その耳に隠した秘密
音を立てないように、墨は大きめな布で作った簡易テントから出た。
昔なら、砂漠の中では大きいな月が見えただろう。しかし、月が落ちてしまったあの日以来、空には星だけが残っていた。
暗い夜だし、墨以外誰も起きていないはずだが、念のために、墨はテントの中を覗いた。
小さく体を丸まり、すやすやと寝ているむかの顔を見て、墨はどこか複雑そうな表情を顔に浮かべだ。
昼間の定期報告は全部むかに任せて、墨はただ聞いているだけだったが、向こう寄越された情報がどうしても怪しく感じた。
むか本人は気づいてない様子だったけど、『すーちゃんの直感はよく当たるから、変だと思ったら教えて』とグランデが言っていた言葉を思い返しながら、墨は片手に掴んだ通信機を担ぎ、音を立てないように、墨はテントから距離を取った。
最初はただの素人故の間違いだと思った。
しかし、むかから教えてもらった『集まった情報』の正確さが怪しかったし、何回か整理してみたら、墨はあることに気づいた。
月が落ちて以来、地上は生きるの難しい場所となった。そして、地上へつながる場所はそう多くない。
それなのに、遠回りしろと言う言葉は、まるで『二度と戻ってこないように指示している』みたいだった。
直接にむかに話したら、無闇に混乱させるだけかもしれないと考えて、墨はこっそりグランデに相談しようと決めた。
充分の距離を取って、墨が信号を送った後、そう時間もかからず、すぐに通信機が繋がった。
『どうした、墨』
「グーちゃん、グーちゃん!」
『お疲れ様。こっちは美味しい果物を見付けたから、帰ったら一緒に食べよう』
「ああ、もう、それだったら頑張る。そして帰ったら、全員に一発入れたい」
『珍しいな……もしかしてむーくんかな? あの子の周りが怪しいとか?』
「本当グーちゃんってば天才! 俺はまだ何も言ってないのに!」
子供のように素直に驚く墨の声を聞き、グランデは少し恥ずかしそうに『んん゛』と変な声を出した。
その後、すぐに誤魔化し気味に咳払いをして、真面目な声でグランデはそう返した。
『もしむーくんが観測者に向いてないなら、もうこっちに帰ってきてもおかしくないからね。で、何があった?』
「実はむかの所から提供された情報がおかしい。昼の時、俺確認したじゃん?」
『まさか……いや、そもそも子供であるむーくんを地上に行かせた時点で疑うべきだったな』
「あ、そう言えば、今回同行するむっくんの報告ってそっちに届いたのか?」
墨にそう聞かれて、一瞬だけ音が泊まり、そして暫く通信機の向こうからはキーボードの音だけ響いていた。
しばらくすると、機嫌の悪そうな舌打ちが鳴り、その後、ため息混じりにグランデはそう返した。
『すーちゃん、僕とっても嫌な未来が見えた気がするんだが』
「と言うと?」
『データベース漁ってみたけど、むーくんの情報は何も来てなかった。何か企んでいるように見えるから、探りを入れてみる』
「それならむっくんの兄が持たせた受信機あるじゃん、あれを使うか?」
『えーと、言いにくいけど、実は最初からそっちの音声データも拾っていたんだ。まだ聞いてないから内容はわからないけど』
「レポート提出用の録音データだっけ? うーん、なんかさ、ちゃんとした文字が書けなくて、本当にすまん」
『いやいや、すーちゃんはこっちの人じゃないから、文字が書けないのも仕方ない。むしろ喋れるだけでも充分すごいよ! それに、文字起こししながら話を聞くのも結構楽しいから、気にするな』
通信機越しにグランデの真剣な声を聞き、墨は口を閉じた。
墨が今の体質になってから、声の変化と感情が聞き取れるようになり、例え使う言葉が違っても、意味が自然と伝わって来る。
流石に普通の会話ができないと、日常生活もままならないから、必要な言葉は覚えたけど、文字だけはまだ上手く覚えられない。
けど、この事を知った上で、グランデはすごいと褒めてくれた。
自然とグランデの声を思い出してしまい、熱くなった顔を抑えながら、少し照れた声で墨はそう言い返した。
「そうやってすぐ俺を甘やかすのずるいよ」
『だって本当にすごいよ? それにすーちゃんは色々考えて、言葉の勉強もして、むーくんの面倒も見て、結構疲れただろう? なら、たっぷり甘やかして、少しでも疲れを取ってやりたい』
「まあ、むっくん結構大人しいから、案外面倒じゃないよ。ただ、変異体に対する偏見が強いのはネックかな」
『そうか。あの時は観測者として振る舞っていたんだから、連中も変異へ対する圧迫を見せなかったって事か』
「そう言われると、同じく地上へ行く俺とむっくんへの態度の差は『変異体か否か』から来た物で合ってるかもな」
『あくまで推測だけどね。まあ、この件も含めて、調べがついたらまた連絡するよ』
「悪いな、任せっきりで」
『良いって、あと、新しい地上への道が見つかったという情報が入ったから、もし帰りに使えそうなら、それも送るよ』
「マジか! ありがとうグーちゃん! じゃあ俺そろそろ寝るね」
『分かった、おやすみ』
「うん、おやすみ」
グランデとの通信を切って、墨は服の裾を掴み、少し熱くなった体の熱気を逃すように、パタパタと服で風を扇いていた。
(やはりグーちゃんはいい人だな。)
そう思いながら、自分のへその上にある小さな黒い鱗を見て、目を細めた墨は思わず空を見上げた。
墨にとって、男っぽい振る舞いはこの月が落ちた世界を生きる為の護身術だった。
変異が始まった後、いや、もはや変異とは何の関係もなく、ただ女性だからという理由で、墨は様々な理不尽を遭遇してきた。
女性だからと、自分の持ち物全てを奪われた。
女性だからと、訳のわからない罵詈雑言を浴びせられて、理由のない暴力を受けた。
それも一回や二回だけじゃない、地下へ移動してから、墨の日常はこういった出来事で満ち溢れていた。
少しずつだけど、確実に変わっている自分の体の事もまだ理解できてないのに、いじめられて、心を折られて、居場所が失くなりそうで、とても辛かった。
助け合いとか愛とかを語る人間もいた筈なのに、声を上げて助けを求めても、助けるところが、そいつらは大きく目をそらして、無辜な人が虐げられる事をなかった事にした。
結局、人は自分の事しか考えない。
自分の為に、どこまでも人はみっともない姿になれるのだと、墨はそれを知って、驚いて、絶望した。
そうして、自分の身は自分にしか守れないのだと墨は気づいた。
このまま碌な抵抗も出来ず、虐められて死ぬのかなと思った。
荷物も持ち物も全部取られて、この苦しい状態をどうすれば打開出来ると藻掻く中、ある日、墨は気づいた。
殴られた時の痛みを段々と感じなくなり、体に残った痣の消えるスピードが速くなった。
最初は手を抜かれたと疑ったけど、傷一つすらもつかなくなった時、墨は自分の体が確実に強くなった事を知った。
殴られても蹴られても自分の体何も変わっていないのがバレないように、痛がるフリをしながら、墨は逃げ出せるくらいに強くなる日を待った。
月日が流れて、都合のいいサンドバッグとして認識された頃、きっかけは突然にやってきた。
ある日目が覚めた時、墨は近くにいる百十三人の場所を全部把握できた。
微かに伝わる大地の響きを聞き取り、近づいてきた人を感知しながら、墨は見えるはずのない地下空洞の天井を認識した。
ボロボロの鏡を見てみると、墨の耳が少し長くなり、音がよく聞こえる方の耳には黒い鱗が沢山生えていた。
この黒い鱗のおかげか、墨は音で周りの変化と生き物の存在を識る事が出来た。
昔のテレビで映った音の反響で空間を判断するシーンがあったけど、墨はそれを実際に体験した。
遠すぎると識別できなくなるが、一定距離内の人たちの位置と行動が分かるようになって、墨は『自分の物を取り戻してから出られる』と判断した。
そして、実際に行動に移すと、案外呆気なかった。
一番人が多く寝ている時間帯で行動し、誰もいない道を選んで進んでみると、簡単に倉庫に忍び込めた。
自分が持ってきた物を探し出して、愛用のカバンに詰め、倉庫を出るまで、音を聞いていた墨は誰とも顔を合わせなかった。
流石に離れようとした時、運悪く誰もいない道がなく、強行突破するしかなかったが、ひと悶着はあったものの、結果、強靭な体を手に入れた墨はあっさりとそいつらを倒した。
それはもう殴り合いすらも言えず、体に傷がつかない、人を越えた力を持った墨による一方的な蹂躙でしかなかった。
それ以来、変異の進みもあって、虐められる対象になりたくないから、墨は正体を隠し、普通の女性として生きる事を諦めた、それしかないと墨はそう思っていた。
(でも、グーちゃんにとって、この墨も化け物なんかじゃない、ただの人なんだ)
使った通信機を片付けながら、墨は自分の手を見て、笑いをこぼした。
もう墨の両手は普通の人と違って、制御しないと岩すらも簡単に砕ける。それでもグランデにとって、墨は守るべき人だ。
墨の力を知って、その変異を見ても、怖がる事もなく、グランデはただありのままの墨を受け入れた。
だから、墨はグランデを大事にしようと決めた。少しでも一緒に長く生きられる為に、墨は観測者の仕事を続けた。
深呼吸をして、もう一度耳を澄ませたら、墨は今度の目標である森の方へ精神を集中させた。
風に乗って、様々な音が入り交じるか、その中には確かに森の音も聞こえた。
むかが提供した情報をほぼ無視した形での前進となったが、今墨が聞こえたこの音は、二人がいよいよ森の近くまで来れた証拠だ。
運が良ければ昼くらいで森に入れそうだと考えながら、墨は通信機を抱えて、音を立てないように、墨は静かにテントの中へ戻った。
むかの所にある怪しい動きは気になるけど、それはグランデに任せた。
だから、今は観測者の仕事に集中する為、睡眠を取るように、墨は横になり、ゆっくり目を閉じた。