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「お、おたま!」
「なんだべ?」
玄蕃とおたまは助九郎の屋敷の庭にいた。おたまは助九郎や七郎、更には玄蕃の洗濯物を干していたのだ。
「し、下帯まで洗ってくれたのか!」
「おら、父ちゃんの下帯も洗ってたから平気だべ。玄蕃さんも遠慮しなくていいべ」
「……す、すまぬ!」
「別に頭下げなくてもいいべ、お侍さんだし。これも女の仕事だべ」
おたまの笑顔はキラキラと輝いていた。
彼女は七郎の下帯を洗った事に、女の喜びを見い出していた。
そんなおたまの輝かしい笑顔に玄蕃の胸は高鳴る……
「……若いっていいですなあ」
助九郎は屋敷の居室で、庭の玄蕃とおたまを眺めてニヤニヤしていた。
居室には七郎も座していた。開け開いた障子の向こうで、尚も玄蕃とおたまは話しこんでいた。
「洗濯干しの邪魔をしてどうするんだ」
「いやいや若。あれは男女の立ち合いですぞ。見ているこちらも熱が入るというものです」
「そうなのか」
七郎は無表情だ。数え年で二十を迎えた七郎は、年齢相応しからぬ落ち着きと威厳をそなえていた。
幼い頃に父の又右衛門との兵法修行で右目を失った七郎。
そんな七郎は感情の働きが乏しかった。だからこそ家光の小姓も務まったのだろう。
なにしろ癇癪持ちの家光の事だ、たとえば、
――おい、あれだ。
と言われて聞き返しているようでは小姓が務まらない。下手をすれば脇差しを抜いて斬りつけられてしまう。
「あれ」を素早く理解し、家光の期待に応えられぬようでは、徳川三代将軍の側仕えなど不可能だ。
また、家光は小姓の反応を楽しんでいるようにも思われた。
七郎と反りが合わないのも当然だ。七郎はとにかく冷静すぎた。
「それはともかく合戦の準備とは…… 忠長様は本当にやるつもりなのか」
増えすぎた浅間山の猿が、人里に降りてきて田畑を荒らすという。
霊妙の地である浅間山、そこに住む猿は神猿として崇められてきた。
しかし増えすぎたのは問題だ。訴えを起こしたのは農民だ。丹精こめて育て上げた作物を食い荒らされては、たまらない。
だから駿河城へ訴えた。忠長は猿狩りを決意した。大納言忠長は駿河の領民のために動いたのだーー
「猿の数は」
「およそ二千と言われております」
「二千…… それを狩り尽くす合戦か」
「左様で。目覚ましい戦功を挙げたものは家臣に取り立てる、との仰せであります」
「戦功か……」
七郎は腕組みして左の隻眼を閉じた。猿相手の戦功とは何か、猿を狩った数だろうか。戦場では首級の数が戦功となった。
「しかし、猿は手強いと思うぞ」
「そりゃ、そうです。猿は身軽ですばしっこく、刀で斬るのは難しいです。槍で突き殺すのも難しいし、ましてや弓など通じませぬ」
助九郎も野生の猿の手強さを知っている。猿は体こそ小さいが人間の数倍の身体能力を持ち、刃物で斬りかかっても容易に避けてしまう。
「なるほど、猿を討てる武芸者を召し抱えるという事かな」
「そうかもしれませんな、忠長様も寂しいかもしれませぬ」
助九郎は剣術指南役として直々に忠長に接している。その助九郎が言うのだ、まず間違いないだろう。
家臣は五千人ほどだが忠長に仕えているわけではない。江戸幕府に仕えているのだ。
駿河五十五万石の太守でありながら、真に忠長に仕えている者はいないのだ。
その寂しさが狂気へと繋がっていくのではないか。
「ひゃあー、お助けー!」
おたまの悲鳴が聞こえてきた。
七郎と助九郎が視線を向ければ、猿がおたまの着物の裾をめくろうとしていた。おたまは顔を真っ赤にして裾を押さえている。
「お嫁に行けなくなっちゃうべー!」
「き、貴様あ、何をするかあ!」
怒った玄蕃が猿を殴った。
すると猿はおたまの裾を手放し、玄蕃に殴り返した。
唐突に始まった玄蕃と猿の殴り合い。
それを七郎と助九郎、更におたまが手に汗握って見守った。