第2話:護送車内のタイムリミット 監視カメラの死角に仕掛ける反逆のリップリード
冷たい雨が、装甲車の分厚い防弾ガラスを激しく叩きつけていた。
手首に食い込む手錠の無機質な感触と、周囲を取り囲む完全武装のSAT隊員たちの荒い息遣い。
サスペンションの硬い車両が東京の舗装路を揺れるたび、車内には重苦しい沈黙と、微かな硝煙の匂いが漂った。
常人であれば、この絶望的な状況に正気を失っていてもおかしくはない。
国家公安委員という警察組織のトップに連なる要人の暗殺。
しかも現場は完全なる密室であり、凶器には自分の指紋がべっとりと残されていたのだ。
言い逃れの余地など、どこにもないように思える。
だが、俺、蓮見零の心拍数は平常時から一切乱れていなかった。
目を閉じ、意識を深く沈み込ませる。
俺の脳内に存在する広大なアーカイブ――『絶対記憶』の引き出しを開くためだ。
数十分前のペントハウスの記憶が、鮮明な4K映像を凌駕する解像度で脳裏に再生される。
網膜認証と静脈認証のログ。
死体の血液の凝固状態。
ドアが爆破された瞬間の、破片の飛散軌道。
映像を巻き戻し、一時停止し、拡大する。
「……やはり、おかしいな」
暗い車内で、俺は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
SATの突入タイミングだ。
被害者の死亡推定時刻から計算して、ドアが爆破されるまでの時間が異常なほど短すぎる。
まるで、あらかじめ事件が起きることを知っており、マンションのすぐ下の階で完全武装のまま待機していたかのような手際。
つまり、警察内部の人間がこの暗殺劇と俺への濡れ衣に直接関与しているという、揺るぎない証拠だった。
装甲車が急ブレーキを踏み、重々しい音を立てて停車した。
外に引きずり出された俺を待っていたのは、見慣れた霞が関の警視庁本部庁舎ではなかった。
どこかの地下深く、コンクリート剥き出しの無機質な駐車場。
正規の取り調べ手順すら無視した、完全に「裏」の施設だ。
「歩け」
背中を銃口で小突かれ、冷たい蛍光灯に照らされた長い廊下を歩かされる。
押し込まれたのは、窓一つない殺風景な取調室だった。
中央にはパイプ椅子と傷だらけのスチール机。
壁の一面は巨大なマジックミラーになっており、その奥から複数の視線が俺をねっとりと観察しているのが肌で感じられた。
ガチャリ、と重い鉄の扉が開き、一人の男が入ってくる。
先ほどのペントハウスで俺に手錠をかけた、蛇のような目を持つ捜査一課のキャリア管理官だ。
男は俺の向かいに座ると、ドサリと分厚いファイルを机に放り投げた。
「蓮見零。かつて金融街を震え上がらせた、伝説の天才詐欺師。現在は『知恵貸し屋』として、裏社会のあらゆるトラブルを非合法に解決している……。このファイルには、お前が過去に犯してきたすべての余罪が記録されている」
管理官は冷酷な笑みを浮かべ、両手を組んだ。
「お前は賢い男だ。今の自分の立場が、どれほど絶望的か理解しているはずだ。国家公安委員の殺害。完全なる密室。凶器の指紋。お前を刑務所に送るには、これだけで十分すぎる」
「俺を犯人に仕立て上げた台本の出来栄えを自慢しに来たのか?」
俺が鼻で笑うと、管理官の眉間がピクリと動いた。
「強がるな。だが、我々も鬼ではない。特別にゲームのルールを与えてやろう」
管理官は身を乗り出し、俺を威圧するように低い声で告げた。
「四十八時間だ。それだけ猶予をやる」
「……ほう?」
「四十八時間以内に、お前が『自分以外の真犯人』を見つけ出し、完全な無実を証明してみせろ。できなければ、お前の身柄はこの非公式施設から地下牢獄――すなわち、法の手すら届かない完全な暗闇へと移送する。過去の詐欺犯罪もすべて表沙汰にし、お前の社会的生命、いや、存在そのものをこの世から抹殺する」
圧倒的な脅迫。
警察という国家権力を私物化し、俺という存在を合法的に消し去るという死の宣告だった。
「俺たちの上の意向でね」
管理官はふっと皮肉な笑みを浮かべ、虚空を見つめた。
「『大衆は真実など求めていない。完璧に統制された美しい幻影こそが国家を安定させるのだ』……お前は、その美しい幻影を完成させるための最高の生贄というわけだ」
しかし、俺の脳内では別の思考が恐るべき速度で回転していた。
なぜ「四十八時間」なのか?
俺を本当に犯人に仕立て上げて事件を終わらせたいのなら、今すぐ調書をでっち上げて送検すればいい。
わざわざ猶予を与えるということは、黒幕には「四十八時間以内に俺を泳がせることで得られるメリット」があるということだ。
あるいは、四十八時間後に何か「巨大な計画」――例えば、東京湾岸を巻き込むような破壊工作が動き出すための時間稼ぎか。
俺の視線が、管理官のネクタイの結び目、スーツのシワ、そして額に浮かぶ微かな汗をスキャンする。
(こいつはただの『伝書鳩』だ。台本を読まされているに過ぎない)
ならば、俺がメッセージを送るべき相手は、こいつではない。
俺はゆっくりと顔を上げ、部屋の隅、天井付近に設置された無機質な監視カメラを見据えた。
『絶対記憶』のデータベースが即座にそのカメラの型番を弾き出す。
特殊防犯用のパノラマレンズ。
首振りの周期は一往復につき十二秒。
そして、その構造上、レンズが最も右端に到達した瞬間の『一・五秒間』だけ、映像の端にわずかな死角――ブラックアウトするポイントが生じる。
一秒、二秒、三秒……。
俺は頭の中でカウントダウンを始めた。
「聞いてるのか、蓮見! お前の命はすでに我々の掌の上にあるんだぞ!」
管理官が机を叩いて声を荒らげる。
だが、俺にはもう彼の声などノイズに等しかった。
九秒、十秒、十一秒……。
カメラのレンズが右端に到達する。
マジックミラーの向こう側で監視しているであろうモニターから、俺の姿が一瞬だけ消失する、その刹那。
俺はカメラの死角となる空間に向けて、はっきりと、そして最高に不敵な笑みを浮かべた。
そして、声には出さず、唇の動きだけでこう呟いた。
――『全部、見えてるぜ』
十二秒。
カメラが再び中央に戻ってきたとき、俺はすっかり絶望に打ちひしがれた哀れな容疑者の顔を作っていた。
「四十八時間、か……。わかった、乗ろう。その悪趣味なゲームに」
俺は震えるような声で応えながら、内心で冷たく嗤った。
相手は、俺を檻に閉じ込めたと思い込んでいる。
だが違う。
俺という劇薬を、最も危険な形で自分たちの懐に招き入れてしまったことに気づいていない。
証明してやる。
お前たちが作り上げた完璧な嘘を、俺の知恵がどのように喰い破るのかを。
タイムリミットまで残り四十七時間五十九分。
反撃の狼煙は、この密室の中で密かに上がっていた。




