようやく、人間に戻れた。




