肆/霊ノ川の河童/陸
その怪異は、自らの獲物が川面へと身を投げたのを見て内心で良しと叫ぶ。
上半身は人――容姿端麗で艶やかな女性の姿形をしているが、下半身は魚類を思わせる大きな尾びれがある。
――所謂、人魚とも称される怪物であった。
川の底から地上に向けて歌を届け、その歌を耳にしたものを虜にして川面へと身を投げさせる。
それが、この怪異の唯一無二の武器である。
誘惑的な歌声、という点においてこの怪異はギリシア神話のセイレーンとの共通項があるとも言える。
セイレーンも半人半魚――ただし、元々は半身が魚ではなく鳥と伝わっているのだが――であり、同一視され得る個体であるのは明らかだった。
そんな彼女は、川へと身を投げ込んだ獲物――少女に向けて一直線に泳いでいく。
力強く、しなやかに尾びれを動かして一瞬にして最高速へと到達する。
水の抵抗は空気抵抗とは比べ物にならない。
水中でそのような最高速や加速を実現するのは現実的には不可能だろう。
しかしながら、物理法則に囚われないのが怪異、怪物の真骨頂である。
あっという間に少女のもとへと辿り着く。
そして、その少女を弱らせるべく腕を掴んでそのまま川の底へと引きずり込んでいく。
尾ひれを一度、二度。
たったそれだけで川の底へと辿り着く。
そのままの勢いで少女を連れて泳いでいく。
このような事をされれば、一般的な人間であればどこかで水を深く吸い込んでしまい、呼吸ができずに溺死する。
河川を生息域としているだけあって、泳ぎという点においてまず間違いなく人間は比較対象にはなり得ない。
それに腕を掴まれた人間が、無事であろうはずがない。
『――これで終わり?』
だが、彼女の耳には確かにそう聴こえた。
そのような声は聞こえる筈がない。
水中において、声を用いた会話というのは基本的に一般的ではない。
イルカ等、元々そういう環境でのコミュニケーションに特化している生物であれば、それはあり得るだろう。
しかしながら、今この瞬間の霊ノ川において、そういった生物が彼女――人魚以外にはいないという確信が彼女にはあった。
だからこそ、『何?』と彼女は声を漏らす。
彼女の声を原理は人間には――正確に言えば物理法則では、だが――説明できない怪異だからこその声である。
それと同様の事をしている彼女以外の存在という者に対して、警戒をするのは当然の事である。
ましてや、その声の主がたった今彼女によって水中を強引に連れられている獲物であるだなんて、彼女が驚きを示すのは無理なかった。
『あー……日本語通じてるのかな、これ。もう一度言うか。――|これで終わり《Is this over》?』
その言葉の主――少女から、先程までは感じていなかった奇力があふれ出ていて、どういう事だと彼女は目を丸くする。
少女を獲物として定めたその時は、そのような奇力を発してなどいなかったはずだ、と彼女は困惑する。
信じられない出来事が立て続けに起き、彼女の頭はまともな思考ができる状態ではなかった。
困惑している人魚を見て、“やっぱり真鈴の作戦って効果は凄いんだよな”と智磨は感心する。
先程まで塗りたくられていたファウンデーションは川の中をぐるぐると連れられている内に落ち始め、所々水玉模様のように残っているのみになっている。
ウィッグはとっくのとうに外れていて、いつかは川に捨てられたゴミとして処理されるのだろう、等と人魚とは関係のない事まで考え始める。
『|お前何者だ《Who are you》?』
智磨の眼前にいる怪異、人魚は智磨に向かってそう尋ねる。
奇力を用いた一種のテレパシーのようなものを用いるこの手法は、水棲怪異にはよく用いられる手法である。
水棲怪異の中には、人間との共存を望んでいる者も少なくない為、怪討の中にはこのテレパシーを習得しているものも少なくない。
例によって、智磨もその一人であるが為に、智磨は「特等|怪討《strange slayer》、水流城智磨」と返す。
怪討、という名前はあくまで日本で通じるもの。
英語圏では奇妙なものを殺す者の意でStrangeSlayerと呼ばれている。
英語を用いる怪異という事で敢えて智磨はそう名乗った。
そして、その通りなのか人魚も『お前が、|怪討《Strange Slayer》?』と尋ね返す。
その間も人魚は智磨を溺死させようと川底をくるくると泳ぎまわる。
特等怪討として幼少から鍛えられてきた智磨にとって、このように川底に引きずり込まれたとしても、そう簡単にやられる事はない。
並外れた奇力が大きな酸素ボンベを背負っているような役割を果たすおかげで、呼吸という問題は暫くの間はクリアされている。
しかしながら、問題としては着衣した状態で水中にいるという事と丑三つ時ではない事。
ただその二点だけが智磨にとってはハンデとなっていた。
着衣水泳という言葉がある。
普段着のまま泳ぐ事を指す訳だが、これは泳ぎを得意とするものにとっても難易度が高い行為である。
日本における水難事故での死亡率が高いのも、教育現場においての水泳の授業が競技泳法に偏っているからという指摘があるとも言われている。
泳ぐのが得意な人間であろうと、着衣状態でまともに泳げる筈もなく、思ったように泳げず溺れてしまうという事が多々起きている。
智磨はその程度で溺れる訳がないにせよ、相手が自由自在に泳げるという中でそれは大きなハンデと言えた。
また、一般的な日本の怪異が丑三つ時に活性化するのと合わせて、智磨自身も丑三つ時に本領が発揮できるよう生活リズムを整えている。
これもあって、普段よりも自身の動きが僅かに鈍っているのを彼女は感じていた。
そのような状態でどうやって、倒すべきか。
それについて考えようとしたその時。『水流城さん!』と叫びながら智磨の腕を掴んでいる人魚へと突進をしかける一つの人影が。
その衝撃に耐えられず人魚は智磨から手を離し、智磨はその人影の手を咄嗟に掴む。
『ご無事ですか水流城さん!』
それは、昨晩自らの潔白を主張していた河童――長介だった。
その周囲には長介の仲間である河童が勢ぞろいしていて、その何人かが人魚を追いかけまわしている。
予想していなかった援軍に驚く智磨だったが、心底から心配そうにしている彼の顔を見て智磨は『自分があの程度でやられる訳ないでしょうに』と一言。
これには『い、いえ、それはそうですけど』と長介は言葉を詰まらせる。
少し弄り過ぎたか、と判断した智磨は『ごめん。助かったよ』と感謝を口にしてから『来て、布津丸』と言って手元に布津丸を出現させる。
『応よ。我が使い手。……いけるのか』
『長介達もいるしね。負けるわけがないよ』
援軍がいるとなれば、やる事は極めてシンプルになった。
勝機がはっきりと見えた智磨は、『長介、アイツのとこまで私を投げられる?』と尋ねる。
これには『やれと言われれば勿論』と返す。
河童は、泳ぎを得意とする怪異、妖怪の類であるが、その真骨頂は地上で相撲をとる逸話がある程のパワーである。
それは見た目でわかる筋力という部分でもそうだが、奇力を利用しているという点においても非常に力強い。
その力は、水中で物を投げた場合にもしっかりと発揮され、水中であろうとまるで空中かのように物を投射する。
それは、智磨を投げたとしても同様に発揮される。
『いきますよ……!』
合図をしてから、長介は智磨を人魚目掛けて投げる。
とても水中を突き進んでいるとは思えない速度で智磨が一気に人魚へと迫る。
長介の仲間達が示し合わせたかのように、河童たちが追い立てた先に智磨がちょうど来るようになっている。
それを察知した人魚は急制動をかけてそれを避けようとする。
しかしながら、水中での方向転換など、空中のそれと比べても機敏に動けるはずもなく。
それは、怪異である人魚も例外ではない。
そこに向かって、一気に智磨が迫る。
水中に描かれた煌く太刀筋は二つ。
その二振りによって、人魚の両腕が斬り落とされて、川底へと沈んでいく。『グ、ギャアアァ――!』と人魚は悲鳴を挙げる。
それを耳にした智磨は『そんな悲鳴を挙げている人間をどれだけ襲っているんだ、お前は』と悪態をつく。
この人魚は初犯ではない。
人を水中へと引きずり込むのに慣れ過ぎている、と智磨は感じていた。
『|死にたくない《I don't wanna die》! まだ!』
必死の形相でそう訴える人魚。
しかしながら、智磨やその周囲にいる河童が簡単に応じる訳もなし。
智磨にしてみれば、自分の住んでいる霊崎において水難事故を引き起こして人死にを出している時点で許せるはずもなく。
また、河童の長介達からすれば、自らの生息域で河童に責任があるかのようにしている相手である以上、そのような存在を簡単に許せるはずもなかった。
自分達が何も悪事を働いていないというのにその濡れ衣を着せられるとなれば、心中穏やかでいられる方がおかしい。
『だったら、|質問に答えろ《answer the question》。|お前には《You need to》|協力者がいる筈だ《have a collaborator》。|それは誰だ《 Who is that》? 答えろ!』
人魚の首根っこを掴みながら、智磨は問いかける。
怪異と怪人が結託しているというのなら、この怪異から怪人について聞き出せる筈、という考えのもとである。
これに対し、人魚は何かを言いたげに口をパクパクと動かす。それを見てとった智磨は首根っこを掴んでいた手の力を僅かに緩める。
『――ケイト。……確か、|彼女はそう《 that's what she》|名乗ってた《called herself》』
ケイト。
その名前に合致する怪討を智磨は一人しか知らない。
小川ケイト。霊崎支部の副支部長。
『ありがとう。|もういいよ《 That's enough》』
そう言って、智磨は人魚の首根っこから手を離す。
人魚は解放された事に驚いて目を大きく見開く。
そして、安堵の息をつくが、そこへ河童の長介が強烈な体当たりを人魚に対してお見舞いする。
『……私は、だけどね。彼らが許すと思うかな』
それだけ言い残して、智磨はその場を着衣のままとは思えない器用さで近くの川岸まで去っていく。
その背後では、冤罪をかけられそうになった恨みを晴らすべく河童が集団で人魚をいたぶっていく様が繰り広げられていた。
怪異の世界も本来ならば、弱肉強食。
強いものがその場で生き残り弱いものは淘汰されていく。
自然界と変わらぬ当たり前の摂理だ。
これまで、協力者の助けもあって勝手ができていた人魚だったが、智磨によって両手を斬り落とされた事に加え、数的不利ともなれば勝敗は見るまでもなかった。
ざぱぁ、と音を立てながら川岸にたどり着き、智磨は浮上する。
川から感じられる奇力が確かに一つ減った事を感じ取りながら、「大人しくしていれば、共存できただろうに」と零す。
長介は河童の中でもかなりの穏健派で、智磨がかつて好戦的な河童を討伐した際にも仲間を討伐されたにも関わらず、“人間と共存していきたい”と言う意思を明確に示してきた程である。
そんな彼ならば、外来の人魚が来たとしても本来ならば受け入れる未来もあった筈だ。
しかし、そうはならなかった。
河童の立場を貶めるような行為、共存を望んでいた人間を獲物とする行為。
それらが長介の怒りの源であるのは間違いなかった。
人魚の残りカスが川を流れていくのを眺めながら、智磨は一旦冷えた身体を温めなければと身体を震わせながら自宅へと向かうのだった。
次回更新予定時刻:
2025/07/18/18:00




