夢のまた夢
これもとある文芸賞に出した作品です。結果的には一番よくて二次選考どまり(汗)なんか、この作品を境に文章力が落ち始めた気がします…(汗)
「お前絶対A型だよな、なあっ!」
居間で夫が、生後二ヶ月になる娘をあやしている。珠美はそれを、台所で夕飯の支度をしながら視界に入れていた。妻の珠美にすら見せた事のないバカ丸出しの笑顔だ。あんな、表情ひとつ変えない虫みたいな生き物に、どうしてああも夢中になって話しかけられるのだろう。ましてや血液型がどうのなんて、三年後のこいつですら判るかどうか疑問なのに。
「なあ、こいつの血液型っていつ判るんだぁ?」
「知らないわよ、そんなの」
居間から飛んでくる声に僅かな殺意が芽生え、珠美は叫び返した。
「検診で聞いて来いって言ったじゃんか」
「赤ん坊の顔見ただけで判るとでも思ってんの? よほどの必要性がない限り、こんな小さな赤ちゃんから採血はしないんだって、何度も何度も説明されたじゃない」
「まあ、そうなんだけどさぁ」
「大体、可哀想だと思わないの? 見なさいよ、そのちょっと力を入れただけでポッキリ折れちゃいそうな、ガラス細工みたい細っこい腕。そこに注射針突き刺すだなんてこと、可哀想過ぎて私には想像もできないわ」
「そうは言ったってさぁ、パパ、知りたいんだもん。なあっ!」
夫は言いながら、娘の頭を飲み込んでしまいそうな勢いで頬ずりした。
包丁の柄を握る彼女の手に、自ずと力が込められた。ああ、許されるなら俎板の上のネギではなくて、あの血液型バカの身体を切り刻んでやりたい。二言目には血液型、三言目にも血液型、何でまあ、毎日飽きもせず他人の血液型ばかり気にしていられるのだろう。
この夫が血液型に目覚めたのは、忘れもしない、産院での事だ。十月十日腹の中に潜んでいた我が子を初めて腕に抱いた、夫婦の忘れられない記念日だ。生まれたばかりの赤ん坊を間に挟み、ありがとう、あなたのおかげでこの子に会えたのよ、いいや君が頑張ったからだよ、なんて三流ホームドラマに出てくるような台詞を、本物の感動と共に噛み締めあっていた。その時たまたま、病室の脇を助産師らしき女性が通りかかった。夫はそれを見るや慌てて駆け出し、その女性を捕まえた。そして鼻息も荒く、こうのたまったのだ。
「あの済みません、この子の血液型って何型ですか?」
助産師と思しき人物は目を点にし、珠美は顔から火を噴いた。
あのねお父さん、赤ちゃんでも検査しないと判らないんですよ。え? 胎盤とかから判らないんですか? 判ればいいんですけどねぇ。検査って何するんですか? 大人と一緒で採血が必要なんです。それって今出来ないんですか? 生まれたばかりだから、お注射するのはちょっと可哀想よねぇ――その応酬は、珠美母子が退院するまで続けられた。そして二ヶ月たった今でも、その問答は、相手を助産師から妻に代えて続行中なのだ。
全く能天気で羨ましい。珠美はカーペットにねっころがったまんまの赤ん坊に、A型になれー、A型になれー、と魔法使いよろしく呪文をかけている夫にうんざりした。こっちなんて、二十四時間体勢の母親業に、自分の血液型すら忘れそうなのに。O型よりもA型のほうがウンチの量が少ないとか、夜泣きの回数が少ないとか言うのならまだしも、A型だろうがRHマイナスだろうが、赤ん坊はオムツにクソを垂れるし腹が減ればテメエ勝手に泣き叫ぶ生き物じゃないか。
子供に必要なのは愛情だが、子育てに必要なのは愛情以外の別のものだ。現実に子供が腹から出てきた今、珠美はそれを一日二十四時間かけて実体験として学んでいるところだ。それはポジティブ思考を盛り込むのに精一杯の育児雑誌も、美しい思い出ばかりが脳裏に残る経験者も、誰も教えてくれなかった育児業の真実だ。育児に必要なもの。それは体力であり、金であり、忍耐の二文字であり、子供の血液型ではなく、オムツの中身を気にして進んで取り替えてくれる気の利く夫だ。
珠美ははぁっと溜息をついた。
男なんて本当に理解できない生き物だ。自分の腹から出てきたわけでもないものに、ああも感情移入が出来るだなんて。しかもそのくせ想像力は貧弱で、泣き叫ばれれば泣いている理由が判らないとかで、問答無用で母親に押し返してくるのだ。全く、そんなんだから、私がこの子の血液型のことを言われて腹を立てている本当の理由を想像する事もできないのよ。
そんなことを悶々と考えている時の事だ。
「ママがO型でぇ、パパがA型だろぉ、ママは確実にOO型だけど、パパ、実はどっちか判らないんだよねぇ。AAだったら間違いなくお前もA型だけどぉ、AOだったら確立四分の一になっちゃうんだよねぇ。パパ、そんなの淋しいなぁ。お前、A型じゃなかったらパパ許さないからなぁ」
夫のいつもの文句に、珠美の苛立ちが頂点に達した。
また始まった! 何がA型以外許さないよっ。
「あのさぁ、いい加減にしてよ。一体何なのよ、A型A型って。そんなに血液型気になるの? そんなに私の貞操疑ってるの?!」
珠美は今までの鬱憤を晴らすように、夫に怒鳴りつけた。
A型以外許さない、A型以外認めない、これがこの父親が、血液型のことを気にし始めてからの決まり文句だ。勿論彼には悪気もなければ他意もなく、ただ自分と娘の共通点欲しさにそんなことを言ってるのだと判ってはいるのだ。だがそれでも妻の立場からすれば、こうも毎日聞かれさて、愉快な台詞では決してない。その理由なんて、表情も変えない赤ん坊と会話する能力があるなら、すぐにでも判りそうな事ではないか。もし、こちらの顔色を、ほんの少しでも気にかけてくれるのなら!
夫は豆鉄砲を食らった鳩の様な目で珠美を見た。
「そんなこと、一言も言ってないだろ?」
「ほぼ言ってるようなものよ。大体A型以外許さないなんて、この子がB型かAB型の可能性を疑ってるから出てくる台詞としか思えないでしょ」
「お前、話聞いてなかったのか? お前がO型だからって、俺言ったじゃん」
「そんなの、自分の疑念をオブラートで包むための言い訳みたいなもんでしょ? もう、この際はっきり言っていいのよ。実は何となく疑っちゃってるんだとか」
妻の暴言に、夫の片眉がすっと上がった。
「お前、いい加減にしろよ」
「いい加減にして欲しいのはこっちよ。毎日毎日そんなことばっかり言われて不愉快よ。屈辱的よ!」
「屈辱的ってどういう意味だよ?」
夫が苛立っているのを彼女は感じていた。だが彼女のほうも、一度ついてしまった怒りの火を簡単に消すことが出来ず、思うが侭に言葉を垂れ流した。
「そりゃあ私だって女だもん。女の常として、夫以外の男との情事を妄想したことぐらいはあるわよ。でも、そんな妄想を現実にする度胸なんてないし、そんな女の妄想に付き合ってくれる生身の男も私の周りには存在しなかった。それより何より、致した事で生まれてくる子供の父親が誰なのか判らないなんて事態、自ら進んで作っちゃいけないって戒めが、私にはあったもの。それなのに、当の亭主から毎日のように不貞を疑うような台詞を浴びせ続けられるなんて、これ以上の屈辱ないわよ。どっかの誰かさんじゃあるまいし――あちちっ!」
夫の顔が見る見るうちに赤くなった。だが一戦交えそうな気配になった丁度その時、絶妙のタイミングで味噌汁の鍋がグラグラ音をさせて吹き零れた。蒸気が腕にかかって、珠美は思わず叫んだ。それを聞いて、赤ん坊を抱きかかえたままの夫が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫か?」
「うん」
珠美はばつが悪そうに呟いた。夫ははあっと溜息をついた。
「こういう話は、もう辞めようよ。頼むよ。この子だって可哀想じゃないか」
「この子は関係ないでしょ。だって夫婦の問題だもの」
「だったら尚更、さ」
「あなたが血液型の話なんかしなければいい話よ。本当に、悲しいんだから」
「そうだな、ごめん、悪かったよ、たまみ」
シンプルな言葉だった。繊細な細工の木彫りの小物を真綿で包むような、優しい響きを持った声だった。それは娘を産んでからこちら、時たま珠美にも聞かせてくれるようになった声色だ。彼女の心は、それに釣られるように軽くなった。
「判ってくれれば、それでいいわ」
「俺、もうこいつが可愛くてさ、それだけなんだ。他に深い意味はないんだ」
そう言いながら、彼は娘の小さな頬に、自分の頬を押し付けた。
刹那、彼女はそこに、一枚の絵画を見た。
それは〝父親〟という題名の、限りなく優しい肖像画だった。彼女はその絵を、美術館の穏やかな照明に照らされながら見ているような、そんな錯覚に陥っていた。愛し合って夫と呼ぶことに決めた男が、自分が身体を切り刻んでこの世に送り出した赤ん坊を、愛しいと言いながら抱いてくれている。それは珠美にとって、奇妙な光景だった。
男親は女と違って、目の前の子供を自分の子だとする確証がない。女親の場合、身を裂くような痛みと込められた力、それに夥しい出血などの根拠が、自分の腹を切り裂いて出て来る赤ん坊が自分と血を分けていることを、事実として示してくれる。だが痛みも知らず、血の一滴も流さない男親は、妻の産んだ子を自分の子として受け止めるには、ただひたすら「信頼」に頼るしかない。
珠美の胸の中に、治りかけた擦り傷をそっとなぞるかのような、痛々しい幸福感が滲んできた。真に偉大なのは、痛みに耐えて赤ん坊を産み出す母親ではない。痛みも知らずに差し出された赤ん坊を、信頼ひとつで我が子として愛せる父親のほうなのかもしれない。彼女は唐突に、そんなことを思っていた。世の中で母性ばかりが神聖視されるのは、誰でも経験するわけでもない陣痛というものへの恐怖心のあらわれだ。そのために父性が軽視されるなんて、そんなの不公平だ。
彼女は、赤ん坊に頬ずりする夫の姿に、そんな思いを巡らせた。痛みも知らず、自分と同じ次元で娘を愛せる夫を、束の間心から尊敬した。のだが、
「まあ、それはそうとして――」
珠美の怒りが収まったと見るや、夫は再び、馬鹿丸出しの顔で赤ん坊に話しかけた。
「一才のお誕生日の前に、血の検査してもらおうなぁ。ちょぉっといたーいけど、がんばるんだぞぉ。パパ、付いていってあげるからなあっ!」
全く、父親ってのは……
さっきまでの絵画の気分はどこへやら、珠美は結局いつもの口癖を披露する夫に反射的にイラッとした。だが今度はすぐに冷静になることが出来た。ああやって血液型ばかり気になるのは、共に血塗れになった経験を持たない父親の、せめてもの物証を求めての悪あがきなのかもしれない。そう思えばあの血液型バカ癖もまた、愛しく感じられるというものだ。
もし、次のウンチの時おむつ交換を引き受けてくれたら、珠美は密かに思った、もうしばらくの間だけ、血液型バカでいるのを許してあげようか。
ピリリリリーッ
台所のテーブルの上で、携帯電話がけたたましく音を立てた。珠美は突然夢から呼び覚まされたようにびくりとした。
この夕方のクソ忙しい時間に、一体誰だ? 彼女は罵声のひとつでもあげてやろうと携帯を手にした。だが、そこに表示されている名前を見た瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
「もしもし、久しぶり!」
珠美は通話ボタンを押すとかぶりつくように喋り出した。とたんに野太いバリトンが、珠美の耳をつんざいた。
『うるせーな、ったく、相変わらずデケー声しやがって』
通話口の向こうで、熊みたいに大柄な男が、耳に小指で栓をしているのが見えるような気がした。珠美はあっはっはーと笑った。
「横手こそ、元気そうじゃん」
『お前ほどじゃねえけどな、たまっち』
電話の相手は、学生時代の親友の横手だった。二人は大学の合唱部に同じ学年として籍を置き、若い四年間を歌に捧げた同志だ――と言えれば響きがいいのだが、実際のところは、真面目に練習する部員たちの鼻つまみ要員、というのが、当時の二人の位置づけだった。練習は遅刻する、ヴォイトレはサボる、部長を下ネタで泣かす、新入部員も泣かす、合宿先では二人揃って練習をフケて行方不明になり、数百メートル先のファミレスで発見される。思いつく限りの悪事を働きまくるにも拘らず、飲み会などのイベントだけは皆勤賞。それこそ〝悪童〟というタイトルのイラストから飛び出してきたような不良部員同志だった。
『電話、今まずかった?』
「まずいに決まってんじゃん。今何時だと思ってんだよ。晩飯時はな、主婦の合戦なんだよ。関が原なんだよ」
『関が原? 何の天下を分ける気だよ、オメエ』
「家庭の平和に決まってんだろ。いつもの時間にいつもの夕食が、いつものように温かく並べられている。その当然のことが出来るかどうかで、その日一日が家族にとって幸せな日であったかどうか、計られるんだよ」
『要するに、家族団らん的なアレが、一日の〆に必要ってことか?』
「そういうこと」
『だっせえなぁ。何真面目に主婦やってんだよ、たまっちらしくねえ』
「やかましいわ小早川秀秋っ。裏切り者に現場の苦しみがわかってたまるかっ。団らんは居酒屋で生まれるんじゃねえっ、食卓で生まれるんだァっ!」
「電話、誰からだぁ?」
通話口の向こうに釣られてゲラゲラ笑っていると、居間から夫が声をかけてきた。珠美が横手からだと告げると、彼は妻のテンションの高さに納得して、再び赤ん坊のあやしに戻った。
横手との関係を説明するのに、今のヤツの反応ほど判りやすいものはないだろうな。珠美は夫の背中を眺めながら、そんなことをふと思った。メゾアルトの珠美とバリトンの横手はあまりにもよくつるむので、付き合ってるのではないかという噂がよく流れたものだった。学生の頃も、卒業してからも。だが、二人の間にそんな感情が流れたことはただの一度も無かった。二人は、清くも正しくも無いが尊い友情で結ばれていた。二人の馬鹿馬鹿しい関係を、一般的な男女の感情に引きずりおろし、恋愛特有の利害関係で汚すなんて、考えただけでぞっとした。というより、二人とも互いに、こいつが自分の恋人として横に並ぶなんて、これよりおぞましく気色の悪いものなどないと思いながら、出会ってからの十数年を生きてきた。そして珠美の夫は、そんな横手と自分の立ち位置の差を本能のようなもので理解してくれる、唯一の人物だった。夫である自分は、珠美とは心と体を重ねて子供という形あるかけがえの無いものを生み出す関係にある。それと同じように、横手と珠美は、見えない何かを重ねてよりあわせ、形の無い大切なものを育んできた。彼はそれを、よく知ってくれていた。
卒業してすぐ今の夫と知り合った頃、何度か三人で飲みに行った事もあった。アンタも早く彼女作れよ。そうしたらダブルデートしてやるよ。ヴァーカ、そんなもんするかよみっともねえ。そう罵り合う二人を、夫はゲラゲラ笑って見ていたものだ。懐かしい思い出だ。横手はその数年後、スピード結婚とスピード離婚を経験し、ダブルデートの約束を反故にした。そんな今だからこそ尚、思い出すのは楽しい出来事ばかりだった。
そう言えば、横手と話すのっていつぶりだろう。確か最後に姿を見たのは奴らの披露宴、声を聞いたのは離婚したことを電話で報告受けて以来だったっけ。それならゆうに三年は、こいつの声をまるで聞いてない事になるのかなぁ。
『てかさ、お前ひどくね? 小早川ったって、別に俺、前のカミさん裏切ったりとかしてねえし』
「あんたが小早川ったのは私に対してだよ。私一人だけ真面目に主婦やってんじゃ馬鹿みたいじゃん。あんた、早く再婚しろ。そして私と同じように、家庭人の苦しみを味わえ」
『なら女紹介しろよ』
「甘ったれてんじゃないよ。いい女ってのはね、自分の手足使って地道に探すもんなんだよ。ところで、何か用?」
珠美はまだ用件を聞いていなかったことを唐突に思い出し、そう付け加えた。
そのとたん、通話口の向こうから流れ込む空気が、突然変わったような気がした。電話の向こう側で、相手の神経がピンと張り詰める音が聞こえる気がした。珠美は何故か、嫌な予感に晒された。
『たまっち、子供産んだんだってな』
「おお、産んだ産んだ」
『何で教えてくれなかったんだよ』
「教えたじゃん。〝家族が増えました〟葉書、そっちにまだ行ってない?」
『そういうことじゃねえよ。妊娠したこと、どうして教えてくれなかったんだよ』
言われて初めて、珠美は横手に自分の妊娠を知らせなかったことに気がついた。だがそれでも、彼の僅かに怒気を孕んだ声を理解することが出来なかった。兎にも角にも、無事出産したことはきちんと教えてやったじゃないか。
「ごめん」
珠美は釈然としないまま謝った。
「妊娠したぐらいのこと、わざわざ話すことでもないと思ったからさ」
『妊娠したぐらいのこと? お前一体どういうつもりだ?』
突然、横手の声色が変わった。今まで彼から決して聞くことの無かった口調で、彼は彼女を責めていた。彼の声色は、男が女に対して行使する所有権のそれに近い色を持っていた。彼女は慌てて言った。
「したぐらい、って言ったのは、ちょっと言葉が悪かったよ。でも実際、妊娠した身からすりゃ、そんなもんなんだよ。良くも悪くもヤッた結果だし。それにさ、こんな言い方したらアレだけど、妊娠したからって、無事に出てくるとは限らないじゃん」
それは孕んだ事のある女にしか判らないジレンマだと珠美は思う。たまにドラマなんかで、医者に「三ヶ月です」とか言われて浮かれ狂う女の描写を見かけるが、あんなものは作り物の中だけの偽りの母親像だ。どれほど妊娠を望み、基礎体温と旦那の体調に気をかけてコトに望んでいたとしても、安定期前に夫と両親以外に、そんなことベラベラ喋ったり出来る女などいるわけがない。彼女たちが真に妊娠を喜べるのは、腹の膨らみを目の当たりにし、自分の中の命がどこかに行ってしまう可能性が低くなったことを目視できるようになってからだ。
彼女は横手の言葉がショックだった。そして僅かでもいいからそのジレンマを理解して欲しくて、こう付け加えた。
「私も知らなかったんだけどさぁ、安定期前の流産って、けっこうあるんだってさ。それなのにさ、出てくる前にあんたなんかに喋ってさぁ、いざ流れちゃった時に気ィ遣わせんのヤじゃん。だから出てくる前はと思って話さなかったんだよ」
『そういうことか? そういうことなのか?!』
ところが横手は、珠美の必死の言い訳に、更に油を注がれたように怒り出した。流石に珠美も混乱した。
「そういうことかって、あんたこそ一体どういうことなの? 一体何が言いたいの?」
ほとんど助けを求めるような思いで珠美は言った。
その次の瞬間、
耳元の携帯からは、何も流れてこなかった。
完全な沈黙だった。機械の中に石膏を流されたかのように、それぞれの携帯が音を失っていた。珠美は混乱したままそれに耐え、横手の言葉を待った。
『そうか、判った』
長い沈黙の後、彼は小さく言った。
『お前は、忘れたいんだな』
「忘れるって、何?」
予想外の言葉に、珠美は聞き返した。
『いやいい、すっかり忘れろよ』
「だから忘れるって何をさ? 全然意味判んないよ、横手」
『じゃあな』
横手の言葉を最後に、電話はぷつりと切れてしまった。
突き放すような発信音が、珠美の耳元で鳴っていた。彼女はただ、呆然とすることしか出来なかった。
な、何? 一体何なんだ? 横手のヤツ、一体何が言いたかったんだ?
忘れる? 一体何を忘れるって言うんだろう? そもそも私とあいつの間に、忘れるようなことなんて……あれ? もしかして金借りっぱなしだったか? そう言えば合コンか何かでお金足りなくて、ドサクサ紛れに横手に会費出させたことがあったような……いやでも、あれも何年も前の話しだし、今更あんなに怒りながら話すことでも……
「横手君、何だって?」
夫の声に、ふと我に返った。珠美は慌てて携帯を置いた。
「いや、何か訳わからなくて。横手のやつ、勝手に怒って勝手に電話切っちゃったのよ」
「友達は大事にしろよ。どうぜ借りた金返しそびれてるとか、そんなんじゃないのか?」
「そんなんじゃないわよ。そんなんじゃ、ないはずなんだけど……」
歯切れの悪い妻の言葉に、娘を抱っこしたままの夫が僅かに顔をしかめた。
「お前、友達だったら尚更そういうところはしっかりしておけよ。こっちが忘れてるつもりだって、貸した方ってのはいつまでもしつこく覚えてるもんだぞ。そんなことだからお前、夜うなされたりするんだよ」
「うなされてた?」
思わぬ言葉に、珠美は目を見開いた。夫は更にあきれ返った。
「〝横手、ごめん、忘れない〟みたいなこと、ガーガーいびき掻いてもがきながら唸ってた事あったぞ。俺、めちゃくちゃびっくりしたんだからな。飲み会で会費立て替えてもらった夢でもみてたんじゃないのか、そん時?」
ごめん、忘れない……
そのフレーズに、珠美は何かを呼び覚まされそうになった。
頭蓋の片隅に、鍋底にこびりついた汚れのように、言葉の記憶が取り残されているような気がした。擦っても磨いても落ちてくれない、灰汁のような記憶。擦るたびに小さくはなるが、いつまで経っても完全には落ちてくれない、嫌な染み付き。そして今では落とすことさえ諦めて、存在すらほとんど忘れ去っていた、小さな言葉。
あれは、何だったっけ? どこか遠く、夢のそのまた夢の中で、言ったのではなかったろうか。
横手に向かって……?
「あのさぁ、その寝言言ってたのって、いつ頃の話?」
珠美の質問に、夫は数秒考えてから答えた。
「お前の妊娠が判る、ちょっと前の話だったかなぁ?」
「私、本当に横手って言ってた?」
「ああ、それは間違いないよ」
珠美は再び携帯を手に取ると、着信履歴から発信した。横手は四回目の呼び鈴で、やっとボタンを押してくれた。
『何だよ?』
横手は最初にかけてきた時とは別人のように機嫌が悪かった。珠美はごめんと早口で言うと、切り出した。
「私ら、最後に会ったのっていつだっけ?」
彼は通話口の向こうで絶句した。怒りと驚きが綯い交ぜになった空気が、珠美の耳まで刺激した。
「実はさ、妊娠するちょっと前に、あんたの夢を見たんだ。それを思い出したんだ」
『どんな夢だよ?』
そう聞かれ、今度は珠美が言葉を失った。さっきの夫の言葉は、自分がどんな夢を見たのか、その忘れかけていた記憶がおぼろげながら蘇っていた。
あの晩珠美は夢の中で、横手と寝たのだった。
恐ろしいほど、リアルな夢だった。偶然の再会、ロマンティックなバーで語り合う二人、指先から感じる、横手の体温と彼の優しさ、ホテルの白いベッド、そして別れ際、涙を流しながら彼に囁いた言葉。
横手、ごめん、忘れない……
確かそこで目が覚めたのだった。目を開けた時、眼前にいつもの天井が広がり、横では夫がいびきを掻いていた。身体が火照っていた。罪悪感で胸が潰れそうだった。その分、夢でよかったという安堵も言葉では言い表せないほど深くて広かった。
今横手に聞かれ、羞恥心と照れくさいのとで、彼女の頭は爆発しそうになっていた。あんたとガチでセックスした夢だなんて言える訳もなく、ましてやそれが不倫のシチュエーションだったなんてここで喋るわけにもいかない。何で電話かけなおしたりしたんだろう? 彼女は今更後悔した。こんな夢の中のこと、横手に話してどうするつもりだったんだろう? こんな現実には有り得ない夢を見たこと話して、機嫌取ろうとでも思ったのか? 馬鹿馬鹿しい、そんなこと話したって、鼻で笑われるか更なる怒りを買うか、どちらかなのは火を見るより明らかじゃないか。
だが沈黙を突いて、横手は徐に言った。
『ごめん、忘れない』
珠美の心臓が、凍りついた。
『お前は確かに、そう言ったんだけどな。悪ィ、俺も大人気なかったな。寝物語信用するほど、初心じゃないつもりだったんだけど。離婚したばっかの頃ならまだしも、結構たってたのにな。じゃあな、変な夢見せて悪かった』
そうして再び、電話は切れた。
「横手君、やっぱり金だって?」
「うん、でも、もういいって」
夫の呑気な言葉に、珠美は上の空で答えた。
今度こそ、何が何だか判らなかった。あれは夢だったはずだ。でもそれならば何故、横手があの言葉を知ってるんだ? 寝物語って、一体どういうことなんだ?
「いいってことないだろ。金のことなんだ。大した額じゃなくても、きっちりしておけよ」
「あのさ、その寝言の晩、私帰り遅かった?」
その唐突な質問には、流石の夫も怪訝そうな顔をした。珠美は慌てて言い添えた。
「いや、横手があんなに怒るなんて、相当の大金だったかもしれないなぁ、って思って。でも私、そんなに借りた覚えないから、忘れてるんならまずいじゃない。だから、思い出す手がかりが何かあればなぁ、って」
夫はいまいち納得の行かない顔をしていた。だがそれでも眉をしかめながら、妻の為に記憶を搾り出してくれた。
「確かあの晩は……出張か何かで、俺帰らない予定だったんだよ。けど突然出張そのものが流れて、家に帰ってもお前いなくて……そうだ、折角一人っきりだから、久しぶりに羽のばして友達と飲みに行くぜー、とかって、お前やたら張り切ってたんだよ。だからまあ、俺は一人でしょうがなくピザとって、適当に食って寝て、気がついたらお前が酒臭い息吐きながら隣で〝横手ごめん〟とか言いながら泣いてて……それが何時ごろだったのかまでは思えてないけどな」
夫の出張、
友達との飲み会、
そして横手との再会。
珠美の中で、一本の夢の記録が、記憶の線へと蘇ろうとしていた。
秋風の沁みる、東京駅丸の内口のことだった。
定時を少し遅れて退社した珠美は、友達と待ち合わせをしている銀座に向かうため、必死に歩を進めていた。
「たまっち?」
呼び止められたのは突然の事だった。驚いたが、彼女にはそれが誰なのか、振り返らなくても判っていた。懐かしい声だった。そして後ろを向くと、忘れようにも忘れられない影が、そこに立っていた。
「横手? 横手じゃん!」
珠美は駆け寄った。二年ぶりの再会だった。歳月と、その間に彼が負ったであろう苦労が錆のようにこびりついて、彼は僅かに老けて見えた。だがそれは紛れもなく彼女の知っている横手だった。嬉しかった。衝動的に、その逞しい腹にストレートを一発かましたくなった。そのぐらい感激していた。
「どのぐらいぶり? いつこっちに戻ってきたの?」
「まだ戻ってねえよ。今日は出張だよ」
「てかさ、連絡ぐらいしなさいよ。名古屋土産ないの? あ、私ういろうは嫌いだから」
「実は今、名古屋じゃねえんだ。あれから半年で大阪飛ばされてさ、それから一年で次は広島。で、今はまた大阪さ」
横手の勤め先は大手アパレル企業で、あちこちに大きな支店を持っていた。彼は最初、東京本店の勤務だった。だが離婚して足枷がなくなったとたん、あちこちの支店に飛ばされまくるようになったらしい。文字通り体のいい〝アシ〟として使われている、というところだろうか。珠美は離婚の報告を受けた時、名古屋支店に配置転換になったと聞かされて以来、声も聞いていなかったのだ。
「何それ、ひっでー会社」
「しゃあねーよ、サラリーマンだもん」
「わ、何立派な事言ってんの? 横手じゃないみたい」
久しぶりに軽口に、二人の顔は自然と綻んでいった。
ああ、懐かしい、この感覚。学生の頃一緒に馬鹿やってたあの時間が、突然戻ってきたようだ。珠美は、失って初めて知った横手との貴重な時間を一人、噛み締めていた。
「なあ、お前これから暇? 折角だからさ、飯とか行かねえ?」
横手は昔と同じ軽い口調で、そんなことを言ってきた。珠美は思わず眉をしかめた。こんなところで、横手と再会できる偶然に恵まれた。この偶然を大切にしたい。しかも今夜は旦那も居らず、朝まで飲み明かしても文句ひとつ言う奴はいない。それなにの珠美には既に、先約が入ってしまっている。
珠美が変な顔をするのに、横手は慌てた。
「そっか、悪ィ、旦那さん、家で待ってるよな」
その時の彼の辛そうな顔を、彼女は一生忘れられないと思った。自分が失ったものへのもどかしいほどの羨望と、それを持つのが、男ではなく女友達である事への複雑な嫉妬心とプライド。彼の瞳は、そんな複雑なものたちで僅かに曇っていた。
横手の誘いを断れない。断りたくない。彼女の胸には、そんな強い思いが芽生えていた。
確かそれで、横手とご飯食べに行く事にしたんだったよなぁ。
記憶の線が、一瞬そこでフツリと切れた。それで、どこに行ったんだっけ? 何食べたんだっけ?
「そうだ、もうひとつ思い出した。お前あの晩、すっげー臭かった」
夫が突然言ってきた。
「びっくりするぐらいニンニク臭くてさぁ、ベッドから突き落としてやろうかと思ったぐらいだもん」
珠美は思い出した。そうだ、確かあの後、二人で丸ビルの中の焼肉屋に行ったんだ。彼女は再び、線辿りに戻った。
行き先も決めていなかったので、二人はとりあえず手近の丸ビルに入ることにした。そこでガッツリ肉が食いたいという横手の要望で韓国料理店に入った。入店する直前、珠美はトイレに行くふりをして銀座の友達に連絡を入れ、残業が入って行けなくなったと腰が折れそうなほど平謝りした。
気持ちのいい晩だった。二人は炭火のはぜるロースターを挟んでしこたま飲み、食らい、語った。酒が進むうち、学生の頃の悪ノリが戻って来て、二人はいつの間にかゲハゲハと笑っていた。そうして炭火とタレの焦げる匂いとニンニク臭を身体いっぱいに染み込ませ、学生時代の思い出話に一通り笑った後、二人はただのニンニク臭いオッサンとオバサンになって店を出た。
「たまっち、もう一軒ぐらい良いだろ?」
丸ビルの回廊で、横手はウヘウへと上機嫌だった。亭主元気で留守な今夜、珠美もヘラヘラ笑いながら首を縦に振っていた。
「イクイク~! あんたにゃ聞きたいこともあんのよ。離婚の原因とか」
「ギャハハッ! お前マジか?!」
「マジに決まってんじゃん。ずっと聞きたかったの我慢してたんだもん。酒の勢いとかでも借りなきゃ聞けねえだろっ。んで、どこ行くよ?」
丁度エレベーターホールに辿り着いたところだった。横手はフロア案内を見上げると、最上階を指差した。
「ここっ、ここにしようぜっ!」
その店名を見て、珠美は思わず叫んだ。
「あんた正気ィ? ここってアレじゃん、夜景が見えるのがウリのめっさお洒落なところじゃん。大都会の夜を海の中に見たててナントカって能書きのさぁ、カップルがイチャイチャしたくて行くようなバーじゃん!」
「そ、行ってみようぜ」
「やだよぉ、今の私たちが行ったら完全に嫌がらせじゃん。身体中から炭火の匂いしてさ、口からはニンニクの匂いがプンプン。しかもロマンティックな話もしないで下ネタ大放出で雰囲気ぶち壊してみなよ。完全に営業妨害で追ん出されるじゃん!」
だが横手は、にやりと笑っただけだった。営業妨害上等じゃねえか。彼の顔にはそう書かれていた。珠美はそれに、胸の奥に潜んでいた〝あの頃〟を刺激された。
繋がった……
私と横手と、ロマンティックなバーが……
夢の出来事は、ドラマみたいな再会から流した涙まで、どれひとつとっても自分と横手にとって不自然な事ばかりだった。その中で最も無理がある展開だと思ったのは、このバーのくだりだった。有り得ない。仮に、雰囲気に呑まれてそういうことになることがあったとしても、そういう雰囲気になりそうな場所に二人で進んで行く事なんて絶対に有り得ない。そう思っていたからこそ、とんでもない夢を見たものだと焦る事も出来たのだ。夢だと信じることも出来たのだ。
それなのに、まさか……?
最上階のバーは、同じ丸ビルでも、六、七階にあるテナントとはまるで毛色の違う店だった。入口では、カタログから飛び出してきたようなギャルソンが二人を出迎えた。横手が「二名でファイナルアンサーっす」と言いながら態と鼻に向けて息を吹きかけると、ギャルソンは顔をしかめたいのをこらえるために、ニヘラとして見せた。珠美はそれを見て、プッと噴き出した。二人はそいつに案内され、店に乗り込んだ。
その瞬間、二人は違う世界に迷い込んだ。
そこに広がっているのは、一面の海だった。深海のように薄暗い店内を、宝石をちりばめたような淡い照明が仄かに照らす。まさに、人魚の恋人同士が人目を忍んで頬を寄せ合うための場所だ。二人はぽかんと口を開けて立ち尽くした。身体が動かなかった。自分たちは完全に場違いな人間だというのを、ここまで来てやっと実感した。
二人は焼肉臭を放ちながら、案内されるがまま窓際の席に座らされた。夜景の見える絶好のポイントだった。窓の向こうの東京の街のひかりは、さながら海の奥深くにたゆたう小さなランプの群れだ。神秘的だった。二人は完全に、店の雰囲気に呑まれた。平日で、他の客がほとんどいないのがまた、二人にとって致命的だった。周囲はロマンティックな夜を求めて訪れるカップルで埋め尽くされていると思っていた。そいつらをニンニクくさい馬鹿笑いでどん引きさせて、クレーム付けさせてやろうと思っていた。そして目をひん剥くギャルソンに再び臭い息を吹きかけて、勝どき代わりにゲラゲラ笑いながら店を出てやろうと思っていた。
それなのにまさか、戦わずして負けることになるなんて……
仕方なく席に着くと、二人はドライマティーニとナッツの盛り合わせを注文した。ほどなく淡い色のショートカクテルと小さなガラスの器に盛られたナッツが届けられた。二人は静かに乾杯した。
「味わって食えよ。このピーナッツ、一個三十円はする計算になるぜ」
彼は無理におどけて見せた。さっきまでのノリを取り戻そうと思って、完全に失敗しているのが見え見えだった。
奇妙な時間が、二人の間を流れていった。最初の頃は、尻がむず痒くなるような嫌な沈黙そのものだった。二人はそれが辛くて、交互にマティーニを舐めてはナッツを口に放り込んだ。
足元には、東京駅が幾重にも重なる光の流れを、次々交差させながら排出しているのが小さく見えた。マティーニのほろ苦さに舌を刺激されているうちに、珠美はいつしか、それに吸い込まれるように見入っていた。あの光の筋のひとつひとつに沢山の男と女が押し込められ運ばれている事が、一瞬信じられなくなった。
「性格の不一致だよ」
突然、横手が口を開いた。
「離婚の原因。さっき聞きたいって言ったろ?」
夜景に心を奪われていた珠美は、一瞬彼が何の話をしているのか判らなかった。薄暗い中で、彼の横顔が僅かな後悔を孕んでいるのを見て、彼女は辛うじて変な声が出せた。
「あ、そう」
「あ、そうって何だよ」
「いや、何か平凡だなぁと思って」
横手は苦々しく笑った。
「んなこと言ったってしょうがねえだろ。それが本当のところなんだし。それに実際、離婚の原因なんて突き詰めればどこも一緒。最終的には性格の不一致ってことになるんじゃねえの?」
「そういうもんかな?」
「そういうもんだろ。例えばさ、片方の不倫が原因で別れたカップルがいるとする。そいつが不倫したのは何でだと思う? カミさん、もしくは亭主と何かしら一致する部分に欠けてたからだろ。それを補いたくて、そいつは他の男や女と寝るわけさ。だけど、不倫した男や女が必ず離婚すると限らない。それであっさり別れる奴らもいれば、何やかんやで上手く乗り越える奴らもいる。別れる奴らは性格が元々合わなくて、乗り越えた奴らは性格が一致してたってことさ」
珠美はしかし、横手の言い分を鼻で笑った。
「それは違うだろ。別れないのは、どちらか片方がめちゃくちゃ我慢して、許してやってるからだろ。あんたはね横手、自分がカミさんと上手く行かなかった理由を男と女の普遍的なナントカにして、自分の不甲斐なさを誤魔化したいだけだよ」
彼女はそう言って、マティーニを啜った。横手はばつが悪そうに俯いた。
「そうかも、しれないな」
「そうかも、じゃなくてそうなんだよ。昔のあんたは、そんな理屈をネチネチごねるような男じゃなかったぞ。もっとしっかりしろ、私を見習え」
「お前を見習うって、どういうことだよ?」
「不倫された事あるもん、私」
彼女の言葉に、横手はグラスを落としそうになっていた。彼女は彼が、何かに化かされているような目でこちらを見ているのを、視界に入れないようにつとめた。
「マジで?」
「マジで」
「あの優しいご主人が?」
「あの人畜無害そうなご主人が」
「お前にゾッコンのご主人が?」
「私にベタ惚れしてるって言いやがったご主人が」
横手が何と声をかければいいのか判らず途方にくれているのを感じた。珠美は続けた。
「魔が差しただけなんだ、たった一度の過ちなんだ。土下座して、何度も何度もそう言ったよ、あのオッサン。でも、謝られれば謝られるほどムカついてさ。土下座で丸まった背中、何度も足蹴にしてやったよ。全身打撲で病院送りになるんじゃないかってぐらい蹴ってやったよ。でもシバいてもシバいても全然シバき足りなくてさ。今考えても、よくあのまま殺人犯にならなかったもんだって、自分に感心するよ。それでもどうにも腹の虫が収まらなくてさ、そのことネタに、一年ぐらいあれこれ搾り取ってやったよ。時計買わせたり、コート買わせたり、思いつく限りの償いをさせてやったよ」
「大変だったな、ご主人も」
「大変なもんか。私の受けた心の傷を、金で贖わせてやるって言ってんだ。むしろ感謝して欲しいよ」
「そんなに腹立つんならさ、何で別れないんだよ?」
「我慢してんだよ。だってこんなことで別れちゃったら、私の負けじゃん」
店内に流れる音楽が、二人の間を突然満たしたような気がした。聞き覚えのないジャズの旋律が、深海をたゆたう魚のように、二人の耳元を通り過ぎて行った。
「お前、大人だな」
「そうでもない。だってただの意地だもん。女って言う不利な生き物に生まれついちゃった事への、ただの反発だもん」
「不利だって?」
珠美は、横手がギロリと睨むのを感じた。だが彼女は気にせずこう言い切った。
「そ、女は不利で不公平。だって男と違って、女はセックスしたら妊娠しちゃうもん」
その言葉に、横手は怒っているのか、呆れているのか判らない顔で、呆然とした。
二人の目の前で、夜景を彩っていたビル群のひとつが光を失って沈黙した。
「女の身体ってのはさ、生れ落ちたその瞬間から不利に出来上がってるんだよ」
彼女は静かに続けた。
「月経、破瓜、つわりに出産、性に関することで辛い事は、全部女の役割じゃん。しかも男と違って妊娠の心配があるから不倫のひとつも出来やしない。男はさ、上手い事やれば不倫のひとつやふたつばれやしないけどさ。フザけんなよ。男に不倫願望があるんならさ、女にだってそれはあるんだよ。女だって、男と同じことがしたいんだよ。それなのに不公平だよ、不公平にもほどがあるよ」
珠美はマティーニの柄の部分を、ぎゅっと握り締めていた。指先が白くなるのを見て、横手は顔をしかめた。
「落ち着けたまっち。お前、このままグラスへし折る気か?」
「何ならへし折って見せようか」
「辞めろって、お前飲みすぎ」
「余計なお世話。って言うか、へし折りたい気分になってきた」
「おいっ」
横手の静止を聞かず、珠美はマティーニを一気に煽った。そして思うがまま喋っていた。
「考えたらさぁ、不公平なのってこれだけじゃないって思ってさ。セックスさせられて妊娠するのは決まって女。妊娠して会社から追い出されるのも必ず女。それなのに、世間からは子供を持つのは女の幸せだなんて勝手に決め付けられる。知ってる? うちの会社の女子社員、定数四人なのにこの三年で六人も人が代ってるの。何でだと思う? 理由は妊娠。皆、もっと働きたいのに、妊婦が社内にいるんじゃ気ィ使うからとっとと辞めろって言われて、泣く泣く辞めてるんだよ。こんなののどこが〝女の幸せ〟だよ。しかもそうやって収入は減っていくのに、世の男共はレディースサービス的なものを逆差別だなんて批難するんだよ。全く、女なんてつまんないよ。女に生まれて損した」
「そんなこと言うなよ」
「何だ横手? あんたまでまさか、水曜でも女は映画を千八百円で観るべきだなんて言い出すんじゃないでしょうね?」
「そこじゃねえよ」
横手が、信じられないことをしてきた。彼は、グラスの柄を握り締めたままの彼女の手に、自分の手を添えてきたのだ。
「不倫願望があるだなんて、絶対に言うな。例えご主人への当て付けでもだ。そんなこと言ったらご主人がどんだけ傷つくか、判らねえお前じゃねえだろ?」
そう言うと、彼はもう片方の手も彼女の手に添えてきた。彼は彼女の指をグラスごと包み込むと、握り締めたままの彼女を一本、また一本と剥がしていった。彼女の頬が、仄かに熱くなってきた。それが酒のせいではなく、横手の指先の繊細さがそうさせているのを、彼女は認めようとしなかった。
「知らなかったな」
彼は、自分が剥がした指先のひとつを、愛おしそうに撫でた。
「お前の手、けっこう女らしいのな」
「離してよ」
「嫌だね」
酒のせいだ。横手の声が、愛撫するように耳元に響くなんて。
「お前がグラスへし折らないって約束しねえ限り、離さねえよ。お前に傷でもつけたら俺、ご主人に合わす顔なくなるもん」
あの時の横手の指は、男の指だった。
頬に伝う女の涙を、幾度も拭ってきただろう優しい指だった。
そしてその指は、雫の伝う珠美の頬をも愛撫する、情熱の指になった……
珠美の身体はガクガク震え、自分の体重を支える事もできなくなっていた。脳みその血が足りなかった。頭がくらくらした。彼女は流し台に手を付いてもたれかかり、身体が崩れ落ちそうになるのを支えた。
「おーい、大丈夫かぁ?」
崩れそうになるのを目の当たりにしたのか、夫が居間から声を飛ばしてきた。珠美がなんでもない、というようなことをあやふやに答えると、それ以上の声は戻ってこなかった。
彼女は思考の停止しかかる頭を無理に回転させ、そこから先の糸をたぐろうとした。だが何故か、横手の指が自分の掌に触れてから向こう側の記憶がフツリと切れていた。彼は確か「よかった、怪我ねえな。女に手に怪我あるのって、何か嫌じゃん」とか何とか、らしくもない事を言ってきたのだ。だが珠美はらしくないと思っても、気色悪いとは思わなかった。理由もないのに、胸の奥がヒリヒリするような幸せを感じていた。その時初めて、横手が男だというのを知った気がした。
途切れた糸のありかがうやむやなのと同じように、記憶の向こう側の糸口も、不明瞭でおぼつかないものだった。
彼女は気がつくと、横手の腕の中にいた。霞んで見える視界の中で、彼女は横手の顔を見上げていた。彼は青ざめていて、ブロンズのように固い表情をしていた。
よこ、て?
声を出して呼ぼうとしたが、それは届かなかった。彼は彼女を抱きかかえて、ただひたすら、前に進んでいた。視界の端に、人気のないホテルのフロントが映った。
ホテルのエントランスをくぐると、そこにはタクシーが止まっていた。ドアが開くと、彼は後部座席に珠美を押し込んだ。「住所変わってねえな?」彼に聞かれ、彼女は夢の中でこくりこくりと頷いた。飲みすぎなのと眠いので、頭がズキズキ痛んでいた。どこか意識の遠いところで、横手が珠美の住所を運転手に告げていた。
「たまっち、忘れろ。俺は忘れる」
耳元で、横手が囁いた。甘い蜜をかけられたように、身体が切なく震えた。その甘美な心地よさに、珠美の瞳から一筋の涙が零れた。
「横手、ごめん、忘れない……」
その言葉を最後に、タクシーのドアが閉まった。
深夜の東京の街が、彼女の横を流れていた。何故か涙が止まらなかった。何故か自分がとんでもない罪人で、これから刑場に送られるような気分がした。霞の中にいるようにぼんやりしてて、指一本動かすことさえ億劫だった。そんな身体を抱えて、自分が何故横手に抱きかかえられていたのか、思い出そうとしていた。自分が何故泣いているのか、その理由を考えようとしていた。だがそうすると、横手の温かさと夫の顔が交互に浮かんで、益々頭を締め付けた。そのたびに新たな涙が瞳から溢れ出た。
私は一体、あそこで何をしていたの?
タクシーが家の前で止まると、横手が予め運賃を払ってくれていたのだろう、珠美は無言で車内から放り出された。足元がフワフワしていて、我が家までもが、知らないどこかになってしまったような気がした。気持ち悪くて、早くベッドに横になりたかった。それなのに、玄関をくぐると身体が勝手に台所に向いていた。
冷蔵庫を開けると、飲みかけのワインが冷えていた。彼女はそれを引っつかむと、瓶ごと煽った。それが空になると、夫のウイスキーにまで手を付けた。もっと正気を失いたいと思った。もっと自分を忘れたいと思った。そうれなければ、元の生活に戻れないと思った。
涙と、鼻水と、飲み干せなかった涎とで、珠美の顔はぐしゃぐしゃになっていた。本当はあそこで何をしていたのか、自分はちゃんと知っているんだと、彼女は感じていた。私は横手が好きだ。横手を愛している。その最も失いたくない大切な親友を、私はつまらない願望のはけ口にしたに違いない。
それを証明するように、服装が不自然に乱れていた。チェニックのボタンは全て外れていた。ストッキングは穿いてすらなかった。
全身の毛穴から、血が吹き出そうだった。
私はつまらない願望の為に、横手を失って、夫を裏切った。
彼女はその晩、自分でも正体がなくなったと思うほど酒びたりになった。そうなったと思えるまで、トイレで二回ほど嘔吐した。そうしてからやっと、夫婦の寝室に入れた。
「横手、ごめん、忘れない……」
彼女はベッドに横になり、枕を涙で濡らしながら眠りについた。
あの別れ際の言葉を、贖罪のように繰り返しながら。
「ごめん、お夕ご飯、もうちょっと待ってもらえる?」
珠美は行き倒れになりかかってる人のようなおぼつかない足取りで、台所を去ろうとしていた。夫の表情は益々心配そうになった。
「顔色悪いぞ。少し横になってくるか?」
「ううん、そんなんじゃないの。ただやっぱり、気になって」
「横手君にお金借りたこと? そんなにでかい金額だったのか?」
「そこまでの大金じゃなかったと思うわ。ただ、気になりだしたらきりがなくなっちゃって。だからちょっとだけ、お小遣い帳調べてくるね」
そう言って、珠美が台所を去ろうとした時だった。
ワーウーワーウーワー。居間から、まったく意味のない音の羅列が聞こえてきた。二ヶ月になる娘の声だった。目を向けると、カーペットの上にごろんと寝転がっている赤ん坊が、両手と両足を必死に上に向けて、父親に向かってばたばたとさせていた。夫の顔が、幸せに綻んだ。
「聞いた? 今の。泣き声じゃないこいつの声聞くのって、俺初めてだよ!」
言いながら、彼のほうが泣きそうになっていた。珠美の夫は必死に伸ばしてくる手や足を、その度に愛おしそうに引っ張ったり、優しくタッチしたりした。珠美は胸が張り裂けそうになり、飛び出した。
寝室に篭った珠美が開いたのは、お小遣い帳ではなくて携帯電話だった。リダイヤルボタンを押すと、今度はワンコールで出てくれた。
「横手ごめん、ちょっといい?」
珠美は横手が喋りだすのを待たず、口を開いた。
「あんたの血液型って、何型?」
横手は何も言わなかった。珠美は気が狂いそうになった。
「頼むよ、教えてよ。私、知らなきゃならないんだよ。うちの亭主が、娘の血液型知りたがってるんだよ。娘が血液検査できる月齢になる前に、せめて心の準備ぐらいしておきたいんだよ。だからお願い、教えてよ!」
珠美はその場に崩れた。夫に気付かれるかもしれないという理性が、辛うじて涙をこらえさせていた。
『思い出して、くれたのか?』
横手は静かに言った。
「夢じゃ、なかったんだね。夢かと思ってたのに」
彼はしばらく何も言わなかった。珠美は祈った。次に横手が口を開く時、あれは夢だった、と言ってくれるのをひたすら待ち続けた。
だが、冷たい沈黙の後、彼は小さく『ごめんな』と呟いた。
珠美の胸に、絶望が落ちた。
『俺かも知れねえんだろ、父親』
「判らない。あの前の週、旦那ともしてるから、本当に判らない。でも可能性は……」
『そうか』
横手の〝そうか〟は、どこかで聞き覚えのある〝そうか〟だった。珠美はそれが、自分の妊娠を伝えた時、夫がどことなく恥ずかしげに、でも僅かに嬉しそうに言った〝そうか〟と同じなのに気がついた。
『じゃあ、またな』
「ちょっと待ってよ」
電話を切ろうとする横手に、珠美は食いついた。
「ねえ、それだけなの? 本当にそれだけなの?」
『それ以上、俺にどうしろってんだよ?』
「だってあんたかもしれないんだよ、私に種まいてくれやがったのって。それなのに、付けるだけ付けて知らん振りするのか? 犯した罪の重さは同じはずなのに、枷を負うのは私だけか? ふさけんなっ! そんな不公平、私は絶対に認めないっ!」
『ふざけてんのはテメエだろっ、折角生まれてきてくれた命を、枷とか言ってんじゃねえっ!』
横手の叫びは、平手打ちのように珠美の頬をぶった。彼女の瞳から、とうとう涙が溢れ出た。
寝室にうずくまり、彼女は泣いた。携帯を握り締めたまま、声だけを押し殺して。横手はそれをただ、受話器越しにじっと聞いてくれていた。
『旦那さん、何型だっけ?』
しばらくすると、横手は静かに聞いてきた。
「A型」
『じゃあ大丈夫、俺もA型だから』
「そんな簡単になんか、割り切れないよ」
珠美は言った。自分でも何と言っているのか判らないほどの鼻声だった。
「うちの旦那、娘の事可愛くてしょうがないんだよ。女房が産んだから父親は自分、そう信じてるんだよ。一点の曇りもなく、信じてくれてるんだよ」
『しょうがねえだろ。男ってさ、産みの苦しみがないから、自分とセックスした女が産んだって、それだけを父子の拠り所にするしかねえんだもん』
「私、どうすればいいんだろう?」
『どうもこうもねえよ。どっちにしたってお前が産んだ子なんだから、お前はただ、育てりゃいいんだ』
「冷たいね、横手」
『お前がそう思うのは仕方ねえけど、俺は俺なりに考えてるんだぜ。俺の子かもしれない赤ん坊が、どうすれば一番幸せでいられるのかをさ。俺は俺なりに、信じてるんだよ。だからさ、俺、絶対に誰にもばらさねえ。約束する』
その言葉に、珠美は再び泣き崩れた。
横手の声は、優しかった。産まれたばかりの娘の頬を、恐る恐る撫でた夫の指先と同じような愛情で溢れかえっていた。真に偉大なのは、痛みも知らず親になれる男ほうだ。ついさっき、夫の背中を見守りながら馳せた思いを、心の中に新たにしてた。女の身体が不利に出来ているのは、我が子とのつながりを血と胎盤という物証で知ることの出来る、その代償なのだ。
「ごめん……」
無意識のうちに、言葉が口から溢れていた。
「ごめん、ごめんなさい……私がいけないんだ。私一人のせいで、みんなが不幸になるんだ。みんなみんな、ごめんなさい……」
『謝るなよ、俺には。悪いのは俺だ。それなのに、何もしてやれなくて、本当にごめん』
「いいよ横手、その言葉だけで充分だよ。せめて横手、これからも友達でいてよ、お願いだよ。虫のいい話かもしれないけど、お願いだよ、友達のままでいさせてよ……」
携帯に向かって、珠美は何度もごめんとお願いだよを繰り返した。横手の優しさにすがることしか出来ない自分が情けなかった。
同じ言葉を繰り返す珠美を、横手は黙って、受け入れ続けてくれた。
『たまっち、遅くなったけど、教えてやるよ。俺の離婚の理由』
しばらくすると、横手は徐に言った。突然の話題に、今度は珠美は黙り込んだ。
『実はさ、俺も女房に浮気されたんだ』
「え?」
珠美は思わずすっとんきょんな声を出した。横手は『これ、マジな』と返してきた。
『うちの場合はお前んとこの旦那と違って、一晩の過ちとかじゃなかったらしいけどな。詳しくは知らねえし、知りたくもねえ。でも腹が立った。お前と同じように、殴り倒して足蹴にしたいって思った。でも出来なかったよ。んなことしたら、DVとかで訴えられちまうだろ、男の場合。俺はその怒りをどこにぶつければ良いのか悩んで、ただ立ちすくむ事しかできなかった。そうしたらさ、女房のヤツ、俺が手も声も出さないのをいいことに開き直りやがって、テメエの浮気を全部俺のせいにしやがったんだ。〝私が他の男に抱かれたのは、あなたに足りない何かが欲しかったからよ。あなたが私に無関心なのがいけないのよ〟とか何とか叫んでな。確かにあの頃から残業や出張はけっこうあって、なかなか一緒にいてやれなかたのは本当さ。でも、だからってんなことまで言われちまったら、じゃあ好きにしろって言って別れるしかねえだろ』
うちとは逆だぁ。珠美がそんなことをボソッと言うと、横手は言葉を続けた。
『お前と偶然再会してさ、バーでお前の旦那の事とか話しただろ? お前、不公平だ不公平だって、散々言ったよな。俺、あん時マジムカついてたんだぜ。不公平なのはこっちだよって。女は男に浮気されても、フルボッコにして憂さが晴らせるじゃねか。まあ、それで亭主が病院送りにでもなったら女も責任問われるだろうけど、こういう場合、世間の目は基本的に女びいきだろ? 浮気した旦那にも責任はある、みたいな感じになるのがオチだろ。これってさ、不公平だと思わねえか? もしこれが逆だったら、青痣いっこで男は犯罪者扱いだ。金銭解決だってそう。ほとんどの場合、女のほうが男より収入低いから、浮気の代償に車だロレックスだと散財させて憂さ晴らすってわけにもいかねえ。不利で不公平はこっちだぜって、俺マジに思った』
「ごめん、離婚の理由、知らなかったんだもん。知ってたら、あんなこと言わなかった」
珠美はぼそりと言い訳がましく言った。案外、世の中は上手く出来てるのかもしれない、などと、ぼんやり考えていた。だとすれば、一晩の過ちで三人もの人間に一生消せぬ傷を負わせてしまった自分には、これからどんな代償が待ち構えているのだろう。
再び、彼女の瞳から涙が溢れそうになった。
『いいよ、たまっち、これでおあいこってことにしようぜ』
「おあいこ?」
彼の言い出したことが理解できなくて、珠美は聞き返した。
『大体さぁ、お前が悪ィんだぜ。粋がってマティーニばっか五杯も飲んで、気持ち悪いから休ませろって人のホテル押しかけて、着いたとたんポンポン脱いでベッド占領しやがってさ』
「何のこと言ってんの?」
彼女は訳が判らなくなって聞き返した。彼はそれを気にかけることなく、話を続けた。
『俺だって疲れてたんだから、ベッドで寝たかったんだ。それなのにテメエってヤツは。俺もう、アッタマきちゃってよ、よっぽど蹴り落としてやろうかと思ったぜ。けど、浮気した女房にすら手を上げなかったこの俺が、んなバカみてえなことでお前ごときに暴力振るったら、そこで負けって気がしてさ。仕方ねえから、他の制裁方法考えたんだ。意識ないぐらいに酔ってガーガー寝てるお前に手間かけて服着せてやて――って言っても、スカート穿かせてチェニック着せてやっただけだからな。変な勘ぐりするなよ――何かあったっぽく見える程度に服装乱れさせて、意味深な事言いながらタクシーに乗せてやったってわけ。ついでに言っとくと、ストッキングはテメー、自分で脱いでゴミ箱に捨ててたからな』
「あ、あのさ、それって……」
『いやぁ、お前、まさかああも引っかかってくれると思わなくってさぁ。お前が〝ごめん〟とか言った瞬間ドアが閉まった時なんか、俺ァ、笑っていいんだか慌てていいんだか判んなくなっちまってさぁ。でもタクシー行っちゃった後だし、あのぐらいしておかないとむしろ制裁にならないし、ま、いっか、ってな。後になって悪ィことしたなぁって、流石に思ったんだぜ。いやマジで』
「じゃあ、私たちって」
『そ、何もねーよ。てか、あるわけねーだろ』
「ヨ、ヨコテェェェ―ッ!」
珠美の手がグーになっていた。そのとたん、見ていたかのように通話口の向こうでギャハハハと割れるような笑い声が爆発した。
『バーカバーカバーカ、オメエなんかて勃つ男、この世に二人といてたまるかよっ』
「んだとぉー! 謝れっ! 私なんかでおっ勃てた挙句、娘まで授けてくれたうちの旦那にまず謝れっ! そしてくだらない嘘で翻弄し、あんたの為に涙まで流してやった私にも謝れっ! 土下座して謝れっ! 三遍回ってごめんと言えっ! 靴を舐めながら許しを乞えぇぇっ!」
『おーおー、何だってしてやるぜ。ほーら、ジャンピング土下座ー、くるくるくるの、ごめーん!』
目の前に実体がないのをいいことに、彼はゲハゲハ笑いながら思いつく限りのオノマトペで珠美の言った事を実行していった。その完全にふざけきった態度に、珠美の怒りも最高潮に達した。
「もぉぉっ! シバきたいーっ! ブッ飛ばしたいーっ! 目の前にいるならフルボッコ確定なのにィーっ!」
『相変わらずバカだな。そうなるのが怖いからわざわざ電話で話してるんだろうが』
「大体さぁ、何で今更なの? あの晩のことだけなら勘弁出来るよ。確かに私も悪かった。あんたの離婚の理由も知らずに、無神経な事言っちゃった。けど、今日のこれってどうよ? 悪趣味極まりないっ!」
『俺だって、初めはこんなことするつもりなかったんだ。けど、俺なりに心配したんだ。子供産んだって葉書貰って出産日と重ね合わせてみたら、何だか丁度いい具合だったからさ。もしかしたらお前、あの晩のことまだ本気にしてて、一人で悶々と不安な日々を送ってるんじゃないかと思ったんだ。だから勇気振り絞ってこうして電話したんだよ。それなのにお前ときたら、あの晩のことまるで覚えてねーとか言うんだもん。フザけた話だろ? フルボッコにしてやりたくなったのはこっちだぜ』
珠美は、全身から力が抜けていくのを感じた。頭の中が燃え尽きたように真っ白だった。彼女は気の抜けたパンツのゴムのようにぐったりとなって、壁にもたれかかった。
「もう充分フルボッコにされてるよ、こっちは」
『何せ小早川秀秋だからな、俺』
「小早川? フザけんな。お前なんか明智光秀に格下げだ」
『たまっち、俺にはその基準、判らん』
「私にもだよ」
真っ白い頭の中を、いくつかの思いが少しずつ過ぎり始めていた。羞恥心、安堵、憤り。だが何故か、横手への怒りよりも、夫を裏切っていなかった事への安堵の方が強烈に強かった。そのことで横手に感謝したいという気持ちすら、胸の中に到来していた。最もそれは、彼女のプライドに賭けて身体の奥底に押し戻したが。
『出産祝い、何がいい? 何でもいいぞ。どんな高価なものでも買ってやる』
横手が言った。彼がニタニタしながらこっちの様子を窺っているような気がした。
「何だ? 独り者で金があるから、私の心の傷を金で贖ってくれるってことか?」
『まあ、そんなとこ』
珠美はフンと鼻を鳴らすと、欲しいものを反射的に答えていた。
「オムツを一ダースと粉ミルクを二缶、それとジェフグルメカード的なヤツを三万円分」
『了解』
「――を、これから一年間、毎月一回送って来い」
横手が一瞬声を詰まらせた。
『そんな無茶な……』
「じゃあグルメカードは一万円にまけてやる」
受話器の向こうから、横手のため息が聞こえた。珠美には、彼が向こう側でかぶりを振っているのが見えるような気がした。彼女はそれが何だかおかしくて、力なく笑った。自分とこの悪友が、良くも悪くも男と女なんだと初めて思い知らされた。そしてそれが、妙に清清しかった。
『なあ、聞いていいか?』
「何よ?」
『さっきの俺、カッコよかったかな?』
「あ? 何言ってんの?」
突然の質問に、珠美は無気力に言った。横手の自嘲じみた苦笑が、僅かに耳に伝わった。
『いや、いい。それより今日は悪かったな』
「本当だよ」
『また今度な。いい母ちゃんになれよ』
「余計なお世話だ。そしてもう二度と掛けて来るな」
珠美の悪態に、横手はギャハハと笑いながら電話を切った。彼女は自分の携帯を畳むと、ふうっと、荷物を降ろすような溜息をついた。
日常が戻ったと、彼女は思った。血塗れになりながら産み出した我が子を父親として愛してくれる夫に感謝しながら生きる、慎ましい日常が。そして、それでも奴が血液型バカを晒すたびに刺し殺してやりたくなる衝動を押さえ込む、幸せな日々が。
「たまみー、たまみー」
ドアの向こうから、夫の困り果てた声が飛んできた。
「来てくれよー、何だかウンチもらしたみたいなんだよー」
珠美はがくりと肩を落とした。
全く、あの血液型バカが……
でもこれもいい機会だ。ここでみっちり、オムツの交換の仕方を、きちんと教えてあげよう。
彼女は立ち上がると、寝室を後にした。
「サンキューな、たまっち」
携帯電話を畳むと、横手は小さく独りごちた。
それにしてもお前、相変わらず無防備って言うか、男を舐めすぎてるよな。横手はあの晩のことを、ぼんやりと思い出しながらそんなことを考えていた。
バーで飲んだ後、珠美が横手のホテルを訪ねたのは、単に気持ち悪いからでないことぐらい、彼にもよく判っていた。彼も珠美と同じだった。グラスをへし折りかねない彼女の指を取った時、彼は初めて、彼女が女だというのを知った気がした。彼女の指は細くて、見ているだけで身体の芯が火照ってきそうなほど、官能的だった。そしてそこは、誰もいない深海だった。
マティーニを五杯も飲んでへべれけになった彼女に「あんたのホテルで休ませろ」と言われ、彼は戸惑った。本当に気持ち悪くて休みたいだけなのなら、そのままタクシーに乗せる事もできたのだ。だが彼女の瞳が〝それ〟を望んでいるのを見て、自分の中の欲求と理性が鬩ぎ合いを始めた。
どうすればいいのか判らないまま、彼はとりあえず彼女をホテルの部屋に連れて行った。彼女は部屋に着くや「暑い暑い」と言いながら、スカートとストッキングを脱ぎ捨てた。しかし脚に涼を得て満足すると、彼女はそのままベッドに突っ伏していびきを掻きはじめたのだ。
鬩ぎ合っていたにも関わらず、そのだらしない姿に、横手はむしろ安心した。珠美の不倫願望は本物だ。一度旦那さんにされているのなら、仕返しする権利があるとも考えているだろう。だが、そんな馬鹿馬鹿しい報復合戦の捨て駒にされるのなんて真っ平ごめんだ。ましてや珠美との友情に、こんなことで傷をつけたくない。
ところがそう思ううち、胸の奥に、珠美に対する怒りがこみ上げてきた。
こいつ一体、俺を何だと思ってるんだ?
たまっち、俺は、お前が好きだ。俺はお前を失いたくねえ。俺はお前も同じように、俺を想ってくれていると信じていた。それなのにお前、俺を捨てようとしたな。ほんの一瞬でも、俺との関係を放棄しようとしたな。それとも、俺だったら何があってもお前にだけは手を出さねえとか、そんな幻想抱いてるのか? ふざけるなよ。俺だって男だ。女の身体が欲しい時だってある。そしてお前は、女じゃねえのか。それならお望み通り、抱いてやるよ。俺のほうから、お前なんか放棄してやるよ――
横手は珠美に覆いかぶさり、チェニックのボタンを外していった。
だがその時彼の目に映ったのは、無防備に寝顔を晒す珠美ではなくて、彼女の夫の顔だった。
彼はそこで、魔物から解放された。
横手は切ったばかりの携帯電話を、掌で弄んだ。耳を押し付けていた部分が、まだ温かかった。
なあたまっち――彼は携帯を眺めながら、心で一人ごちた。女のお前には判らないだろうな。女房を他の男に寝取られるって、とんでもなく苦しいんだぜ。世界中が俺をあざ笑い、人類の全てが敵に回ったような気分になるんだ。あんな思いを、お前の優しい旦那さんにさせるわけにはいかねえと思った。だから俺、お前を抱けなかった。男は女と違って、馬鹿なプライド首から下げてないと生きていけない生き物なんだよ。だから俺は、自分の女房を許すことも絞め殺す事もできなかった。
あんな思い、お前の旦那にさせられねえ。お前の旦那だけじゃねえ、どんな男にも、夫にも、あんな思い、して欲しくねえ。だからもう、男って生き物を舐めてかからないでくれよ。
横手ははあっと、大きな溜め息をついた。案外、あいつが男に対してああなのは、俺にも責任があるのかもしれねえな。そんなことをふと思っていた。二人で馬鹿やらかした四年間、夫でも妻でも、父親でも母親でもなかった二人は、全ての意味において〝平等〟でいられた。そしてそのことが、彼女をああも男に因縁つけたがる女にしてしまったのかもしれない、と。
それにしてもオムツとミルクを一年分か。横手は珠美との約束を思い出し、気が滅入った。
全く、金にあざといのも相変わらずってところだな。仕方ねえのかなぁ。本当はあの晩とのことで帳消しにしてもらおうと思ってたんだけどなぁ。でも、こっちが想像していた以上に泣いてたな、あいつ。本当に女なんだな。肌も身体もそうだけど、夫と娘の為に、あんなに泣く事が出来るなんて、心の底から〝女〟なんだな。あんなに男を舐めきった態度見せてくるくせによ。
でも、
横手はふと、自嘲した。
それもこれも、何も知らないあいつを利用して、度胸試しさせてもらっちまった代償だよなぁ。
情けねえ。「さっきの俺、カッコよかったか?」なんて、何聞いてんだよ、俺? 大切な親友の心を弄んでまで練習させてもらって、結局気にしてたのはその部分なのか? ほんと俺、お前の言うとおり不甲斐ない男だよ。こんなことでもしないと、前に進む勇気もねえんだもん。
ホント、ごめんな、たまっち。
あ、それと最後に言いそびれたけど、俺、本当はB型だから。
横手は重い溜息をつくと、手元に散乱した手紙に目を戻した。数日前に届いた、別れた妻からのものだった。封筒の中には、今年で三歳になる男の子の写真が同封されていた。
その写真を見て文面を読んだ時、彼の頭にふと浮かんだのは、妻ではなく珠美の顔だった。そして同時に、あの晩の〝制裁〟のことを思い出していた。すると突然、彼女の声が聞きたくてたまらなくなった。今の自分に、こんなものを送りつけてくる妻と対峙する度胸があるのか、珠美で試させてもらいたくなったのだ。彼はそんな自分のあさましさを、心から恥じた。
そしてだからこそ、珠美の涙とオムツとミルク一年分の代償に見あうだけの覚悟を決めなければと、自身を奮い立たせた。
彼は写真を手に取ると、自嘲じみた苦笑を浮かべた。こいつの血液型は何だろうと考えてしまった自分が、刹那的に嫌になった。
たまにはプライドを首から降ろすのも悪くはないさ。彼はそんなことを思いながら、再び携帯電話を開いた。
END