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「いや、まっさかまさか! そこの山脈でトカゲオオワシに襲われるなんてね! 僕としたことがもうはっはっは! つつき回された挙げ句の果てに、餌にするために谷間の巣にぽいだよ、ぽいっ! もーさー、なーみーだーでーちゃーうーねっ」
ハイテンションなのによく傷口の血がとまるな、と相手の血圧状態について思い、エリアンは水に浸してしぼったタオルを手渡した。
「んーありがとね。で、僕は魔法使い見習いでね、お師匠様に頼まれて、旅してる途中の女の子に手紙を渡さなきゃならないのよ」
別に聞いてもいないことを口早に話され、エリアンとマイラは少し目をすがめる。
――怪しい。
「でねッ」
何か不穏な空気を感じた少年が、さらに早い口調でまくし立てる。
「僕、茶金髪つーか光の加減で赤毛にも見える長い髪の――いや、切ってるかもしれないけど、その可愛い女の子を捜してるんだ、見なかった?」
「ここ一ヶ月ほど、人の出入りは村人だけだよ」
まだ寒気がするのか、わずかに身震いしたマイラが額を押さえてテーブルに肘を突いた。
「大丈夫か?」
マイラの耳元でささやいたエリアンに首を振り、マイラはさっさと席を立つ。
「エリアン、その人の手当を頼む。それから――旅の魔法使いのかたはお急ぎのようだ、すぐに送って差し上げなさい」
「うわっ遠回しにキライって言われた!?」
ぼそっと口を滑らせた少年は、ひょいと魔法で自分の怪我を治してしまった。魔法の気配に青ざめたマイラが、一瞬、仕返しとばかりに口の端を下げて少年を睨んだ。
素知らぬ顔で、自称魔法使い見習いはエリアンにタオルを返す。
「ふーん、そっか。彼女、まだ国は出てないのかな。てっきりこの辺だと思ったのに」
「さぁ、俺も見たことないな、そんなよそから来た女なんて」
失礼、と言うが早いか、マイラは背を向けると自室に戻った。
部屋に二人きりになったエリアンは、ちら、と魔法使い見習い少年のほうを見やった。目が合うと、マイラに対してそっけなかったのが嘘のように人なつこい笑みを浮かべる。――それ以前から微笑んではいたのだが。
「なんか君、見たことあるんだよね」
少年は唐突に発言した。
「ねぇねぇ、なんて名前?」
「俺、この村から出た覚え殆どないから――人違いだろ、魔法使いなんて初めて見たし」
「えー? そう? で、名前は?」
無邪気に訊かれ、無下に断れずにエリアンは口を開いた。
「エリアン。エリアン=スロイド」
「ふうん?」
首を傾げ、既視感はあるのに聞き覚えがないと呟いて少年は投げやりに自己紹介した。
「僕はシーラ。ま、多分もう会うこともないけど。僕がここにいると邪魔だろうし、目的のものもなかったし、今から出てくね、さっきのおじさんに悪いことしたよね、ゴメンね、じゃそういうことで」
ちゃっと手を挙げると、少年はふわりとした風を巻き上げて姿を消した。
目の前で魔法を見るのはライザが先に帰ったのに続いて今日二度目だが、
「魔法の系統が違うって……ホントだな」
と、呟いた。
肌にまとわりつく空気の質が、使う人により魔法の系統により違うものなのだと感じられた。今の少年はじっとりと汗をかくほど、密度の高い、重い空気をまとわせているような気がする。ライザの魔法は彼の性格通りなのか、晴れ渡る空のように爽快だった。ウラのない、そして神の力を借りる神聖魔法ゆえの力強さと安心がある。
急にぞくりとしたエリアンは、思わず魔剣に呼びかけた。
先程からずっと隠れていた魔剣の少女は、なかなか姿を現わさない。
呼び出すのを諦めたエリアンが夕食の支度をはじめてしばらく経ち、ようやく姿を見せた彼女は、まるで陸にあげられた魚のように息苦しそうな顔をしていた。
「どうしたんだよ、お前」
包丁の先で切れた指先を軽く振って、エリアンは首をひねる。いつもならこういう状態では黙っていない魔剣だが、今日はやけにおとなしい。
「息でも止めすぎたのか?」
「……!!」
こくこくと頷き、魔剣の少女は大きく息を吸った。
「あぁ! しぬかと思いましたわ」
「前から思ってたんだけどさ、お前の『わ』ってなんか商人のオッサンと同じ発音の仕方だよな貴族と言うより」
「ま! 失敬なッ。とにかく、ごはん!」
魔剣はがばりとエリアンに飛びかかった。エリアンは慣れた様子で、傷ついた指をその場に突き出す。
「噛むな囓るな食うな痛い」
傷口を広げるようにして血をなめとる少女の姿は、本来とは天地ほどの違いがあろうがやはり魔剣らしいと思わされる。人を斬らないエリアンだから、魔剣が人の血を最上の食糧とする以上は彼女の命を縮めていることになるだろう。実際、彼女は時々、狼に食われた羊に向かって駆けだしたそうな顔になる。いったん抜き放てば容易には手に負えないのだ、エリアンがこれまで誰も斬らずに済んだのは奇跡と言えた。
もちろん、彼女は魔剣であることを吹聴して回るようなことは普段はしない。彼女は自らの魔力を封じ、外部にはただの剣としか映らないこともできる。何の変哲もない飾りの剣のフリをすることも可能だ。
全力で戦うこの魔剣の姿を見たことはないが、こうして少女の姿を現わしている間の魔力でさえ調整しなければマイラにアレルギー反応を起こさせるに充分すぎる。エリアンが魔剣に指示しマイラに魔力が向かわないようにしてある。
魔法にうといエリアンでも眩暈を起こす魔剣の力だが、魔剣曰く、エリアンは他の者よりも耐性があるほうなのだそうだ。
血を与えながら、エリアンは眉根を寄せる。
耐性がある?
息を潜められる魔剣、というものがあるのかとマイラに聞いたことがある。答えは「力があれば」だった。正確には、自らを制御する技術と、魔力をおさえるために費やす魔力があるならば。――滅多にいないけれど、とマイラは言っていたけれど。
「ふう、生き返りますわ! やっぱり貴方の血は良いもの、大事になさい」
「それ、いっつも言うよなお前。俺にはぜんっぜん意味分かんないけど」
「普通の血百人分よりは貴方ひとりの血が、わたくしは好き」
何気なく、普通、と言うときの目つきが妖しい。幼い少女の姿をしてはいるが、それは本当に元からの化性だろうか。
「だーからさ、なんでだよ」
「わたくしのような魔族には、貴方のような血は極上の餌」
「何でだよ」
「そんなの知りませんわよ。でもわたくしは貴方が良いの」
このままでは禅問答になりかねない。エリアンは早々に問いかけを諦めた。気が向くか、あるいは別の機会で案外サラッと話すかもしれない。
エリアンは十六年と少しの人生のうちに、マイペースな人間に引きずりまわされて疲れる、というおそれを避けることを学んでいた。
――おかげで魔剣と出会って六年、ずっと「なぜこの魔剣が手元に居続けるのか」などの疑問も解消されないままである。
「マイラ出てこないなー。さっきの魔法がよっぽどこたえたんだな」
魔剣に治癒された指を洗い、再び野菜をざく切りにし始めたエリアンの横で、魔剣の少女が不機嫌そうに足を踏みならした。
「あの魔法使い! 本当に見習い? わたくし、じろじろ見られて、不愉快やらバレそうになるやらで……あぁ、イヤな男ッ!」
「見られる?」
「心眼使いではないのだし……ものすごい魔力を持ってるんですわ、神聖魔法だのを使わずに自分の力だけで魔法を使ってましたし。近々、大魔法使いになりますわよ」
「ふうん?」
魔法には興味ないが、将来の有名人に出会ったかもしれないと思うと、この田舎の村に住んでいても面白いことがあるものだと感じられる。
「俺はそれより、お前の語尾が微妙に下がったりして貴族っぽくなく商人っぽいのが気になる……」
「うるさいですわー!」
このとき、エリアンはまだ、さして危機を感じてはいなかった。
*
「ふー、危ない危ないっ。さっきはマジでやばかったなぁ」
風を切って飛ぶ大きな鳥の背の上で、シーラは大きなため息をついた。山脈沿いの家が豆粒よりも小さく見える高度で、ばさ、と自分の肩にかけていた布を一枚剥いで目の前に広げる。風があるのにもかかわらず、布はぱさりとも動かなくなった。
「さてさて。さっきはやられたが、次は勝つぞ」
闇色の短い髪が、翻る一瞬で純白の長いものに変わる。姿も幾分成長した。
「このシェーラ=ベルガザード、神の布告にこたえよう!」
そして、布面に地図が現れる。
さかのぼること小一時間前。
「ここ、どこ!?」
ユリア=バークは呆然と叫んだ。
実はさっきから気付いていたが黙っていたディアルは、茂みの向こうのウサギを脅かして遊んでいる。
「やだっ、道ないし!」
三時間前、唐突に茂みに飛び込み、「銅貨見っけー!」と嬉々として街道を外れたのはユリアである。一応ディアルはそのときに進言したのだが、無視された。無視されることを思うと、またそのとき無理にでも彼女を動かさなかったことを叱られるであろうことを考えると、自然、口は重くなる。
「やだもう! 地図もなくしたし」
実はユリアは物をよくなくす。本人は道中、自炊で人参の葉も皮も何もかもをものの見事に使い切るほどにきっちりしていたが、普段持ち慣れない物は途端に手元から消してしまう。
そこがまた、ディアルにとっては面白い。
しかもこの娘、指輪をなくした一件以来――いや、その前からもだが以降は一段と、ディアルに「出来ること」と「出来ないこと」を問うようになった。出来るのであれば他に術がないときにそれに頼るし、出来ないと言えば、狼に一人小枝をふるって立ち向かおうとするほど潔く自力で何とかしようとする。
一言で言うと、
「ヘンだよなぁ……!」
唐突にあげた声に、ウサギが驚いて茂みの中から飛び出した。
「あっ! 夕ご飯!!」
なにやら不穏な言葉を口走り、ユリアが手近な枝を折ってウサギに放り投げる。
「きゃー!! ディアル! 捕まえてッ!」
「はいよ」
ぱちんと指を鳴らすだけで、ウサギは目を回して倒れ込んだ。
「ありがとう、力使わせて悪いわね」」
初めから頼んだりやって貰えないとケチだとむくれることもあるが、ユリアは基本的に、相手に労力を割かせることに過剰に期待することがない。
「何でそんなにお気楽に自力で生きようとするのさ、僕に無理矢理魔法使わせて豪勢に食べようとか思わないのか?」
「やってくれてもやってくれなくても、それは相手の力だから相手の配慮次第だもの。私の力じゃないわ、無理強いなんてできないじゃない」
ディアルにウサギを料理して貰い、その間に木の実を集めてきたユリアは、ディアルの問いにあっさりと答えた。それはそうだが、と言いつつディアルは理解しきれない。
利用できるものを利用しきろうとするわりには、どこか甘い気がするのだが。
「アレ? 何か変じゃない? すごく風が出てきたみたい」
ユリアは茶金の髪を指でおさえ、目を細めた。光の加減で赤にも見える長い髪だ。その動きを目で追いつつ、ディアルは空へと視線を移した。
「げ」
途端にユリアを小脇に抱え、ディアルが走り出した。
「ちょっとー!」
火の始末もせず、折角の食糧さえ放り出していくなんて、と声をあげたユリアだが、空を見て頬を引きつらせた。
「あなた仮にも神さまでしょー!? 飛んで消えるとか何かこんな、走るとかいうんじゃなくてもう! ぱっと消えらんないの!?」
「ムリだ!! ヤツが相手じゃ、こんな至近距離で見られてんのに飛んだ先まで隠し通すなんてムリだ!」
ユリアは黙る。ディアルは血相を変えていたが、それでもまだ余裕に見える。――逃げるばかりで、魔法では戦おうとはしないからだ。
上空には巨大な鳥――五部屋くらいある一軒家くらいの大きさの鳥だから食べたら何日持つかしら、とユリアは思う。その鳥の背には、雲よりも美しくどこまでも白の長い髪がひらめく。
あーの性悪魔法使いっ。
「だーれがだって? 逃亡のお姫様」
唇だけの動きを読まれ、ユリアはうっと詰まった。
「さーてと。神の一人が君に手助けしてるのは確からしいねぇ。でもこんな近くに来るまで僕に気付かないなんて、大したことないんじゃない?」
挑発。
ディアルは舌打ちする。
案の定、
「何威張ってンのよ! 陰険男ッ!!」
ユリアが代わりに喧嘩を買っていた。
「頼むからあいつに意識向けないでくれ、憎しみの来る方向からあいつがこっちの正確な位置を掴んでる可能性があるからっ」
「えっ!? でもどうやってあいつから気を逸らせばいいの!?」
言われたことでかえって気にしてしまうユリアである。
ドン! と目の前の土がえぐれ、樹木が一円、なぎ倒された。
「うわっ派手にやってくれるなぁ!」
「本気で戦いなよぅ? 僕ら人間を甘く見て貰っちゃ困るんだ」
ようやく立ち止まったディアルのすぐ後ろに降り立ち、銀の目を細めるのは、魔術の司。
「シェーラ=ベルガザード……名前は聞いているよ、人間の中じゃ最大の魔力の持ち主だって」
「それはどうも」
シェーラは慇懃な礼を取った。
ディアルは赤毛(昨日は水色だった)をかいて、ようやく観念したように両手を挙げてシェーラのほうに向き直った。その際、ユリアは宙に放り出される格好となってしまい、落下してしたたかに腰を打つ。
「ちょっと……! もうちょっと優しく出来ないわけ!?」
地面側から抗議したユリアの目の前で、シェーラが軽く右手をはねのけるようにして振った。
「おっと! そう簡単にお姫様を取り返されちゃ困るんだ!」
くるりとシャボン玉のような薄い被膜に包まれ、ユリアは宙に浮くが、すかさずディアルが手を打って再び地面に叩きつけられる。
呻いたが、ディアルは振り返らない。いつも通りにとぼけた笑みを貼り付けているが、場の空気は張りつめている。
「はぁっ!」
「させるかッ!」
互いに呪文もなく攻撃が開始される。ディアルは神であり、シェーラは魔力を自らの内に持って他の何かの力を借りることがないため、『慣れ』によって呪文を使わずとも力を魔法に変換できる。
「きゃあ!」
一際激しい爆音で土埃があがった。視界が徐々に取り戻される中で、鮮やかな金髪の青年が青の目のこするのが見えた。
「あーあ、もう。やってくれるね」
「ディ、……ディアル?」
「ハぁイ?」
初めて見たが、どうもこれが本来のディアルの姿であるらしい。彼は何一つ損なわれず、そこにただ立っていた。
「くそっ!」
白い髪の魔法使いは、地面に片手を突き、もう片方の手で口元をぬぐう。
「へぇ……さっきので生きてるなんて、『最強』の名もダテじゃないな。こっちは折角の変装も無意味に帰されてしまったよ」
「うるさいな」
円で囲まれてその中で攻撃をくらったため、シェーラ付近のもの以外は殆ど破壊されていない。感心したように呟いたディアルに、シェーラは短く吐き捨てた。
「それより、戦いの最中に余裕じゃないか、姿を気にする暇があるのかよ」
「それもそうだ。それに、戦うんなら自然保護についての配慮を怠るなよ♪」
笑みを含んで言い放ち、ディアルは片手を高く掲げる。
「んじゃ、しばらく、お・や・す・み!」
「ムカつく」
布を殴りつけ、シェーラはそう呟いた。
まさか……あの神が仕掛けていたとは――。
ユリア=バークが口走った名前が本当のものであるならば、厄介なことになりそうだ。
「……どうせさらわれた時点で厄介だってことは分かってるんだけど」
ディアル=レセナ、それは邪神とあだ名される神。名を縛られてその効力を半減していてもなお神の脅威となりうる存在。
「でも」
まだあの神は全力を出してはいない。先程は、単に擬態に回していた力を調整用に回し、かなり抑えが効いていたのだ。そしてまたシェーラ自身も、神の花嫁を傷つけないことに気を使いすぎて、全力とはほど遠い。
「そっれをよくもまぁ、天高くぶっとばしてくれちゃってもう……!」
めぼしいものが何も映らない布面の地図に向かって愚痴り、シェーラは鳥の羽毛に顔をうずめた。
「でもまぁ……あの村で面白いもの見つけたしな……『剣聖』とか色々……。何か思い出せないけどヤバげな気配もあったなー、何かなー」
とりあえず、目的は神の花嫁の奪還である。気にかかったことを深くは考えず、シェーラはもうしばらく、付近を捜索することにした。
*
よりにもよって。
ディアルとはぐれたユリア=バークは、森の中で途方に暮れていた。
夕焼け空がほんの少しだけ見える、うっそうと生い茂った森の中を一人で歩くのは、ユリアでなくとも恐ろしいものだ。
「ど、どこかに町、ないかしら」
どこかでアオーン、と山犬か狼かの遠吠えがする。
不安になり、ユリアはとにかく、闇雲に歩いた。
(ううう~! せめて猟師さんとか!! 炭焼き小屋のおじいさんでも可! この際だからいっそあのバカ魔法使いでもいいわ! 助けて!!)
あれ?
エリアン=スロイドは、斜面で薬味用の草を摘んでいた。最後の一光が沈みきる前に戻らなければ危ない。しかし戻ってからマイラを起こす手順がそこはかとなく面倒くさく感じられて、エリアンはしばらくそこにしゃがみ込んでいた。そして、摘み終わったそのとき、ぼんやりとだが、黒い森の影の中を、薄赤いひらひらしたものが通り過ぎた気がした。
「……気のせいか」
暗くなっている所為もあり、エリアンはさして気にも留めず、数百メートル先の自宅兼教会へ帰った。