鬼踊 -ヒト-7
ベッドの上で目を覚ました。カーテンのない窓から入ってきた日差しがちょうど顔に位置にきたのだ。
寝室を出てリビングに入ると、そこにはテレビ、ミニテーブル、ソファ、そして大量の段ボールがある。うーん。起きたら片付けようと思ってたけどめんどくさいな。必要なものならそのうち出すことになるだろうし、このままでいっか。
あ、朝御飯どうしよっかな。昨日の夜は外で済ませちゃったから何も買ってないや。
まぁいいか。お腹空いてないし。てか徒花の空腹とかただの気のせいだし。
ソファに背中からダイブして、テーブルの上に置いてあったスマホ(仕事用)を手に取った。
ん? Adabanaからお知らせが来てる。コメントが届いているらしい。
そのお知らせをタッチすると、一気にAdabanaマイページのコメント欄が開いた。
紋水寺莉乃『初めまして』
紋水寺莉乃『二つ隣に住んでる紋水寺莉乃です』
紋水寺莉乃『朝御飯食べませんか』
紋水寺莉乃『もしよければ隣の戸舞流華の部屋まできてください』
紋水寺莉乃の部屋じゃないんだ。
空木結羽『初めまして』
空木結羽『朝御飯は結構です』
任務以外で他の徒花と顔を合わせるなんて冗談じゃない。スマホをテーブルの上に置いて、代わりにテレビのリモコンを手に取った。
飼い主の店の看板犬だとかいうワンコを眺める。柴犬。舌を出してへっへへっへいってる。私は猫派。でも犬が嫌いってわけじゃない。
ピコン、とスマホが短く鳴った。お知らせの音。手にとって開く。
戸舞流華『お願いだから来てよー』
戸舞流華『莉乃ってば自分がたくさん作ったくせに人に食べさせようとするんだよー』
戸舞流華『太る自分を想像しちゃうよー』
知るか。ブクブク太って好きな徒花ランキング首位から転落しちゃえばいいのに。
空木結羽『すぐに出掛ける用事があるから』
戸舞流華『そうなの? 残念。支部にいくとか?』
空木結羽『ううん。私用』
戸舞流華『ここら辺の地理分かる? 案内するよー』
空木結羽『いらない。じゃあもう出掛けるから』
スマホをテーブルの上に投げてから、座った状態のまま上体を横に倒す。ちょうど置いてあったクッションが枕になってくれた。
出掛けるっていうのは本当。類家隊長に言われたように管轄範囲内を回ってみるつもりだ。でもこんな朝早くから外に出るつもりはない。
横になったら微かに瞼が重くなった。もう一眠りしようかな。
そんなことを考えながら目線を動かして室内を見回す。隅に積まれた段ボールにはマジックで大きく『服』とか『本』とか書いてある。
そんな段ボールの山の中に、何も書かれていない箱が一箱だけある。向きが違うとかじゃなくて、あれには元々何も書いていない。
それをじっと見てから、もう一度瞼を閉じた。
囲まれてしまった。
流石に多勢に無勢。逃げようと思えば逃げられるけど、私に向けられる強い視線がそれを許さない。
平日とはいえ春休み中の公園。
油断があったことは否めない。
心の中で舌打ちしてから、正面にいる相手を見下ろして口を開く。
「なに?」
サッカーボールを胸に抱えた男の子は好奇心旺盛な丸い目を更に大きく見開いた。
「お、鬼踊の空木結羽さんですか!?」
周りでざわついていた子供が急に静かになる。いいえ、と言ったところで解放してくれる気がしない。
ていうかよく分かったな、私のこと。転勤のことなんか外部の人間は殆ど知らない筈だし、カラコンしてるし、異名持ちとはいえ好きな徒花ランキング三十八位の雑魚だよ? 問題行動し過ぎでマスコミも全然取り上げてくれないし。まぁ多分、上が拒否してたんだろうけど。
サッカーボールを見て、ふと思う。
地元のサッカーチームが有名なとこは他の地域と比べてサッカー熱がすごいものだ。もちろん、無名な地域にもサッカーが好きな人はいるし、有名な地域にも全く興味のない人もいるけど、全体で見ればその差は明らか。
扇野という場所で当て嵌まるのは、サッカーチームではなく徒花部隊ということだろうか。
『正義』『全能』『万能』少し前に『鉄壁』も追加されたし、以前は『女王』もいたのだ。
これだけ異名持ちが集まってる支部なんて他にない。一人いればいいっていう感じで、蛍山支部だと私がそれだった。
そんな地域に住んでいれば、徒花への関心が高くなるのも当然かもしれない。
サッカーボールとか服とかにサインをしながらそんなことをぼんやり考えた。
それからは人が人を呼び、結構な時間をサインやら握手やらで費やしてしまった。絶対私のことを知らない人も何人かいたと思う。
自動販売機でお茶を買ってから近くにあったベンチに腰掛けた。少し休憩。
園内の緩やかな坂を上った先に見える競技場。一年半くらい前に二足歩行の大型カフカが現れた場所だ。徒花を一人殺したそいつを倒した、というか人に戻したのは全能と万能。
胸が熱くなる。
落ち着けるように冷たいお茶を口に流し込んだ。
「鬼踊の空木結羽さん?」
その声に顔を向ける。またサインか、と思ったけど、どうも違うらしい。
そこに立っていたのは四、五十代の小さくてまるっこいおばさんと、二、三十代で綺麗めのおばさんだった。二人とも、なんか全体的に白い。ハットにジャケットにチノパンに鞄。全部白い。
「そうだけど」
おばさんはニコニコと詐欺師みたいな笑みを浮かべながら私の前に立って、白い鞄から何かのパンフレットを取り出した。ぼんやりしたまま受け取る……うげっ。
「神眼教の者です」
うわー。出たよ。私は特にこの人達とは関わるなって言われてるんだけどなぁ。恨み買いまくりだから。
「勧誘は結構ですんでー」
さっと立ち上がってバッと駆け出す。後ろから「あ、ちょっと!」という声が聞こえてきたけど知ったこっちゃない。
あ、パンフレット持ってきちゃったよ。
まぁいいや。実はちょっと興味あるんだよねー、神眼教。もちろん信仰する気なんて皆無だけど。
少し走ったところにあったカフェに入った。私以外にお客はいないようだ。
注文を終えてから、早速パンフレットを見てみた。表紙には知らないおっさん。多分、神眼教の偉い人なんだろう。
開いてみると、見開き一ページに鬼の絵が載っていた。
普通の鬼みたいに、赤かったり、青かったり、腰に豹柄の布を巻いていたり。なんてことは一切無く、もっとカッコいい絵だ。
身体は筋骨隆々ではなく華奢で明らかに人間の女性のもの。年齢は私と同じくらいだと思う。腐ってるわけじゃないけど、カフカみたいに全身がほぼ黒一色。布一枚纏ってなくて、その細い肢体をさらけ出している。頭からは角が二本。爪も牙も尖っている。いかにも鬼といった感じだ。
でも一番の特徴は、その顔。
小さな顔の半分を占める巨大な一つ目。この鬼の身体で唯一黒以外の色が、その瞳の白目部分だ。
まぁそれはこの鬼に限ったことじゃない。この生き物は、みんなそういう特徴を持っていたらしいから。
ずっと昔。
この世界を滅亡の寸前まで追いやった存在。
カフカのご先祖様。
昔の人は、その存在を『ヒトツメ』と呼んだ。
コーヒーが運ばれてきた。
一口啜る。ふぅ、と息を吐いて、再びパンフレットに目を落とした。
そんなヒトツメの中でも、この鬼型は破壊者として格が違う。
全て。
本当に全てを破壊しようとした。
人も、物も、同種のヒトツメすら。
私の憧れ。
小さいとき、この昔話を聞いてからずっと。
パンフレットをめくる。
神は人間を滅ぼすことを決めた。カフカは神の使い。徒花は神の力を盗んだ悪魔。腐化は浄化。神は慈悲深く、悪魔にも救いの手を差し伸べられる。
神眼教の歴史は古い。それこそ始まりは鬼型ヒトツメ出現とほぼ同時期の話になる。ヒトツメによって世界が滅びの道を歩んでいる最中に立ち上げられ、神は人間を滅ぼすことを云々と戯れ言を提唱し出した。時代が時代だったせいか、賛同する人は結構いたらしい。
でもヒトツメがいなくなってからは勢いも弱まり、それからの歴史では時折その名前を見せる程度になった。
鬼型ヒトツメの死体が発見された時なんかは発見国に遺体の引き渡しを要求したらしい。当然、却下。
その動きが再び活性化したのは、八年前にカフカが出現してからだった。
再び神が立ち上がってくださった! てな具合にテンションが上がったんだろう。カフカ、徒花の出現がほぼ人災だと判明してからもテンションアゲアゲ(死語)のまま今日に至っている。
まぁヒトツメにしたって、本当の出自はどうであれ人が感情によって変化したものなんだから、結局、今も昔も人が人を滅ぼそうとしてるだけ。そしてそれは、この世界に化物がいなくてもきっと変わらない。
人を滅ぼそうとしているのは人。
鬼型ヒトツメだって元々は人だ。それも、外見通りの年齢なら、今の私と変わらない年頃の。
そんな子が、世界をぶっ壊そうとした。
そう考える度に、すっごくドキドキする。
ヒトツメになる前はどんな子だったんだろう。なんせ、ヒトツメになったからとはいえ世界を壊そうとしちゃうような人だ。多分口が悪かったり喧嘩っ早かったり、やんちゃ系だったんだろうなぁ。
そして。
彼女をヒトツメに変えた感情は、一体なんだったんだろう。