その先はわからなくていい
耳を澄ませば静かな世界への音が聞こえだす。単調なリズムでゆれる列車の音。ととんととんと私を運ぶ。私が行くのは異国の地、あの人のいない土地。あの人がいない場所ならどこでだって、私にとっては異国の地といえるのだ。肌を重ねて愛した人に、何も言わず別れようと決心した。
ごととんごととん。列車が私の体をゆらす。ゆれた体が彼のもとに帰ろうとしないように、私はコートの上から、両腕で私をきつく抱きしめた。
車窓から外の風景を眺める。ここはもう都心を離れて、周りにあるのは田んぼばかり。ずっと遠くに、私やあの人が暮らしていた町のビル群が見えた。ここから見ると、まるでマッチ箱が立っているようだった。私は人差し指をそのマッチ箱に合わせた。私がちょんと押せば、簡単に倒れて、周りのマッチ箱と重なって、ドミノ倒しのような景色ができあがるのかなと想像した。
どうしてなのかな、急に胸が詰まって、私は泣いた。ハンカチで涙を拭うのも面倒だった。私はじっと黙って外を見たまま、ただ、はたはたと泣き続けた。陽光が車窓を通して、私の頬をほのかにあたためた。大丈夫、泣けるときは泣かせておけばいいんだ。
今日は月初めの火曜日。彼と会うはずの火曜日。あの人は今日も会社で勤勉に勤めて、定時で会社を出るのだろう。そして、私に電話を掛けて、いつもの通り、私のマンションに残業を重ねに来る。
列車の長いすに背をもたせて、ようやくおさまった涙を軽くぬぐい、私はそっと目を閉じた。
窓を開けたかった。今日は気持ちのいい秋晴れ。でも秋もそろそろ終わる。言っている間に冬が来る。冬が来れば、あの人と出会って、二周年目の日を迎える。
私は厚い吐息を吐いて、目を伏した。
出逢った頃、彼から貰った名刺を、私は未だに持ち続けている。今着ているトレンチコートの胸ポケットの中にしまってある。春も夏も秋も冬も、ずっとそこから出していない。コートを着ていても着ていなくても、ずっとそこに潜ませておいた。私自身、取り出すことなどほとんどなかった。
好きだったから、少しでも彼を独り占めしたかった。彼の名刺を誰にも気づかれない、秘密の小部屋にしまっておくのは、ささやかでも、私だけの特権なのだと―彼の一部は、完全に私が私のものにしていると、自分勝手な満足で毎日を埋めていたのだ、ずっと……
私は胸ポケットに手を入れた。そして名刺をそっと取り出した。二年前に貰ったものとは思えない、日焼けもしていないきれいなきれいな彼の名刺。私は彼の名前を丹念に朗読してみた。
「伊那瀬 淳二」
淳二との出会いは、私の父の葬式だった(後になって父に親不孝な事をしたものだとお墓の前で謝った)。
私が高校三年生のとき、父が死んだ。会社で……父は働きすぎた。会社側は過労死と表立って認めてくれなかった。私はそれが悔しかった。
「このたびは、お悔やみ申し上げます」
受付で会社の重役が話す錆びた言葉を、私は涙とぐっと堪えて聴いていた。父はWeb業界に勤める営業社員で、四〇を過ぎても新人同様の扱いを受け、無茶な仕事を押し付けられていた。深夜まで働いて、朝早く出張に行き、母はいつも溜息をついて父を見送っていた。
最後の朝に見た父は、どんな顔をしていたのだろう。私はぼんやりと父を思った。首を垂れて、葬式に訪れる人たちの足元を、私はじっと見つめていた。頭の上では、誰かのもそもそとした話し声が聞こえる。私は適当に返事をする。彼らの足は、しばらく私の前で立ち止まり、そしてさっさとそこを離れていく。
私はそれを、川の流れを眺めるように、じっと見ていた。ふと、長い間、私の前から動かない足があるのに気付いて、私はおもむろに顔を上げた。そこに立っていたのが淳二だった。
「もう、僕が最後ですから」彼が、ゆっくりと私に言った。言われて、私は周りを見回した。 確かにもうそこには私と彼しかいなかった。
「ご苦労様です」彼は深く一礼し、参列者の席のほうへ行ってしまった。
ご苦労様? 私はしばらく頭の中が真白になり、常識のない人だと彼を笑った。そうしたら、ぽろぽろと涙がこぼれた。
ぽろぽろと、涙は止まらずにあふれた。
父の葬儀から三ヶ月、私は進路の事でずいぶんと頭を悩ませた。ちょうど大学受験の時期にさしかかっていて、大黒柱が亡くなったことで、簡単に大学受験を選択するのが困難になっていた。母と何度も喧嘩を重ねながら話し合いを続け、ようやく自分でも納得のいく進路を見つけた。
私は地元の短大を受験し、保育士を目指すことに決めた。三つ志望校を受験し、一校に何とか合格した。それが十一月の終わりで、私はようやくひと段落つき、肩の荷をおろすことができた。
中学から親友の八千代に報告すると、ケーキを買って家までお祝いに来てくれた。
「よかったね、さすが綾」八千代は私をぎゅうと抱きしめた。
「ありがとー、ヤッチ。ヤッチは進路どうするの?」
八千代はふふふと笑って答えた。「親父のバーを継ぐのよん」
大学生になってからも、八千代のバーによく飲みに行った。大学の友達を連れて行くことも合ったが、基本私一人でバーに行った。その方が八千代と話すには気軽でよかった。
ある晩、いつものようにバーに行くと、八千代の姿が見あたらなかった。
「今日はヤッチ休み?」私はカウンターに腰掛、バーテンダーに声をかけた。
「あ、そうなんすよ。他のバーの店長と新しいカクテル研究するんだって、出稽古に行ってます」八千代の彼氏の壱岐君が、教えてくれた。
「多忙な彼女で大変ね」
「そーですね。ま、店で一緒に働けてるし、別にいいっすけど」壱岐君は少し照れくさそうにして、ガラスのマドラーでグラスの中の氷をからからと回した。
「どうぞ」ジンライムを手渡され、その冷たさに心地よさを感じる。おつまみのえびせんをぽりぽりつまみ、何をするでもなく、店内に流れる洋楽に耳傾けていた。
ふと気付くと、隣に誰かが腰を降ろして、低い声で注文を言った。「スコッチ」
私は隣のスーツ姿の男性を、目を瞬たせてじっと見つめた。どこかで? すると私の視線に気付いた彼が、こちらにくるりと顔を向けて、「あ」と小さく声を出した。
「三笠さんの……」あ。そこで私の記憶が彼と綺麗につながった。そう、葬式でご苦労様ですと非常識な挨拶をした彼だった。
「驚いたなぁ」彼が、二杯目のウィスキーを揺らせながら話す。「ここにはよく来るの?」
「ええまあ。ここの店長が友達で、頻繁に来てますね」髪をかきあげて私は緊張しながら作り笑いを浮かべた。
「へぇ、僕は最近来るようになってね。同僚がいい店があるって教えてくれたんだ。雰囲気のいい店だね」
「そうでしょう」私は嬉しくて、今度は素直に微笑んだ。すると、向こうがくすくすと笑い出して、私に次のお酒を勧めた。「可愛いね」
一時間ほど話していると、彼は私の体に軽く触れるようになった。カウンターで肩を触れるのはよくあることだ。私は気にしていなかった。向こうのメニューを取ろうとして、私の顔と私の顔が近づくと、彼は私の耳もとで言葉をささやいた。店内は薄暗くて、人の声は流れる音楽にかき消されてしまう。私たちの頭上には、オレンジ色のライトが等間隔でカウンターを照らす。ほの暗いバーのカウンター席の下で、彼の手が私の脚に触れるのが分かった。
私はピクリと体を揺らし、彼を見つめた。困惑している私に彼は深い笑みを浮かべた。
私は、周りに気を配りながら、彼から身を離した。握り拳を作り、膝の上に置いた。「何?」彼が尋ねたので、「何か?」とけんか腰に答えた。
私の緊張を悟った彼は、ちょっと頭を掻いた。少し困ったような顔を作った後、彼は私を正面から見つめ、真面目な勤め人の顔になった。スーツのポケットから名刺入れを取り出し、私に一枚手渡した。
「何も用なんて無いと思いますが、何かありましたら、ここに連絡ください」壱岐君がこちらをちらちらと見ているのが分かった。私は汗ばんだ手でそれを受け取った。
「お父さんの事は本当に大変でしたね」私は、名刺に視線を落としたまま、彼の言葉を聴いた。
「辛いこととかがあったら、僕でよければ話してください。三笠さんのことは尊敬していました」なんて人だ……私は頬が熱くなった。なおさら顔が上げられなくなって、じっと下を向いていると、彼は席から立って言った。
「じゃ、僕はもうこれで。女房が待ってるんで」
どすんと何かが私の両肩に落ちてきた。まるで重たい粘土のような気持ち悪い感触のなにかが。急に足元が怪しくなって、私はますます動けなくなった。
「また」とだけ私が返事を返すと、彼はそっと私の肩に触れた。そしてバーから出て行った。
彼がいなくなってから何分経っただろう。私は大きく息を吐いて、名刺をすぐにコートの胸ポケットにしまいこんだ。
落ちたのだと思う。あの瞬間、あの一瞬で、私は恋に落ちたんだ。
「あれはダメっすよ」
閉店後、帰って来た八千代に事情を説明しながら、壱岐君は眉をしかめてしたためた。私は二人に挟まれて、何も言えずにじっと椅子に座っていた。「男の俺から見て言うんすから。あれはやめといた方がいいすっよ」
「うん。あたしもそう思うな〜」煙草をふかしながら八千代が遠い目をして言った。
「綾さんは素直で可愛いから、ころっと落とされちゃうよ」
「大体好かないな、そいつ何? あんたの弱みに付け込んで」
「そんな風じゃなかったって」かっとなって、声を荒げて反論した。八千代はちょっと驚いて、首を傾いで壱岐君を見た。壱岐君は何も言えないといった表情で、口をむうっと紡いで、眉間に皺を寄せた。あきれているようにも見えた。壱岐君を見て、八千代は頭を掻き、半ば諦めたような溜息をついた。
二人が察したように、確かに私は甘い子だった。けど、したためられた時には、もう遅かった。
二日後の夕方、私は名刺に記載してあった彼の携帯番号に電話を掛けた。
「父の事で、相談したいことがありまして……」
たどたどしい口調で、汗ばんだ手を震わせながら話した。それは今でも鮮明に思い出せる。彼に会うために亡き父を口実に使うなんて、今にして自分が犯した罪に罪悪感を覚えずにはいられない。
巨大な錐が私の胸を突き刺すような、息も止まるほどの罪悪感を、私はこれからもずっとずっと持ち続け、懺悔を繰り返していくのだろう。
けれどその時は、おかしいほどに、父に申し訳ないという気持ちが全く生まれなかった。それより、私は自分の犯している行動に言い訳を考えることで頭がいっぱいだった。大丈夫、これは単なる好奇心なんだ。これはゲームで遊び。向こうも遊びでこちらの誘いに乗っているのだと何度もこころの中で繰り返し、彼の作る世界に足を踏み入れた(私の考えは大筋間違ってはいなかったと思う。彼は私との関係をゲームとして捉えていたし、私もそれを理解していた。ただし、最初のうちだけ)。
でもね、言い訳ではなく、私はそれほど軽薄な性関係を結ぶ女では無かった。寂しかったのだろうかと、今になってはそう思う。何かと私の周りで物事がゆれ動き、何とか転ばないように必死になってふんばった。その反動で、何かにしがみつきたいと、何かに身を預けたいと、こころの中で渇望していたんだなと今はそう思える。それには非現実的な相手の方が、よりいっそうもたれやすかったのかもしれない。
朝、目覚めたとき、ここがどこだが一瞬分からなくて困惑した。そして淳二とホテルに泊まった事を思い出した。自分が服も着ないでベッドにいたことと、隣で淳二が眠っていることに気付いたとき、私は一種の絶望感を覚えた。そして、なぜだか幸福を感じた。それらが、波打ち際の砂浜に立った素足をくすぐるように、私を奇妙にくすぐった。
そして私は震えながら泣き出した。
それから淳二と何度も逢い、その度に寝た。彼は私の部屋に来るようになり、私はご飯を作って待つようになった。
私達は沢山の話をした。淳二の仕事の話、私の大学生活の話、将来の夢、保育士になるという目標。私の話を聞きながら、決まって淳二は「いいね」と言って微笑んだ。淳二はさりげなく奥さんの話も私に聞かせた。
時には奥さんに対する愚痴や不満。私はそれを聞いて感情が乱れた。まだ、奥さんとの幸せな話を聞いているほうがましだった。私に奥さんへの不満を言ってほしくなかった。期待してしまうから。
私はそれをふり払うように、奥さんの話がでると、決まって過去の恋人について話した。淳二はいつも興味深げにそれを聞いていた。決して以前の彼氏に嫉妬している様子はなかった。それが面白くなかった。
すごいなぁ、何て対等じゃない会話だったのだろう。どうして淳二の話は現在進行形で、私は話は過去形だと理解できなかったのか。なぜ奥さんの話を現在の私達と大いに関係しているのだとリアルに捕えられなかったのだろうか。
淳二はよく、私の耳もとで「ずっと側にいる」とささやいた。
それを聞くたび、私は幸せを感じた。けれどそれは、昼間になると、恐ろしいくらい虚無に近いものになった。大学のキャンパスに目がくらむ日が多くなった。昼間から堂々と会える同年代の恋人たちが、うらやましくてたまらなかった。大学の構内で肩を並べて楽しそうに話している恋人たちを目で追ってしまう自分に恥すら感じるようになった。
「いつか、ずっと一緒にいれるようになったらいいのにね」付き合いだして一年目に、私は初めて彼に言った。もう遊びではいられなかった。本気で付き合いたいと思うようになった。
私の上で、淳二がぴくりと体をゆらせた。そして彼はすぐに微笑んだ。鼻を私の鼻に押し付けて、ささやいた。「そうだね。いつかね」
いつかは来ないと、どうしてあのとき理解できなかったのか。
あの頃、私は寂しかった。抱かれると、一層寂しさが私の体に募った。夜だけじゃなく、いつも私を見ていて欲しかった。守って欲しかった。だけど、淳二は最初から私を守ろうなんて思っていなかった。始めから終わりまで、彼が守っていたのは、彼の帰る家だった。
自分はちっとも幸福じゃない事は、鏡に映る自分を見れば一目瞭然だった。
自分でもとげとげしい女になっているのが分かった。
何かにおびえて、執拗に何かを欲しがって、今よりもいい場所に行きたいとあがいて、終にくたびれて干からびた、奇妙な生き物を見ている気がした。
それでも私は淳二から離れることができなかった。私をこんなに理解してくれるのは彼しかいないとあの時は思った。そして彼の事をこんなに理解できるのも私しかいないと思った。
誰にも言えない奥さんの愚痴や、彼の弱みや、優しさ。全部私だけが知っている。私だけの秘密だと思うと、独占欲が皮をかぶり、幸福というベールに名を変えて私を包み込んだ。
けれど廃墟の幸せはすぐに乾いた骨となり、現実から零れ落ちる。
墓場から誰かを呼ぶなんて、多分無理。
「私はあんたのしている事を、頭から非難する気はないよ」八千代はカウンターの向こうから、優しく私に語りかけた。
「でも、不幸なアヤをみているのは辛いわ」
私は泣きはらした目を伏せ、またな泣き出したくなった。八千代が心配するほど不幸な顔を店に行くたび見せていたのかと思うと、申し訳なくて、恥ずかしくて、情けなくなった。
「イナセさんは、アヤの事を分かってくれてたんじゃないよ」八千代は自分で作ったブラックルシアンを見つめて、一口飲んだ。
「分かってくれてた、私が今までどれだけ辛かったかとか、保育士になる夢だって……」
「それだったら、私や壱岐の方が、ずっとあいつより理解してる」私は目を赤くして八千代を見つめた。壱岐君は調理場で、注文のピザを作ってくれていた。
「あいつは、アヤの事を分かってなんかいない」
八千代が首を傾ぐと、細い首がこきっと鳴った。「女ってのを分かってただけなんだよ」
八千代のその一言は、最高の誘発剤だった。その日初めて、私はこの馬鹿な世界から、本気で目を覚まさなければと思い始めた。
それから三日後、私は初夏の夕方に静かに事を決行した。昼間からゆっくりとお風呂に入り、丹念に体を磨いた。いつもよりも時間をかけて化粧をし、髪をセットし、お気に入りのアクセサリーをつけた。丈の短いワンピースを着て高めのピンヒールのパンプスを履いた。よそ行きの小さなポシェットに必要なものだけ入れて、私は静かに部屋を出た。
ゆっくりと駅まで歩き、券売機で淳二の自宅の最寄り駅までの切符を買った。といっても、私は淳二の詳しい住所を知らなかった。淳二の住所を私は一度も聞かなかった。淳二は、私が自分の家に来るなんて考えてみなかっただろうし、私に聞かれたところで、来る必要など無いと、頭からはねつけただろう。
電車に乗り込み、私はぼんやりと、沈みかかる夕日を眺めていた。
いつだったろうか、私は淳二に一度だけ、奥さんに会いたいと懇願した事があった。もちろんそれは拒否された。その日からだった。私が以前よりも嫉妬深くなり、周りをねたみ始めたのは。いつもの事で、彼が遅くならないうちに家に帰ろうとした時、私は彼を掴まえて頼んだ。「奥さんと会って話がしたい」と。
「もう、このままじゃ、耐えられない」
淳二に向かっての初めての、そして切実な我侭だった。会って、何を話すのか。もちろん、淳二と別れて欲しいと話すつもりだった。
「何いってるんだ?」
「だから、どちらかをちゃんと選んで欲しいの……」
その時、私は鋭い痛みを感じた。淳二は絶句したまま、微動だにせず、私をずっと見つめていた。初めての反応で、私は彼が相当動揺していることが手に取るように分かった。私の胸の内は、罪悪感でいっぱいだった。淳二を困らせた事で、私は今言った事を後悔した。でも、本当にこのままじゃ耐え切れなかったの。
それから数分。穏やかでない沈黙は、私には重すぎた。
「……帰って」
私は毛布に顔を押し付け背中を丸めて、ノドから絞り上げた声で消え入るように、小さく淳二に言った。
「もう今日は帰って」
帰らないで。
淳二は素直に服を着て、靴下を履いて、すぐに鞄に手をやった。
行かないで。傍に居て……
「また」
玄関に向かい、扉を閉めるまでに、彼には何のためらいも無かった。
きゅうぅーと声を詰まらせて、泣いた。号泣する資格も無い気がした。ただ、絞るように声を殺して、ベッドの上で、独り泣いた。
そして色々あって、ようやく私は淳二の家に近づこうと決意したのだった。駅を出て、私は初めて降り立つ土地の匂いをかいだ。静かだった。かなかなかなと蟲の鳴く音がどこかから聞こえた。私は何も怖くなかった。淳二の日常に足を踏み入れることについて怖さなんてとうに無かった。
かつんかつんとヒールの先で地面をけりながら、私はあてもなくこの町をぶらぶらと歩いた。この辺りは、新築の一戸建てが沢山立ち並び、まばらにマンションも聳え建っていた。ニュータウンなんだなと、素朴に思った。
もう、時刻は七時を過ぎていて、辺りはそろそろ夜に近い闇に覆われ始めていた。道路が、街灯のほのかな明かりに照らされ始めた。私はまだ放浪していた。
実のところ、私は別に淳二の家を探すためにここに来たんじゃなかった。ただ、彼の暮らすこの町を、こうして歩いてみたかったのだ。
近隣の住人だろうか、時折すれ違う出会う人たちが、私をもの珍しそうに眺めて去っていった。
確かに私は何をしているのだろうと、不意に気付いた。
派手なワンピースを着て、ピンヒールのパンプスを履いて。
髪を入念にセットして。どこに着くとも分からない道の先を目指して、勝手のつかない町をぐるぐると、何を思って私は歩いているのだろう?
分からないけど、まだ私は歩きたくてしょうがなかった。まだまだ歩きたらなかった。何かを実感するまで、私はまだまだ歩きたらなかったのだ。
何時間歩いたのか分からなくなってきた。何度も同じ場所に戻りながら、少しずつ、私は新しい場所へと歩みを進めた。
歩きながら、私は、淳二と私の関係について考えた。考えるというより、楽しかった思い出の反芻でしかなかった。けれど、それでも思い返せるようになっただけで、私は確かに気持ちが冷めてきている事を理解した。
ある時点で、私の脚が急に疲憊し、その場でしゃがみこみたくなった。
急に寂しさが私を襲った。夜はもう深くなっていて、家々の明かりがカーテンの隙間から外にこぼれていた。夜の闇とのコントラストがあまりにも明確で、私は確実に外に属しているんだと思った。
どこでもいい、どこか明るい場所が欲しい。
突発的に孤独に駆られて、私は周りを見渡した。その時、私は不意に、私を囲むあらゆる家の、標識に目がいった。
「……」私は黙っておもむろに、辺りの家一軒一軒に近づき、その標識を見つめた。大村。大江。鎌倉。YASUDA……
いろんな標識があった。漢字で書かれていたり、ローマ字で書かれていたり。標識を見ていたら、ある家からは、キャッキャッとはしゃぐ子供の声が聞こえた。別のところからは夕飯の暖かな匂いがして、私の鼻をくすぐった。
犬小屋のある家があった。小さな自転車が何台も置いてある家もあった。様々な家があった。そしてそれらには生活感がしっかりと見て取れた。じっとそれらを見ているうちに、やっと私はそれに気付いた。
「そうかぁ……」
味わった事のない脱力感に襲われた。でも、それはどこか爽やかでもあった。どうして今まできちんと認めなかったのかな。私は思った。
淳二は「伊那瀬 淳二」で、彼の奥さんだって「伊那瀬」だったんだ。
「道に迷っていたんだ〜」列車にゆられながら、口ずさむように私は小声でつぶやいた。
あの日、私が感じた「家庭」というカテゴリーが、ようやく私を、私と淳二という二人だけの世界からひっぱりだしてくれたのだ。
八千代と話がしたかった。目的地に到着したら、すぐに電話をしようと思った。今日は秋晴れが綺麗な穏やかな午後。天気が人を変えるとは思えないけれど、影響は与えてくれると思う。
こんな穏やかな日がもうしばらくでも続くなら、いつかはきっと、雨の日でも私のこころは、秋晴れの日のように穏やかでいられるだろうと思う。
「―あ」
内ポケットの中で、携帯が小刻みに揺れているのを感じて開けてみると、登録していない電話番号から着信がかかっている。
これが誰だか、私はちゃんと覚えていた。泣きながら消した淳二の携帯番号。私はおもむろに車内を一望した。辺りには誰もいない。
私はそっとボタンを押し、小さな声で電話に出た。「もしもし」
携帯の向こうから漂う空気。体のぬくいところの芯が響く。響きをもった淳二の声が聞こえた。「もしもし、アヤ?」
なんだろう、やけに淳二の声がかすんで聞こえる。雨に煙る街並みのような彼の声。酷い事を言ってしまえば、昼間の彼は、何だこんなものだったのかと冷淡に思わせるほど。いいえ、きっと夜のこの人も、きっとこの程度だったのだ。気付いていなかっただけなんだ。
かすんだ声は、調子を変えず私に話しかけてくる。相槌を打ちながら、私はどこか寂しくなった。それは、もう淳二と会えなくなったから寂しいとかではなかった。私はもう、淳二がいなくても大丈夫なのだと、こころから思うことができていて、じゃあ、どうして今こうやって淳二と話しているかと思うと……淳二との思い出を喰いながら、今の淳二に冷めながら話しているのだと、自分でも理解しているから、私はそれがとても寂しかったのだ。
これ以上話していると、私がますます落ちこぼれていく気がして、私は彼の言葉をさえぎった。
「あのね―」
私は足元のスーツケースをコツコツと無邪気に蹴った。
何かの終わりは、何かの始まりでもある。
では「始まり」とはどこだったのだろうか。
分からなければ「終わり」も分からず、全体として物事は朦朧となってしまう。
区切りの無い関係は、それそのものが曖昧になり、どこまでも膨張し、気付かない間に消滅していくのだろうか。
私たちの関係も、そのように曖昧なままこうして終わりらしきものに向かっているようだ。
でも、思うに、そのように曖昧でいいんだ。あえて区切りをつけなくたっていいんだ。
むしろ、先に進むために、強引に区切りをつけるのは、私にとって淳二を利用していると同じで、とてつもなく後味の悪いものだと思う。曖昧で始まったのなら、曖昧なまま。曖昧な過去にしっかり区切りをつけようなんて思わなくていい。そんな事をしなくても、確実に過去というものは記憶の中だけのもので、放っておけば、勝手に消えていくものなんだ。
過去はもう、考える必要のないものだと思える。
そして、この先の私についても、何も考えることは無いのだと思う。時々不安になるけれど、それも一時の事だと思えば大丈夫だ。とにかく今、私はここで列車にゆられている。
私はただ、簡潔に述べるだけでいい。
「引越したの」
その先は、分からなくていい。