鬼踊 ーピエロー1
人の顔。
鬼の顔。
私が持つ二つの顔。
でも今はそのどちらでもない。
猫の顔だ。
「にゃー」と言われたから「にゃー」と返した。
平日の昼間。線路に隣接した公園のベンチ。
仰向けに眠っている私。お腹の上にはピンクの首輪を巻いた猫。
春の陽気に微睡みながら右手を上げて猫の首を指先で撫でた。名前も知らない猫は大人しくされるがままになって目を細めている。
ふわぁ、と欠伸をする。これは私だ。退屈からの眠気。それに従って数時間眠ったところで全然すっきりしないし、むしろ余計に怠くなることが分かっていながらも私はゆっくりと目を閉じた。
暗闇の向こうの赤い光。
「にゃー」という声。寝るな、もっと構えと言っているのだろうか。
「にゃー」と返した。ほっといてくれい、お猫さん。あと、寝ている女の子にのし掛かるなんざ、紳士のすることじゃないぜ、という意味を込めて。
そう、彼はオスだ。ピンクの首輪をしてるのに。去勢もしていないみたいで、この状態で抱えあげると目の前にプランプランとーーいや、まぁそんなことはどうでもいいか。それにしてもなんでピンクなんだろう。ピンクっていったら女の子なのに。
いや、私はそんなことを言える立場じゃないか。
人の服を着て。人の靴を履いて。人の姿をして。人の言葉を口にする。
でも、私は人じゃない。
小さな足音に目を開いて顔を向けた。線路の向こう側にある駅と繋がっている歩道橋を降りてきたのはスーツ姿の男性。
一瞬目が合う。すぐに逸らされた。それからはこっちに顔を向けることすらなく去っていった。
その背中を見ていると、猫が「にゃー」と鳴いた。
私はお腹の上を見ながら「にゃー」と返した。
猫を両手で持ち上げてから上体を起こす。ベンチに腰掛けて、猫は膝の上に。真っ黒の瞳が見上げてくる。何をお望みだろう。食べるものは持ってない。
右手の人差し指を立てる。腐り落ちるイメージと同時に指は形を失い黒いヘドロになって手を伝う。猫が「みゃー」と鳴いて飛び付こうと立ち上がったから素早く右手を挙げた。舐めたりするのはマズイ。どうなるかは知らないけど、少なくとも身体に良いものではないだろうから。
そこからイメージしたのは猫じゃらし。でも、あのふわっとした花穂や、細くしなやかな茎はーーというか基本的に草花はーー再現することが出来ない。それっぽいものは作れても、それはヘドロの塊でしかなく、強風が吹こうが、指を左右に振ろうが、猫がパンチを繰り出そうが、揺れることすらない。靡かない。直立不動。それは、草花というにはあまりに強靭すぎる。
右手を元の形に戻す。
「にゃー」
猫は鳴くと私の膝から飛び降りた。
「にゃー」と、ゆっくり歩いていく背中に別れの挨拶をした。
私一人の公園。ポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認した。午後一時。ここに人が集まり始めるのは早くても午後三時だから、しばらく貸しきり状態だ。といっても遊具や砂場で遊ぶつもりもなければ、テニスやバスケをするつもりもない。
じゃあ何をしよう。
何もすることがない。
したいと思わない。
あぁ。
カフカがでないかな。
そんなことを考えていた時だった。
カツン、カツン、という音。
顔をあげた。
貸しきりタイムは早くも終了みたい。
入り口には松葉杖を突いた男の子。左足にギプス。小学生だろう。パッと見た感じ小三、小四くらい。
猫の顔から人の顔にチェンジ。当然、顔を作り変えているわけじゃなく意識的なものでしかない。
しばらく見つめ合った。端からみた場合は睨み合ったっていう方が適しているかもしれないけど、私が彼に向けた感情は決して刺々しいものじゃなくて、むしろ好意的な、興味とか、好奇心とか、そういうものだったから、見つめ合ったでいいと思う。
先に目を離したのは相手だった。歩き出すために視線を地面に落としたのだ。メンチ切り対決は私の勝ち。内心ガッツポーズ。だけど表には出さない。
「あんた、鬼踊だよね。徒花の」
ベンチから五メートルくらいの距離を置いて、彼はそう言った。
「そうだけど、あんたは?」と返す。流石に人間相手に『にゃー』とは返さない。それで済めば楽なんだけど。語れる言葉が多いというのは面倒なものだから。
「六角広太郎」
「そ。で、そのコタロウが私に何の用?」
「コタロウじゃなくてコウタロウ」
「言い易い方でいいでしょ。ニックネームみたいなものよ」
「じゃあ僕もあんたのことオニって呼ぶ」
「悪意のあるニックネームはニックネームじゃなくて悪口だから。なに? コタロウって呼ばれるのそんなに嫌?」
「別に嫌じゃないけど」と言って彼は少し目を逸らした。照れているのだろうか。
「ていうかオニもオニオドリも勘弁。そっちの名前で呼ばれるとか恥ずかしいから。私の名前知らない?」
「空木結羽」
「それそれ。そっちで呼んでよ。その方が呼びやすいでしょ」
「結羽?」
「呼び捨て……まぁ別にいいけど。それでコタロウ、鬼踊の徒花に何の用? サインくださいって感じじゃないし」
「用なんてないけど、姿見かけたから、なんとなく声かけてみた」コタロウは視線を落とした。「この足見て、どんな反応するかと思って」
「あぁごめん。反応した方がよかった?」
「別に」
「座れば?」
少し横にずれて空いたスペースを叩くとコタロウは頷いて隣に腰掛けた。
「骨折?」
「うん」
「いつから?」
「一ヶ月くらい前」
「まだそれ外せないの?」
「あと二週間くらい」
「ふぅん」
「興味なさそう」
子供は鋭い。馬鹿な大人なら骨折した時のこととかを意気揚々と語り出しそうなものなのに。
「まぁね。私は骨折しないし」
「いいなぁ」
「いいでしょ」
その代わり私は日々命懸けだよ、とは言わなかった。子供に言ってもしょうがないと思ったわけじゃない。むしろ、彼がその言葉を望んでいる気がしたから、意地悪をしたのだ。
少しの沈黙の後、私は口を開いた。
「事故?」
彼は頷いた。
「同じクラスの奴二人に押さえ付けられて、別の奴にプロレスかなんかの技を掛けられて、こうなった」
「それ事件じゃない?」
「先生は事故だって」
「ふぅん。コタロウの親は?」
「最初は怒ってたけど、話し合いから帰ってきたら、やっぱり事故だって」
「事故なの?」
コタロウは答えない代わりに「一真君の親は偉い人だから」と言った。
「国家元首とか?」
「うん。小学校の元首」ガキ大将みたいな響き。「だから一真君はずっと偉そうにしてるんだ。頭悪いし、チビなのに、手下がたくさんいて……。一対一の喧嘩なら絶対負けないのに」
「コタロウが勝ったら事件になっちゃうんじゃない?」
「そうかも。結羽ならどうする?」
「さぁねぇ。私、人気者だったから考えたこともなかったなぁ」
「うそ」
「なにその断言。マジのマジだよ」
「結羽、顔可愛いもんね」
「そりゃどうも。顔以外はダメみたいな言い方は気になるけど」
しかも徒花の場合顔の良さはさほどステータスにならない。どこかの全能みたいにずば抜けていればまた別だけど。
「広太郎!」という大声が響いたのはそんなことを考えていた時だった。
公園の入り口には息を切らした女の人。三十代? 四十代? そのくらいだと思う。
「お母さんだ。家、黙って出てきたから」
「怒られるね」
「別にいいよ。怖くなくなったもん。一ヶ月前から」
「どうして?」
「多分、好きじゃなくなったから」
「なるほどね」
コタロウはゆっくりと立ち上がる。
「バイバイ、結羽」
「ん、じゃあね」
ザッ、ザッ、と、コタロウの右足と松葉杖が公園の地面に跡を付けていく。
「コタロウ」
足音が止まって、小さな顔が振り向いた。
「カフカが出ない日は、私、大体ここにいるから」
人の顔からチェンジ。何の顔だろう。少なくとも、人や鬼や猫の顔では、私はこんな風に笑わない。
「よかったら、またおいで」
コタロウは頷いた。そしてその時に浮かべていた笑みを見て、私は気付いた。
今の私はピエロだ。
ピエロの顔。
ニコニコと笑う。それが作り笑顔か、本当の笑顔かも分からないままに。
目の前にいる誰かの笑顔が見たくて。