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畜生の檻  作者: 今野豊
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②本義命子

①本義命子



彼女は私の対局の存在であった。


日本神話には頑丈なブスとメンヘラな美人の姉妹が登場するが、

私たちはメンヘラなブスと頑丈な美人といった不公平極まりない人物像(キャラクター)で、

私は彼女が持たない全ての醜いものを持ち、彼女は私が持たぬすべての美しいものを持っている。



頓子(とんこ)は、

均整の取れた手足に、豊満な胸、陶器のように白く色素の薄い肌、艶々として一点の曇りもない黒髪、小さく形の良い顎、目鼻立ちは柔らかく、しかしはっきりと輪郭があって、表情や角度によっては凛としして鋭さを見せる。特に瞳は私がこれまでに見てきた誰よりも美しく妖艶な黒色をしていて、吸い込まれるような宇宙的魅力があった。

彼女には神の血が混ざっているのではないか、そう思わせるような美しさが宿っていた。



私が彼女の美しさの底に神性を覚えるようになったのは、ずっと昔、幼児期の頃に(さかのぼ)る。


それは暑い夏の日、

私が神社の社殿の外から格子の奥に安置されたお神輿(みこし)か何かを覗いていると、

命子(いのこ)おねえちゃん」と声をかけられて、

振り向くと逆光で輪郭しか見えなかったが、頓子が苔むした石の鳥居の前に立って無邪気に笑っていたことがある。



これの何が私の感性を揺さぶったのかは分からない。

だがそれは後に卑猥なものばかりに反応するようになる私の感性を強烈に揺さぶって彼女に畏敬を抱かせた。


その時に私は美しさを覚え、彼女は私は違った世界に立つ存在だと理解したのだと思う。

ただ当時はまさかその違いというのが——、一般人と女神ではなく、ドプスと女神ほどの、いや、月とすっぽんならぬ月とその辺に放置された犬の糞ほどの絶望的な違いだとは思わなかったが——。




私たちはまるで異なる姉妹であったけれども、仲は良かった。

彼女ができた妹だったからだと思う。

物心がつくずっと前から……、また美醜(びしゅう)というものが、馬鹿みたいに重要になる年頃に至っても彼女は私を慕ってくれたのだ。

成長とともに自我が肥大し、醜悪な顔面に心を汚され沈んでいく私を、誰よりも愛してくれたのは私自身でも親ではなく彼女だった。



ある日、いつも通り私が学校で死ぬほど消耗し、明日も途中で引き返すことなく学校に辿り着けるように、自室で密かに女同士がナメクジの交尾のような、凄いことになっている春本を嗜み英気を養っていると、ドラックストアの袋を手に下げた頓子が部屋に入ってきた。

「お姉ちゃん。こっちこっち」と私をベッドから引っ張りだして、彼女の部屋に招いた。

彼女の部屋は何故かいい匂いがする。

そして、必要なものしか置いておらず整然として美しい。

私の卑猥なもので溢れて足の踏み場もない部屋とは、これまた対極であった。



彼女は私を椅子に座らせてから、スマートフォンに目を通した。

そしてドラックストアの袋から化粧品を取り出した。

「何をするつもり?」と私は言った。

「お姉ちゃんは今日、自身を取り戻すの」

「自身?」

「そ。お姉ちゃん自身を」

頓子は、忘れて欠けたものを今から満たす、と言って化粧品を開封し私の前に立つ。

目の前にある彼女の顔は、毎日見ているはずであるが、やはり改めて気づくほど美しく、見れば見るほど新しい発見があって、我を忘れて見入ってしまう。しかし、

「ごめん。止めて」

「何で?」

「私は、ブスが化粧をしたブスになる未来に、耐えられない」これ以上絶望はいらない。

「大丈夫。わたししか知らないお姉ちゃんの美しさは、隠れているだけなの」

「私は美しくない」

「美しいよ。わたしは知ってるの。お願い。変にならないように、たくさん、たくさん勉強したから。後悔はさせないから」

彼女の思い込みで傷つくのが嫌で逃げ出そうと椅子を立った時、ゴミ箱の中にたくさん化粧品の空容器が入っていることに気が付いた。

しかし私は頓子が化粧をしているのを見たことがなかった。


頓子の顔を見ると、彼女の顔は曇り今にも泣き出しそうだった。しかしこんなぐずぐずの悲しげな顔ですら可愛い。

私は全て察して、息と共に自分でも驚くことにまだ少し残っていた自尊心のかけらを吐きだして、彼女のために傷つく覚悟を決めた。

これで彼女の美しい心が満たされるというなら、私は全てを受け入れるべきなのだ。



化粧というのは、哲学のようだと思った。

衣服は組み合わせるパターンが決まっていて、一度それを購入し着てしまえば完結するが、化粧は同じ品を使っても工夫によって濃淡を変え、無限に異なる顔を作ることができる。

そして出来上がった顔に正解と呼べる唯一がない。



頓子は図画工作をする幼子のように、私の顔に色を足したり消したり奮闘を繰り返した。

私を美しくするなど無理難題なのだから、もういっそのこと、のこぎりやトンカチを使って骨格レベルで変えてくれてもいいよ、いやむしろそこらの美人から顔を毟ってきて、私のと挿げ替えればいいよと言おうとしたとき、ふわりと笑って「できたよ」と言った。

手鏡で自分の顔を見れば十分だと言う私を押し切って、彼女は洗面台の大きな鏡の前に私を連れて行った。何かの番組のように私に目を閉じさせてから。



洗面台とは私がこの世で最も嫌いな場所の一つだ。

洗面台に近づくにつれて、私は経験したことのない変な緊張で、服の下を汗が流れるのを感じた。

妄想の中では無敵な私を容赦なく現実に引き戻し、ノックアウトさせる処刑場が洗面台という。

果たして彼女のために喜んだ顔を上手に作れるだろうか? 

いや、そもそも私はメドゥーサのように自分の顔面を見て即死する可能性もある。

心停止した私にどれだけ頓子が傷つくか分からない。

やはり見ない方が賢明だと逃げ出そうとした時に、私は自分の足につんのめって洗面台に突っ伏した。

「うわ、ごめんなさい」と寄ってくる頓子に大丈夫だと返そうとしたときに、鏡に映る自分の横顔が視界に入った。



普通の女がこちらを見ていた。

馬鹿みたいに驚いた顔をしていて、女神みたいな女に肩を抱かれている。


普通の女がこちらを見ていた。

自分の頬に手を触れて、これが自分の顔だと分かったとき、頬に涙が垂れているのを見た。

何故か女神も泣いていた。



このまま頓子に手を引かれ、二人夕暮れの街並みを歩いた。

人も道路も建物も空も、何もかもすべてが橙色に染まっている世界は、私たちを祝福しているようで、途方もなく美しく見えた。

私はこの日、美しい世界を歩き、この美しい光景の一部して存在していることを、許すことができたのであった。

美醜を知って以来の出来事であった。


私はまさしくこの日、自身を取り戻したのであった。


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