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転生 第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争 1

情報があまり無いのでかなり好き勝手にやっていくのでよろしくお願いします。

1842年 コペンハーゲン

 街は今お祭りムードであり、歩いている人々の顔はとても明るい。何故なら、フレゼリク王子に息子が生まれたからだ。今の国王であるクリスチャン8世は御歳61歳。そして唯一の子息であるフレゼリック王子の嫡男誕生は国民にとって待望の願いだった。



 人々は、王子に息子が産まれたことにより、王子の女癖の悪さも落ち着くのでは無いか。夫婦仲が改善されて行くのではないかと各々の希望を話し合う。



 しかし、1840年、嫡子を産んだカロリーネ・マリアンネ・ツー・メクレンブルクはついぞ変わることの無かった夫の悪癖に耐え兼ね、実家へ訪れたとき、デンマークへの帰国を拒否してしまった。


 市民達は多いに嘆き悲しみ、母の顔も知らずに育つことになる幼い王子の事を思ったという。



 1848年


 えー、皆さんこんにちは。デンマーク王国の王子であり、継承権第1位のフレデリックです。前世では何者だったのかの記憶は曖昧なのですが、何やら転生したことだけは分かります。


 ビックリしましたよ。気づいたら赤ちゃんになっていて、耳馴染みのない言語が頭の上で飛び交っているんですから。


 私が王子として産まれたデンマーク、これからの未来がなかなかハードコアな国なんですよね。というのも、この国近世から第二次世界大戦が終わるまで戦争に殆ど勝てていない国なんですよね。


 30年戦争では、神聖ローマ帝国にボコられ、スウェーデンに北欧の覇者の地位を負い落とされ、ナポレオン戦争ではスウェーデンにノルウェーを奪い取られる、プロイセンには、シュレースヴィヒ・ホルシュタインを奪われる。


 このように戦争に負け続けて、最終的にはナチス・ドイツに国土の殆どを占領され、保護国となってしまうというとても不幸な国家なのだ。


 そして今は、1852年の5月、そうです第一次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争がロンドン議定書によって集結を迎えたのです。


 しかし、この議定書は両者にとって満足いく物ではなく、第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争によってデンマークとプロイセンの間に埋めることの出来ない深い蟠りができてしまう。


 幼い身ですが、王宮でできる限り情報を集めつつ将来に向けて勉強していきたいと思います。


 第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争

、この戦争勃発の背景にあるのは、19世紀に沸き上がった両公国の住民による民族主義の高揚であった。


 フランスで起きた2月革命はヨーロッパ諸国へ飛び火して1848年革命となり、これを受けて各国で民族意識が高揚した。この運動は当然デンマークにも波及した。


 当時のシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はデンマーク王の継承権によりデンマーク王国の勢力下にあり、北欧では汎スカンディナヴィア主義が台頭する一方、両公国の住民の多くはドイツ系であり自治とドイツへの統一を求めていた。


 この問題はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題または、南ユラン問題と呼ばれていた。


 戦争の発端は、1848年にデンマーク王のクリスチャン8世が没し、フレデリク7世が即位すると憲法を発してシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国をデンマークに併合することを命じたことに始まるった。


 両公国は反発し、ドイツ連邦の支援を受けてホルシュタイン公国でアウクステンブルク公クリスティアン・アウグスト2世とその弟フリードリヒによる暫定政府の樹立がなされてた。


 この政府はデンマークからの分離を目指しており、背後にプロイセン王国の支援があった。暫定政府の樹立はデンマークへの反乱を意味しており、デンマークは反乱を鎮圧し、さらには両公国をデンマークに完全併合すべく、シュレースヴィヒに侵攻した。


 プロイセン介入の可能性がありながらデンマークが強気の攻勢に出たのは、その背景に北欧全土に沸き上がった民族主義、汎スカンディナヴィア主義の昂揚があったからである。特にスウェーデンはデンマークを後方から支援した。


 スウェーデンは、中立主義(武装中立)を標榜しながら、義勇軍をデンマーク軍に参加させ、ほぼ正規の兵を戦闘に参戦させたのである。さらに緊急時に備え、スコーネにおよそ1万人を待機させ、フュン島に4,500人のスウェーデン軍を派遣していた程である。スウェーデンはデンマークが苦境に立たされた場合に備え、中立主義を放棄する意志を秘めていたのである。


 1848年4月、プロイセン王国はドイツ連邦、オーストリアは参加しなかった、と共に兵を起こし、フリードリヒ・フォン・ヴランゲルを総司令官としてシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ攻め込んでデンマーク軍を撃退した。


 5月にはユトランド半島のデンマーク領に侵入したプロイセン軍の優勢に反発したイギリス・フランス・ロシア・オーストリア等が外交で干渉しはじめ、デンマーク海軍が半島東部の港湾を海上封鎖した。


 これに対し海軍力に劣るプロイセンは、有効な手立てを打つことが出来ず窮地に陥り、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は「犬と魚の戦争だ」と呟き、調停をスウェーデンに託し、スウェーデン南部のマルメで約8か月の休戦条約が結ばれた。


 これに両公国の自治を支援したドイツ人達は不満を募らせ、プロイセンの消極的態度を批判した。

Wikipediaは神。

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