第23話
同じ階にある私の部屋に行くのかと思っていたら、
ベンは真っ直ぐに階段へと向かった。
「ベン?」
「お前がいないときは、いつもカイんとこにいんだよ」
「え・・・!?」
「幼くして親猫からひっぺがされたんだろ?
独りぼっちが苦手なんじゃね?
まだまだ、甘えたい盛りなんだよ」
ちらと、こっちを振り返り、それだけ言うと階段を上りはじめた。
私は、絶句した。
私が不在にすることでミュウが寂しがって、
カイのところへ行っていたとは知らなかった。
ベンの言葉からは、さっきまでの刺々(とげとげ)しさは消えていたけれど、
それがかえって、胸に突き刺さるように聞こえた。
「ご、ごめんなさい・・・」
私は、誰に謝って良いのか分からないままに、
そうつぶやいてベンの後を追った。
屋上花壇は、久しぶりだった。
これがポーチュラカ?
色とりどりの可憐な花が、今を盛りに咲き乱れているのが
宵闇の中でもよく分かる。
いつもこれだけの花が満開なのだろうか。
数度にわたって私が見た限りでは、
いつだって、不思議と満開だった。
花の香りにつつまれたペントハウスの中に、
カイはいつものように居た。
カイに会うのも久しぶりだった。
いつもと変わらずそこにいるカイに、
私はどこかホッとしながら近づいた。
すると、いつになくぐったりとしたミュウが
その身体を彼の腕の中に沈めていた。
「ミュウ・・・」
私は、何が起きたのか分からず、
おそるおそる、ミュウに声をかけた。
「・・・やっとお母さん、帰って来たよ」
カイがミュウにささやく声が柔らかく響いた。
独特の哀愁を帯びているように聞こえて、胸の奥が疼いた。
「ごめんなさい・・・」
つぶやく私を咎めるでもなく、
カイは、ミュウを指の背で撫でながら言った。
「熱はなさそうだ。
おそらく感染症じゃ、ないだろう。
この暑さで、食欲が低下して、
同時に水分摂取量も減っている可能性が高い。
つまり、夏バテってやつ。
もしくは、メンタルストレス、ってとこかな」
「メンタル・・・?」
私は戸惑った。
真っ直ぐに私を見つめるカイの瞳が痛い。
「猫にもさ、心があるんだよ」
「・・・」
「おそらく、個性がそれぞれにあって、
だから、同じ状況に置かれても、反応はまちまちだろうけどさ。
ミュウは、おそらく、ナイーブなタイプだと思う」
「ミュウが?」
普段、私を相手にはしゃいで遊ぶ姿しか目にしていなかったから、
カイの発言は、少なからず驚きとなって聞こえた。
「母親とおぼしき者の前で、
元気に振る舞うのは、当たり前のことだよ。
安心を与えてくれる最大の相手なんだから」
「あ・・・」
私の心の声が、まるで筒抜けのような気がして、顔が熱くなる。
「でも、ミュウにはその背後に不安感がある。
少なくとも、いつでも誰かと一緒にいたがる猫だというのは確かだ。
おそらく、また、いつか捨てられるという恐怖心があるんだろう」
「え・・・?」
「子猫の側にしてみれば、親がいないところで育てられるのも、
引き取られた先が変わるのも、
『捨てられる』ってことだ。
母親っていう、自分を産み、育んでくれるはずの者が
理由はどうであれ、自分を手放したんだから」
「カイ。もう、その辺でいいんじゃないか」
カイの瞳に、何とも言えない哀しみの闇が見え、
たまらない気持ちになったとき、
ベンの声が割って入った。
私は、救われたような気がした。
でも、それは、カイも同じみたいだった。
はにかむように苦笑すると、いつもの表情に戻っていた。
「とにかく疲労回復、滋養強壮の効用のある薬草で作った薬、
飲ませておいた。人間用だけど、少量なら、構わないだろ」
「えっ・・・カイが薬、作ったの!?」
私は驚いて、涼しい顔してそう言うカイの顔を見つめた。
「ああ。
この花壇、薬草も育ててるんだよ。
趣味っていうか、クセみたいなもんだな・・・」
「ク、クセ!?」
薬草を育てて、薬を作るのがクセなんて人、もちろん初めてだった。
一体、カイとは何者なのだろうか。
「とりあえず、今は、薬の効き目を待ってもいいと思う。
明日の朝まで様子を見て、それでも様子がおかしかったら
獣医のところにつれて行ったら?」
カイは、真っ直ぐに私を見て言った。
その言葉とその瞳は、安心できる力強さをもっていた。
「あ、ありがとう、カイ・・・
ごめんなさい。
心配かけて・・・」
思わず、涙がこみ上げてきた。
何も泣くことなんてないのに・・・
「大丈夫。
こうやって、駆けつけてくれたんだから。
はい。
今日は、一緒に寝てやって」
カイはそう言うと、そっとミュウを私に預けた。
「ユイ、君だけは、ミュウを離しちゃだめだ。
自分から、新しい世界を探しにいけるようになるまでは、
彼にとって、還る場所は、君しかいないんだから・・・」
「カイ・・・」
私は、ミュウをしっかりと腕に抱いて、深く頷いた。
その瞬間、ある場面が頭の中に浮かんだ。
殺風景な、白く、大きな建物。
そう、ベンが5歳の誕生日を迎えた後、連れていかれたという場所。
そして、カイが「自分の家」と言った場所。
「一見した感じだと、すっごくシンプルな?
なーんにもない部屋でさ・・・
全体的に、白っていうか、無っていうか・・・」
ふいに、カイの部屋を覗き見た松原さんの言葉がよみがえる。
カイにとって自分の還る場所が、
その殺風景で、白くて、無を感じさせる部屋なのだとしたら・・・?
カイは、もしかして、母親に捨てられたと思っている・・・?
カイの中に、とてつもなく大きな、
寂しさ、哀しみが潜んでいるような気がして、
私ははっとして、カイを見つめた。
「もう、子どもはお休み。
良い夢を・・・」
私の心の動きを知ってか、知らずか、
カイはそう言って、優しく微笑んだ。
いつもは、その微笑に、胸を高鳴らせていたけれど、
この日だけは違った。
胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
なぜなら自分の感情を見せないための、
それが彼なりの仮面のような気がしたから・・・




