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良い子の代償

作者: かもライン

これも二十数年前某HPに掲載してもらっていたものの、再掲載です。


 一応、完成した作品ではありましたが、改めて読み返してみれば、そのままお見せできるようなモノではなかったので、結構手を入れました。特に前半などはダラダラしたところをバッサリ割愛し、簡単な説明に書きなおしましたし、二部構成だったものも一部目のラストは逆に必要ないと感じ、一部構成にしています。

 学院は山を背にしている為か、少し登れば学校の全景が見えた。


 志紋恭介しもんきょうすけは、何をする訳でもなくただ、ぼおっとしながら、丘の上から講堂のある学校を見下ろす様に眺めていた。

 左側に初等科と自分達が今までいた中等科。隣の目の前に高等科。右手の方に大きく取った敷地に短大と大学。その短大の前には幼稚園という、広大な敷地が一望出来た。


 3月だからまだ肌寒い。しかしポカポカした陽気が気持ち良かった。山の中にはまだ花はないが、学校の敷地のあちこちにある白梅・紅梅は綺麗に花を咲かせていた。

 志紋は別に花などに興味はなかったが、この白梅・紅梅だけは好きだった。桜や他の花のように暖かくなってから咲くのではなく、まだ寒いのに堂々と自己主張しているこの花が。まるで『もう寒くなんかないぞ』と、やせ我慢しているようで。


「「「われは知れ~り、主ぅの恵みぃ。若い生命の歓びいぃだきぃ」」」


 聖歌が、広い講堂から聞こえてくる。

 壇上の横でシスターがパイプオルガンを演奏し、若い男女の学生たちが合唱していた。


 今日は、聖ガラテア学院中等科の卒業式。

 卒業して、この学院の高等科へ進む者、公立の高校へ行く者、また他の私立の高校を受験し進学する者。いずれにしても明日よりここにいる者たちはバラバラに散っていく事になっていた。


 また聖ガラテア学院はミッション系の学校としては、中等科までが共学という少し珍しいタイプの学校であった。とはいえ中等科が共学になってからまだ数年、まだ5対1ぐらいで女生徒の方が圧倒的に多かった。

 初等科でも3対1ぐらいだろうか。ただし高等科はまだ、頑なに女子学生のみであった。

 ちなみに短大も女子のみだったが、これは保育科と衛生科という性格上、仕方ない。ただし大学は共学で、国文学科、教育学科、社会福祉学科とあったが、それでも女生徒の方が圧倒的に多い事に変わりはなかった。


「「「わ~が主の召しにぃ、応えて行かん。生くる甲斐ぃ、主にぃこそあれ~。アーメン」」」


 聖歌が終わった。

 卒業式は無事に進行しているのだろう。


 ふと、後ろの茂みがガサガサと音をたてた。ふと振り返ると、まだ若い修道女 《シスター》が顔を出し、志紋の顔を見つけてにっこり笑った。

「やっぱりここね」

 シスターアグネス・アンナ佐倉は、白い修道服の長いスカートに苦労しながらも藪の茂みを抜けた。

「シスター・アンナ……」


「こうして私が追いかけてきたのは、何回目だっけ?」

「十は、ないか。確か……八回目ぐらいだったと思います」

「そうね。もうちょっとあったかと思ったけど、そんなものだったかしら。お隣座っていい?」

「はい」

 シスター・アンナはスカートの埃をはらって、志紋の隣に腰掛けた。


「志紋くんも卒業だから、さすがにもうないと思ったけど、最後の最後でやってくれたわね」

「すみません。どうしても、あの場所に居たくなくて……」


「志紋くんは……」

 アンナは、あの場所に居たくなかったのではなく、卒業証書を受け取りたくなかったのじゃなくて? と聞こうとしてやめた。何か、志紋の最も痛いところをえぐる様な気がしたので。


 そのかわりに

「初めて私が追いかけてきた時の事、覚えている?」

 と、言葉をすりかえた。


「はい。シスターが担任交代になった直後の、確か僕が中学1年の秋でしたか」

 志紋達の中学最初の担任は、いきなり体調を悪くして入院し、代りに教職をとったばかりのシスター・アンナと交代した。

「私は凄くショックだったわ。まさかいきなり授業中飛び出す様な子がいるとは、思いもしなかったから」

「僕もシスターが、まさか追いかけてくるとは思いませんでしたが」

「あの時はどうして良いのか分からなかったの……。でも今となっては懐かしい思い出ね」

「思い出ですか……」

「あら、どうしたの?」


 アンナは志紋がむつかしい顔をしたのが少し気になった。ただアンナが心配そうな顔をしている事に志紋は気付き、

「あ、ちょっとですね」

 志紋は、わざと明るく答えてから、一回大きく伸びをした。

 その上でアンナの方を向いた。


「少し長くなると思うんですが、いいですか」

「ええ。どうせもうあの卒業式に、途中から入っていくつもりはないんでしょ」

「すいません」


 シスター・アンナから見て、彼は特別気にかかる存在だった。

 彼はこの学校で、誰よりも成績が良く、スポーツも万能で、誰に対しても面倒見がよく、頼り甲斐もあり、3年の時などはそれが当然の様に生徒会長職をこなした。


 これまで初等科も含め、男子生徒でこのポストに立った人はいない、という前例をくつがえした事も含め、どれ程人望があったか分かる。

 だが優秀すぎるが故に、その影の部分がアンナには気にかかった。


 時に、気に入らない事とかあると、まわりに当り散らす代りに、学校を飛び出す事もしばしばあった。

 シスター・アンナが最初にそれをされた時、ためらわずに彼を追いかけた。クラスの他の子をほったらかしてである。


 それを逆に志紋は非難したが、彼女は聖書の中の、迷える子羊のエピソードを持ち出して、神を信じない志紋に神の愛を懇々と説いた。

 それにはさすがの志紋も根負けした。

 相変わらず、神などは信じないという一点のみは譲らなかったが、そこまではアンナも強制しなかった。

 だからこそ、アンナは、この気難しい志紋が心を許す一人になったとも言える。


「僕みたいな人間が、こんな学校に来ていること自体何かの間違いの様な気がします。実際ここに通う様になったのも、僕が3歳になった時に、3年制の幼稚園で空きがあったのが、ここだけだったという理由だけでしたから」

「幼稚園で?」

「そうです。親が共稼ぎで、どうしても3年制の幼稚園に入れたかったみたいで」

「でも、幼稚園がダメでも保育園ならまだ余裕あったと思うけど」

 シスター・アンナがそう言うと、志紋は頭を掻いて言った。


「僕は昔っからヤンチャ坊でしたので、どうしても幼稚園じゃないと、と思ったのでしょう。保育園は子供の面倒は見ますが、躾はしません。それに特にこことか宗教系は独特の厳しさがあって、ちょうど良いと思ったんじゃないですか? 両親にとっても」

「で、直ったの?」

 とシスター・アンナが聞くと

「まさか。人間そう簡単に変わりませんよ。直ったとしても、ほんの少し。もしくは表面上で表れている分くらいでしょう」

 志紋は笑って答えた。


「昔はこの堅苦しさが、嫌でたまらなかったんです。それでも普段の行いが多少はマシになったせいか、せっかくだからと、親はそのまま初等科に続投の手続きしてしまいました。僕は嫌だと言ったのですが、ここの幼稚園を出たら、小学校にも自動的に入るものだと言われて納得していました。でも、そんな訳ないですよね。おかしいと気付いたのは3年生くらいの頃でしょうか」

「でもその頃の志紋くんの姿が目に浮かぶ様だわ」

「腕白な、悪ガキですよ」

「ええ、だからそういう志紋くんが」

 そう言い、思わず2人は笑い合ってしまった。


「でも本当に少しはマシになったと思うんです。好きなこと、バカな事はやっても、他人に迷惑はかけちゃいけないって事ぐらいは分かる様になりましたから」

「勉強も?」

 志紋の今の学力はガラテアのみならず、県内でもトップクラスだった。


「勉強はずっと出来ましたよ。悪ガキ時代から。というより負けず嫌いですから、腕力でも学力でも遊びでも。僕は単に、理屈にあわない事が嫌いなだけなんです」

「まさに正義の味方ね」


 シスター・アンナは、何気なく言ったつもりだった。

 しかし、その一言に志紋の顔面は蒼白になった。

 体も少し震えていた。


「志紋くん?」

 シスター・アンナは心配になって、声をかけた。


「すみません」

 志紋は、顔を伏せたまま応えた。


いまだにね、あの時の事を思い出す事があるんです。そうしたら、無性に情けなくなるんです。自分が……」

「あの事って……もしかして」

「聞いた事ありますか?」

「断片的にだけね。学校全体が大変だったとか、色々聞いていたから」


「でも、僕自身がシスター・アンナに話した事はなかったですね。あまり僕も話したい事じゃなかったですし……」

 シスター・アンナは、伏せようとする志紋の目を見つめた。

「じゃ、聞かせてくれる。その時のこと」

「聞いて、くれますか」


 志紋がそう言った時、苦痛の表情の中、僅かに目が輝いた。誰にも話したくない事であると同時にまた、誰かに話したかった事でもあったのだろう。

 そしてその瞬間、これは懺悔ざんげだ、とシスター・アンナは感じた。


 懺悔であるのなら、修道女であるアンナはそれを聞かねばならない。聞いた上でその罪を、父と子と精霊の名において許さねばならない。

 罪を犯す事が悪い事なのではなく、自ら犯した罪を認めないのが悪い事。

 神は悔い改める者を、お許しになられる。

 なぜなら、人は皆、罪人だから。


「あれは僕が6年の時です。何かで遅くなってしまい、帰り道が一緒だった女の子達を、自然に僕が送る事になったのですが…」



 志紋は淡々と話し始めた。


 何だったか学校行事でクラスの女の子たちと買い出しに行き、途中に人通りのない道で、不良っぽい奴らとすれ違いざまに触れたか当たったかと因縁付けられた。変にタカビーな娘達の言動が更に煽って。ただでさえガラテアの温室育ちの娘の世間知らずさには程があると思った。


 瞬く間に5人の中学生に囲まれていた。

 志紋は彼女たちを守るように間に立った。


 こちら側に男は志紋一人。

 女の子は5人。

 人数では勝っているが、彼女たちは戦力どころか足手まといにしかならない。

 仮に志紋が間に立ち塞がっても、バラバラに逃げるとか気の利いた事すら出来そうになく、今更になって志紋の背後で怯える事しか出来ない。


 しかし志紋自身は、逆に気分は不思議と落ち着いていた。

 冷静に、そいつらを観察していた。人数・体格はどうか、誰がリーダー格なのか。傍目に悟られないように探っていた。


 いかにも不良っぽいのがいる中に、比較的まともそうな格好の奴が一人。だが4人の不良たちは、そいつを中心に展開している。おそらくキーマンはこいつ。


 なら、まだ手はある。


 不良の一人が突っかかって来た。志紋を殴ろうとしたのか、襟首を掴もうとしたのか。

 だが、まさかすぐ反撃に出ると予想出来ない状況で、志紋はそいつの出した手を自分の手の甲で弾き、すり抜ける様に中に入り、そのキーマンの男の顔を左掌で掴んだ。かと思えば、すぐ背後に回り込んで首を絞めた。俗に言うスリーパーホールドという奴だ。その男の首を下碗で絞め、右腕とでがっちりと固定する。

 その他の不良どもが気付いた時には、完全にスリーパーホールドは決まり、助け出す為に志紋を殴ったり引っぺがそうとしたりしたが、絶対にその腕を放そうとしなかった。逆に腕に力を込めた。


 程なく男は失神した。

 同時に彼の腰あたりがじわっと濡れてきて、僕の服にまで濡れがしみ込んできた。

 失禁したらしい。

 良く失神したら失禁すると聞いていたが、本当だ。


 同時に志紋は、男を放した。

 すぐに人工呼吸しないと死ぬぞと脅したら、あわてて不良どもは数人がかりで抱えて運び出して行った。2人程は、運び出す役からは外れたが、その人数で志紋たちをどうにかしようという意思は無いらしく、一緒に逃げた。


『勝った』


 そこで初めて志紋は心に余裕が出来た。

 同時に殴られ蹴られしたところが、猛烈な痛みになって襲ってきた。

 しかし志紋は、その痛みに耐えた顔のまま、にたりと笑った。笑った顔で『どんなもんだ』と背後を振り返った。

 しかし、その笑顔は女の子にとって、不良達以上に恐怖だった。


 女の子達は固まったまま、泣きだした。

「もう大丈夫だよ」

 志紋は手を差し伸べようとして、

「さわらないで!」

 と、逆にその手を払いのけられた。


『なぜ…』


 志紋は呆然と突っ立っているしかなかった。

 女の子達も泣きながら、固まってその場を去ってしまった。

 志紋一人が取り残されてしまった。



「私が聞いた話とは、多少違うような気がしたけど、こうして本人から聞いてみるとそっちの方が納得するわね」

「何って、聞きました?」

 シスター・アンナは少し考えて、

「志紋くんが、からまれている女の子達の現場に、どこからともなく駆けつけたとか、人数も30人くらいで刃物を持っていたとか」

「それはさすがに脚色しすぎですよ」

「無双状態で、片っ端からザコを倒しまくったとか」

「それはどこの『仮面ライダー』とか『暴れん坊将軍』ですか」


 志紋は照れて笑った。

「でもむしろ、その後の方が大変だったんです」



 次の日、登校してきた志紋は、新たな事実を知る事となる。

 昨日に失神させた男は、某政治家の息子で、その政治家はこの県内の教育委員・PTAにも顔が利き、また志紋達が着ていた制服から、このガラテア初等部の学生であることも知られ、その教育委員を通して事実確認と抗議が来たらしい事。

 そしてそれを起こしたのが、志紋であることも、程なく分かったという事。


 数日後の放課後、志紋は呼び出された。

 しかも校長室ではなく、院長室に。


 院長の、シスターマリア・イレーネ曽根崎は、写真で見た時と同じ、厳しい人生を皺に刻んだような人だった。

「志紋くん。なぜ、今ここに呼ばれたのか分かる?」

 シスター・イレーネは、優しくも厳しい声で、尋ねた。

「分かります」

「では、何が起こったのか、全て私に話して下さい」


 志紋は極力自分の意見を入れずに、客観的に事実のみを話すようにした。とはいえ、志紋自身が当事者なので、それがどこまで出来たか自信はなかったが。

 ただし最後にきっぱりと

「僕は、その行動が間違っていたとは思いません」

と、言い切った。

 それ以外に最良の方法があった、とは思えなかった。


「こら」

 志紋の担任の若い男の先生は志紋を叱った。

 むしろ担任の先生自身の方が、学院長を目の前にして緊張していた。


「そう、なら」

 シスター・イレーネは、担任の先生の言葉を無視して、志紋に話しかけた。

「その言葉を、私達の主、イエズス様の前で言えますか」

 そう言いながら正面にあったイエズスの絵の額に、志紋と正対させた。十字架にかけられたイエズスが、志紋を見ていた。

 ユダヤ人であるはずの彼は、なぜか西洋人のように金髪・碧眼で、とてもイケメンだった。


「言えます」

 再度、志紋は堂々として言った。


「こら、志紋。そんな態度は失礼だぞ。院長先生に謝りなさい」

 先生は志紋の頭を押さえつけて、頭を下げさせようとした。

 それをシスター・イレーネは止めた。


「いいんですよ、先生。私も志紋くんの言う通りだと思います。この子は良い子です。まさにこの学院の生徒として恥じない、神の子です」

「「えっ?」」

 志紋と先生は固まって、学院長を見上げた。


「あなたより先に、そのかばったという女の子達を呼んで話は聞きました。彼女達は、恐くなって逃げたけど、後になって志紋くんに悪い事をしたと、皆そろって懺悔されました。暴力をふるった事が良い事だとは思いませんが、もし」

 シスター・イレーネは志紋の目をしっかり見て、


「あなたが女の子を見捨てて逃げていたのなら、私はあなたを軽蔑したでしょう」

と、厳しい口調で言い切った。


「あ、あの、じゃあ……」

 担任の先生は、おずおずと学院長に話し掛けようとしたが、

「先生が生徒の言う事を信じられなくてどうします」

という言葉に、打ち消されてしまった。


「ただこれから先方としても、拳を振り上げた以上、色々何か言ってくることもあるかもしれません」

 とたんに志紋も先生も、少したるんでいた顔を引き締めた。


「でも、私がこの子を庇います。この子はよい子です。いえ私だけではなく、学院としてこの子を庇い通して見せます。」

「院長先生……」

 志紋はそのシスター学院長の表情と姿に、とても神々しいものを感じた。

 彼女を通じて、神の偉大さが伝わってくるようだった。

 実は決して、イエズス様への畏怖もキリスト教に対しての信仰も無かった志紋であるが、この院長に対して初めて畏敬の気持ちを感じた。

 いや、院長だけではない。改めて、この学院にいる全ての先生・修道女に共通する、芯の強さを改めて実感していた。



「ただし、そのまま無罪という訳にはいかず、暴力そのものはいけないと説教されました。罰として、いえ、罰じゃなかったですね。奉仕する気があるのなら1週間、聖堂の掃除をなさいと言われました」

「したの?」

「しました」

「1人で?」

 聖堂は大きい。体育館ほどではないにしても、300人は座れるくらいの椅子は並び、調度品も多い。一人でやったら何時間かかるか分からない。

「一人じゃないです。その時送った女の子達と、またその友達とかクラスメイトとか手伝ってくれましたので」

「あ……」

 シスター・アンナはそれを聞いて、志紋自身が救われた気がした。また、故に院長先生が、そういった罰…じゃなく奉仕を命じた理由も。


 単なる罰では意味がない。

 受ける方が救われなければ。

 その女の子達も。


「でも、それは学校内だけの事で、あれから何度か、向こうからも言ってきました。PTA巻き込んで、この学校には暴力生徒がいる!などとSNSへの書き込みも。

一時期本当に大変でした。僕が出て行って謝れば済んだのかもしれません。僕自身の事は、もう学院長も皆も分かってくれていると思ってましたから。

でも『自分が正しいと思うなら貫きなさい』と、内部・外部共にシスター達が対応してくれました。」

「凄かったって事は、未だに語り継がれているから。私自身はそれに参加できなくて、ちょっと残念な気もするけど」

 端から聞けば、野次馬根性的なものを感じるかもしれないが、言っているのが修道女の様な聖職者の場合、少し違う。

 純粋に奉仕したいだけなのだ。困っている人を助けるのが神の教えだから。

「その周りからの圧力に、僕自身が対応する事はありませんでした。というか相手にするな、と禁じられていました。もどかしくても、いたたまれなくて。それが最善と分かってはいても、今度は僕自身がみんなの陰にかくれてしまって。何も関与出来なかったから。

だから、僕はその時、唯一出来る事をしました」

「出来る事って?」

 シスター・アンナは首をかしげて聞いた。


 その状況で、志紋に出来る事など、アンナには思いつかなかった。

 当の本人だけど、いや当の本人だからこそ、ヘタに動く事は墓穴を掘ることになるかもしれなかった。

 だが志紋の答えは、ある意味アンナの意表をついた。


「良い子になる事です」

「え?」


 それはある意味、突拍子のない事だった。

 良い子になど、なろうと思ってなれるものだとは思わなかったから。


「院長が、シスターや先生方が僕をかばう以上、僕自身は良い子じゃないといけなかったんです。最終的には僕の問題ですから」

「で、でも。良い子にって言っても」

「まぁ僕が僕である以上、本当に良い子になれるとは思ってませんでした。でも、良い子に見せかける事ぐらいなら、と。メッキで、良かったんです。見た目が、良い子でさえあれば。幸い勉強そのものはできましたし」


『あ…そうか』

 シスター・アンナはふと、その考えに志紋の性格を表す片鱗を見た。

 性格というか意思表現はひねくれているのかもしれないけれど、その根っこは素直な子なんだ。性格のはっきりとした正直者で、純真でありすぎたのだ。

 自分に対しても、他人に対しても。


 学院長のシスター・イレーネも、それを見抜いた上で、良い子と言ったのかもしれない。

「運動は長期化する前に、崩れてしまった様です。襲われた、と言うより襲った方の彼らの日ごろの素行まで隠せなかった様ですし、この学院の日頃良い子にしている女の子達も証言してくれていましたし、あと不本意だったのですが……」

 そこで一旦、志紋は言葉を詰まらせた。

「どうしたの?」

「あ、いえ。実はあの後、全国一斉実力試験があったのですが……」

「実力試験?」

 シスター・アンナは、それが何とつながりがあるのか、分からなかった。

「その直前まで、良い子になろうと猛勉強が当ったのか、全国42位にランキングしちゃいまして……」

「あ……」

「対外的にも、良い子になっちゃったんですよ。僕は僕のままなのに」

 シスター・アンナはその言葉に、何かが歪むのを感じた。


「結局、運動そのものは立ち消えしましたが、その地域のPTAと溝が出来てしまい、また先生達の薦めもあって、中学もそのままガラテアに進む事になりました。

でも、学院の皆に好かれていたのは、僕が良い子になったから。皆にとってみたら、僕が実は良い子だったからという事で。

だからそれ以降、僕はここにいる以上、良い子である必要があったんです」


 シスター・アンナの視界は、さらに歪んだ。

『違う!』そう言いたいのに言葉にならない。

「でもいいんです。僕は既に、先生がシスターが、そして仲間が、この学院そのものが好きだったから。そしてこの学院に必要なのは、ひねくれた僕ではなく、良い子の僕だったから。演ずるのは苦じゃなかったんです」

『違う!そうじゃないの』

 そう言う代わりに、シスター・アンナは志紋を抱きしめていた。


 違う。あなたは既に、というより最初から良い子だったのよ。

 ただ、意地になっていただけ。不器用だっただけ。

 だって、そう思っただけで、人は簡単に良い子にはなれない。

 なれたのだとしたら、ずっとそうだったのなら、あなたは元々良い子だったのよ。

 ほんの紙一重の人格。

 ひねくれた志紋と、良い子である志紋。

 両方とも正真正銘、志紋本人なのに、志紋自身は良い子である自分を、それも本当の自分であると気付いていない。

 思えば、時おり見せた反抗的な志紋。

 それは志紋にとってのアイデンティティだったのかもしれない。

 でも、言葉にならなかった。

 口に出せなかった。

 ただ、抱きしめていた。


「僕は……」

 抱かれながら、ふと志紋の目に一筋、涙が流れた。

「僕はもう、ここを出てまで良い子ではいられない。ここ以外にいてまで、良い子でいたくない……」

「ああ……」

 シスター・アンナに、志紋の熱い思いが伝わってきた。


 己をも偽った(つもりで)良い子を演じ続け、好きになったこの学院に居たかったというこの想い。

 そんな彼を、学院は卒業の名前で放り出そうとしている。

 彼は未だ、群れから出て迷う子羊であった。

 でもこればかりはシスター・アンナにも、どうにも出来ない。

 他の99匹の羊を放ってでも探しに来たのに、自分はこの子羊を救う事が出来ない。

 シスター・アンナは思わず目の前で十字を切った。


「いいな……」

 志紋はポツリとつぶやいた。

「え?」

「彼女達は、卒業してもここにいられるんだ……」

 シスター・アンナは志紋の視線の方向を見た。

 高等科のグラウンドで、女の子達が体育の授業をしていた。

 学年がちがうのか、赤・緑・青のジャージの上下を着た女の子達が、それぞれ別の場所で、バレー、ソフトボール、走り幅跳びをしていた。

 決して上手ではないが、それぞれ生き生きしてプレイしていた。


「すみません」

 志紋はシスター・アンナの腕を振り解いた。

「未練、なんですよね。卒業式ボイコットしたぐらいで、卒業が取り消されるかもなんて。もう行きます」

「志紋くん……」

 志紋は立ち上がって背中を向けた。

「すみません。僕なんかの為に2度も泣いてくれる先生がいただけで、もう充分です」

 そう言われてシスター・アンナは自分も泣いていた事に気がついた。

 1回目、シスター・アンナが初めて志紋を追いかけた日の時の事を、志紋も覚えてくれていたという事。


「降りて、シスター・マイラに謝って、卒業証書を貰わないと」

 シスターアピヤ・マイラ高峰は、学年主任であり、アンナ達修道女にとっては修練長でもあった。

 シスターマリア・イレーネ曽根崎院長同様に、厳しさと優しさを持った、口うるさく、融通もきかず、神への愛を一途に説く人であり、同時に生徒や他の修道女に面倒見のいい一面もあった。

 いつもしかめっ面をした厳格な人であったので、もう60近いと志紋は思っていたが、実はまだ40代後半だったと聞いて驚いた事もある。

 志紋が歩き始めようとした頃を見計らってか、


「その必要はないね」

 茂みから、濃紺の修道服を着た、当のシスター・マイラが現れた。

「え?あ、あの、す、すいません」

 我の強い志紋でも、シスター・マイラの貫禄には負け、しどろもどろになって45度、頭を下げた。

「悪いと思ったけど、話は一通り聞いたよ。」

 という事は、6年生の時の事も聞かれていたのだろうか、と志紋はあせった。


「あ、あの…」

「単刀直入に聞くよ。この学院に留まる方法がない訳じゃない、と言ったらどうするね?」

「え?」

 志紋は、それがどういう意味か分からなかった。

 しかし、思考能力が回復するにつれ、それは正に自分が望んでいた状況であることが分かってきた。

「あ、あるんですか。僕、ここに残れるんですか?」

「ない事もない、と言っているんだが」


 次の瞬間、志紋はシスター・マイラに135度頭を下げていた。

「お願いします。もし、ここに残れるのなら、何でもします」

「そうかい。その言葉に偽りはないね」

 その言葉に、シスター・アンナの方が顔色を変えた。


「修練長。まさか、志紋くんをあれに、」

 しかしシスター・マイラは悠然として言った。

「他に方法があるかい?」

「でも……でも、あれだけは……」

「御黙りなさい、シスター・アンナ」

 煮え切らない態度のアンナに、シスター・マイラはぴしゃりと言い切った。


「今、この子に必要なのは、神の愛でも信仰でもなく、奇跡なのです。今、彼を見捨てるのは神の意志に反することだと思いませんか」

「でも……でも……」

 その2人のやりとりを志紋は黙って見ていた。


 何かとてつもない事に、志紋自ら飛び込もうとしている事を感じた。

 しかし、それが何であろうと志紋は恐れていなかった。この学院を離れねばいけない事に比べれば……。


「覚悟が出来たらついといで」

 シスター・マイラは、背を向け歩き始めた。志紋はすぐその後を追った。仕方なくシスター・アンナもついて行く形になった。

「おっと」

 シスター・マイラは坂に足をとられ、後ろから来ていた志紋に支えられた。

「ったく、もう。あたしゃもう2度とこんなとこには登らないよ」

 忌々《いまいま》しそうに悪態をついた。


 丘を降り、着いたところは学園の中心にある聖堂だった。

 修道女など聖職者は毎日、志紋達も週に1度はこの場で催されるミサに出席しているし、志紋にとっては例の事件の後一週間掃除をした事もあるので、馴染みが深い。

 途中補修や改装を加えてはいるものの、建物そのものの建立は明治で、学院創立からあったという話である。


 その聖堂の中を、堂々とシスター・マイラは突っ切り、やがては壇上の脇のパイプオルガンに行き当たった。

「ここは……」

 パイプオルガンの横に、隠れるようにして扉があった。少しサビの浮いた、古ぼけた装飾の入った重そうな扉。


 幼稚園や小学生の低学年の頃は、この扉に関して変な噂があった。

 曰く、この奥は地獄に繋がっているんだとか、ちゃんと埋葬されていない古い骨が沢山あるんだとか、第二次世界大戦中に落とされた不発弾がまだ処理されずに残っているんだとか、太陽の光を浴びたら死んでしまう怪物が閉じ込められているんだとか。

 で誰もが恐がって、この扉にすら誰も近寄らなかったものだった。


 大きくなった今は、さすがにそんな事信じてはいないが、でも何かありそうな雰囲気はあった。

 その扉を、シスター・マイラは大きな鍵で開錠した。

 ガチャン、と大きな音がした。

「さ、開けなさい」


 言われて、さあ、と思いながらもなかなか思い切りがつかず、2・3回大きく呼吸を整え、扉のノブに手をかけた。

『いくぞ!』全身に力を入れた。


 ギギギギイ、ときしみ音がして、なんとか半開き状態にまでなった。

 中は真っ暗だった。覗き込むと、部屋があるのではなく、下に降りる階段があった。その先は深く、闇しか見えない。


「ここから先は1人で行かなきゃいけないよ」

「何があるんですか?行って何をすればいいんですか?」

志紋は扉の向こうを覗きながら思わず身震いした。


「行けば分かるさ」

 その闇はまるで魂までも吸い込まれそうで、怖かった。

「怖いなら、やめてもいいんだよ」

 少し挑発的に、シスター・マイラは言った。


「あ……」

 志紋はその言葉で我に返った。

 自分は何でもすると言ったのじゃなかったのか。

 覚悟は出来ていると言ったのじゃなかったのか。

 ここに本気で残りたいと言ったのは、嘘か。

 あの時の決意は、そんなにやわだったのか。

 志紋は顔をはたいて気合を入れた。

 本気の表情になった。


「行きます」

 きっぱりと言いきった。

 睨むような目で、シスター・マイラを見返した。


「よし、いいだろう」

 シスター・マイラは僅かに微笑んだ気がした。


「この階段を降りていけば、その突き当たりが地下室になっている。暗いけどそのうち目が慣れるだろうね。そこで見たものに対し、志紋、あんた自身が素直になれるなら、神は何かを示してくれる筈さ」

「どういう意味ですか」

 志紋にはシスター・マイラの言っている意味が、全く分からなかった。

「何もしないうちから考えても無駄だよ」

「分かりました」

 志紋はその場でブレザーの上着を脱いだ。

 寒さが全身を突き刺したが、気合そのものはみなぎる様だった。


「行きます」

 志紋は地下室への第1歩を踏んだ。


「志紋くん!」

 シスター・アンナの声に、志紋は振り返った。アンナの目が心配そうに訴えかけていた。


「大丈夫です」

 志紋は再び地下室へ歩きはじめた。

 見送る後姿も、やがて闇の中へ熔けていった。

 足音だけが規則的に聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。


「シスター・マイラ……」

 シスター・アンナはか細い声で、話しかけた。

「志紋くんなら大丈夫だよ。きっと満足する結果を出してくれるさ」

「で、でもそうしたら…そうしたら志紋くんは……」

 一時、かなり時間があったが、突然階段の向こうから、


「うわああああああああ」

と、志紋の叫び声が聞こえてきた。

「ああ……」

 シスター・アンナは両手で顔を覆い、思わず地下室への階段から目をそらした。



 階段は、思ったより長く、深く、下がれば下がるほど暗くなってきた。

 前の空間にもはや視界はなく、下がる足取りも横に手すりがあるから降りられるだけで、もし手すりもなく足取りだけが頼りだったら、もっと恐々降りるしかなかっただろう。


 建物に直して五階か十階分を降りただろうか。

 ひょっとしたら恐さが見せた錯覚で、何階分も降りていないのかもしれないが。


 ふと、手すりが途切れた。

 足場も階段ではなく、踊り場状になっていた。

 手探りで前の空間を探すと、扉になっていた。扉を触っていくと、ノブが見つかった。

 回す。手前に開く。

 中に入る。中はもっと暗く、何も見えなかった。

 1歩踏み出した。


「あ!」

 とたんに段差で足場を失い、中に転がった。


「いてて」

 下の床は、コンクリの様だった。硬く、ざらざらして、氷の様に冷たい。

 同時に後のドアが、バタンと閉まった。本当に完全に真っ暗になった。

「くっ……。ここに、何があるっていうんだ」

 真っ暗の中ヘタに動いたら、どうなるか分からない。しばらく目が慣れるのを待った。

 しかし、いつまでたっても闇は闇。何も見えなかった。


「どこか光でも差し込んでくれれば……」

 一応背後に、入ってきたドアがある事は分かっていたから、それ程不安はなかったが、ふと立ち上がろうとして、また足場を失った。

「うわ! またか」

 ぐらっと身体が倒れた。


 しかし転びはしなかった。

 転ぼうにも、地面がなかったのだ。


「え? 何だ」

 落下している訳ではなかった。


 視界は全然なかったが、落下していれば落下感や、風を切る感覚もあるはず。

 ただ地面がなかった。手や足をじたばた動かしても、何も手ごたえがない。また、髪がまくれ上がる感じがあった。


「まさか、無重力?」

 突拍子もない思いつきだったが、他にこの状態の説明がつかなかった。

 手足の力を抜いた。


 もし何らかの形で浮かされたり、吊るされているのなら、どちらかに重力を感じる筈。

 自然に手足が垂れる方向。

 しかし、手足はてんでばらばら。楽な方向を向いている。しかも胸の奥が持ち上がっていくような感覚。


「やはり無重力か。くそっ」

 再度、手足を振ってみる。

 身体が縦に横に回転する。

 振った腕を止めるとその反作用で回転も止まるが、その状態が先程でいうところの上を向いているのか、下を向いているのか。


「何なんだよ。これは」

 志紋は全く訳が分からなかった。

 今こうしている場所も、あの地下室なのか、それとも全然別の場所にいるのか。


 宇宙……ではないだろう。

 ここは空気があるし、星もない。


「まさか、あの世とか……」

 ありえない事ではあるまい。

 あの時、転んで頭を打って、そのまま……。


「まさか。」

 志紋は手で顔や身体を触る。ちゃんと自分の身体には手応えはある。


「だとしたら……」

 しかし、でもそれ以上、志紋の頭で答えは出なかった。


 ここが何処であろうと、自分の身に何が起こっていようと、志紋自身に今、何も出来なかったから。何処へも行けないし、行けたところでどこに行けばいいのかも分からない。

 ここは闇、以外の何物でもなかったから。


 ふっ、と冷たい風が吹いた。

「うわ、」

 志紋は身体を丸めた。

 自分で自分の肩を抱いた瞬間、思わず不安感が志紋を襲った。

『もし今まだ自分が生きていたとしても、このままここを脱出出来なければ、死ぬしかないのでは……』


 一度感じた不安は、消える事はなかった。

 それどころか、とどまる事無くエスカレートしていった。

『もしこのまま僕が死んでも、誰も気付かない。気付く訳ない。ここには誰もいないのだから。誰にも気付かれる事なく死ぬのか。いやだ。絶対にいやだ』

 嫌なのは、死ぬ事に対してなのか、孤独感に対してなのか。

 もはやパニックをおこした頭では、何も考えられなかった。

 ただ、不安だけがドス黒く渦を巻いていた。


「いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!」

 声に出して、叫んでいた。

 叫んでいる声も、自分の声なのか、他人の声なのか。いや、その声すら吸い込まれるように消えていく様だった。


「ああああああああああああ」

 耳をふさいだ。

 目を閉じた。

 身体を丸めた。

 身体がガチガチ震えた。


「何だ?何なんだ。一体、これは何なんだ………あ」

 志紋はふと、視線の向こうに何かがあるのが見えた。


 なぜ見えたのか、というより、なぜ今まで見えなかったのかという様な感じだった。

 ほんの僅かだが、白く光っていた。

「何だ。何があるんだ?」

 志紋は目をこらした。

 今はそれしかない、自分以外の何か。

 そこに光があるだけが、志紋の唯一の頼みだった。


 その光を見たい。

 もっと感じたい。

 ほんの僅かである筈の光を、志紋は全身で感じていた。

 その光を感じるだけで、志紋は安心出来た。


『何だろう、この光は。頼りなさげなのに、こんなに力強く感じる……あ!』

 ふと、その光の中に映像が見えた。


 それは鮮明な映像ではない。

 しかし、それが何であるか、その瞬間分かった。

 映像は、人間だった。

 みすぼらしく痩せこけ、頭にいばらの冠をかぶせられ、十字架にはりつけられていた。

 その表情は苦悶にてそれに耐えながらも、目には慈悲の心が満ち溢れていた。


「あ……」

 とたんに志紋の目に涙が溢れてきた。


 何度も見た事のある人だった。

 いや、現実には見た事はない。

 でも、それが誰であるか、すぐに分かった。


「いた……のですね。ずっとそこに。僕が気付かなかっただけで……」

 そう、神はそこにいた。

 自分のすぐそばにいた。

 あまりにも近くにいた為、気付かなかった。

 自分が目を塞ぎ、耳を閉ざしていたから分からなかった。


「どうして、どうして今まで気付かなかったのだろう」

 思わず志紋は膝をついて両手を組んでいた。

 何もない空間なのに、その恰好をとる自分の身体は安定していた。


 そして、祈りたかった。

 彼に向かって祈りたかった。

 しかし祈ろうとして、志紋は愕然とした。


 祈れない。

 今まで、心から祈った事がないから、このような状況になっても祈る事が出来ない。

 祈る方法が分からない。

 何と言って祈れば良いのか分からない。

 志紋はわが身を呪った。

 今まで自分は、ミッションスクールに10年以上在籍しながら、神の存在をずっと否定していたから、祈る方法を知らない。今まで所詮、祈るふりをしていただけに過ぎない。


 どうしたら、

 どうしたら、

 どうしたら、


 その時、志紋の頭に聖書の1文が思い浮かんだ。

 特に思い出そうとして思い出した訳じゃない。

 その文が、特に心の中に残っていたとか、気に入っていたとかいうのでもない。


 例えるなら頭の中に聖書があり、ふと気まぐれで開いたページに書かれてあった文を読んでみた。その程度の意味でしかない。


 マタイによる福音書、第六章6節。

『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい、すると隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるだろう。……あなた方の父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存知なのである。だから、あなた方はこう祈りなさい』

 その先は、志紋自ら声を出していた。


「天にまします我らの父よ。願わくば御名を崇めさせたまえ。

御国を来たらせたまえ」

 主の祈りであった。


 この内容は、毎週のミサにて全員で読み上げるものであるから、志紋も当然の様に暗記していたし暗誦もできる。しかし、それだけだった。

 でも今、志紋は生まれて初めて、神を目の前にして素直になっていた。魂を込めて祈っていた。一字一句を噛み締めながら、暗誦していた。


 報いが欲しい訳じゃない。

 ただ、祈りたいから祈っていた。

 神にすがりつきたくてしているんじゃない。

 ただ、神がそこにいる。それが嬉しくて祈っているのだ。


「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。 アーメン」


 志紋は十字を切った。

 この思いは、神に伝わるだろうか。

 いや、伝わらなくてもいい。伝えたいから伝えたのだ。


 自分は神を信じていた。

 今まで信じなかった神を信じていた。

 それだけで充分だった。


 ふと、意識が何かを突き抜けた。

 言葉ではない。理屈でもない。

 閃くに近い感覚で、志紋は分かってしまった。

 神を信じるという事は、そういう事だったのか。

 信仰とはそういう意味だったのか。


 それはある意味、精霊が宿った瞬間かもしれない。

 志紋にとっての長年の疑問。


『神はいるのか、いないのか』

 いるのなら、その証明が必要だが、未だ神がいる事の充分な証拠を志紋は見た事がなかった。だから、志紋にとって実際に神がいたとしても、それはいないのと同じだった。


 しかし、人は神を信じる。

 特にこの学校の関係者は、殆どが敬虔なクリスチャンだから、誰も神を信じて疑わない。


 仏教ならまだ分かる。

 仏教にとっての仏は、信仰の対象ではなく、到達点だから。

 今は未熟であろうと、仏のように考え、仏のように振舞う事で、少しでも仏に近づきたいと考える。故に修行し、経をあげ、禅を組む。


 だがキリスト教の場合、ただひたすら神を信仰し、悔い改め、神の教えを守って生活する事が全てだから、そこに神の存在が必要不可欠になっている。しかしその神は、いるのかいないのか分からない。

 そんな馬鹿な話はなかった。

 それが志紋には理解不能だった。

 いるのかいないのか分からない神を、どうして信じる事ができるのか。

 どうして身も心もゆだねる事が出来るのか。

 その疑問が、一瞬のうちに氷解した。


 なぜ、神がいなければならないのだろうか。

 なぜ、神じゃないといけないのだろうか。

 信仰は必要かもしれない。でも、そこに神は必要だろうか。

 逆に、いなくてもいいんじゃないのだろうか。

 なぜなら、今の今ですら、志紋にとって絶対神の存在は分からない。でも今、神に対して祈る事の充実感は、間違いのない本物だ。神がいようがいまいが、勝手に信仰する事は、本人の自由でいいじゃないか。

 志紋は、そう感じた。


 しかしこの考えも、神を信じる他の人にしてみたら、また違うと言われるのだろう。

 それはそれでいい。問題は志紋自身がどう考えるか、どう感じるか。それだけだった。

 だが、そう思った次の瞬間、志紋は突然起きた暴風に襲われていた。


「うわ!か・風?」

 風は、その光の方向から向かってきた。

 志紋はその風を受け、おもいっきり吹き飛ばされていた。


 いや、吹き飛ばされているのか、ただぐるぐる回されているのか、相対的なものがないから分からない。ただ、志紋はなすすべもなく、ただ風に翻弄されるだけだった。


「な、何なんだ…」


 さらに、突然今度は全身が悲鳴をあげた。

 骨がきしんだ。

 筋肉が絞られた。

 腹の中が裏返しになるがごとく、掻き回されていた。


「うぐぅ、がっ、ぐぁっ!」

 吐き気をもよおした。

 吐こうとした。

 吐けば少しは楽になるかと思った。

 だが吐けなかった。

 吐こうとしても、胃の中に何もないような感覚だった。

 ひたすら苦しかった。


「何……なんだ……何が……うわ……」

 全身の骨がきしんだ。

 ばらばらになりそうな感じだった。

 骨の一つ一つを握り潰される様な、表面からぶちぶち弾けて磨り減っていく様な。

 激痛が全身を襲っていた。


「し……し……死……」

『死ぬのか?』志紋は思った。

『死にたくない』志紋は思った。

 なぜなら、やっと神に祈る事が出来る様になったんじゃないか。

 やっと、神を感じる事が出来る様になったんじゃないか。

 それなのに。

 それなのに……。


『罰?』

 ふと一瞬、閃いた言葉。

『これは罰なのか?』

 人知を超えた現象と、その体験。

『これは天罰なのか。だったらなぜ?』

 今まで神を信じなかった事に対する罰なのか。

 それとも祈る事は出来ても、未だ神の存在を疑問と感じている事に対しての罰なのか。


『死にたくない。いや、いっその事……』

 殺してくれ、と志紋は思った。

 気絶出来れば楽だっただろう。

 しかし最初のショックに耐えてしまった分、それ以降のひたすらの痛み、ひたすらの苦しさは、神経を削って鋭くはさせても、意識を奪う様な事はしてくれなかった。


 腕が、足が、全身の筋肉の腱の1本1本がぶちぶち切れていく様に、またその細胞の1つ1つが焼ける様に熱かった。外部から炙られるのではなく、むしろ中から燃える様に。

 もはや声も出なかった。ただ、のた打ち回っていた。


 しかし不思議な事に、それだけの地獄にありながら、苦しみにあえぎながらも、1歩離れて冷静に見ている自分があった。

 極限の苦しい状況において、苦しむ自分とは別の所に自分を置く、1種精神の逃避行動だったのかもしれない。

 自分自身を外から心配する事によって作ったゆとりが、唯一志紋の精神を正常な状態でバランスを保っていた。

 永遠とも思うような時間が過ぎた。

 これで、なぜ死ねないのかというぐらい、責め苦は続いた。

 しかし、この苦しみもいずれ終わるだろう。それが自分の死によって終わるとしても。

 風切りの轟音は絶え間がなく、耳の感覚を麻痺させた。

 五感は鋭くなっているのに、いつしか意識はぼやけていた。


 突然、音が止まった。

 頭の中が空っぽになった。

 無音という耳鳴りが、脳を響かせた。


 その中で、ポタっという音が聞こえた。

 僅かだったが、空耳ではなかった。

 また、ポタっと音がした。


『え?』

 志紋は腕を動かした。


 関節がガチガチに固まっていて、ギギっと音がした様な気がしたが、それは逆に志紋に先程まで襲っていた全身の激痛から開放されている事を気付かせた。


 腕を振った。

 手の先が固いものに当った。

 触ってみる。

 ざらざらして冷たい。

 叩く。手のひらを押し付けてみる。

 それは、まさにコンクリートの平面だった。


 同時に今、自分の身体が重力下の、そのコンクリの床に倒れている事も自覚した。

 床に腕をあて、身体を起こした。

 ひどく身体が重く、力が入らない。

 深呼吸した。冷たい空気が肺を満たした。

「は……生きてる」

 息をして、改めて自分が生きている事も実感した。


 今まで何が起っていたのか分からないが、今こうして現実の世界にいると、全てが夢か幻だった様な気もする。

 目を凝らすと、ここが真の闇でないことも分かった。僅かに漏れてくる光が、その地下室の状況を教えてくれた。

 積み重ねられた椅子や机、古そうな棚、使っていない小物などが乱雑に置かれている。


 そしてその向こうに、壁にかけられた古いレリーフ。十字架に架けられたイエズス様の像があった。

 その表情が、幻の中のイエズスと重なって見えた。

「どこまで幻だったんだ?」


 志紋は思わず頭に手をやった。

 とたんに何かヌルヌルした何かが、手にべっとりついた。

「うわぁっ!」

 思わず頭から手を離した。


 髪の毛がごっそり抜け、顔に手にまとわりついた。

「な、何が」


 その時改めて、志紋は全身が妙に気持ち悪い理由が分かった。そのヌルヌルが、ラードかゼリーかタールのような物が、全身、服や靴の中までまとわりついていたのだ。

 さっき、ポタっと聞こえていた音も、このヌルヌルが志紋の身体から落ちた時の音だったのだろう。


 そして、その腕や首を触った時の違和感、筋肉がごっそり落ち、ひとまわり細く。またまとわりついた制服が大きくなった様な、身体がひとまわり小さくなっているような感じがした。

「うわ、な、何だ。何なんだ…」

 とたんに志紋の身体に不安感が走った。

 股間が、ぎゅぎゅうっっと縮こまる感じがした。

 不安感が襲った時、よくこういう感じになるが、今回は特にひどかった。まるで身体の奥の奥まで縮んでしまった様だった。

 思わず、その股間に手をやる。


 不安や絶望感があった時、股間が縮こまって喪失感を感じる事がある。

 本当に無くなった訳では無いが、身体の奥まで、きゅうっと締め付けられる感。


「え? え? 何で?」

 しかし、今回は違った

 ズボンの中に手をやったが、そこに期待した感触はなかった。


 その代りに、股間にそって溝が縦に走っていた。中指がその溝の奥にもぐりこんだ。

 裂けるような、今まで味わった事のないような痛みと、中指から伝わる信じられない感触が、志紋を一気に爆発させた。


「うわあああああああああああああああああっ!!」

 志紋はもう、完全にパニックを起こしていた。

 何がどうなっているのか、全く訳が分からなかった。

 何もかも、耐えられなかった。


 振り返る。最初に入ってきた時の扉が、数段の階段の上にあるのが見えた。

 その先には。


 志紋は反射的にその扉を開け、長い階段の向こう、光のある方向へ走っていた。

 走ろうとして転び、転んで這いながらも階段を上っていった。

 志紋にはもう、今の状況を受け止める事が出来なかった。

 何もかも、訳が分からなかった。

 そして、そういう状況下において一人でいるのは耐えられなかった。

 その階段の向こう、扉の向こうには、信頼すべき者がいる。

 汗に、自ら流したタールの様なヌルヌルに、自らの足をとられ転びながらも、志紋は上を目指した。

 何度も転び、やっと扉のノブに手が届いた。

 回す。

 全身で、ドアにもたれかかる。

 開く。

 まばゆい光が広がった。

 その光が志紋を包んだ。


 そしてその先に目指していた人、シスター・アンナがいた。

「志紋くん!」

 志紋の張り詰めた緊張が、切れた。

「あ……」

 志紋はシスター・アンナに倒れかかる様に身を投げ出した。

 シスター・アンナも、力強く志紋を受け止めて支えた。


 志紋の身体から出た真っ黒なタールが、シスターアンナの修道着を汚したが、アンナ自身はそれを全く気にもしていなかった。

 また志紋自身完全には分かってはいない身体の変化を、アンナは外観から既に確認してしまっていた。

 故に、志紋の不安な気持ちも分かった。

 ぎゅっと抱きしめるその腕にも、志紋がガタガタ震えているのを感じた。だから抱きしめるアンナの腕にも、自然に力が入った。


「シスター・アンナ」

 背後からシスター・マイラが声をかけた。

「はい」

「志紋の身体を洗ってあげなさい」

「はい。でも……」

 アンナは少し言葉を詰まらせた。この近くにシャワーやバスルームはない。


「修道院へ連れていきなさい。私が許可します」

「はい。分かりました」


 アンナやマイラが寝泊りしている修道院は、学院の敷地内の一角にある。ただし、そこは修道院としての性格上、外部の者・特に男性の出入りは厳しく禁止されている。仕入れ業者や工事など、出入りする場合は必ず修院長とか責任者の許可が必要であった。マイラは修練長であったから、それに準ずる責任と権限があると考えて良い。


 アンナは志紋に肩を貸すようにして支えた。

「大丈夫?歩ける?」

「はい……」

 志紋は蚊の鳴くような声で、何とか答えた。


 敷地の外周近くを通って、アンナは志紋を修道院まで連れていった。

 途中すれ違う修道女達は、どろどろに汚れた志紋を見ても顔色一つ変えず、ただ十字を切って志紋に向かって手を組んだ。

 修道院の玄関を入った。

「あ…」

 志紋が靴を脱ぐと、ベトベトと身体から出たタールが廊下を汚す事に気付いた。


「気にしないで、後で掃除すれば済む事ですから」

 そうアンナに言われ足を踏む出すが、それでも極力タールで汚さないように歩いた。

 木の扉を開け、2人は脱衣場に入った。

「脱げる?手伝うわ」

「あ、だ、大丈夫です!」

 志紋はそう言いながら、必死でブレザーのボタンを外そうとするが、指がもつれて上手く外せない。

 アンナは何も言わず、その指を志紋の指に絡めるようにして、ボタンを外していった。ブレザーの上着の袖を抜き、ネクタイを外し、カッターシャツを脱がせた。


「あ…」

 茶色いタールに汚れたランニングシャツごしにも、志紋の胸がわずかに盛り上がっているのが分かった。


「あ、こっちは」

 アンナはズボンのベルトを外そうとして、志紋に手を弾かれた。


「自分でするの?」

「はい」

 志紋は震える手で、何とか自分でそれを外そうとしている。アンナには少しまどろっこしいが、志紋がそうしたいのならと、好きにさせた。


 かわりにアンナは自分の服を脱ぎ始めた。

「え?シスター、な、何を」


 健全なる青少年としては、ごくあたり前の反応だっただろう。いくら修道女とはいえ、まだ20代半ばのうら若き女性。しかも修道女には美人がいないという常識を(失礼!)くつがえすかの様に、この学校には美人の修道女も多く、アンナもその例に漏れなかった。


「私も身体汚れちゃったから、一緒に入るわ。ついでに身体洗ってあげるから」

「ま、待って下さい。そんな、シスターは女性で…」

「ストップ!」

 アンナは志紋の言葉を中断させた。


「分かっているのでしょう」

「え?」

 アンナは志紋をキッと睨んだ。


 普段、優しい顔しか見せない為か、こういう時の表情には、志紋をも凍りつかせる様な迫力があった。

「志紋くんの身体が今、どうなっているか、自分でも気付いているのでしょう」


「あ……で、でも」

「じゃあ今、その服を全て脱いでみなさい」

 志紋は何か言おうとしたが、何も言えなかった。今までの事の全て、地下室で何があったかまでシスター・アンナには見透かされている様だったから。


 志紋はズボンとランニングシャツを脱ぎ、その後、少しためらいながらもトランクスを脱いだ。目をそらそうとしていたが、ついトランクスを下ろした瞬間、志紋は自分の股間を目で見てしまった。

 そこには地下室で確認した時と同様、男の物は残っていなかった。


「偉いわね。怖かったでしょうに」

 それをしっかりと確認した後、アンナも手早く汚れた修道服を脱いだ。

 修道服を着ている時からは想像もつかない様な、見事なプロポーションが現れた。


「あ……綺麗……だ」

 志紋は自分の身体の事を一瞬忘れ、その姿に見とれてしまった。


「来なさい。洗ってあげる」

 アンナは志紋の身体を抱き寄せた。肩を支えるようにして歩かせる。

 ほんの数歩で洗い場に着いていた。


 アンナはシャワーのコックをひねり、しばらく温度が上がるのを待ち、適温になったのを自分の手首にあてて確かめ、身体を支えたまま志紋に、頭からシャワーをあてる。

 志紋は、頭にへばりついていた茶色いタールと、大量の髪の毛が流れていくのを感じた。思わずその頭に手をあてると、長かった髪はきれいになくなり、短い髪だけが残っているのが分かった。


 その残った髪も、元々の自分の髪じゃない。短くても分かる。

 細く、とても柔らかい髪だった。

「ほら、見て御覧なさい」

 シスター・アンナは、入ってきた脱衣場との境のガラスのサッシを指差した。

 そのガラスは、脱衣場が暗い為マジックミラー効果をだし、2人の姿をきれいに映し出していた。


 そこには修道着ではない見事なプロポーションのアンナと、その横に見慣れない少女がいた。少女は明らかに自分自身、変わってしまった自分の姿だと志紋は実感した。

 身体に対する変な違和感も、その姿を見てしまえば、納得出来るものもあった。

 例えば男時代でも、さほど高い方ではなかった身長だったが、それでも今ほど低くはなかった筈だ。今の志紋はシスター・アンナと比べても、頭半分くらい小さい。


 身体も、まだシスター・アンナのように成熟はしていないが、それでも歳相応の女性としては、ごく普通のスタイルだと思った。腕も首もウェストも、全て大きく筋肉が落ちてすっきりし、わずかに胸が膨らみ、尻と太ももにやや肉がついていた。


 顔のつくりは以前の印象は残してはいるが、ごつごつした感じが削られている。耳を隠す程長かった髪はさっぱりと抜け、申し分程度にしか残っていない。それでもその表情も顔も、あきらかに女性としての顔になっていた。


 睨んでみる。

 鏡の中の少女が睨み返す。


 無理して笑ってみる。

 鏡の中の少女が微笑み返す。


 その顔を見て、ドキっとする。

 自分ではかなり無理して笑ったつもりだったのに、鏡の中の少女は、凄く魅力的に笑ったから。

「これが……」

 志紋は鏡状になったサッシに両手をついた。

「これが今のボクなんだ……」

 鏡の中の少女が、泣きそうな顔をする。


 その少女に、アンナは後ろから肩を抱く。

「元気出して。そんな顔していたら、私も悲しくなるわ」

 志紋はくっと振り返った。

「そんな気休めみたいな事、言わないで下さい。ボクは、ボクは、こんな姿になって、これからどうしたらいいのか……」

「分るわ。私だって覚えがあるもの。でも……」

 アンナは一旦言葉をつまらせた。

「でもその姿は、あなた自身が望んだ形でしょう」

「そんな、望んでなんかいません。ボクは、ボクはただ……」

「じゃあ、あなたは、何を望んだの?」

「え?」


 今度は志紋が言葉をつまらせた。

「あの部屋で、神に向かって、何を望んだの?」

「……」

「あの暗闇の中で見えた、一筋のな光に対してあなたは、何の偽りもなく素直な気持ちになれたんじゃないの?」

「それは……」

 志紋は思わず考え込んだ。


 自分は、一体何を望んだのだろうか。

 何を祈ったのだろうか。

 あの時はただ、祈りたくて祈った。しかし、何を祈りたかったのだろうか。何を神に対して言いたかったのだろうか。何を伝えたかったのだろうか。

「ボクは……ボクは……」

 あの時祈ったのは『主の祈り』。

 父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存知なのである、と聖書にあったが……。


 そうしたら、今のこの姿は、気付いていなかった、求めてもいなかったけれど、自分自身が必要なものとして、神が与えてくれたものなのだろうか。

 確かに女になれば、女子高である高等科に進む事は出来る。

 でも、それだけの為に……

「あ……」

 志紋はふと気が遠くなった。


 志紋の気が付いたのは、ばさっと降ろされた時。

 目に映ったのは見知らぬ部屋。

 自分がいるのは、少し固いベッド。

 そして自分の姿は、裸にバスタオルを巻いただけの格好。

「あら、気が付いた?」

 すぐ横に、既にきれいに洗濯された白く青い修道服を着たシスター・アンナがいた。


「シスター・アンナ、ここは?」

 自分が今いるベッド以外は、木で出来た机と衣装収納庫と書棚があるだけの落ち着いた部屋。調度品らしいものも、壁にかかったマリア様の絵以外にはない。

「ここは私の部屋。あなたは、ちょっとのぼせたみたいね。でも風邪ひいたらいけないから毛布はかけておきますよ」

 そうアンナは言い、清潔なシーツに包まれた布団を志紋の身体にかけた。

「あ、でもボクは……」


 起き上がろうとする志紋を、アンナは押さえつける様にして寝かせ、

「無理しないで。あなたは休まないといけない。今日、色んな事があったから」

「はい。でも……」

 志紋はシスター・アンナを見上げた。アンナはどこかに出掛ける準備をしていた。


「どうしたの?」

 アンナは振り返って志紋を見た。志紋は上半身を起き上がらせていた。


「ボク、考えたんです。なぜボクはこの身体になったのか。なぜこの身体を神は与えてくれたのだろうかって」

「どう思ったの?」

 アンナは机の前の椅子に座った。

 志紋がもし、自分の身体の事を現実として受け入れたのだとしたら、それは何より良い傾向だと思ったから。


「女の身体になって高校へ進学出来ても、所詮3年卒業が延びただけ。その後大学へ行ってもトータルで7年。単なる問題の先送りでしかありません」

「そうね……」

 それはアンナにも分かっている事だった。


「それで考えました。たかだか7年の先送りの為に奇跡が起きたのだとしたなら、それは奇跡なんかじゃない。奇跡はそんなに安っぽいものではないんだ、って」

「それで?」

 アンナは志紋の顔を見た。

 男の時と変わらぬ、真正面から物事に向き合う、真剣な目だった。


「ボク、修道女になれませんか?」

「シスターに?」

 アンナは一応驚いてみせた。しかし、その状況下においては、充分予測し得る結論の一つだった。

「ボクがこの学校から離れたくない、ここの人達と一緒にいたいという気持ちは、今後何年たっても変わらないと思います。それにここで今まで会った修道女は、ボクの人生においての指針そのものです。今までなら、そんな事考えもしなかったけど、ボク自身が女になった今、修道女になることは、出来ませんか」

 アンナは大きく頷いた。


「出来ると思うわ。あなたの決意が固いなら」

 志紋は、修道士に憧れていたのではない。修道士になれる程、神に対して信仰などなかったし、この学院と関係ないところで修道士になったところで意味はなかった。意味があるとしたら神父になる事だが、そうまでしてここに配属されるとは限らないし、その為には何年もこの学校を離れないといけない。あきらかな選択外だった。


「それで、シスター・アンナにお願いがあります」

「どうしたの?あらたまって」

 志紋は、ぐっとアンナを見つめて言った。

「シスター・アンナに、ボクの代母になってほしいんです」

「私に?」

 この申し出はアンナにとっても予想外だった。

 代母とは洗礼を受けるにあたっての立会人。男だったら代父というのだが。

 そして洗礼を受けた者の、その後一生に渡っての相談役になるという事でもあった。


「でも、いいの?私なんかが代母になって。私なんか修道女と言っても未だ」

 アンナはそう言って自分の修道服を見る。鮮やかな青。有期誓願期の修道女が着る修道服の色だ。その時期を越え、終生誓願を立てた修道女は濃紺の修道服を着る。そうなって初めて一人前の修道女だと言えよう。


「いいんです。ボクがもし修道女になれるのなら、その喜びも苦しみも、分かち合えると思う。いえ、シスター・アンナと分かち合いたいんです」

「あ……」

 アンナは思わず志紋から顔をそむけた。そして十字を切り、祈り始めた。


「あ、シスター……」

 やがてアンナは立ち上がり、志紋に背をむけた。

「分かりました。その事を修練長に相談してみます」

「あ、シスター・アンナ」

 立ち去ろうとするアンナの背中に、志紋は声をかけた。


「我儘ばっかり言って、ごめんなさい」

「いいのよ。それは我儘じゃないわ」

 そう言い、アンナは部屋を出た。

 出てすぐアンナはドアを閉め、崩れるように座り込んだ。そしてそのまま、両手で顔を覆って声を殺して泣き出した。

『私を……こんな私を……なのに私は……』


    ☆


 コンコン。

 部屋がノックされた。

「はい。誰だい?」

 修練長、シスター・マイラの低い声が中から聞こえた。

「失礼します」

 シスター・アンナは、軽く一礼して入ってきた。

「何だい?」

「あの……」

 アンナは中に入るだけ入ったが、ただ入り口に立ちすくんでいた。


「そんな所につっ立ってないで、中に入ってきなさい」

 そう言われアンナはマイラの前に立った。目と目の回りが赤くなっていた。

「やはり志紋がらみかい?」

「はい」

 消えてしまいそうな小さな声で、アンナは言った。


「志紋くんは、修道女になれるものならなりたいと。その上で、洗礼を受けるにあたって、私に代母になって欲しいって」

「なればいいじゃない」

「でも私は……」

 アンナは自分の青い修道服を再度見た。

「私はまだ有期誓願期で、修道女としてもまだ一人前ではありません。ましてや、他人の信仰の指導者として導いていける程」

 アンナは言葉を詰まらせた。

 そんなアンナの動作の一部始終をマイラは暖かい目で見ていた。

「そうだね、もう何年になるかね?」

「え?」


 アンナは顔を上げて、マイラを見た。

「お前も私に言いに来たでしょう。修道女になりたいけどどうしたらなれるのでしょうかって」

「あ……」

「私は今でも覚えているよ。ちょうど時期として志紋君と同じくらいの歳だったかね」

「はい」

 アンナは目を閉じた。その頃の事を思い出しているのだろう。


「条件はあの時と同じさ。私はあの時のお前の気持ちに応えるべく、お前の代母になった。以後お前には色々と相談にも乗ってきたつもりだがね」

「そうです。私も」

「それならもう、志紋君の今の気持ちに対してどう応えるのか、私が判断する事じゃない筈だね」

「はい。でも」

 アンナは再度、下を向いた。

 その表情は、あくまでも暗いままだった。


 マイラは大きく、ため息をついた。

「終生宣誓……するかい?」

「え?」

 アンナは思わず顔を上げた。


「実はとっくに許可はおりているんだよ。でもお前はまだ迷っている様だったからね。

信仰の扉のノブは常にこちらにしか無いんだ。扉を開いて、主を招き入れるかどうかは、自分で決めないといけない。どうするね」

 アンナは突然の申し出に、戸惑った。申し出は確かに自分が今、欲しているものだ。しかし、だからこそ戸惑っていた。自分に本当にその資格があるのかどうか。

 決断しなければならない。

 チャンスがあるのなら、一時。その一時をのがせば一生を後悔する事になるだろう。


「します。いえ、終生宣誓をさせて下さい」

「迷いはないのかい?」

 少し意地悪っぽい声でマイラは尋ねた。


「正直言えばまだ迷いはあります。でももう迷っている場合じゃないんです。私が迷っていたら、志紋くんまで迷わせてしまいます。だから」

「そうかい……」

 マイラは立ちあがり、アンナを手招きした。


 アンナは素直に近付きマイラのすぐ目の前に立った。次の瞬間、アンナはマイラの両腕に抱きしめられていた。

「早いもんだね。あの時の小さかった子が、もう一人前のシスターになるなんて」

「はい」

 アンナはその顔をマイラの修道服に押し付け、泣いていた。


「一人前になったらもう、こうやって抱いてやれないけど、その分志紋くんを抱いてやりなさい。一人前になるまで」

「はい。マイラさま」

 アンナはその最後になるかもしれない抱擁を、名残惜しそうに受けていた。

 そしてマイラもそれが分っていたから、ただずっと、アンナの気が済むまで、抱きしめていた。


     ☆


 数日後。

 聖堂にて、誓願のミサがとり行われた。

 その中で、司祭高島神父のすぐ前に、濃紺の修道服を着たシスターアグネス・アンナ佐倉が躓いていた。

「列席の皆様の前にて、学院長マリア・イレーネ曽根崎の手のうちに、終生の貞潔、清貧、従順の誓願を宣立いたします。

私が忠実であるよう、神が恵みをもって助けてくださいますように。アーメン」


 シスター・アンナはそう宣言し終えると、思わず自分の左手薬指にある銀の指輪を手で確かめた。その指輪こそ、終生誓願・神のもとに嫁いだ証でもあった。


 その言葉を受け、高島神父も祝福と聖別の祈りを捧げた後、

「シスターアグネス・アンナ佐倉、

あなたは今から、いつまでも聖ガラテア女子修道会の一員となり、これから私たちと運命を共にしていきます」

と宣言され、アンナは参列した人たちの拍手を浴びた。


 シスター・アンナはその拍手に、思わず振り返った。

 その参列者の中にはアンナの代母でもある修練長・シスター・マイラや、他の修道女・生徒達に混じって、志願期の真っ白な修道服を身につけたシスターペトロ・セシリア志紋がいた。

 洗礼名であるペトロは男性名だが、女性の聖人が少ない中では別に珍しい事ではない。その代わり修道名は、殉教者セシリアから名前を貰った為、普段はシスター・セシリアと呼ばれ、今後昼間を高校にて、放課後以降は修道院にて生活する事になる。


 高校時代のうちに志願期・修練期を経て、卒業後に初回誓願をするのだろうけど、それは別の話。

 聖堂の中では、終生誓願をしたシスター・セシリアを称え、聖歌の合唱が響いた。


「「「父ぃ・御子ぉ・御霊のおお御神にぃ、常盤に絶えせずぅ御ぃ栄えあれ~」」」

 彼女達のもとに、神の御心がありますように。

 アーメン。


 ーー終わりーー

 勘違いしている人もいるかもしれませんが(いないかな)この物語は、キリスト教の素晴らしさを皆に伝えようとして書いたものではありませんし、私もクリスチャンではありません。ミッション・スクールに通っていたという事もありませんので、実際キリスト教関係には、さほど詳しいという訳ではなく、用語やその行動等に間違いがあるかもしれません。あまり、信用しないように。


 ちなみに、知ってて、あえて間違えたまま書いている所もあります。それはどこでしょう。(などと当時書きながら、再度読み返してその部分が自分自身で分からなくなってます。本当にどこだろう?)


 さて、まだいくつか当時のストックはありますが、ある意味制作と同レベルに手を入れないといけない感じ。しかもジャンルも多種多様。期待に応えられるものも、あるのかどうか。

 それでも良ければ、またお目にかかりましょう。

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