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第60話

「やあ、結。

 楽しんでいる?」


柔らかな、低く、甘く響く声が聞こえた。


ドクン


有無を言わさず、私の心臓は高鳴った。

高く打ちつける鼓動が聞こえないように、

ゆっくり、ゆっくり振り返る。


と、そこには、期待通りの柔らかな笑顔があった。


「ええ、カイ。

 今日は、お忙しい中、来てくれてありがとう。

 ごめんなさい。無理させて・・・」


「いや、こちらこそ。

 今月頭に東京に来てくれたって言うのに、

 歓迎会が遅くなってごめん」


「ううん。とんでもない!

 ただ、私、美夕さんのお役に立ちたいだけで・・・

 なのに、わざわざ歓迎会だなんて・・・」


すると、彼はもう一歩私のそばに歩み寄り、

耳元でささやくように言った。


「美夕から聞いたよ。


 仕事を辞めてまで、こっちに来てくれたって。

 少しでも、僕の役に立てるならって・・・」


私は、真っ赤になって、カイを見た。


「あ、あの・・・」


「ふふふふ」と柔らかく笑って彼は離れた。

彼の動きとともに、花のような、石けんのような、

爽やかさの中に、どこか甘い香りが、香った。


「美夕は、見違えるほど元気になった。

 

 この館でパーティーが開かれるのは久しぶりなんだ。

 僕の知る限り・・本当に。


 美夕を元気にしてくれたのは、他の誰でもない、君だよ」


「そんなこと・・・」


「相変わらず、謙遜家だな。

 結のそういうところ、素晴らしいと思うよ」


「か、カイ・・・」


顔が燃え出すんじゃないかと思うくらい、温度を増した。

でも、カイは、そんなこと、お構いなしに

私をじっと見つめて言った。


「今になって思うんだ。

 僕やベンが育った環境がいかに普通じゃなかったかを。


 周りには、敵か味方しかいなかったし、

 味方というのは、全て、僕のためにいると思っていた。

 いや、正確には、僕が責務を果たした後に

 手に入れる富や名声のためにいるのだと。


 僕には、ただ、求められる役割をこなす以外になすべきことはなく、

 そうしていくことが、唯一の生きる道なのだと。

 

 でも、そうすることに、一度は疲れ果ててしまった・・・」


「カイ・・・」


カイは、そっと目を伏せた。

その姿は、どきっとするくらい、切なく見えた。


「ベンが教えてくれたんだ。

 そうじゃない、生き方もあると。


 あそこでの暮らしや財産、エトセトラ。

 全てを失おうと、ベンは僕のそばにいてくれる。

 だから、自分の好きな生き方を探そうと」


「それで、あのビルに住んだのね・・・」


「ああ。

 あのビルは、唯一、僕の母親の名義になっていたからね。

 僕の自由になる、唯一のモノだったんだ」


「お母様の・・・」


「ああ。


 もっとも母親と呼んでいいのかも分からないくらいの

 関係しかなかったけれどな・・・」


そう言って、彼が見せた表情を、私はきっと一生忘れないだろう、

とその瞬間思った。


彼が、今まで見せたことのない、複雑な感情を顕わにした表情だった。


「母は死んだ。

 たった一人きりで。

 その目には、親父しか映らないまま、

 勝手に全てに絶望して・・・」


「・・・」


「僕はね、結。

 その時、悟ったんだ。


 まだ、4,5歳のガキだったけれど、ね。


 この世の中に、恋愛というものほど儚くて、頼りなくて、

 愚かしいものはないと。


 そんなものに振り回されない人生を生きるんだと」


「カイ・・・」


私は、言葉を失った。


「そのためには、感情を封印する必要があった。

 好きとか嫌いとか、そういうものは、全て感情から生まれる。

 だったら、感じなければいい。

 頭で考えられることだけを受け入れて理解すればいい。

 そうすれば、何にも動じない人間ができあがるはずだ」


そこまで言うと、カイは、「外へ出ないか?」と言ってテラスへと続く

ガラス戸を開けて、外へ出た。

私は、黙って彼に従った。


「ずっと、俺はうまくやってきたつもりだった。

 兄弟との競争も、確執も、それでうまくやり過ごしてきたつもりだったんだ。


 でも、人生、何が起こるかわからない。


 ここで・・・俺が18歳の時、美夕がそんな俺に

 感情があることを思い出させたんだ」


カイは、そのまま温室に向かった。

私は、黙って、彼の後に続いた。





あれは確か、美夕の誕生パーティーだったと思う。

美の価値基準は、多様だけれど、

華やかに着飾った美夕は、恐らく万人が認める美少女だった。

いくら感情に流されないことを決めた俺にとっても、

彼女の艶姿には、多少なりとも動揺した。

ただし、それを隠し切った自信はあるけれど。


ご多分に漏れず、薄情なのが俺たちの親だった。

娘をほったらかしで、仕事に出かけた彼女の両親を尻目に、

美夕は、いつになく、半ば強引に絡んできた。

そして、男女としての交わりを求めた。


興味が無かったといえば嘘になる。

けれど、俺の中には、男女の感情的な繋がりが

常に危険をはがんでいるという確信があった。


必要以上の関わりを求めないからこそ、

好ましいパートナーとして認識していた彼女の突然の豹変ぶりが

俺には、わからなかった。


その時がくれば、夫婦として嫌でもそのような関係をもつというのに、

なぜ、このタイミングで、このように事を急ぐのかが。


感情的な関わりを求めてはいないと、俺は冷静にいいのけた。

態度を変えた理由を聞かなければ、納得出来ないと伝えた俺に、

彼女は、明らかに落胆した様子で言った。


「あなたは恐れている。

 お父様だけでなく、お母様の陰にまで」


その瞬間、何かがカチリと音を立てて外れた。

彼女の近くにいるのは危険だ。

俺の中で警報が鳴った。

咄嗟に、彼女から離れた。


そしたら、みるみるうちに瞳に大粒の涙を浮かべ、


「あなたの頑なな殻を

 壊せるのは

 壊していいのは私だと思っていた」


と言って、泣き崩れた。


泣いている女には近寄らない方がいい。

それも、俺の確信だった。

だから、そんな彼女を残し、その場を立ち去った。



それで終わりのはずだった。

忘れてしまえばいいだけの話だった。


けれど俺に同行したベンの哀しそうな顔が

その時、何をか間違えたことを俺に教えた。

そしてそれは、俺の人生の宿題になってしまった。




「俺はね、結。

 美夕に感謝しているんだ。

 

 ずっと、俺に足りなかったもの、

 俺が乗り越えるべきものを教えてくれたことを。

 

 そしてやっと、その答えに向き合う覚悟ができた」


温室の前で立ち止まると無駄のない動きで、

くるりと振り向いたカイは、

真っ直ぐに私を見つめた。


「結、本当の気持ちを直接聞かせてくれないか。

 君は、何故、東京に戻ってきたの?」


その瞳は、宵闇の中でも、キラキラときらめいていた。


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