序/怪異を斬る剣
二○二五年二月六日。
K県霊崎市霊崎駅周辺。
K県とT都の県境にある霊崎市は人の出入りが多い市であった。
ちょうどT都との県境にある魂ノ川を渡ればT都、南に下ればK県最大の都市である星浜市があるという立地は学生や社会人にとってはあまりにも都合の良い場所とも言えた。
そんな霊崎市の人口が増えるのは極めて自然な事であり、その中心である霊崎駅もまた日中は勿論夜間も多くの人がひしめき合っている。
近年は駅周辺の再開発も進んでおり、駅の西口側には大型ショッピングモールや音楽ホールといったものも揃っていて綺麗に整っている。
しかしながら、それと比較すると東口は高度成長期当時の建物がそのままになっている所も少なくない。
そんな東口にある繁華街で、一人の女性が必死に駆けていた。
走りにくい、と気づいて途中からはハイヒールを脱ぎ捨てて、ストッキング越しに素足で地を蹴り駆ける。
だが、後ろから追いかけてくるそれは、少しずつ女性に近づいてくる。
一気に近づくのではなく、徐々に距離を詰めてくるあたりに、女性の恐怖は更に増幅していく。
まるで、その様子を楽しんでいるかのように、女性を追いかけるそれはゆっくりと近づいていく。
「あっ――」
ふと何かに気づいた女性がそう声を漏らして、見上げる。
そこは無情にも行き止まりであった。
引き返そうにもそのような事をすれば、後ろから追いかけて来る何かに遭遇するだけであるし、そのまま立ち止まったとしても結果は同じ。
どのような選択をしようとも、女性は追いつかれてしまう。
その事実に気づいた女性はぺたん、と全身の力が抜けてその場に崩れ落ちる。
ひたひたと女性の背後からそれは近寄ってくる。
もうそれは振り向かずとも背後にもう“いる”と確信できる程に。
恐怖のあまり、身体は女性の思うようには動かない。
彼女の意志とは関係なく、ただ背後を振り向く。
そこにいたのは、まさしく人外の存在だった。
背は二メートル以上。
手足は人間とは思えない程肥大化していて、丸太のように太く逞しい。
肌の色は深緑色で、とてもではないが真っ当な人間のそれには見えそうもない。
そして、目も赤く輝いていてどことなく血を連想させる色合い。
どこからどう見ても、怪物としかいいようのない存在が、そこにはいた。
人型をしている事から、怪人と呼称しても違和感はないだろう。
――もう助からない。
女性は本能的にそう察していた。
それがわかっているからか、女性の眼前にいる怪物も舌なめずりをしながらゆっくりと女性へと近づいてゆく。
一歩、また一歩と近づいていく。
その時間があまりにも長く感じる。
その命の灯火が消えるまでの時間が、長く感じられた。
丸太のように太く逞しい腕の先には、鋭利な刃を思わせる爪が見てとれる。
そのようなものを振るわれてしまえば、女性の身体はひとたまりもない。
数瞬先の未来を予想して、女性は恐怖のあまり目を閉じる――。
――そこへ、風を切る音が女性の耳に届く。
そして、その直後にゴトリ、と何かが落ちる音。
いつまで経っても脅威が自身に対して振るわれていないという事実に気が付いて、恐る恐る女性は目を開ける。
すると、日本刀を構えたコスプレ用の学生服を着た身長一四○センチメートルと少しの小柄な少女が女性と脅威の間に割り込んでいた。
肩につくかどうかの黒髪はこの世のどのような黒よりも黒く艶やかで、さらりとなびいている。
先程まで命の危機があったというのにも関わらず、女性はそんな少女の容姿から目を離せずにいた。
ふと女性が少女の足元を見てみれば、先程の怪物の左腕が落ちていて、その少女が手にしている刀によって斬り落としたものであると示していた。
女性からすれば理解できない物事が同時多発的に起こっている故に混乱していた。
そもそも、なぜ繁華街を歩いていたら怪物に追われるのか、どうしてそれが自分に襲い掛かろうとしていたのか。
更に言えば、たった今女性を助けた小柄な少女についてもわからない事ばかりだ。
銃刀法違反はどうなっているのか、この時間帯にそのような少女が出歩いているのはどういう事か、なぜ着ている服がコスプレ用の独特な意匠が施されている学生服なのか。頭の中は疑問で溢れ返っていた。
そんな女性の思考を遮るように、「ぐぎゃあぁ!」と怪物が悲鳴を挙げる。
ワンテンポ程遅れて、自身の腕を斬り裂かれた事に対して反応したようだった。
その悲鳴に女性は再び恐怖を思い出し「ね、ねぇ! これはどういう事⁉」と少女に尋ねる。
これに対し少女は「ごめん。少し黙って」と視線を怪物の方へ向けたまま、刀を両手で握っていた内、左手を女性の方に向けたかと思うと、女性は唐突な眠気に襲われてその場にぱたり、と倒れた。
「――後で、ちゃんと記憶をどうにかしないと」
女性が意識を失ったのを見た少女はそう口にする。
現代社会において怪物に襲われるなんていう記憶はあっても仕方がない。
一般社会の常識として、怪物の類はあくまでも空想上の存在に過ぎないのだから。
しかしながら、現代社会にあっても空想上の存在とされていたもの――“怪異”は日常の裏、非日常の一部として確かに現存している。
如何にいつも通りの日常を過ごしていようと、怪異というのはあらゆる理由――主に自身の存在を確固たるものにしようとして――日常の住民を狙い、食らいに来る。
非日常、怪異の脅威はすぐ傍にある。
――だからこそ、それを討つ存在がここにいる。
「特等怪討、水流城智磨。これより交戦する」
咽喉無線のスイッチを入れながら、少女――水流城智磨はそう宣言する。
怪異を討伐するもの――“怪討”。
非日常から日常を守る為の存在。
つまり、この少女は――怪異を斬る剣である。
怪物は、自身の腕を斬られた事で眼前の少女――智磨が自身にとっての最大の脅威だと認識していた。
赤く光る眼が智磨を睨みつけるが、智磨は気にしている素振りを見せない。
智磨にとって、眼前にいる怪物は脅威ではない――そうとも受け取れる姿に、怪物は激昂し残っている右腕で智磨を引き裂かんとする。
しかし――。
「――遅い」
智磨がそう呟いたと同時に、小柄で華奢な身体からは想像できない程、あまりにも俊敏な動きで逆に怪物の懐へと飛び込んでゆく。
そして、その勢いのまま刀を再び両手で持ち直し、「いくよ布津丸」と刀に対して語り掛ける。
それに対して『応よ。我が使い手』という返答があったかと思えば、一瞬の間に太刀筋を描く煌きが二つ三つと宙に現れた直後――怪物が細切れになってその場に肉片がボトボトと音を立てながら落ちてゆく。
怪討にはそれぞれ、強さを示す等級がある。
一般的な怪討が四等、怪討として優れているものが一等とされている中で、彼女が口にした等級は“特等”。
通常の等級では測れない程の強さを持つ者。
それが、水流城智磨という怪異を斬る剣だった。