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短編

今年の向日葵が咲く頃に

作者: 奈良ひさぎ

 駅のホームに、女が立ちすくんでいる。

 一日の乗降客数はせいぜい百人に達するか達しないかという、小さな駅だ。建築当時の姿を残しているということで、駅舎は登録有形文化財に指定されている。駅舎にはとりあえず置きましたけど、という雰囲気を醸し出すベンチが三つと、ごく最近取りつけられたのだろうなと思わせる、一時間に一本列車が来るか来ないかというのを示す時刻表。ホームは一応舗装されているが、手入れはされておらず、端の方は草が生い茂っている。

 そんないかにも田舎の駅のホームに、一人で立っているのだ。誰かと待ち合わせしているふうではない。列車が来るのを待っているわけでもない。ただただ、上りホームの端の方に立って、どこか遠くの方を見つめている。


 私は今年も、そんな女の姿を後ろから見守る。



* * *



 女の名は、陽葵(ひまり)という。私の記憶が正しければ、今年で二十五になる。

 この田舎町にも一応役所や学校といった、人間が育つ、暮らすための設備は備わっていて、陽葵もその役所の職員。髪は少し明るめの茶色。私も仕事を始めてからの陽葵を何度か見たことがあるが、愛想もよさそうで、好かれやすい人間なのだろう、と想像がつく。


「……ふふ」


 そんな陽葵が、ある時駅にやってきては、いつもホームの端の方に鎮座している私のところまで歩いてきて、深くお辞儀をする。私はそれに返してやることができないが、そんなことを陽葵は期待していないのだろう。それから反対方面のホームよりさらに向こうにある、ひまわり畑の方を見つめる。陽葵がこんなことを始めたばかりの時は、何をしているのか分からなかった。見ていたのは、せいぜい地元の人間に知られている程度で、特に目立たないひまわり畑だったということだ。


「あれ……どうして今私、笑ったの」


 ふいに陽葵がつぶやく。それから陽葵は頭を押さえて、そのままうずくまってしまう。私はそんな陽葵に、何もしてやれない。相変わらずの高い目線で、見下ろすことしかできない。

 やがて苦しむ陽葵の表情がふっ、と緩む。陽葵が意識を手放した合図だ。この炎天下、日差しを遮るものもない駅のホームで倒れたら、熱中症になってしまうのは避けられない。それでも私は、例えば陽葵の同僚に助けを求めることもできない。


 それは私が、ケヤキの樹だからだ。もう百年以上も前、この駅ができる前から、ずっとここに立ちすくんでいる。進むことも、戻ることもない。目線の高さが変わることもない。これからもずっと、ここでいろんなものを見続ける存在だ。



* * *



 健忘。

 いつかの春、私の花にやってきた蜂からその話を聞いた。平たく言えば、記憶喪失。陽葵には二十歳の夏からの丸二年間の記憶がない。ちょうど私のいるこの駅で、陽葵が通過中の列車に飛び込んだのが二十二の盆明け。以来丸三年、陽葵の記憶は戻っていない。

 ずっと昔からここにいる私は、もちろん陽葵が線路に飛び込むのを見ていた。悔しかった。一介の樹であるだけの私が感情を持つというのも、てんでおかしい話だが。それでも、陽葵が中学生の頃から彼女を見守っていた私にとって、飛び込むのを引き止められなかったという後悔は大きい。


 小学校は、陽葵の家の近くにあるようだ。しかし中学校と高校、それから大学はそうではない。大学に至っては、ここから一時間以上列車に揺られる必要があった。夏は額に汗を浮かべ、冬は足首がすっぽり埋まってしまうほどの雪を踏みしめ学校に通う陽葵を、私はほとんど毎日見ていた。


 陽葵の持つ雰囲気がはっきり変わったな、と私が感じたのは、陽葵が十九の秋だった。夏生まれだという陽葵の、大学一年生の後半だ。

 その理由は、それから一か月ほどして分かった。いつもと同じ大学の帰り、列車から降りてきた陽葵の隣に、同年代の男がいた。黒髪に童顔の、かっこいいよりかわいいの言葉が似合う顔をした少年だった。最寄り駅はいくつか離れているものの近く、大学で意気投合して仲良くなったらしかった。


「今日は街に行って、イルミネーションを見てくるの」

「大学の近くでお花見してくる。そんなに遅くはならないから」

「海に行ってくるね。今からすごく楽しみ」


 陽葵がその少年と付き合いだすまでに、そう時間はかからなかった。

 私が陽葵を見守っていたのと同じように、陽葵もまた私のことをよく気にかけてくれた。私が見ているのはこの駅を利用する人全員で、陽葵だけを特別に思っていたわけではない。それでも、そうやってこまめに私に声をかけてくれるのは陽葵だけだった。だからこそ鮮烈に記憶に残っていたのかもしれない。


「あのひまわり、きれいね」


 あれはいつの夏だろうか。駅のホームからでも見える満開のひまわり畑を見て、陽葵が感嘆の声を漏らしたのを覚えている。隣には少年もいた。少年も言葉こそ発しなかったものの、しばらく取り憑かれたようにそのひまわりを見つめていた。

 聞けば、近くの農家がひまわり油を取るために育てているのだという。しかし持っている土地はそう広くないから、結局ひまわり畑として客を呼び込むには小さすぎる規模になり、地元の人間に知られている程度のものになったらしい。


 以来、陽葵はホームから見えるそのひまわりを、季節ごとに写真に収めていた。特に冬などは、そこにひまわりがあることさえ分からない。それでも陽葵は気にかけることなく、写真を撮っていた。



 陽葵が二十二歳、大学四年生の盛夏。陽葵を包む空気が、また大きく変わった。



 それまでの陽葵の雰囲気とはまるで違う。どうすればいいのか分からない、突然路頭に放り出されてしまった。そんな空気だった。

 私は陽葵に直接話を聞けない。陽葵の方から話してくれることもなかった。何もできないでいるうちに、陽葵は列車にはねられ、記憶を失った。

 海水浴のさなかに沖に流され、少年が亡くなったのだと、それから一か月も後に近くを通ったヒヨドリに聞いた。



* * *



 陽葵が今もなお記憶――少年との思い出を取り戻していないのを、職場の同僚は知っているらしい。戻って来ないのに気づいたらしい同僚が、陽葵を助けに来た。

 陽葵がここにふらっとやってくるのは、一年に一度というわけではない。今年の夏も、私が記憶しているだけで十回は来ている。そのたびにこうして頭を抱えて倒れる。何かを思い出しそうになって、激しい頭痛に襲われているのだ。

 陽葵にとって、どちらがいいのだろうか。このまま思い出さないでいる方が幸せなのだろうか。しかし思い出さなければ、少年の存在が誰の記憶にもないままになってしまう。

 私は、私にはとても答えの出せない問いを延々と繰り返すほかなかった。


「あのひまわり、きれいね」


 数日が経った。陽葵がこれまでとは少し、違う空気を持っていた。いつもと同じようにホームからひまわり畑の方を見てつぶやいたのだ。それは独り言ではない。明らかに誰かに向けられた言葉だった。ホームには誰もいない。陽葵は、私に話しかけたのだ。


「わたし……思い出さないといけない。きっと今まで、みんなわたしに気を遣って、あの二年間の話をしなかった。最初の頃は、それがすごくありがたかった。でも、それじゃダメなんだって。きっと思い出しても待ってるのは辛いことなんだって、分かってるけど……それでも、思い出さなきゃいけない」


 私は驚いた。今年はよくここに来るな、とは思っていた。陽葵は私の知らないうちに、変わる決心をしていた。思い出した記憶がどんなに辛いものでも受け止めて、乗り越えてみせるという、強い意志を陽葵から感じた。

 けれど、私は教えてやれない。どれだけ陽葵のことを見ていて、知っていても、私には開く口がない。


 ふと、風を感じた。私の持つ葉が、ほんの少しだけ揺れて音を立てる。小さな音だったが、列車の来る気配のないホームでは、際立って聞こえる。それを合図にして、風が吹いた。決して涼しくはない。夏特有の、熱を含んだ風。熱を運んでいっても、新たな熱が流れ込んでくる。


「あ……」


 そんな風でも、景色は揺れる。ひまわりが風になびき、さわさわと音を立てた。

 それで私は思い出した。ちょうど三年前。陽葵が妙にすっきりした顔で列車に飛び込んだあの日。あの日も、ひまわりは揺れていた。ちょうど、今のように。

 陽葵がはっとした顔をする。私と同じことを思ったのか。陽葵が頭を抱えて、うずくまった。


「……ダメなの」


 苦しそうにつぶやく。


「いつまでも……このままじゃ……いけないっ……もうわたしは三年も前に進めてないっ……進みたいの、進ませてよ……!」


 いつもであればすっかり景色に溶け込んで、気にならないはずのセミの声が、いやに響き渡る。陽葵が叫んでも、その合唱が止まることはない。


「……っ!」


 陽葵がホームに倒れ込んで、ちょうど顔が私の方を向く。驚きと戸惑いと悲しみと不安と安心と。思いつく限りのいろんな感情が少しずつ混ざった表情が、そこにあった。


 ぽつりと、陽葵がつぶやく。それは私が何度も聞いた、少年の名前だった。


「……よかった」


 陽葵の目から、涙がこぼれ落ちる。必死に押し殺そうとして、それでも抑えきれない声で、陽葵は泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて。化粧が崩れてしまった顔で、陽葵が顔をくしゃっとさせて笑った。

 陽葵が身体を起こして、私の方を向いた。少し寂しそうな顔つきに変わっていた。


「ありがとう……思い出させてくれて。今は……ちょっと受け止めきれないけど、時間をかけるしかないから。少しずつなら、飲み込んでいける気がする」


 陽葵はもう一度私に向けて、ありがとう、とつぶやいた。

 私は陽葵の言葉に答える。偶然そよ風がもう一度吹いて、もしかすると、返事をしたように陽葵には見えたかもしれない。



* * *



 地方の鉄道は、年を追うごとに経営が厳しくなる。私がいた駅も、あれから二十年が経って廃駅になってしまった。線路やホームこそいまだ撤去されずに残っているが、駅の周辺には人が近寄る気配さえない。――一年に一度、ある夏の日を除いては。


「……まだ、覚えてくれてる?」


 私の隣には、こじんまりとした墓が一基。あの時の少年のものだ。そして律儀に夏真っ盛りのこの日に、毎年陽葵が墓参りにやってくる。陽葵にはすでに家族がいる。一度生まれたばかりの息子を見せてもらった。陽葵によく似た、かわいい子だった。


「また来年、来るね」


 本当は別の場所に、少年の墓があった。しかし私との縁を感じた陽葵が、粘った末にここに墓を移してきたのだ。一般的ではないのだろうが、どういうわけか認められているようだ。深い事情までは、私の知るところではない。


「これから一年。よろしくね」


 陽葵はそれから、私に向かって言った。これも毎年のことだ。私は伝わらないと分かっていながら、よろしくとばかりに陽葵の方を見る。

 相も変わらず熱い風が吹いて、ひまわりがざわざわと揺れていた。

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[一言] ご参加ありがとうございます! 言葉にすれば容易いのに、言葉に出来ないとは何とももどかしい思いです。ケヤキに感情移入し、もどかしさと救われた彼女の事を考えてしまいました。 一点、ハチドリに聞…
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