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駿河血風録  作者: MIROKU
11/19

11 最高の心技体



 七郎は助九郎と共に道場に来た。

 二人とも稽古袴に着替えていた。そして七郎の右腕には帯が巻かれ、胴体に固定されている。

「これは……」

「こんな修行もあるのですよ」

 助九郎はニヤニヤしていた。右腕もしくは左腕を封じる稽古もあるのだ。

 これは戦場で片手がふさがっている事が珍しくないからだ。

 討ち取った敵将の首をぶら下げているかもしれない。

 そのような状況で新たな敵に襲われたらどうするか。

 それを探るための修行なのだ。

「さあ始めますか若」

「応!」

 七郎の全身に活力が満ちた。

 全身全霊で挑む、七郎は今も昔も変わらない。

 だが相手ははるか格上だ。

「ほ」

 助九郎の右足が、踏みこんだ七郎の左足を横から払う。

 ダダアン!という小気味良い響きと共に、七郎は道場の床に横倒しになった。

「大丈夫ですか若? 手加減はしたのですが……」

「も、問題ない」

 七郎、うめいて起き上がった。

 右腕を使えないというのは、想像以上に難儀だ。

 たとえ両腕が使えても、助九郎相手に勝機をつかむのは至難の業だ。

 それを左腕一本で挑むとは――

「ふ〜……」

 七郎は静かに呼吸を整えた。

 そしてゆっくりと助九郎の右手側に回りこもうとする。

 右手側は刀の刃の死角だ。

 自分からは近く、対手からは遠く。

 そのような位置から攻める、それが勝機をつかむ。

 だが右腕を封じられた七郎は、普段の実力の半分も発揮できない。

「甘いですな」

 助九郎はまっすぐに踏みこみ、右肩から体当たりした。

 手加減はしているはずだが、それでも七郎は一間ほどふっ飛ばされた。

 戦場は変幻自在、千変万化。

 嵐の海に似た闘争の中で勝機を掴むには、どうすればいいか?

 七郎は寸秒の間に、それをつかまなければならぬ。

「まだまだ!」

 七郎の闘志が燃え上がる。それは命の尽きる直前の灯火に似た。

 その全てを捨てた気迫を、父の又右衛門や師事した小野忠明、そして助九郎も愛するのだ。

「は!」

 七郎は素早く踏みこみ、助九郎の右踵を右足で払う。柔道における小内刈だ。

「浅い!」

 体格に勝る助九郎は七郎と組みつき、持ち上げて背後の床に投げ落とした。後世の柔道の裏投げだ。

 うめきながらも七郎は立ち上がった。助九郎が手加減しなかったら、今の裏投げで意識を失ったろう。

 七郎は戦場の呼吸を知った。

 命をかけた闘争の場では、痛みや恐怖が麻痺する事があるのだ。

「おおお!」

 七郎のしかけた無心の一手。

 素早く左手で助九郎の右袖をつかんだ。

 そして右足を助九郎の右足に引っかけ、体を回した。

 助九郎は足を引っかけられた上に右手を引かれて、体勢を崩しながら板の間に背中からダアン!と落ちた。

「それですぞ、それこそが最高の心技体!」

 助九郎は何事もなかったように起き上がった。

 対する七郎は今の技の余韻に浸っていた。

「今のは……」

 いつか見た父の技ではなかったか。

 稽古の際、又右衛門は七郎の右袖を捉えて瞬時に投げ落とした事がある。

 父、祖父、更には先師から伝わった技かもしれぬ。

 何にせよ、自分が一個の球と化したように錯覚した。

「もう一本!」

 叫んで七郎は助九郎に踏みこんだ。

 速い。

 左手で助九郎の右袖を捉えると、瞬時に体を回して投げた。

 バアン、と助九郎は背中から道場の板の間に落ちた。

 隼が獲物を捕らえて即座に喰らうが如しだ。

 それは小野忠明が七郎に伝えた、一刀流の真理である。

「……ふー、ふー、ふー」

 助九郎は起き上がってきた。顔は笑っているが目が笑っていない。

 七郎の顔から血の気が引いた。今の技――後世の柔道における左手一本の体落――は、助九郎を本気にさせたらしい。

「やりますな、若! さあ本番ですぞ!」

 助九郎は大きく両手を広げ、かかってこいと言わんばかりに七郎を威圧した。

 真田の遺臣、佐助の手強さに助九郎も頭を悩ませていた。

 そんな助九郎は激しい稽古で、日々の鬱憤を晴らそうとしていたのかもしれない。

「ギャ……」

 七郎は力なく笑った。左手一本の体落で全身全霊を使い果たしていた。

 感情の働きが乏しかった彼も、苦しい時は笑えば気が軽くなる事を覚えた。

「七郎がんばるべ……」

 おたまは七郎と助九郎の荒稽古を眺めて微笑し、道場の入口の床に握り飯の小皿を置いた。

 彼女もまた船宿で仕事だ。おたまには良妻賢母の素質があった。

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