第32話
「ベンは今、東京にいる。
ここには、来ていないんだ」
カイは、無表情で言った。
「えっ?どういうこと?
もう一緒に暮らしていないの?」
ベンがそばにいないということが、
何となく不安に思えて、自分でも思わず責めるような口調になった。
「いや…」
私の態度が理解しがたい様子で、
ほぼ無表情のまま、私を見つめた。
それはカイが怪訝に思っているということだ。
「ベンは唯一、カイが信頼する人間。
少なくとも私には、そう見えた。
そして、ベンも…
そんな人も、そばにいられなくなるような、
そんな世界で、カイは生きているの?」
「誤解するな。
ベンとは、もちろん、今も一緒だ。
ただ、行動を別にしているだけだ」
「よかった…」
それを聞いて、ホッとした私を、今度は露骨に表情を変えて
苦笑しながら彼は言った。
「なぜ?
僕のそばにベンがいるかどうかが、なぜそんなに気になるの?」
「それは…」
思わず、回答に詰まりながらも
確かに、なぜ、こんなにベンが
カイのそばにいるかどうかを気にしているのだろうかと
一生懸命、考えながら答えた。
「だって…
だって、カイがひとりぼっちになっちゃうじゃない」
「え?」
「カイは、さっき私に『近寄るな』って言った。
自分に近寄ると、マークされて調べ上げられるからって。
カイは、私に不快な経験をさせないように、
そう言ってくれたんだと思う。
でもね、それって、カイを大事に思う人から、
カイを遠ざけてしまうことでしょう?
私には、真奈美がいて、マナブがいて、悠人さんがいてくれる。
みんな、私が困っていたら、助けてくれる仲間。
でも、カイは?
私があのビルで暮らした4年間だって、ベン以外の人と
関わっていた気配はなかったわ。
ううん。
友達の数が問題なんじゃない。
カイには、ベンがいることだけで、
そして、ベンには、カイがいることだけで、
十分満たされているように思えたから…
だから、心配したの。
政治の世界、よく知らないけど、
きっと、利権やら、何やら、
自分の欲に駆られた人たちの思惑も
たくさん渦巻いている世界なんじゃないかって
その程度の想像にすぎないけれど、
カイが辛い時、誰がそばにいてくれるのかって気になって。
あんなに深い絆で結ばれているベンと、
もし、万が一、離れなくちゃいけなくなったとしたらって、
カイのことが心配になったの…」
「・・・・」
カイの顔に、今まで見たことのない表情が浮かんだ。
驚きと、戸惑いと、そして少しだけ、優しさを含んだような顔だった。
「ユイ。
今日は、まだ時間ある?」
「え?!は、はいっ。
もちろんっ」
予想もしていなかったカイの質問に、
私は慌てて、返事をした。
ふっと、カイは微笑んだ。
「店を変えよう。
ホテルの前にある、この店じゃ目立ち過ぎる…
そうだな、美味しい沖縄料理、食べたいな。
折角、沖縄まで来たのに、まだうまい郷土料理、食べていないんだ。
君がいつも行く店はあるの?
よかったら、そこに連れて行ってくれないか?」
「も、もちろんっ。
あ、あのっ、いつも、お店の仲間と行く、
ウチナー料理の店があるんです。
‥えっと、ちっちゃな汚い店ですけど…」
「もちろん、構わないよ。
そこに行こう」
「は、はいっ」
思いもしていなかった展開になって、
彼と、まだ一緒にいられる喜びと、
そして、彼から私との時間を望んでもらえたことが嬉しくて、
私は、きっと、満面の笑みで答えたに違いない。
カイは、目を細めて、今まで見たことのない笑顔で笑った。
私の心臓は、大きく、ドキンと鼓動をうった。
私がカイを連れて行ったのは、
美容室の飲み会御用達の行きつけの居酒屋だった。
店の中に入った瞬間、「いらっしゃいませ~」と元気な声が迎えてくれる。
店長のススムさんが、私の顔を見るなり、
「おっ、ユイちゃん!」と笑顔で声をかけてくれた。
「こんばんは。
すみません、二人なんですけど」
すぐに、ススムさんの視線が、後ろに居たカイに映された。
その途端、驚きをありありと浮かべたけれど、
そこはさすがの接客のプロ。すぐに人懐こい笑顔をカイに向け、
「はいよっ。んで、今日はちょっと混み合ってるからさ、
カウンター席でいいかな?」
と確認をした。
カイは、笑顔で頷いた。
「それじゃ、ご新規さん2名。
カウンター席へご案内」
威勢のいい声を張り上げると、店内の店員が「はいよっ」と応じ、
「ゆっくりしていってよ」と言って席を案内してくれた。
10席程度が並ぶカウンター席の一番奥に私たちは並んで座った。
物珍しそうに、店内を見回すカイに
「もしかして、こういうお店、初めてだった?」と聞いてみた。
「ああ。
雑誌か何かの写真で見て、もちろん知っていたけれど、
やっぱり、なかなか、こういう所にくるチャンスがなくてね…」
そう言えば、カイがお酒を飲んでいる姿というものを見たこともなかった。
いつも、三人で食べる夕食は、お酒抜きだったし、
外食らしい外食をしたことも無かった。
「ねえ、何を飲む?
ソフトドリンクだったら…」
「いや、ビールをもらうよ」
「え?大丈夫?」
「ふふふ、何が?
僕がお酒を飲むこと?
それとも、ビールを選んだこと?」
「あ…、えっと、両方…」
「はははは
そうだな。
お酒を飲み始めたのはここ、1,2年のことだから、
ユイの前で飲んだことは無かったかな」
私はコクリと頷いた。
「食前酒から始まる会食に付き合う必要もあってね。
そういう時は、嗜む程度に料理と合わせた酒を飲むのが
礼儀ってことになる。
それでわかったんだが、僕は結構、いける口らしい」
「そうだったの」
「ああ。
だけど、秘書の身分じゃ、中々、自分のペースで飲むことも、
好きなときに飲むこともできないからさ。
今日は、自由に、好きなだけ、飲ませてもらおうかな」
開放感のようなものからか、いつになく、
彼のテンションが高くなっているように感じた。
それと同時に、私の胸も踊る。
4年かけても縮まらなかった彼との距離が、
ぐっと縮んだような気がした。




