1 入れ替え
朽ちかけた木製の扉をノックする。
しばらく待つが、返事が無い。俺は手料理を載せたトレイを片手で保持し、ゆっくりと扉を押し開けた。
部屋の中には何百枚もの羊皮紙と、大量の古書が無秩序に散らばっていた。それらは全て俺の知らない言語で書かれており、内容は全く理解出来ない。
紙の山の中に埋もれるようにして文字を書き連ねているのは、一人の少女だ。
彼女は随分と華奢だった。ろくに食事を摂っていないのだから当然だ。ボサボサの金髪は肩のあたりでざっくりと切られており、前髪は伸びっぱなしで目元が見えない。肌は随分と白く――というか青白く、一目で不健康だとわかる。
ぶつぶつと何かを呟きながら紙に文字を連ねていた彼女は、俺が部屋に入ってきたのを見て怪訝そうに口元を歪めた。
「……なんだ、リート」
「ああ、その、その辺に生えてた山菜やらで簡単に料理を作ってみたんだが、イリスもどうだ?」
「要らん。下げろ」
少女――イリスは俺に向かってぞんざいに手を振る。
「でも、俺がここに来てからイリスがまともに飯食ってるの見たことないし」
「言っただろう、私は飢えなどの状態異常を光魔法で回復出来る。食事など不要だ」
「それだけ痩せぎすだと全然説得力ないぞ、せっかく作ったし少しぐらい……」
イリスが鬱陶しそうにこちらを振り返る。ふわりと流れた髪の間から覗く彼女の顔立ちは、思わず見蕩れるほど整っており、美しい。だが、俺を見る金色の瞳はビームでも放つのかと言わんばかりの鋭い眼光を放ち、目元に出来た濃いクマと相まってかなりの威圧感がある。
「貴様、私に指図するつもりか? そもそも、何故わざわざこの屋敷から出て山菜など取りに行く必要がある。食糧の備蓄ならまだあっただろう」
「いや、でも」
「何度も言ったはずだぞ、外は危険だと。お前は闇魔法への高い適性を持つが、体内魔力がほとんどない。魔獣に襲われればすぐに死ぬ。そうでなくても異世界から来たばかりのお前はここのことを何も知らない。私に従え、外には出るな」
怖い。俺は情けないことに自分より頭一つ半は小さい少女に睨まれ、足を竦ませた。俺が元々気が弱いというのもあるが、イリスの眼力が強過ぎるのだ。
イリスはふぅと息をつきつつ、語気を弱めた。
「……すまんな。だがリートよ、私はお前が大事なだけだ。わかってくれ」
「え、ああ、うん……」
「私も、研究が佳境で気が立っていたようだ。その食事はそこらに置いておけ。邪魔にならないところにな」
「研究って、その、魔法の属性がどうこうってやつ?」
「ああ。前に言ったかもしれんが、人間種の魔法適性というものは瞳が映すマナの色で決まる。この術が成功すれば、この忌々しい金眼ともおさらばだ」
そう言って自身の目を押さえるイリスの口元が三日月型に歪む。背筋に寒気を感じた俺は、トレイを置いて部屋を出た。
イリスの部屋から離れ、埃の積もった誰もいない廊下で呟く。
「……やっぱりあの子、何かおかしいよな……」
俺の名前は秀津璃斗。これと言って語るべき特徴もない、ただの男子高校生だ。
俺がここに――この世界に来たのは一週間前。いつも通りに帰り道を歩いていた俺は、突如として深い森の中に立っていた。
どうすればいいかわからず途方に暮れていた俺を見つけたのが、先ほどの少女、イリスだ。彼女は森の中にある屋敷へと俺を招き、住まわせた。
イリスが俺の好みど真ん中の美少女だったこともあり、当初は言われるがままホイホイとこの屋敷に居着いていた俺だが、数日ほど経って段々とおかしいと思い始めてきた。
まず、少々世間知らずとはいえ年頃の少女が、見ず知らずの男の身をこれほど案じているというのが変だ。彼女が困っている人を見捨てられないお人好しだったならいいが、流石に一週間も一つ屋根の下で過ごせば、イリスがそんな人間ではないことぐらい分かる。
どう見ても引きこもりな彼女が都合よく俺が転移した場所を通りがかったというのも作為的だし、怪しい。彼女が俺をこの世界に呼び寄せた張本人の可能性もある。
あとは、目だ。感覚的な話になるが、俺を見る目がどうにもおかしい。視線から異様な執着を感じる。そしてそれは人間に対して向ける類の執着では無いのだ。彼女は明らかに俺のことを人間として見ていない。
……もう、この屋敷からは離れた方がいいかもしれない。仮に彼女がただの善意で俺を家に住まわせてくれているのだとしても、この屋敷にいたままでは元の世界に帰る方法さえ見つけられない。
今日の夜にでも、ここを抜け出そう。俺はそう決意して、外に出るための準備をすることにした。
与えられた部屋の掃除をしていた時に見つけた革袋に、必要な物を詰めていく。勝手に屋敷の中の物を持っていくのは心苦しいが、流石に手ぶらで外に出ていくわけにもいかない。
外の地理については、昨日屋敷を調べていた時に見つけた地図を写しておいてある。今日軽く付近を探索した感じでは大幅に地形が変わっているということもなかった。これなら徒歩でも十分に地図上の街にたどり着けるだろう。
準備を終えた頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。屋敷に備え付けられた明かりを消し、息を潜める。
足音を立てないようにしながら一階へ。玄関ではなく窓から外に出て、素早くここから――
「おい」
声が聞こえた。女性のものとは思えないほど低く暗い声音。
冷や汗をかきつつ振り返る。だらりと垂れた前髪から、鋭い金の眼光を覗かせる、華奢な少女が立っていた。
ゆらゆらと生気の感じられない立ち姿で、瞳のみがギラギラと輝く様からはもはや恐怖しか感じられない。
「っ……」
「昼の間に探知術式を仕掛けておいて正解だった。逃がさんぞリート。貴様は私の物だ、私が扱うべきものだ……!」
俺は全力で逃げ出した。が、三歩も走らないうちに飛来した何かが背中に深く突き刺さり、俺は意識を失った。
※
気がつけば俺は地面に横たわっていて。
目の前には、「俺」が立っていた。
そいつは鏡の向こうでも写真の中でもない、実体として視線の先に存在していた。鏡で見慣れた薄い顔立ちと、ひょろ長い体格。どこをどう見ても俺そのものだが、同級生から死んだ魚と称された黒い瞳は覇気を宿して爛々と輝き、猫背になっていた背筋はピンと伸ばされている。
「ほう……これが異界の肉体か。闇のマナを強く感じる」
うわキツ。中二臭いセリフをドヤ顔で言い放つ俺を見て、俺は衝動的に目を逸らした。
それによって、視界に金色の何かが映った。糸のようなそれを掴むと、頭皮が引っ張られる痛みを感じた。
「え? 何だこ、れ……。……?!」
声が、変だ。随分と高い声音。
喉がどうにかなったのかと手をやり、違和感を感じる。そして数秒経って気づいた。喉仏が、ない。
恐る恐る、視線を下に向ける。身にまとっていたのはイリスが身につけていた古びた黒いローブ。サイズ的に俺が着れるはずはないのに。
持ち上げた手は色白で、とても男のものとは思えない華奢な繊手。
咄嗟に手を胸元へとやる。小さいが、確かに存在する膨らみと柔らかさ。
……ゆっくりと、わずかに震えながら手を股間に当てる。
無い。
「?!?!?!」
混乱した。声にならない声を上げる。
そんな俺を見て、ゆっくりと「俺」が俺に近づいてくる。
「俺」は大きかった。俺だって身長は百八十センチ以上あるのに、こいつは余裕で二メートルを超えているんじゃ――いや、違う。もう分かっていた。きっと、俺の方が縮んだのだ。
「私はイリスだ、異世界人リート。お前の身体はもらっていく」
低く、威圧感のある声。これが俺の口から出ていることが信じられなかった。
「な、な……」
「貴様の――否、今私が使っているこの肉体は、闇の神に深く愛されている。私の魂は膨大な魔力を持って生まれながら、肉体は忌まわしくも光に見初められ、その力の一切を生かせずにいた。だが、この肉体ならば違う。これならば、私を捨てた一族の者達に復讐出来る。闇神様の寵愛を頂くことが出来る!」
暗い笑みを浮かべてそう叫ぶ「俺」――いや、イリス。
「い、イリス、お前、ふざけ――ぐっ!?」
片手で、押し倒される。イリスの手は軽く俺の首元を押さえつけているだけなのに、まるで抵抗出来ない。何とか手を引き剥がそうともがくが、「俺」の大して鍛えているわけでもない腕はびくともしなかった。
俺は今、男に対して一切逆らうことが出来ない、ひ弱な少女になっている。それを理解して、全身が恐怖で震えた。
力が抜けて無抵抗になった俺からイリスが手を離す。
「その無力な肉体は貴様にくれてやる。屋敷も好きにしろ。もう会うことは無い」
そう言って、イリスは俺が用意した革袋を掴み、夜の森へと悠々と歩き去っていく。腰が抜けた俺は、何もせずそれを見送ることしかできなかった。