第43話
「カイはね、全ての物事に愛着を持つことを避けてきたの。
人だけでなくて、モノに対しても…
ううん。
違うかな…
草花だけは、愛でていたかしら・・・」
そう言うと、ミユさんは、ふっと寂しそうな顔をした。
「ベンだけが、そんなカイの殻を壊して中に入った唯一の人間。
私の知る限り、カイが心を許しているのはベンだけだわ。
私は、結局、彼にとって必要な人間にはなれなかった。
…邪魔にもならなかったけど…」
「そ、そんなっ…
そんなこと、無い、と思いますっ」
あまりに切ない発言に聞こえて、私は思わず声を上げた。
「結さん?」
「カイは・・・
カイは、きっと、ミユさんのこと、
その…大事に思っていたんじゃないかって…」
ミユさんは黙ったまま、「なぜそう思うの?」という感じに首を傾げた。
その瞬間、ふいにカイの言葉を思い出した。
「きっと、そうです。
だって、カイは私に言ったんです。
病気になることで、彼女は自由を手に入れたって。
カイは、ずっと、自由になりたいって思っていた。
いえ、そう聞いたワケじゃないけれど、
私には、そう見えていた…
今でこそ、自分の育った場所を、
自分に課せられた役割を運命として受け入れているけれど、
ずっと、窮屈に…自分の居るべき場所じゃないって
思ってきたんだと思うんです。
そんな場所から、ミユさんが、
たとえ病気という形であっても
離れられることを『自由になれる』と感じた。
それって、相手を自分のことのように思えなければ、
感じない感情ではないでしょうか?」
鏡の中の私は、顔を赤くして必死にミユさんに語りかけていた。
そして、その下に、白いケープに包まれたミユさんの小さな顔は、
穏やかに微笑んでいた。
「結さん。
ありがとう。
あなたは、本当に、素晴らしい人だわ…」
「ミユさん…」
「自分のことのように、
いいえ、自分のことよりも、他人のことを考えることのできる
愛情深い人なのね・・・
そんな風に考えられる人が、
この世の中にはどれくらいいるのかしら…」
そう言うと、はぁっと小さく息をついた。
「自分の子どものことでさえも、
優先できない親ばかりだっていうのに…」
「え…!?」
「結さん。
カイの居る世界、進もうとしている道は、暗闇に包まれていて
孤独な茨の道だわ・・・
ベンは最強のお供。
でも、彼だけじゃダメ・・・
結さん。
あなたがそばで彼を支えてあげて。
あなたの持っている強い光で、
彼の行く先を照らしてあげて・・・
あなたがそうしてくれたら、私・・・」
「ミユさん・・・」
「・・・とても、安心だわ」
ミユさんは、そういうと、目を細めて微笑った。
まるで、女神のような、美しい笑顔だと思った。
「お疲れ様でした。
こんな感じでいかがでしょう?」
ケープを取り去り、鏡の中の彼女に聞いた。
「素敵…
ぐっと、元気に見えるわ。
ありがとう、結さん」
巻いたばかりのカールを手のひらで撫でながら
嬉しそうにミユさんは答えた。
ほっそりとこけた頬を大きくカールした毛先が、優しく縁取る。
想像通り、彼女の印象を明るく、華やかに演出できたようだった。
もう少し、頬にふっくらと張りが出て、赤みがあれば、
もっと、美しくなっただろう。
メイクもしたい気分になったけれど、
けれど、さすがに疲れた様子を見せ始めた彼女を
早く、ベッドに休ませてあげたくて、
私は彼女の周りを片付けようとしたときだった。
コン、コン
緩やかに、でもはっきりとノックする音がして、
「そろそろ、どう・・・」
と、ベンが覗いた。
「あ、ベン・・」
私は応じた次の瞬間、ベンは驚いたような顔をしてミユさんを見た。
「綺麗だよ、美夕。
お疲れさん」
ベンは、びっくりするくらい優しい笑顔でミユさんを見つめた。
ミユさんは、少し、照れたように笑った。
「ありがとう、ベン。
あなたが結さんを紹介してくれたお陰よ」
「ああ。
ありがと、結。
さすが、プロだな。
見違えたよ」
ベンは、言葉少なではあったけれど、屈託無くそう言って笑った。
間違いなく、ミユさんのことをベタ褒めしている。
ベンが、ここまで人を素直に褒めたのを見たのは初めてかもしれなかった。
私は、なんだか、嬉しくなって、自分が誇らしく思えた。
「どういたしまして。
さ、1時間以上座ったままで、疲れたでしょう。
ベッドに戻りましょう」
そう言って、彼女の背中に腕を回そうとした時、
ベンがすっと寄ってきて、私の手をそっと、押さえた。
「いいよ。
俺が運ぶ」
そう言うと、慣れた様子で彼女をすっと抱き上げた。
軽々と彼女を運ぶベンに、男らしさを感じる。
もしかして、ベンはミユさんのことが・・・
そこまで考えて、肩をすくめた。
いくら何でも、安易過ぎるだろう。
ベンにとって、ミユさんは、きっと同志なんだ。
カイを支えることを受け入れた二人・・・
私は、ふっと、窓の外を見てカイを思った。
カイ・・・
あなたは一人なんかじゃない。
こんなにあなたを思っている人間が、ここにもいる。
今、あなたはどうしていますか・・・
「総理。
話があります。お時間をください」
執務室の大きなデスクに座っている、この国の首領に向かって、
俺は声をかけた。
「ん?何だ」
一瞬、こちらを見て、すぐに書類に目を戻した。
人の顔を見て話をしないのは、いつものことだ。
「次の衆議院選に出馬したいと思うのですが」
「何?」
さすがに、驚いた様子で、顔を上げ、こちらを見た。
切れ長の、鋭すぎる瞳。
俺には、何一つ、こいつから譲り受けたものが無い。
今更ながらに、血のつながりが本当にあるのかと思う。
「あなたの秘書として、ではなく、
自分の意志で、国民の意見を代弁したいのです」
俺は、睨み付けるように、その冷たい瞳を見つめ返した。
どこまでも、冷たいその瞳。
母さん、あなたは本当にこいつを愛したのですか?
命をかけてまでも・・・
心の中で、薄れ逝く記憶となりつつある、
ぼんやりとした母の陰に向かって問いかけた。




