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運命の天使のアマートゥス

作者: 今野 春

 マンション、大学生の一人暮らしにぴったりの六畳一部屋の中に大学生ほどの男女が二人。長い銀髪で小柄な少女はスマホを片手にベッドに寝ころんで、何やら真剣そうに眉を寄せて画面とにらめっこをしている。寝返りを打った時にその可愛らしい顔に覆いかぶさってきたパーカーのフードを邪魔そうに払いのけた。

 もう一人、黒い髪の背の高い男は台所に立って黙々と食器を洗っている。どこか暗いともとれる落ち着いた雰囲気をしていて、よく見てみれば耳には色付きの石がはめ込まれたピアスが複数個ついていたり、指にも食器洗いを阻害しそうな大きな指輪がいくつもはめられている。

 そんな二人はこの部屋で同棲して二年になる。

 と、突然少女の方がベッドから跳びあがって叫んだ。


「やったー! 馬単と三連単てきちゅー! いぇーい!」

「ノルン、声を抑えてください。また怒られてしまいます」

「あっ、ごめんごめん、圭一」


 圭一に淡々とした声で治められて申し訳なさそうにノルンがベッドに潜りなおす。そして確定の速報をネットで漁って、当たっていることを確認してほくそ笑んだ。

 布団の中で悪役のような笑い声をあげるノルンへ、洗い物を終えた圭一が声をかける。


「いくらですか?」

「んーと、五十万勝ち!」

「いいですね。ここ二か月ぐらいは贅沢に暮らせそうです」

「だねー! ふふーん。三レース目は当たると思ってたんだー」


 ノルンが嬉しそうに笑うのを見て、圭一も少し頬が緩む。すぐに表情を引締めてパソコンを開き、メールボックスからいくつか重要なものを確認した。

 布団がぽんと投げ出されてノルンがベッドから飛び出す。その瞬間、ノルンの背から伸びる一対の純白の翼があらわになって、日の光を浴びて銀色の髪と共にきらきらと輝いた。


「天使パワー使わなくてもこれなんだから、私ってすごいよね!」

「本当に金銭的に助かりますよ。俺も学校生活と仕事でろくにバイトを入れれませんから」


 圭一はパソコンを閉じて部屋の中央にあるこたつの中に足を入れた。テレビの電源を入れてニュース番組をつける。ノルンが画面をちらりと見て不服そうな表情をした。


「もう、こんなお昼からニュースばっかり! もっと明るいバラエティー見ようよー」

「つけたってノルンは見ないでしょう。僕はこういう落ち着いたものを淡々と見ていたいんです。競馬なんて特に苦手なんですから」

「わかってないなぁ。こういうところは私たち合わないよね」

「そうですね」


 圭一は卓上のみかんをひとつ手に取り、おもむろに皮をむき始める。視線はテレビに向けたままに。

 ニュースでは、聞き流していられるぐらいの些細な出来事がアナウンサーによって起伏なく語られている。それらの話題は井戸端会議でネタにしても大して面白くもなく話も広がらないものだろう。

 だがそれらを部屋のこたつに入って眺めることこそが圭一の至高の瞬間であった。

 賭けていた分の競馬の配信も終わってしまって退屈になったノルンがこたつに入ってわざと圭一の足に自分の足を重ねる。圭一が何かを言いたそうに眼だけでノルンの方を見るが、ノルンがここぞとばかりの笑顔を作ると、圭一は何も言わずに二つ目のみかんを手に取るのだった。

 しばらく無言の時間が続く。ニュース番組が正午を告げる。段々とノルンも退屈になってきて、机に胸を押し当てて翼を揺らしながら手元のスマホをいじくる。と、何かの気配に気が付いた。

 体を起こして気配を探れば、ある物体が空中に浮いているのを見つけた。

 その物体は一見して生物のようであるが、それにしては奇妙な形をしている。丸いテニスボールぐらいの大きさの体に、表面積の三分の一はあろうかという巨大な眼球をつけ、背中には禍々しい黒い翼を二対生やしている。申し訳なさそうについたつまようじ程度の四本の足がその異形な容姿を際立たせている。

 こんな奇妙な生物が我が物顔で室内を飛んでいるというのに、圭一は気づきもせずにのうのうとテレビを見ている。よく考えてみればこの生物がいつ、どうやってここに侵入したかもわかっていないのだ。

 だが、ノルンには見えていた。この生物が窓をすり抜けて部屋の中に入ってきたところを。

 ノルンが唐突に立ち上がったのに驚いて圭一が声をかける。


「どうかしましたか?」

「ん、ちっちゃい悪魔がいる」


 そう言ってノルンは空中を飛ぶ生物、もとい小型の悪魔をにらみつける。

 悪魔の巨大な瞳がぎょろりと動いてノルンと目が合う。そしてノルンに生える翼を見て文字通り目の色を変化させた。


『キシャアアアア!』


 瞳が体内に消えて強靭な牙が出てきた。悪魔はノルンへその牙を突き立てようと弾丸と等しい速度で迫る。

 ーー悪魔は天使の両手で叩き潰された。

 瞬きの間の出来事だった。両脇からの衝撃で悪魔は自身を構成していた肉の片をまき散らしながら爆散して、命を散らす。そしてノルンはやり切った顔で言った。


「とった!」

「そんなまっくろくろすけを捕まえるみたいに」


 想定外の行動に圭一はあきれて、おかしくて笑ってしまう。ノルンもなんだかおもしろくなって一緒になって笑った。

 笑っているうちに手や床に残った肉片はいつの間にか黒い塵になって消えて、ノルンの視界はいつも通りの清潔な部屋に戻る。安心してこたつに座り、残った最後のみかんを手に取った。


「こんなところに入ってくるなんて、あの悪魔もかわいそうだね」

「悪魔もまさか天使が人間と住んでいるなんて思いもしないでしょう。度肝を抜かれたのはむしろ悪魔の方だったかもしれませんよ」

「あはは! そうかも。……でも、ちっちゃい悪魔が出てきたってことはさ」


 ノルンは不穏な口ぶりで言って、意味ありげに圭一を見る。圭一は顎を引いて立ち上がった。


「ええ、現れるでしょう。親玉の悪魔が」


 十数年前、世界に天使と悪魔が同時に降臨した。

 なんの予兆もなく到来したそれらの二つの脅威は世界を混沌へと陥れる。当然のごとく人間の現代技術はことごとく歯が立たず、水素爆弾においては悪魔に対する大きなダメージが確認されたものの、人類への影響を考えるととても多発できるようなものではなかった。

 そこで人類は天使に頼った。

 天使は人間の信仰の力を受けて悪魔と戦い続けた。およそ三年の月日をかけて、悪魔は一時的にとはいえ地表から消え去ることとなる。

 置き土産として多大な地球への被害を残し、勝ち残った天使の羽を黒く染めて。

 圭一はノルンの手からスマホを受け取って電話を掛ける。


「もしもし、安部圭一です。小型の悪魔が管理天使ノルンにより発見、すみやかに駆除されました。至急、対悪魔緊急宣言を俺の担当地区へ発令していただきたく思います」


 ―― ―― ―― ―― ――


 圭一たちの住む街は小さな街ではない。大学や会社に通う人々が多く住む穏やかで活気のある街だ。それだというのに、駅前の広場には人ひとりおらず、タクシーですら停まっていない。電車のホームでは運行休止を告げる赤い文字が何度も電光掲示板を通過していた。

 そんな寂れた光景を見て、ノルンは大きなため息を吐かずにはいられない。


「ほんと、悪魔が出た時の街ってつまんないよね。さみしくって静かで嫌になっちゃう。あと寒いし」

「まだ冬に差し掛かったばかりですよ。本番はこれからです」

「えー、やだなー。お母様たち神様も地球に来れば、この寒さもわかってくれるのかな」

「それは勘弁してほしいですね」


 神の存在をちらつかされて、圭一の苦笑いの口から思わず本音が漏れ出る。すぐに咳払いでごまかしたがノルンには通用せず、少しからかわれた。

 表情を引き締めて圭一は耳につけた通信機のスイッチを押す。


「誘導班、避難状況は?」

『避難、完了しました。ご武運を祈ります』

「ありがとうございます。お疲れさまでした」


 機械の電源を切って、耳から外してポケットに雑に突っ込む。


「行きましょうか」

「はーい!」


 そして誰もいない街を二人で歩き始めた。

 閑散とした街ではあらゆる店のシャッターが下りていて、市役所等の大きな建物も軒並み暗い表情をして佇んでいる。ハトもカラスも第六感で異変を感じ取ってこの地を去り、遠くから眺めていることだろう。

 実を言えば、今この街には無数の小さな悪魔が潜んでいる。姿を現さないのは天使のノルンのオーラを感じ取っているからだ。

 途中でノルンが先を行く圭一の袖を引いた。


「どうかしましたか?」

「飲み物買いたいなって。ちょっとお金くれない?」

「いいですよ」


 百円玉と五十円玉を一枚ずつ渡されたノルンは自販機へと小走りにかけていく。前に立つと少し悩んだ後に百五十円ぴったしのジュースを買った。

 自販機のスロットが回りだす。ノルンが期待を込めてじっと見つめると、見事に当たった。


「やった!」


 ノルンが声を上げて喜ぶ。景品に圭一の好みのカフェオレを選んで、弾む気持ちで圭一のところへ戻ろうとした、その瞬間だった。

 巨大な影が二人を覆った。

 刹那、ノルンの脳内に電撃が走る。脳裏に断片的に、コマ撮り映像のように浮かぶのはこの次の出来事。

 二人が巨大な悪魔に押しつぶされて死ぬ未来。


「それはダメ」


 ノルンの口から自然と言葉が漏れる。

 その想いに呼応するかのように、ノルンの背の翼とペットボトルが淡い翡翠色に輝いた。

 次の瞬間、ノルンと圭一の背後で耳をつんざく轟音が鳴り響いた。衝撃波に少したじろいで、圭一が叫ぶ。


「戦闘開始!」


 背後を振り向くと、影の正体が明らかになった。

 それは巨大な尻尾だった。表面には人の顔面と同じ大きさの鱗があり、光を浴びては禍々しい光沢を放っている。

 尻尾は建物をなぎ倒しながら地を這い、持ち主の姿をあらわにした。

 尻尾の大きさとは釣り合わない小柄な人型の悪魔が浮かんでいた。全身を岩のような灰色の表皮で覆い、真っ黒な黒曜石の宝石のような瞳が二人を凝視している。人間では尾てい骨のあるあたりからしっかりと尾が伸びていた。


「いいデザインしてるね」

「死にゲーならかなり人気が出るでしょう。そして俺に見えるということは、あれが親玉か」

「そうだね!」


 圭一がポケットから二枚の札を取り出した。白と黒の華美な装飾がなされた札を両手の甲に貼り付け、何も無い空間に腕を突き出す。そして空を掴んで引きちぎった。

 空間の切れ目から紫色のひずみが現れる。底の見えない淀んだ紫色の空間が広がり、その中にノルンが腕を突っ込んで何かをつかんだ。感触から掴んだものを察してノルンが嫌そうな顔をする。


「これ使うの、大変なんだけどっ!」


 全身を使って取り出したのは、長さ四メートル、圭一を二人縦に並べても足りない長さの白銀の大剣だ。一メートルはあるであろう柄を肩に預けるようにして持ち上げる。

 そのあまりの重さに唇をとがらせて圭一に抗議する。


「ねえ、本当にこれ使うの? もうちょっと軽い武器の方がいいんじゃない?」

「そうですね。本体に対してはその剣では勝てないでしょう。なので、ひとまずあの尻尾を切ってもらおうかと」

「うえー、簡単そうに言うんだもん、やになっちゃう」


 ノルンが頬を膨らませる。それを気にも留めず、圭一は事も無げに言った。


「ノルンならできるでしょう?」

「むぅ……」

「ともかく、あの中ボスをやっつけてきてくださいよ。そしたら何か美味しいものでも食べに行きましょう」

「……高くて美味しいところ?」

「そうです」

「しょうがないなー」


 ノルンは大剣を担ぎ直して浮かび上がる。


「それじゃ、行ってくるね!」


 そして抱えている質量からは考えられないほどの速度で悪魔へ向かって飛び立った。

 ノルンの翼を見送りながら圭一はぼそりと呟く。


「……頑張ってくださいね、ノルン」


 すぐに別の札を取り出して額の中心につけた。

 ノルンの接近に気が付いていた悪魔は、やはりその災害と呼べる尾をもってノルンを撃墜しようと襲い掛かる。

 暴力の塊がその外見からは想像もできないほどに柔軟にしなり、鞭のようになって音速の攻撃をたたきこもうとする。刹那、ノルンの翼が翡翠色に輝いた。

 ノルンに向けて攻撃が叩き込まれ、空気がはじける音が鼓膜を貫く。しかしそこにノルンの姿はなかった。

 悪魔が驚いた表情をしてノルンを凝視する。明らかに物理法則を無視してノルンは平然と攻撃範囲から脱出していた。


「うわぁ。あの先っぽは躱せないだろうなぁ。私の力もたくさん使いすぎちゃダメだしね。頼りすぎないようにしなきゃ」


 ノルンが大剣の柄を手から離す。すると、重力に逆らって圧倒的質量がノルンの周りをひとりでに浮かびだした。そう、まるで悪魔のあやつる尻尾のように。


「だから、さっさと切っちゃおっか」


 悪魔の尾が再び攻撃をしかけてくる。今度は先ほどとは角度を変えて、真横から死角を狙ってくるかのように。それを横目でちらりと見てからノルンの手がゆらりとなまめかしく動いた。

 大剣が動く。音の速さを超えて。

 ノルンを攻撃しようとした尻尾は、ノルンの真横を通過して断面をあらわにした。悪魔が表情を歪める。


「表情豊かだね! 中級悪魔なのに」


 ほとんど根本から断ち切られた尻尾は慣性のままに飛行して、遠くの建物に衝突して粉塵を巻き上げる。

 くすくすとノルンが笑う。悪魔は怒った表情で自分の残った尾をつかみ、引きちぎった。

 悪魔がにたりと笑う。


「え?」


 その声は突然殴られた衝撃でゆがんだ顔から発せられた。

 ノルンの体が宙を舞う。強風に吹かれる桜の花びらのように。

 なんとか空中で体勢を立て直して前を向く。だが悪魔の姿は見えない。


「このぉ……いきなり顔からくるなんて酷い」


 右手方向に気配。大剣を引き寄せて盾にすると、大剣ごとはじかれて大きく後退する。

 再び悪魔が攻撃をしてくるのを直感で理解して、ノルンは自身の能力を発動した。

 翼が光る。

 同時に右わき腹に痛烈な痛みが走る。歯を食いしばって声を出すのをこらえた。あたりを見渡せばそこは地上で、空を飛んでいたはずのノルンは地面に座り込んでいた。

 立ち上がって服の汚れを払いながら独り言をつぶやく。


「ふぅ、よかったぁ。剣で受けてなかったらここに追い込まれてたんだ。そしたら危なかったかも」


 天使にはそれぞれひとつずつ天界から持ってきた特殊能力がある。ノルンの場合の能力は、「運命の再選択」だ。初撃を避けたのもこの能力によるもの。

 今、ノルンは「大剣で自分を守る」運命を捨て、「大剣で守らずに攻撃を受けた」運命を選んだ。結果的に吹っ飛ばされたダメージとともに瞬間移動を叶えたというわけだ。


「私のこの能力、悪魔に効かなくてよかったよ、本当に」


 肉を切ってでも悪魔から身を隠せた恩恵は大きい。今のうちにあの悪魔との対決用の武器を受け取らなければならない。悪魔がどこにいるかはわからないが、圭一を探すべくノルンは小道を走った。


「圭一に会いたいよ……!」


 その願いはすぐに叶う。

 一本目の道を曲がろうとしたとき、ちょうど圭一の顔が目の前に現れた。


「やった! 圭一、運命の力だね!」

「否定できませんね。ちょうど探し始めたらこれなんですから」


 圭一が大剣を取り出した時のように札を手の甲に張って空間を切り裂く。今度は扱いやすそうな長さの白黒の双剣がノルンの手に握られていた。


「そうこれこれ! この可愛い子が使いたかったんだ!」

「どうですか、敵の強さは」

「んー、中の上ぐらいかな?」

「結構な強さですね」

「そう? あっ、ねえねえ、ほっぺた変になってない? やられちゃって」

「見せてください」


 ノルンが殴られたところの頬を圭一の方に向ける。圭一はその頬に優しく触れた。ノルンのまつ毛がピクリと揺れる。


「痛みは?」

「ちょっとじんじんする」

「少し赤いですよ。冷やしますか?」

「んー……大丈夫!」


 耳を赤くしたノルンがぱっと離れて、翼を翻して浮かび上がる。


「それじゃ! しっかり倒してくるね!」

「はい。無理はしないでくださいね」

「だーいじょーぶ! 行ってきます!」


 そう言って飛び立つ、ノルンの黒くなった片翼を見つめながら圭一は小さく手を振った。

 悪魔はノルンに能力を使われて攻撃をかわされたところから動いていなかった。おそらくはノルンが戻ってくることを確信していたからだろう。

 その歪な信頼の通り、ノルンは自らやってきた。

 右手に持った白い剣を悪魔へ突きつけながらノルンは大声で言う。


「待ってたことを後悔させてあげる! せっかく当たった自販機のカフェオレも返してもらうんだから!」


 悪魔がノルンのことを小ばかにして笑みを浮かべる。それが癪に障ったノルンは自ら戦いの火ぶたを切った。

 悪魔に接近し、斬撃を繰り出す。だが悪魔はそれらを悠々とかわしながら、手でノルンのことを挑発した。やけくそになったノルンが蹴りを繰り出すと、悪魔はその足を受け止める。


「むぅ」


 そのままノルンの体が地面に向けて投げつけられる。地面に転がりながらも衝撃を受け流して着地して、すぐに剣を構えると悪魔の蹴りに全身を貫かれるかのような痛みを――


「私の力、何かわかんないでしょ?」


 上から声がして、悪魔は反射的に上を向いて両腕を頭上で交差させた。そこへノルンの剣がめり込む。


「ふふん、私の方が何枚も上手なんだから!」


 浮かんだままノルンが斬撃を繰り出す。地上に足をついたままの悪魔は防御に手いっぱいで、空へ逃げることができない。

 悪魔が賭けに出た。ノルンへと右の手のひらを突き出す。

 ノルンの背筋に悪寒が走る。

 次の瞬間、悪魔の右手から紫色の炎が噴き出てノルンの全身を飲み込んだ。

 悪魔が歓喜の雄たけびを上げる。


「危なかった!」


 その雄たけびはすぐに悲鳴に変わる。

 してやられたことへの行き場のない怒りから出たノルンの斬撃が、油断した悪魔の胸を深々と切って目に見える傷ができた。

 悪魔が驚いて飛びのく。そして本能的に空へと逃げた。


「あっ! 待てー!」


 ノルンも全速力で空を駆けるが悪魔との差は縮まらない。そうしているうちにも悪魔は胸の傷を治そうとしている。

 ノルンが片方の剣を投げつける。悪魔は横に飛びのいて避けた。そしてノルンの方を向く。


「……何よその顔。治ったのを見てほしいの?」


 悪魔が笑ってノルンを見る。そして両手の平を向けた。

 ノルンは警戒の色を濃くする。そのノルンの余裕の無い表情が愉快で、悪魔は笑った。この距離ではノルンが何もできないことがわかっているから、悪魔は笑った。


「私も、見てほしいものがあるんだよね」


 そしてノルンも笑った。

 悪魔はきょとんとした顔をする。悪魔と天使では使う言語は違う。だが、何かを感じ取ったのだ。

 悪魔が動く。


「ざんねん」


 身を翻した瞬間、真下から飛来した大剣が悪魔の左脇に突き刺さった。

 悪魔が苦悶の表情を浮かべる。


「ふふっ、ここに来ちゃったのも運命ってことだよ。すぐそこにあってよかった」


 ノルンの左手に持つ剣が白く輝く。悪魔も右手をノルンに向ける。


「ばいばい!」


 空中に向けて一閃。光が刃となって空を飛び、紫の炎をかき分けて悪魔の首を跳ね飛ばした。


「ふふん。これが天使パワーなんだから」


 胸を張り満足げに腰に手を当てて、悪魔が散っていくのを眺める。

 悪魔の体が跡形もなく消える。大剣を動かして手元に寄せて、投げた剣も引き寄せた。それから圭一の姿を探そうと動く。

 その時、ノルンの体がふらりと揺れた。

 動こうとするのをやめて頭に手を当てる。


「……急がなきゃ」


 おぼつかない軌道を描きながらノルンは地上へと降りていく。

 圭一はすぐに見つかった。というより、最初に着地しようとしたところにすでに圭一がいたという方が正しい。

 降りてきたノルンを見て圭一が心配そうに腕を伸ばす。ノルンはその腕の間に入って圭一に抱きしめられる形で体重を預けた。


「えへへ。疲れちゃった……」

「お疲れ様です。悪魔の消滅は確認しました。中型と小型もいくつか俺の方で処理しましたから、もう安心していいですよ」

「そっか。ありがとう、圭一」


 ノルンの足の力が突然抜けて地面に崩れ落ちようとするのを、圭一は慌てて受け止める。そしてゆっくりと地面に座らせた。


「ここは座り心地が悪いですね。公園でも近くにあればよかったのですが」

「ううん。大丈夫。それよりも圭一」


 ノルンの翼が広がる。元の美しい白色の面影もない、真っ黒な翼が。

 ノルンが辛そうに顔をあげて、冷や汗をかきながら作った笑顔で言う。


「お願い」

「任せてください」


 ノルンの翼から羽が抜け落ちていく。一枚一枚を数えることのできない速度で。

 抜け落ちた羽は重力に逆らって空中にとどまり続ける。それらは段々と環を空中に作り出していった。

 圭一はその様子をじっと眺める。

 最後の一枚が抜け落ちてノルンの背から翼が消え去ったとき、環の内側が黒く染まっていき、扉のようなものを作り出した。そして今にも内側から何かが飛び出さんとしている。

 圭一は優しくノルンを壁に寄り掛からせて、その頭をなでる。


「いってきますね」


 優しい微笑みを浮かべ立ち上がり、ポケットに入れてあった通信機を乱暴に取り出す。


「こちら圭一。管理天使ノルンよりミアズマの環が出現。女神ノルンの反転生命体として現れるテネブリスと戦闘、浄化を行います」

『了解。ご健闘を』


 そうして通信機を投げ捨てた。

 ミアズマの環が心臓のように伸縮する。内側にいる悪魔は余程強く扉を叩いているらしい。

 その様子を眺めながら、圭一は次々と耳のピアスや指輪を外して地面に落としていった。


「最近の悪魔は厄介だったからな。多少、骨が折れるだろうか」


 全身を軽くストレッチしていく。首を回し、両手を後ろで組んで高くあげて肩周りを解す。足と腰は入念に伸ばした。

 目を閉じる。体の中に熱を感じる。温かい熱だ。全身を委ねたくなるような、春の陽射しのような、温かい熱。

 その熱が全身に広がる。

 ミアズマの環がついに内側からの力に耐えきれずに決壊した。辺り一体に突然黒い闇が降りる。だがなぜだろう。光はないというのに、むしろ視界はくっきりとしている。

 だからこそ現れた異形の姿も詳らかに眺めることが出来た。

 全身の至る所に人間の屍を縫いつけた六本脚の巨人が、圭一の目の前にそびえ立っていた。顔面にはメイクのように白骨をあしらい、眼球がある場所は窪んで底が見えない。

 ーー天使と悪魔は表裏一体である。

 天使だけが地上に存在することは出来ない。悪魔だけが地上に存在することはできない。天使が増えれば悪魔が天使を食い破って生まれ、悪魔が増えれば天から降臨した天使が悪魔の脳天をかち割る。

 つまるところ、どれだけ戦おうが全ては徒労なのだ。戦いで折った骨は文字通り無駄骨である。

 それでも彼らは戦わねばならない。人類を生き残らせるために。人類を遠慮なく貪り食うために。


「随分と別世界の僕たちを喰らったようだな。運命の悪魔ラプラス」


 ラプラスはじっと圭一を見つめる。全身についている死体は、よく見れば黒髪の男と銀髪の少女の二種類だけだった。それがおびただしい数集まることでラプラスを着飾っている。

 圭一が前髪をかきあげる。碧く色づいた双眸が煌めく。


「俺はノルンほど優しくないぞ」


 安倍圭一。陰陽師の家系に産まれ、悪魔と天使の力を等しく持つ者。対テネブリス専門の国内最強陰陽師。


「かかってこい」


 ラプラスは音のない雄叫びをあげた。


 ーー ーー ーー ーー ーー


 ノルンが目を覚ました。まだ体に力が入らないことを確認すると、ふと決まったリズムで縦に揺られていることに気がつく。どうやら背負われているようだ。


「……あ、圭一」

「起きましたか」


 ノルンは圭一の背中に体重を預ける。おんぶされて揺らされるのが、水に浮かんでいる時のようで心地いい。


「どこか体に痛みはありませんか?」

「うん、大丈夫。圭一こそ大丈夫? 私の悪魔と戦ったんでしょ?」

「ええ、あれぐらいなんとも」


 そう口では言うものの、と思ってノルンは背中の上から圭一の体を眺める。ピアスが全て無くなっている。手を出させて指先を見れば、指輪は全て無くなっていて、いくつもの細かな傷が見えた。服もそこらかしこが破れているが、血の跡も目立った深い傷も見えない。


「……本当になんともないじゃん」

「だから言っているでしょう。これぐらいの実力がなければノルンのパートナーとしてやっていけませんよ」


 ノルンの頬が赤く染まる。穢れの反動か、頭がクラクラしてきてしまった。そのまま重たい頭を圭一の肩に埋める。

 心地のいい夕暮れだ。寒さは命の温もりが和らげてくれる。風はなく、戻ってきた鳥たちが所々で鳴いていた。少しもすれば離れていた人々が帰ってきて、再び賑やかな街に戻るだろう。

 ふとノルンのお腹が勢いよく鳴いた。圭一は何かに気がついて腕時計を見る。


「……ああ、結局ラプラスとの戦いは五時間近くかかっていたのですね。道理でノルンのお腹が空くわけです」

「あはは……。あの悪魔、私と同じような能力を持ってるもんね。戦うの時間かかりそう」

「ええ。早く倒すことを意識しているんですけど……なかなか上手くいかないものです」

「ね、もう大丈夫。降ろして」


 ノルンが圭一の背から降りて、二人は横並びになって歩く。ちょうどその辺は普段この時間なら大賑わいの商店街で、看板を見ているとますますノルンの空腹感が膨らんでいった。

 ノルンがゆっくりと周りを見ながら圭一に聞く。


「私の今の夜ご飯の気分、なんだと思う?」

「簡単な質問ですね」


 圭一が笑う。そして言い切った。


「寿司です。持ち帰りのね」

「正解! なんでわかったの?」

「俺が今寿司を家でゆっくり食べたい気分だからです」


 思いもよらぬ返答にノルンが思わず足を止める。そして勢いよく笑いだした。先にいる圭一も足を止めて、一緒に笑う。

 目尻の涙を指で拭って、楽しそうにノルンは言った。


「やっぱり、私たちこういうところはすっごく気が合うよね! ほんっとに、圭一がパートナーでよかった!」

「……何を突然」


 圭一は前を向いて再び歩き始める。ノルンは駆け足で近づいて、圭一と腕を組むのだった。

 ほんの一瞬、ノルンの翼が翡翠色に輝く。

 赤い顔をして俯くノルンに、この世界の圭一は気づけない。

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