表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2 メンテナンス

 ゆっくりと目を覚ます。窓から見える日は随分高く昇っていた。もう昼らしい。かなり寝坊してしまったようだが、その分疲れが抜けている。何故そんなに疲れたのか思い出そうとするが、寝惚けた頭は上手く働かない。

 グッと身体を伸ばすと、背筋や肩や腰がぱきぱきと音を立てた。……めちゃくちゃに凝っている。


 何か変だなあと思いつつ、この屋敷の水場へと向かう。壁にはひび割れているものの全身を映すことの出来る大きな鏡が……。


「ん……? ……!?!?」


 鏡面に映るのは俺ではなかった。金髪の、華奢な少女。イリスだ。

 俺はたっぷり数十秒は混乱した後、ようやく昨夜あったことを思い出した。


 あの後、俺は何とか去っていくイリスを追うために駆け出した。だが、この運動不足な身体は百メートルも走らないうちにスタミナ切れを起こし、目眩で地面に膝をついた。加えて彼女はここ数日魔法の研究でろくに睡眠をとっていなかったらしく、立ち止まった瞬間凄まじい眠気に襲われた。

 森の中で眠りこけるわけにもいかない。俺はどうにか屋敷へと戻り、ベッドに倒れ込んで昏睡するように眠りについたのだった。


「くっ、そ、あの、女……」


 悪態をつこうとするが、自分の喉から少女の声が出てくる違和感に段々と尻すぼみになってしまう。


 目が覚めてくると段々と空腹を感じてきた。イリスは魔法で飢えを回復しているとか言っていたが、これはかなりの飢餓感だ。何か食べないとまずい。


 案の定手をつけられていなかった昨日の料理を持ってきて、放り込むように口に入れる。


「んぐっ……!?」


 やばい。胃が食べ物を受け付けていない。この身体の消化器はこれまでろくに仕事をしていなかったようだ。思わず吐きそうになるが、口を抑えてどうにか飲み込む。


 しばらくすると吐き気と空腹感も落ち着いてきた。まだ身体のあちこちに不調を感じるが、とりあえずは問題ないだろう。


 一息つき、再度鏡を見る。

 やはり、鏡面に映るのはイリスの姿だ。華奢な身体に、やや白すぎる肌。顔は目元が前髪で隠れてしまっているが、前髪を上げると俺のタイプど真ん中の美少女が現れた。


 今思えば、イリスのこの可憐さに惑わされてさえいなければもう少し別の未来があったと思う。これが胡散臭そうなおっさんだったなら、もっと早く屋敷を抜け出して……


 と、いうか、あれ? 今のこの顔、前の彼女より可愛い気がする。

 じっと顔を見て、ふと気づいた。表情が、柔らかいのだ。あのこちらを射殺すような鋭い眼光が無い。

 試しにイリスのあの顔を再現しようとしてみるが、表情筋の使い方が違うのか上手く表情を作れない。


「…………」


 ニコリ、と鏡に向けて微笑んでみた。天使のような愛らしい顔。以前のイリスなら絶対にしない表情ということもあって、あまりの可愛らしさにクラっときた。


  今なら、あのイリスに好きな表情をさせられるということに気づき、腰の裏側あたりがゾクッと震えた。鏡越しではあるが、どんなポーズもさせられるし、何でも言わせられ……落ち着こう。いくら可愛いと言っても、中身は俺だ。仮に恥ずかしがらせるようなポーズをしたところで、イリスが恥ずかしがるわけじゃない。俺が恥ずかしくなるだけだ。はい、やめやめ。


 鏡から離れ、前髪から手を離す。


「んっ……」


 ばさりと垂れた髪が目に入りかけた。邪魔だ。

 上手く目にかからないように整えてみるが、如何せん前髪が長すぎて上手くいかない。

 せめて髪留めか何かあれば……いや。


 いっその事、切る……か?


 勝手に切るのはまずいとも思ったが、勝手という話ならあの女(今は男なのだが)の方がずっと好き勝手である。他人の体を強引に奪っていったのだから、自分の体を好きにされても文句は言うまい。

 ……そういえば、逃げようとした時に背中に何かぶっ刺されたような気がするのだが俺の身体は大丈夫だろうか。イリスは痛がる素振りを見せていなかったが、この身体を見てわかるようにあの女は自分の体を全く大事にしない。どれだけ不調でも知らんぷりだ。今頃俺の身体もめちゃくちゃに酷使されているんじゃ――いや、やめよう。考えても今の俺じゃどうにもならない。不安になるだけだ。

 それに、俺の体は闇に愛されているとか何とか言っていた。きっと利用価値があるのだろうし、そうひどいことにはなってない……はずだ。


 その後、数十分屋敷の中を探索して、どうにかハサミを見つけた。この程度の運動で既にこの身体はヘトヘトだ。どれだけ体力がないのか。


 鏡を見ながら、慎重に前髪を切る。こう見えて俺は手先が器用だ。素人仕事ではあるが、なかなか悪くない出来である。


 だが、髪がボサボサなせいでどうにも――いや、そういえばこいつ、ちゃんと風呂とか入ってたのか? 入ってないよな、明らかに。このローブも一体どれだけ着続けてるんだろう。

 匂い……匂いは、無臭だ。無臭過ぎる。強いていえば本とインクの香りがする。

 確かに食事をしなくて済むなら代謝もしない。体臭はほぼ無いようなものだろう。だが生理的に嫌だ。今すぐにでも風呂に入りたい。


 幸いにして、この屋敷には風呂がある。だが、電気や水道がないので水張りや湯沸かしは当然手動だ。この体力のない身体では相当苦労するだろう。しかしながら風呂に全く入っていない身体で過ごし続けるというのは一日本人として耐えられない。許せない。


 俺は元の体なら片腕で抱えられた桶を持ち、井戸へと向かった。



 終わる頃には日が暮れていた。


「ぜぇ、はぁ、ひぃ……」


 腕がプルップルしている。脚がもうパンッパンだ。全く使われていなかった筋肉がもう筋肉痛で悲鳴、否絶叫を上げている。心肺機能が貧弱過ぎて心臓も肺も破れそうだ。顎を風呂の縁に乗せたこの状態でなければ、疲労でそのまま湯船に沈んでいってしまっただろう。


 昨日、元の体の時に多めに薪割りをしておいて正解だった(それでも疲れたが)。この屋敷に来た時は風呂を沸かすのにも一苦労だなあ、などと思ったが、この体だともう一苦労どころではない。苦行だ。


 ああ、一応風呂に入る前にイリスの裸を見はしたのだが、この子、痩せ過ぎ。男は多少肉付きの良い女の子が好きとか、そういう次元ですらない。拒食状態であったことを考えれば相当マシではあるのだろうが。


「あ゛〜……」


 ともあれ、苦労しただけあって気持ち良さも一入(ひとしお)だ。風呂は日本人の心。まあ今の俺は異世界人になってしまっているわけだが、心は日本人。問題なし。


 どうにか疲労回復してきたので湯船から出て、体を洗う。……この石鹸とかって、明らかに天然素材だが腐ってたりしないだろうか。この屋敷にある消耗品は魔法的な手段で劣化が防止されてはいるようだが。


 特に色気を感じたりすることも無く洗い終わり、風呂から出る。着替えはこの一週間俺が使っていた来客用の簡素なパジャマだ。一応今の体に合う服を探しはしたのだが、どれもタンスの中でホコリまみれになっており、一度洗濯が必要な状態だった。どれもこれも管理が杜撰である。


 だが、イリスの性格を抜きにして、この屋敷の広さと備品の多さを考えればそれも仕方がないかもしれない。今は廃墟じみてイリスが一人で住んでいたが、元は貴族の豪邸か何かだったのだろうか? どうにもサイズが大き過ぎる服を着ながらそんなことを思う……あ、これ、ズボンが大き過ぎてダメだ。履けない。裾が余ってるおかげでワンピース状態になっているし、今日のところはこれでよしとしよう。


 疲労困憊状態だったので、夕食は食料庫にあった保存食で適当に済ませ、速やかにベッドへ向かう。


 とりあえずはこの体をまともに動かせる状態にするところからだ。俺はひとまずの短期目標を定め、沈むように眠りに落ちた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ