第57話
あれは、カイが十六歳を迎えた日だった。
一番、彼を祝ってくれるはずの人物が
二度と彼を祝うことができなくなったのが、その日。
そんな悲劇とも皮肉とも言える経験をしたために、
誕生日を嫌悪していたカイは、一人静かに、
-いや、正確には、俺と二人だったけれど-
過ごすことが常だった。
なのに、その日に限っては、
彼をホームパーティに呼ぶのだと、
美夕が珍しく張り切っていた。
「珍しく」というのは、美夕自身、どこか冷めているところがあって、
感情の変化を顔に出さず無口なカイとうまく付き合うためには、
彼を放っておくのが一番だと思っている節があった。
だから、こんな風に、彼のトラウマとなっている日に
関わろうとすることは意外だった。
「美夕。
大丈夫なのか?」
俺ですら警戒する、その日に、いつになく大胆な美夕を心配して言った。
「心配しないで。
私には、私のやり方があるの。
失敗を恐れていたって仕方ないでしょう?
この関係、いつか、変えないと
ずっと一生、このままだわ」
美夕とカイの関係については、
正直、俺にとってはアンタッチャブル(触れられない聖域)であって、
一体、この二人の間に恋愛感情に似たものが
少しでも生まれているのかいないのか、
それすらよく分からずにいた。
というのも、恋愛感情というものは、存在していないであろうことは
確実視していたから…
俺たちは、自分たちが特殊な環境にいることを理解していたし、
余計な感情をもつことが、自分たちを苦しめることを知っていた。
好きとか嫌いとか、そういう感情こそが、
全ての理性的なもの、知的なものを壊してしまうことを
なぜだか、ものすごく、理解していた。
だから、カイは美夕が将来の妻となることを素直に受け入れ、
美夕も、恐らく、同様に理解をしていたと思う。
美夕が、その日、何かいつもと違う積極的な行動をとろうとしたことが、
俺にとっては、日常を壊してしまう何かに思えて、
何となく不吉な予感を覚えたのだった。
けれど、それを止める術などないことも同時に理解していた。
「カイ!
来てくれてありがとう」
淡いピンク色の、花が咲いたようなドレスを纏った美夕が
まるで花びらがこぼれたような、可憐な笑顔でカイを出迎えた。
あまりの美しさに、理由もなく俺は恥ずかしさを覚えた。
「いや。
今日はお招きありがとう」
カイは、けれど表情一つ変えず、そう答え、
バラの花束を渡した。
フィアンセの誘いを無下に断ることは失礼に当たると
多分、そんな理由でここに来たのだろう。
「ありがとう!カイ。
でも、今日はあなたの誕生日だったから、
こんな気遣い良かったのに・・・」
そう言うと、花びらに顔を近づけ、
「ああ、いい香り・・・」
とうっとりとつぶやいた。
「お邪魔します・・・」
何となく、居心地悪くなりながら、
俺は、ケーキを渡した。
「まあ、ありがとう、ベン。
お気遣い、恐縮です」
そう言って、上品に軽く会釈をすると
「さあ、中に入ってちょうだい。
今日は、カイのためにって両親が準備してくれたのよ」
カイの腕に自ら腕を回し、部屋へと導いた。
俺は、その後に続いた。
美夕の親父さんの仕事の関係で、
彼女の家には、よく海外の品が揃っていた。
日に焼けたような浅黒い肌をした、精悍な顔つきの親父さんは、
大きく手を広げて、幾分、大げさに俺たちを歓迎すると、
早速、ロシア産のキャビアでいいのが手に入ったからと説明し、
ワイングラスを俺たちに渡してきた。
「いえ、まだ、僕たちは未成年ですので・・・」
カイが遠慮すると、隣からお袋さんが
「まあ、もう16歳になるのでしょう?
昔なら、元服している年齢だわ。
少しなら、いいでしょう?
いいワインなのよ」
といいながら、返事も待たずに酒をついだ。
真っ赤なマニキュアの指がグリーンのボトルに目立って見えた。
大きく背中の開いたイブニングドレスと同じ色。
母親というより、一人の女性としてそこにいるようだった。
視線を移し、ラベルに目をやると「シャブリ・グラン・クリュ 」と読めた。
ワインの銘柄についての知識は持っていなかったけれど、
恐らく、フランスの特級ワインなのだろう。
「さ、じゃあ、乾杯しましょう」
お袋さんは、俺たちにというより、隣の親父さんに向かってそう言った。
親父さんは、当たり前のように、
グラスを持ち上げ、「それじゃ、カイ君の誕生日を祝って・・・」と言って
俺たちから視線を美夕に移すと、
「乾杯」と声を上げた。
俺たちは顔を見合わせ、二人に気づかれないくらい軽く苦笑してから、
「乾杯」と、そのグラスに口をつけた。
「どう?
美味しいでしょう?」
間髪入れず、お袋さんが、同じく真っ赤なルージュを引いた唇を開いた。
「ええ。
やはり、高級なお酒は違いますね」
「やっぱり、分かる?
あなたのお誕生日だからね、奮発したのよ。
さあ、オードブルもたっぷり用意してあるのよ。
遠慮無く食べてちょうだい」
そう言って、テーブルに色とりどりに載った料理へと視線を誘ったかと思うと、
「それでね、実は、悪いんだけどね。
今晩のフライトで、私たち、また出張に出かけないといけないの。
ううん。
私たちがいなくても、大丈夫なように、準備はしてあるから。
何か、不自由があったら、ミツエさんに言ってちょうだい」
と一言断りを入れ、
「ミツエさーん!」
「はい。奥様」
ミツエという女中を呼ぶと、すぐさま、
ウエイトレスのような服に身を包んだ女性が現れた。
「こちらがカイさんよ」
「はい。承知しております」
「私たちに代わって、
今晩は、彼が主だと思って。
いいわね。
頼んだわよ」
「かしこまりました」
俺たちにはまるでお構いなしに、そう手短に会話すると
「じゃあ、ごゆっくりなさって。
ちゃんとあなた方のお部屋の準備もしてあるから。
では、またね」
そう言って、カイの右頬に軽くキスをして、
「あなた方のお部屋」とは一体何を指しているのかも不明なまま、
夫とともに去っていった。
その忙しない一連の行動と彼らの背中を、
俺たちはなすすべもなく見送った。




