*2
*
此処は折詰世界。
その箱は側面が真四角で、接する四面は長方形であるから、積み木のひとつと想像してくれたら良い。
あなたに初めに伝えねばならない。真四角の側面は、天国と地獄である。
天国は厚い雲に覆われ、楽園の様子を窺い知ることは叶わないが、時おり雲の間から天使が顔を出すことがある。雲雲から神々しい白い光がこぼれ出し、四面に住む人々にとってはそれが太陽の代わりである。
地獄は灼熱の炎が轟々と渦を巻く。紅の炎は黒黒とした煙を生み、常に灰の吹雪が吹き荒れている。巨大な鷹が飛び回っているようにみえるが、それはよくみると遊んでいる悪魔だ。悪魔は気紛れに雷を起こし、ときに四面に落とすこともあるから、悪魔を挑発してはならない。
天国にも地獄にも、夜になると平穏なる休息が訪れる。両面は闇に覆われ、人々の睡眠を妨げることはない。
四面について話そう。
一面は、宇宙である。
此処に星は無く、あたかも星であるように光っているのは、何かの、または誰かの骨である。この宇宙は有限であるが、しかしどれだけ進んだとしても気が付かぬうちに同じところに戻ってくるので、まったく果てが無いようなものだ。この宇宙では複数の魂が共存することはない。ただ一人、宙に浮いて暮らす存在がある。
それに接する一面は、海だ。宇宙面と同じく有限の海だから、ほとんど大きな水槽に近い。これもまた、およいでも泳いでも果てには辿り着かない。そこに陸地は一切なく、群れになって暮らす人々は泳いで暮らしている。彼らを捕食するような獣は存在しないが、ひたすら漂う暮らしは苦痛を伴い、人々は不幸だと感じていることの方が多い。
またそれに接する一面は、スラムと麦畑と、険しい山脈の面である。
麦畑の奥に広がる高台、そしてそれに続く山脈は動物たちの王国で、人間が侵せない神聖な領域である。人々の国は古ぼけた街とスラムしかなく、人々の多くはボロ布と古紙でこさえた家に住んでいる。スラムの人口密度は非常に高く、不衛生なせいで常に感染症が蔓延している。ここには差別も戦争もあり、幸も不幸もある。
さて、最後の一面は、大都会だ。
綺麗に区画整理され、真四角のブロックには所狭しとビルが立ち並ぶ。人々の生活は政府によって調整され、何もかもすべてが平等になるように管理されている。人々の生活圏は地下にあり、働きに出るときだけ地上に上がることから、みな空高く登れる気球船を好んでいて、移動手段として使用している。ここには差別も戦争もなく、人々は幸福に満ち、笑って暮らしている。
*
話し終えたのか、女はふうと溜め息を吐き、強張っていた肩を少しだけ撫で下ろした。満足したようでもあり、まだ話したりないようにもみえた。
あなたも女も立ちつくしたままみつめあった。まるであなたを叱るように、マリア像の白さが陽をギラギラと照らし返すので、あなたは視線を女から逸らさぬまま顎を下げ、目を細めた。
宿舎の方から甲高いはしゃぎ声が響き、そのうち五歳くらいのこどもがふたり、あなたがたの横を駆け抜けて行った。
あなたは腕時計に目をやった。もうすぐ授業が始まるはずだ、こどもたちを注意すべきだろうか。女もそう思っているのか、振り返って心配そうにこどもの様子を追っていた。
きっと弟のことを思い出しているに違いない。あなたもすぐにその人物の顔を思い浮かべたから。
この女の弟がまさに勉強嫌いで、授業に集中できずに遊びだしてしまうタイプのこどもだった。しかしながら彼は愛らしい顔をしていて、注意は素直に聞くものだから、大層大人に可愛がられ、お仕置き部屋に入れられたことはただの一度もなかった。
彼の姉であるこの女は違った。小さい頃から段違いに気が強く、ひどくヒステリックで、勉強は飛びぬけてできたのにも関わらず、その扱いずらさが災いして何度もお仕置き部屋にぶち込まれた。
なんと皮肉なものなのだろうか。
勉強のできない弟の彼は夢を叶え、神父への道を着々と進んでいるのに、優秀だった姉の女は夢を閉ざされ、そうして心も閉ざしてしまった。
これは仕方ないことなのだ。あなたがもし神父であったら、きっと女に同じことを宣言しただろう。「お前はシスターになるには、野心を持ち過ぎている」と……。
あなたはふと、命を燃や尽くした蛾が足元に転がっているのをみつけた。なんとなく拾い上げて、マリーゴールドの咲く花壇へと運ぶ。
あなたはその”小さな死”を埋めながら「……海、嫌いだったっけ」と、女に話しかけた。
女は驚き、かすれた声で「なぜ?」と聞き返す。
「……何故って、海の面だけ不幸だって、さっき君が言っただろう」
女は自分で話した小話の設定を忘れたかのように、ポカンと呆けた顔をした。それから少し遅れて理解したのか、首を横に振った。「別に」
ため息を吐きながら立ち上がったあなたは、窓から室内の掲示板に飾られた写真に目をと留めた。
日常であろう此処で取られたモノが多いなかで、大きく刷られた一枚。それは大勢のこどもたち、数人の引率教師、その後ろに広がる青い海。
あなたはそこを知っている。夏合宿は、毎年”あの海岸”と決まっているのだ。
思い出した。海が嫌いなのは女でなく、女の弟だった。幼い頃に溺れた経験がある。
”あの海岸”で、自分の姉であるこの女の悪戯で海中に引き摺り込まれたのだ。あなたは丁度パラソルの組み立てを手伝っていて、すぐには気が付かなかった。
あなたは女の話を思い返した。
一面は、宇宙。一面は海だけの世界……。あとは何だった? そうだ、スラムと麦畑の一面。そうして最後の一面は、ビルばかりの都会。
たとえば、海で暮らす不幸な人間を仮に女の弟、彼だとしよう。都会に暮らしているのは、……あなただ。あなたはいま現在、喧騒の大都会のなかの、狭い部屋で暮らしている。
ではあと二面は、あなたと妹、そしてこの女……。