壱/一三段の階段/壱
日常と非日常とを隔てる壁はない。
非日常は密かにそこにある。
常人と非常人とを隔てる壁もない。
非日常を見張る為そこにいる。
七不思議を知っているか。
無邪気に尋ねる常人の言の葉は。
非常人の耳に確かに届く。
――ほうらやっぱり。
日常と非日常は隔たれていない。
常人であってもそれを知り得るのだから。
二○二五年二月六日の昼前。
K県霊崎市立梅戸中学校二年三組の教室。
そこで水流城智磨は自身の席で突っ伏していた。
ものの見事な熟睡であり、手元のノートには板書を映そうとしたものの文字が崩れ過ぎて読めなくなっていた。
授業を受けようとした形跡こそ見られるが、流石の教諭も無視できない。
速やかに智磨の席まで移動し、「おい水流城」と声をかけながら机を軽く叩く。その音に驚いたのかガタリと音を立てながら智磨は目を大きく見開いて飛び起きる。
「――目、覚めたか」
圧の感じる教諭の問いかけに、智磨は力なく「……はい」とだけ返す。
自身が寝てしまっていた事を今更否定できる筈もなく、その返答はあまりにも力のないもの。
その様子を見た教室の一角からは笑い声が聞こえたものの、「おい聴こえてるぞそこ。水流城の場合は成績が良いが、お前たちだって笑っていられる状態じゃないと思うぞ?」とピシャリ。
水流城智磨は少なくとも、この梅戸中学校においては優等生の一人として数えられていた。
定期試験では満点――とはいかなくとも学年上位で上から五本の指には入る程。
それでいて、体育の成績も悪くない為、なぜ彼女が運動部に入っていないどころか帰宅部なのか――というのは学校関係者の多くから不思議に思われている事柄の一つだった。
尤も、授業中に寝てしまう事が多いのという点が難点であり、それが理由で五段階評価における最高評価の五をつけにくい、と教諭は常日頃から智磨に伝えてはいた。
――ただし、それであっても智磨は授業中に寝る。少なくとも、定期試験では成績を出せている以上、学校の成績がなくとも試験一発勝負で良い高校を狙えるだろう、とも思われていた訳だが。
それはさておき。
こうして教諭によって目を覚まさせられた水流城智磨だが、眠いのは無理もない。智磨は昨夜まともに寝られていないのだから。
昨晩、繁華街で怪物に襲われていた女性を救出しただけでなく、その他にも裏路地で傷害事件を起こそうとしていた怪物を速やかに討伐する等、怪討としての仕事をしていたのだった。
仕事であれば、周囲からの理解もある――というのは幻想にすぎない。
怪異の存在というのは、一般的に秘匿されているものであり、そもそもその秘匿をしているのが智磨たち怪討なのだから。
故に、怪異を討伐していた、等という理由で昼間に眠くなるなんて事を説明できるはずもなく。智磨は、そのあたりは諦めて受け入れるようにしていた。
――それはそれとして、寝不足で昼夜問わず眠い事が多いという悩みを持ってはいるのだが。
そうして、智磨は授業に復帰してからは眠気に耐え切ると昼休みを示すチャイムが鳴る。「起立、礼」と日直の号令もあって授業が終わった直後、智磨の席へと駆け寄ってくる一人の女子生徒がいた。
背は一六〇センチ程度であり、智磨の背が一四○センチ程度という事を考えると同学年のようには見えないが、間違いなく同い年である。
「やっほ智磨。今日も眠そうだねぃ」
「それはともかくノートかしてよ成美」
女子生徒――坂本成美の言葉に、遠慮なくそう返した智磨に対しては「ごめんて。ほら、これでいいっしょ」とそう返される事を予め想定していたかのようにノートを手渡す。
智磨にとって、成美は梅戸中学校における数少ない親友の一人と断言できる位には、関係が良好なクラスメートであった。
智磨は常日頃から眠そうにしている事と、それでいて成績優秀という面のせいか周囲からは一歩距離をとられていた。
その中で、成美はそういった事をあまり気にせず智磨と接している事から、智磨からすれば得難い友人という評になるのだった。
そんな成美のノートは授業中の黒板に書かれていた内容をそのまま書き写しただけというシンプルなもの。
人によっては教諭の授業中の話を付け加えたりするだろうが、成美はそういう事をしていない。
とりあえず、板書だけはするというのが成美のスタンスであった。
授業中に寝てしまってそれすらできていない智磨からすれば、それでも十分にありがたいものである。
ノートを写している智磨とは対照的に、成美は智磨のすぐ傍の席に座って弁当を口にしていた。
中には色とりどりの具材が詰め込まれていて、特にタコの形を模したウィンナーについて特においしそうな表情を浮かべながら口にしているのを見た智磨は、「今日も大分凝ってる弁当だね」と一言。
「毎日お母さんが作ってくれるからねー……日々感謝ですわ」
恐らくは冷凍食品だろう具材も幾つか見えてはいるものの、その分の手間を差し引いたとしても、やはり朝早くから弁当を用意するというのは手間である。
どんな弁当であれ用意されている以上は、食す側は感謝するのが当然というもの。
感謝しながら食べている成美を見て暖かい気持ちになりつつも、智磨はノートを写す手を止めない。
それから数分後、昼食の時間はなんとか残した上でノートを写し切った智磨は「ありがと、助かった」と成美にノートを返す。「どういたしましてー」とにこやかに成美はノートを受け取る。
そうして智磨は漸く昼食――弁当をカバンから取り出して、蓋を開ける。
成美の凝っている弁当とは対照的に、智磨の弁当はあまりにもシンプルなもの――白いご飯に野菜、サラダチキンの組み合わせ――であった。
これを見た成美は「……そっちも、相変わらずだね」と言えば、「まあ、一人暮らしだしね」と言う。
水流城智磨は中学生ながら一人暮らしである。
少なくとも家事全般がそつなくこなせる程度には、智磨は既に一人暮らしに慣れており、年齢を考えれば智磨の生活力は極めて高い部類に入る。
しかしながら、成美の親とは異なり弁当に力を入れないのは、“どうせ自分が食べるのだから、適当でいいや”という思考が働いているのが大きい。
少なくとも、怪討の活動で睡眠不足に陥り、落ち着いて早朝に弁当を確りと作るなんていうものは不可能に近いという事情も多分に含まれている。
「……ところでそれ、飽きないの?」
智磨の弁当を見ていた成美が、そう尋ねる。
智磨が一人暮らしであり、自身で弁当を用意している事を成美は知っている。
知ってはいるが、それはそれとして智磨の弁当が毎日同じ組み合わせ――白いご飯に野菜とサラダチキン――である事に疑問を持っていた。
いくらなんでも毎日同じでは飽きてしまうだろう、と成美は思ったのである。
ただ、その問いかけに智磨は目の色を変える。
「何言ってるの。完璧な弁当でしょ」
混じりけのない純粋な瞳はきらりと輝いて見える。
普段は小柄で華奢な体型に似合わず大人しく――いや、大人びているようにも見える智磨だが、この瞬間は年相応、体型相応に幼く成美には感じられた。
智磨には時々そういう瞬間がある、と成美は知っている。
ただ、そういう一面があるという事を他のクラスメートも知っているかと言えば、答えは否。
智磨も狙ってやっている訳でも無し、この様子の智磨が見られるというのはそれだけ長く智磨と接していてその機会を逸しなかったというのが大きかった。
そんな智磨を観察しながら、成美は何かを思い出したかのように「――あ」と声を漏らす。
それを耳にした智磨が「どうかした?」と尋ねる。
それを受けて「あー……」とこれから話題を切り出す為の助走のような声を漏らしながら、成美は頭の中で話題をまとめていく。
そうして、成美は意を決して口を開く。
「――そう言えば、うちの学校の七不思議って知ってる?」
その言葉を聞いて、智磨の意識が学生のものから怪討のものへと切り替わった。
学校の七不思議――所謂“怪談”とも言われる代物というのは、怪異とも当然ながら関わりのある事案であった。
勿論、学校の七不思議と呼ばれているものの大半は作り話であり、荒唐無稽であるのは大前提としてある。
しかしながら、そういった話が“語り継がれている”という事実そのものが、この怪談の脅威でもあった。
そもそも、怪異というのは非常に大まかな区分である。
妖怪から悪霊、精霊や神霊――といった多岐にわたる非日常的な存在全般を表す言葉、とも言い換えられる。
そして、そのそれぞれの成り立ちは各々で別であるという事を考えれば、怪異と一括りにするのはあまりにも乱暴だと言える。
そのあたりについては、智磨も同意見ではあるものの、代案が無い以上は反対もできない、と智磨は黙っている事にしていた。
――それはともかくとして。
「そう言えば、あったねそういうの」
智磨は興味がある風に口を開く。
少なくとも話を聞く姿勢はとっているという意思を見せれば、成美は「お、ノリがいいねぇ」と笑みを零す。
大前提として怪討としては、このように怪談の噂話が広まっているというのも宜しくない状況であった。
しかしながら、そういった噂話というのは貴重な情報源にもなる以上は無視できず、だからこそ智磨は成美の口から何かしらの情報を得られるのではないか、と考えてのもの。
事実、成美はこの話題をそのまま続けるのだった。
「これは、うちのバスケ部を引退した先輩から聞いた話なんだけど――」