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畜生の檻  作者: 今野豊
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①赤居検視

「何故人は悲しまねばならんのか。

それは我らが相対的な歓びを知るからである。

ユダヤ、キリスト、イスラム教が云う原罪。仏教が語る輪廻。神道が示す穢。

これは全ては同じことである。

相対的な歓びとは何か?

比較することである。

人が苦しまねばならんのは、今の己より過去の己の方が好い境遇であったことを知っているからなのだ。

我が苦しまねばならんのは、我より幸福な者を知っておるからだ。

お前が辛いのは、自分に付随する何かと自分が属する環境を、他と比較しているから

なのである。

なぁ、同士よ。

お前が抱えている苦悩は、お前の脳が幸福を知るからこそ存在するのだ。

——何が可笑しい?

反論があるなら、お前はまさに相対的な歓びに執着している。

忘れろと言っているのだ。

比較するなと言っているのだ。

自ら海水に顔を浸し、溺れるような真似をして馬鹿みたいじゃないか。

相対的な歓びは抹殺されねばならぬ。

無知は強さなのだ。

何も考える必要はない。

畜生へと退歩することこそがしあわせ。

辛き命の歩き方。

生きる道。

お前が幸せを得る手段。

これこそ苦しむお前を救う手段だ……。

黙っていないで何か云ったらどうだ。

我の言葉にそこのお前は、どう思う?」

群衆の視線を一身に集めながら演説する汐を、遠目に見ながら、隣に立つ本義頓子に訊ねた。

「そこのお前はどう思う?」

「汐こそ黙るべき」

唐突に始まったの汐の独壇場は、宗教の説法としてなら許されるかも知れないが、広い客船の内部施設を案内するツアーの途中でガイドから何か知りたいことやご質問はございますか、と訪ねられたときに始めていいものではない。

「何とかしてあの子を黙らせてきて頂戴」

「黙らせると言ってもなあ……」

汐は小さな身体を一杯に使って弁舌を奮っている。

自身でも理解していないであろう彼女の言説は、彼女の熱狂でいつしか目視可能な形を持ち始め、彼女の身体に纏わりつき、何だか大きな怪物のごとく見えてくる。

実際、汐は共産主義思想とカルト教団由来の終末思想と中二病を同時に罹患した怪物的存在だ。理性と幻想の間を反復横跳びしている彼女に、なぜ黙らなければならないのか理解させるのはほとんど不可能だ。

「あいつはいかれてるよ。この前、マルクスの『共産党宣言』と本屋に千冊は置いてありそうなビジネス書を交互に朗読している姿を見た。俺が彼女にできることは何もない」

「でも、あの流れのまま命子姉さんのことを話し始められると、姉さんに変な人がいるとの風説が流れるかも知れないわ」

「命子に変な友人がいるのは事実だ」

「隠すの。隠すの。それに何よりガイドさんの忍耐がそろそろ限界よ。あの顧客誘導用の旗があの子の脳天に突き刺さるのは時間の問題だわ」

「あいつなら案外大事にして、そのまま一緒に生活を始めるんじゃないか」

脳内で思い浮かべた旗の刺さった汐は、カブトムシのように見えた。

「分かったわよ、私が止めてくる」

頓子は汐に組み付いて、こちらに引きずって来ようとする。

汐はとても小柄で頓子は背が高いから二人は親子のように見えた。



今から一年前に命子が失踪した。

理由は分からない。彼女は誰にも告げず、財布だけを持って何処かに消えてしまった。

警察の捜査や俺たちの捜索は虚しく、杳として行方は知れなかったが、頓子の執念で新諸島に向かったであろうことがつい先月判明した。

命子が初期化と上書を繰り返してから置いていったスマートフォンから、どんな技術を使ったのか知らないが、頓子が情報を抜き出したのだった。

そこから新諸島の在留資格認定手続きの痕跡と、新諸島行きの船のチケットの購入履歴が見つかった。

今もそこにいるかは分からない。

思春期という劇的な変化の中にある俺たちにとって、一年前の情報はあまりにも古い。

だが俺たちは新諸島に行くことに決めた。

他に何も手掛かりが無く、また彼女の意思がどうであれ……、俺たちは命子ともう一度話がしたかったらだ。

俺たちは高校受験を終えて今、入学式が始まるまで約三週間の時間を得た。

この三週間で新諸島内をくまなく探す予定だった。



——しかし新諸島は調べれば調べるほど危険な場所であるとの認識が深まる魔境であった。

二十歳未満の子どもにのみ「学生」という身分を与え滞在を許すこの諸島は、彼らにそのまま統治を許すため、将来を省みない対処療法的な政策が積み重ねられ、さらにともすれば極端で過激になりがちな若気の至りが政策に反映され耳を疑う法律が多い。

例えば、俺たち三人が在留資格を得た冠島は、菓子類法というものがある。

これは島外に本社を持つ会社が作ったお菓子を冠島に持ち込むと死刑になる法律だ。

施行されたのは半年前で、既に百人ほどが死刑を宣告されているらしい。

こんなささやかな間違いで首が飛びかねない危険な島でも、まともな方であるらしいから、命子が別の島にいるとは考えたくもない。

曰く諸島には、島内の政府が弱かったり崩壊したりしたために群雄が割拠する戦国乱世的な状況に陥っている島もあれば、文明が崩壊し原始時代かのような生活をしている島、また常時膨張主義的な政策を執り、他島と戦争を繰り返す島、それに巻き込まれている島――。

「地球の走り方」という旅行ガイドブックは、新諸島を地球の中にあるもう一つの小さな異世界と評していたが、それはまさしく適言だ。

俺たちはこの広い諸島の中で、たった三週間というリミットの中で命子と会えるかどうかは分からない。

だが彼女と会えたとして――、彼女の意思がどうであれ、長居をするべきではないことは確かであった。



頓子に引きずられてきた汐は、ソファに腰かけた。

ツアー客からの厳しい視線が俺たち三人に向けられるが、俺たちを放って先に進んで欲しい旨を伝えると、あからさまにホッとした表情をして次の場所に進んで行った。

「あぁ……同士たちよ。彼らは誰も我の話を聞きたがらなかったな……」汐はつまらなそうに言った。

彼女はオーバーサイズの薄手のパーカーにショートパンツを組み合わせ、黒いキャップを被っていた。新諸島に向かうにあたって気合を入れるという名目で、髪をピンクを基調にに水色のメッシュを注した無茶苦茶な色に変えてきたが、それはそれでメンヘラのバンギャのようで様になっていた。ただ彼女が夢中になっているのは、ビジュアル系のイケメンバンドマンではなく、マルクス系のヨシフ・スターリンではあった。

頓子がハンドバックから、チョコ菓子を取り出し汐に手渡して言った。

「たくさんの賛同者が出て、ここで革命家の第一歩を踏み出されても困るわ。大人しくこれでも食べてなさいな」

「しかし——案外、彼らは皆満たされているのかも知れないな。世に、個人の力ではどうにもならない不満足が溢れた時、我ら革命家の言葉が彼らの心の奥底に届き、彼らのエネルギーを我らが望む方向に扇動できるようになるのだから……。いや、先導できるようになるのだから。この地にビッグ・ブラザーを再現するのは難しいかも知れない……」

「悪いが、それはお前の命を奪ってでも阻止させて貰おう」俺は言った。

「フフフ。ねえ、汐。既に『1984』の世界になってしまった島もあるとネット記事で見たわ。もし早く姉さんが見つかったなら四人で観光に行ってみましょうね」

「ウム。一度はテレスクリーンで二分間憎悪を体験してみたいものだな」

「……果たしてその島に入って俺たちは帰ってくることができるのか?」

「同士。帰る必要が?」汐は笑っている。

彼女は穏やかに飾ることもなく、真面目に笑っていた。やはり俺は彼女が怖い。


「1984」

英国の作家ジョージ・オーウェルが七十年前に執筆したディストピア小説だ。

存在するかどうかも分からない独裁者ビッグ・ブラザーが支配する国家にて、反逆者がこれを打ち破ろうとする物語だ。

古い小説であり、創作造語が多いため途中で飽き飽きしてしまうと思いきや、作者の技巧と翻訳者の言語センスが爆発しており、睡眠時間を削ってでも読みたくなる傑作だった。

作中に登場する「ビッグ・ブラザー」「真理省」「ニュー・スピーク」「プロレフィード」「二分間憎悪」などの造語には俺も心躍らされるものがあるが、流石に現実に再現してみたいとは思うのは酔狂というレベルではない。

汐が冒頭に語った「無知は強さ」という言葉もここから来ている。


さて、汐がキマっていることは、発言以前に見た目からして明らかだが、頓子は頓子で彼女の身の回りに発生するあらゆる全てに対して達観している節があり、不気味さに関しては汐と同列だった。


——昔、こんなことがあった。

まだ幼い時の記憶。夏の暑い盛りだったと思う。

俺が命子と歩いていたとき、道路の端に車に轢かれた猫を見つけた。

身体はあらぬ方向に折れ曲がり、半分が潰れて、血を吐き、破れた腹膜から崩れた内臓が出ていた。

息はまだあったが、助からぬことは子どもでも分かった。

だが、どうにかしなければならないと思い、狼狽し、「大人」や「病院」といったものが頭に浮かんで呼びに行こうとしたとき、頓子は静かに両手を合わせてから、猫の首を絞めて殺した。

彼女は猫の死体を抱いて、真っ白な服を赤黒く染めながら「痛いのは短いほうがいい」と言った。その時、俺は何かが感情として溢れ大泣きしたことを覚えている。

頓子は、いつもと変わらない調子で、ただ困ったような顔をしていた。



——このように頓子は幼い時分から何処までも達観していて、冷静な部分がある。

俺たち常人が、盲目的に必死にならざるを得ない命や体面といったものに、あまり執着しない人間なのだ。

さらにその直視しがたい美貌も相まって人ではない何か別の存在にも見えてくる。実際彼女は孤立していた。

しかし彼女は命子に関することになると、人間臭い感情を見せるのを俺は知っていた。二人は親友のような姉妹なのである 

だから俺は、ああ彼女も人間なんだと安心して付き合うことができるが、この情報を知らない者は、汐のような怪物でなければ近寄り難いだろう。


旅の友が二人とも何処か理解しがたい得体の知れない者どもということで、俺は不安ばかりが募った。



「ね。——赤居。——大丈夫? 聞こえてる?」

頓子と汐が俺の膝を揺すって呼んでいた。

「大丈夫か、同士。まずはこの『共産党宣言』でも読んで落ち着いてくれ」

「そんな劇物を俺に近づけるな」

「よし。いつもの調子に戻った」

「どうしたのよ急に。もう船に乗って丸一日経つけど、今さら船酔い?」

「……いや。これからのことを考えると不安になって、少し意識が遠のいた」

「まぁ。安心しなさい。おそらくあなたでも中学校は卒業できるわ」

「そんなことで悩んでない。お前らとこれから過ごすのが不安だと恐怖してたんだ」

「殊勝なことを言うな同士よ。確かに我々は特級の美人。変な気持ちになっても致し方ないことだ。まあそんなときはこのウラジーミル・レーニン著『国家と革命』でも読みたまえよ」

「だからそんなものを俺に近づけるな」

「私に不潔な妄想をするのはいいのだけど、命子姉さんに手を出したら、打首獄門の程度では済まないと思いなさい」

「しねえよ」

「何で手を出そうとしないのよ。姉さんに魅せられないなんて殺すわよ」

「理不尽か」

「まあ手を出さないにしても、姉さんで不潔な妄想をすると言うのなら——特に聞くこともないけど、拷問するわ」

「終わりのない虐待じゃないか……」

「まあ同士。この『復刻版:スターリン全集』でもよみたまえよ」

「やめろ」

「——まぁ談笑はこの程度にして。これ、売ってきて欲しいの」

頓子の手には、日本製の菓子があった。「二階のカジノ・ラウンジでお菓子の換金ができるって表示を見たわ。お金は冠島固有の通貨『コイン』にしてね」

「菓子の換金というのは不思議な感覚だ。銀色の玉がお菓子になるのは普通に納得できるのに」

「それは脱法よ。あとついでにフロントに預けているわたしのスーツケースを持ってきてね。そろそろ冠島に到着するみたいだから」

「我のも頼む」

「何でだよ。それなら一緒に行ってそれぞれ持ってくればいいだろ」

「無理よ」

「何故?」

「船酔いで気分が悪いの」

「今さら?」よく見ると頓子の腕は小刻みに震え、いつもの達観した無表情より若干血の気が無かった。

「私の吐瀉物を掃除するか、私の荷物を持ってくるかどちらがいいの?」

「早くトイレに行ってこい」

「我はこのスターリン全集の『トロツキー主義かレーニン主義か?』を到着までに読破しなければならんのだ」

「そんなもん一生読まんでいい——。……まぁ、いいよ。お前は騒がずじっとしてろ」

俺は大人しく二人の指図に従うことにした。



だが、後になって思えば、この流されるままに決めた従順な姿勢は、今後の事態を混迷させる完全に誤った選択だったと言わざるを得ない。

ここでせめて、汐を連れてきていたらここまで酷くはならなかったはずだ。

少なくとも。少なくとも。


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