10 理想に死すべし
かつて大阪の陣で、徳川方を散々に悩ませた真田信繁。
家康公に死を覚悟させたほどの奮戦ぶりは、後世にも伝えられている。
その信繁に付き従う勇士の中に「猿飛」とあだ名された者がいたという。
「親父殿が申した事ですぞ」
助九郎は七郎に言った。
「猿飛……」
七郎の身がぶるぶる震えていた。武者震いだ。
かつて父の又右衛門も対峙した勇士が今、七郎の前に巨大な壁となって立ちふさがっているのだ。
「そ、それで父上はどうしたのだ」
七郎は珍しく平静を欠いていた。
幼い頃の兵法修行で右目を失った七郎は、感情の働きが鈍かった。
七郎は自身の心境を「捨心」と称している。
「何しろ神出鬼没、討ち取るどころか手合わせしても逃げられたと」
「父上の一刀から逃れたという事か」
七郎の脳裏に大男の身のこなしが思い返された。
彼の無刀取りの妙技を軽くいなした身のこなし、父又右衛門の一刀も及ばなかったのではないか。
「まあ何にせよ偉大なる難敵、得難き好敵手ではありますな」
「なぜ嬉しそうな顔をする」
「敗れて死すとも悔いのない相手でありますよ」
「ふうん」
助九郎の心理、七郎にわからなくもない。
七郎にも挑みたい対手がいる。父の又右衛門、恩師の小野忠明の二人だ。
戦国の剣聖、上泉信綱の無刀取りを受け継いだ祖父から指導を受けた又右衛門。
もう一人の剣聖、伊藤一刀斎景久から直接指導を受けた小野忠明。
二人の武の巨人に挑むのは、男子の本懐ではないか。
だから七郎には助九郎の心が理解できる。
助九郎もまた七郎の心が理解できる。
そんな二人を、実は又右衛門は苦手としていたーー
「若は川太郎退治に専念なさってください」
助九郎は晴れ晴れとした顔だ。彼は自分の死に場所を求めているのだ。満足して死ぬために。
又右衛門ならば、それを匹夫の勇と呼ぶだろう。天下のために働く又右衛門は、簡単に死ねる立場にない。
「俺は俺だ」
七郎は言った。彼は全てから自由になりたかった。
家と父からも、幕府からも。
七郎は自由になりたかった。
いや、欲しかったのは心の自由だ。
失った右目と引き換えに、七郎は心の自由を得た。
その自由な自分が告げている。
理想に死すべしと。