雨音
窓の向こうで、雨が降っていた。
大きな雨粒が、ガラスを叩く。空を覆うのは、厚く鈍色の雲。昼間とは思えないほど、外は薄暗かった。外を歩く人たちは、みんな傘をさしている。色も柄も様々なそれを空から見れば、きっと花のように見えるのだろうな、なんてどうでもいい事を考える。
ボーン、ボーンと低く篭もったような音が聞こえた。
視線で辿っていけば、壁にかけられた古い振り子時計が目にはいる。時計の針は15時ちょうどを指していた。ああ、もうそんな時間か。思っていたよりも長居していたようだ。
目の前に置かれているティーカップを手に取り、そっと紅茶を口に含む。
熱々だったそれは温くなり、渋みが口に残った。
結局、約束したあの人は来なかった。
2時間待ったけれど、電話もメールも、なんの連絡もないということは、そういうことなんだろう。頭のどこかでは分かっていたけど、胸の奥にどんよりとした雲が広がる。
カランカランと扉のベルが音を立てるたび、期待に心が踊った。けれどいつも、そこに期待していた人の姿はいなくて。空振りの喜びを、何度繰り返しただろう。でも、それももうおしまいだ。時間はすぎるばかりで、雨もひどくなる一方。
ああ、雨音が耳に響く。
手にしたカップに残った紅茶に、わたしの顔が映り込んでいた。
眉をひそめて、まるで今にも死んでしまいそう。自分自身のことながら、ひどい表情をしているものだ。また一口、紅茶を飲んだ。
ぜんぶ、ぜんぶ雨が流してくれればいいのに。
心の中に残ったままのあの人への想いも、胸をじわじわと締め付ける痛みも、過去の自分への後悔も。雨と一緒に遠くへ流れてしまえば、少しは楽になるだろうに。
あの人は自分勝手で、ひどい人だった。自分のやりたいようにやって、わたしの言葉は聞き入れてくれなくて。唐突すぎる別れ話に最後に会って話したいと頼んだ時も、そう。騒ついた電話の向こう、あの人は「分かった」と答えたのに結果はこう。
ほんとうに、勝手な人だった。そして、そんな彼に未練を残したままのわたしは、救いようのない馬鹿だと自分自身そう思う。
あんな人、別れて正解だよ。頭の片隅、冷静なわたしが慰める。
それは心からそう思っていることなのだろうか。それとも、自分を納得させるために、自分は惨めじゃないと言い聞かせるために、そう理由をつけているだけなのだろうか。どちらが正解なのか、わたしには分からなかった。
冷え切った紅茶の、最後の一口を呑み下す。
相変わらず、外は雨。止む気配は少しもなかった。
あまりにも長く居座ってしまった。いい加減、帰るべきだろう。テーブルの隅に置かれた伝票を手に取り、椅子に立てかけてある長傘を手にした時だった。
「ーーよろしければ、おかわりをいかがですか?」
唐突にかけられた声の主人は、喫茶店のマスターだった。銀色のポットを手に、テーブルのすぐ横に立っている。
「えっと•••」
思いがけない声かけに戸惑い、続く言葉に迷ってしまう。わたしが困ったような反応をしたからか、マスターは慌てたように少し身体を引いた。
「ああ、すみません。もしかして、お急ぎでしたか?雨もひどくなってきたので、紅茶でも飲んで雨宿りしていってもらえればと思ったのですが」
眉を八の字にしながら、マスターは返事を待っていた。少し逡巡した後、わたしは答えた。
「じゃあ、もう一杯、頂いてもいいですか?」
お店の屋根を叩く雨音が、僅かに弱まったような気がした。