15
夜になった。
七郎は助九郎の屋敷の庭で修練に励む。
庭木に古着を着せ、それに向かって技を繰り出す。
今は左肘を果敢に打ちつけていた。
(意識を変えるのだ)
心中に繰り返しながら、七郎は肘打ちを何度も繰り出す。
玄蕃が教えてくれたのだ、今の世の兵法を。
(鎧がない事を意識するのだ!)
父の又右衛門から指導された技は鎧を着こんだ前提だった。
ゆえに拳は用いない。拳で鎧を打っても、大した効果はない。それゆえに固い肘を用いて敵を攻める。
蹴りもほとんどない。転倒すれば危うい。足を払うなどの足技が基本となる。
玄蕃は拳で攻めて体勢を崩し、そこに重い蹴りを放った。
又右衛門の兵法から一歩進んでいる。又右衛門は政に忙しく、祖父や先師から受け継いだ技を新たに興す余裕もないのだろう。
(俺がやるのだ!)
七郎はガアン!と力強く肘打ちを繰り出した。
庭木が揺れた。
「は!」
左手で古着の右袖を取り、瞬時に体を回す。
古着の袖が千切れる。人間相手ならば、背中から大地に叩きつける事ができたろう。
左手一本でしかける体落だ。
(ただでは死なんぞ!)
乱れた息を整え、七郎は夜空を見上げた。
目指す目標は、猿飛の術を使う佐助という男だ。
父も対峙した真田の勇士。
七郎は生ける伝説に挑まねばならない。
**
助九郎は密偵達の報告を聞く。
そして各地の大名が忠長と接触している事を知る。
その情報を江戸に届けるために、暗号化された密書を早馬で駿河から出していた。
早馬は街道各所に設けられた中継地点で交代し、江戸を目指す。
早ければ数日で江戸の又右衛門に情報が届く。そして又右衛門からの返書も早馬で駿河に届く。
隠密とはそのようなものだ。精神をすり減らす日々。
そして徐々に失われる隠密達の命……
(あるいは)
又右衛門は思う。七郎こそが駿河を覆う暗雲を払う切り札になるかもしれぬと。
今はお客様のような扱いだが、だからこそだ。
七郎ならば猿飛の術に対抗できるかもしれない。
右目を失っているがゆえに刀法には優れないが、だからこそ無刀取りに長けている。
失った右目に勝る何かを七郎は持っているのだ。