13 天下泰平
昼過ぎ、助九郎の屋敷の庭には、魚を焼く匂いが漂っていた。
「手強かった、成仏してくれ」
七郎は左手だけで祈った。
焚き火で焼かれているのは巨大魚、川太郎である。
七郎は川太郎と水中で死闘し、遂に仕留めた。
水中で無我夢中で抱きつき、懐に仕込んでいた脇差しで何度も突き刺した。
力尽きた川太郎と共に水面に浮かび上がってきた七郎。
彼は右腕を負傷していたが、命に別状はない。
そして命をかけた死闘を乗り越え、成長した。
「なんだ、なんだ」
「木村様が皆に魚を振る舞うそうだ」
「うわ、でけえ! こりゃ何だ!」
近隣の人々が、続々と助九郎の屋敷の庭に集まった。助九郎は皆に声をかけていたのだ。
「今日は大漁だぞ」
助九郎は集まった人々を前にして笑顔で言った。
太い木の枝を口から突き刺された巨大魚が、焚き火にくべられ焼かれている。
魚の焼ける匂いが人々の胃袋を刺激した。
「さ、遠慮せず食え!」
助九郎の言葉に集まった人々は笑顔を浮かべた。
食料事情が不安定な時代だ。一日二食が普通だが、時には一食もありうる。
ましてやタンパク質不足には常に悩まされている時代だ。
「いただきまーす!」
子ども達も小皿に川太郎の身を取り、楽しげである。子ども達の笑顔に母親達も笑顔であった。
「おたま、酒も出せ」
「あーい」
助九郎に言われて、おたまが屋敷の中から酒を運んできた。
集まった男達もいい笑顔をしている。
「よ、よろしいのですか木村様」
「よいではないか、たまにはな」
困惑する玄蕃に助九郎は笑顔を返した。助九郎は駿河の現状を憂えていた。
大納言忠長の治める駿河の地は今、魔都と化しつつある。
忠長が猿狩りを宣言し、功労ある者を取り立てるという事で、多くの浪人が駿河に集まってきた。
中には野盗に等しき者らもいる。彼らは押し込み強盗や辻斬りをし、駿河の治安は日増しに悪くなっていた。
更には駿河に全国大名の遣いもやってくる。三代将軍家光の弟だからではない。大名らは幕府に不平不満を覚えていた。家光の治世の元、多くの大名が改易された。
全国にあふれた浪人は十六万人……
日本中で治安が悪くなるのは当然だ。江戸では町民に小太刀の所持を許可した。自衛しろという意味だ。
何にせよ日本中が混沌の中にあった。
徳川幕府も三代だが太平の世には遠い。
だからこそ全国各地の大名が忠長に遣いを出す。天下がひっくり返るかもしれないからだ。
「そうはさせん……」
七郎は人々が食事する様子を眺めた。
真の天下泰平は今ここにあるのだ。
「七郎、あーん」
おたまはニコニコしながら、七郎の口元に箸を運ぶ。七郎は川太郎に右腕を噛まれて負傷していた。今も首から下げた三角巾で右腕を吊っている。
「あーん」
「美味しいべか?」
「うむ、おたまのメシは美味いな」
「な、何言ってるべ〜、ただの焼き魚だべ〜」
と、七郎とおたまは夫婦漫才のようなやり取りをする。
玄蕃はイラッと来た。
「おたま!」
「ん、なんだべ玄蕃さん?」
「あーん!」
「ん? あ、あーん?」
おたまは玄蕃の口にも箸を運んだ。
玄蕃は何かを確かめるように入念に味わった。
「はがびんせいにぐいなし……!」
「食べながら話しちゃダメだべ」
「玄蕃、行儀が悪いぞ」
男二人と女一人の奇縁を、助九郎はニヤニヤしながら眺めていた。
屋敷の庭では人々が焼いた川太郎を食べながら談笑し、酒を飲む者もいる。
魔都と化しつつある駿河での平和な一時だ。
助九郎はそれこそ尊いと感じていた。