29.疾風の記憶①
俺は愛馬に鞭を打ち、館へと急いだ。
王からの呼び出しだ。
嫌な予感がする。
境界線は相変わらず不安定だが、
新しく入った、大地という者がいれば
簡単に昏哭界からの侵入を許すことはない。
王の館が見えた。
王の家臣しか入ることができない館。
馬を降りたところで従者が俺に声をかけた。
「疾風様。王がお待ちです」
「ああ。すまない。馬を頼む」
俺は王の部屋へと急いだ。
扉を開けた。
王はかつてないほど険しい表情をしている。
俺は王の前に跪いた。
「お呼びでしょうか」
「疾風。太楽国のクラリサが奪われた」
俺は信じられず、王の言葉に偽りがないか
まっすぐに王を見つめた。
王は目をそらさず俺を見つめる。
クラリサが奪われた。
本来であればこれから始まるであろう
戦いについて考えるべきだろう。
だが俺は不謹慎にも
一人の女性のことを考えていた。
導きの間で巫女をしていた女性。
真琴……
まだ天澄界にあるクラリサの
青い珠が失われる前……
俺は太楽国から天澄界へと渡る舟の渡守をしていた。
導きの間にある三面鏡の未来の鏡に
次の世界が映し出されると
庭は川へと変わり、
天澄界、昏哭界、それぞれの舟が
迎えにやってくる。
その日は太楽国で貴い位にあった者を迎えに
導きの間へと向かった。
舟を操り、導きの間へと近づく。
渡る者は貴子という初老の女性であった。
穏やかな顔つきをしているが、
どこか後悔の念を併せ持つ雰囲気をしていた。
導きの巫女である真琴は
貴子を俺の舟へと導き
いつもの様に美しい笑顔を見せた。
俺の気持ちなど、真琴は知るよしもないだろう。
人間に惹かれるなど、あり得ない。
俺もそう思っていたのだから。
今日も一言も交わせずに舟を出した。
霧がかかり、導きの間はどんどんと遠くなり
やがて見えなくなった。
太楽国との境界線、赤い鳥居がうっすらと見えた。
貴子は鳥居を指差し、
「あれは?」と尋ねた。
「あの門は太楽国と繋がっています。
まれに太楽国に戻らなければならない人も
いるのでしょう。
しかし貴女はそうではありません。
天澄界が貴女を呼んでいます」
貴子は、遠くを見つめて呟いた。
「この世に悔いが無いと言えば嘘になるわ。
私には二人の娘がいました。
二人を上手に愛せば良かったのに、
一人をとてもつらい目に合わせてしまったの……。
ところで昏哭界に行けばどうなるのでしょう?」
「永遠の命を授かります。年も取らず。
だから永遠の苦しみを味わうことになるのです。
夢も希望もなく、永遠に憎しみと怒りの感情だけに
支配される」
俺は舟を操りながら答えた。
「それは本当に地獄ですね」
貴子は昏哭界に行かずに済んだことに
ほっとしたようだった。
「でも憎しみや怒り。妬みや嫉妬。
太楽国にもそんな感情はたくさんあります。
昏哭界とも紙一重……」
貴子を俺を見つめた。
「あら、貴方にはそんな気持ち
わからないかしらね。
嫉妬なんてしたことないでしょう?」
俺は太楽国がある方向を見つめ呟いた。
「いえ。わかりますよ。とても……」
俺は先程見た美しい笑顔を思い浮かべていた。




