青い冬
夏の雨が降った朝は、家の匂いが変わる。
生ぬるくて、少しだけ、鉄みたいな匂いがする。
妹はリビングの隅に座って、窓の外をじっと見ていた。
まだ朝の6時。
母さんはもういないし、父さんは相変わらず黙ったままだ。
僕が、食パンをかじる音で、この家を動かしている気がする。
靴を履く音だけが、玄関に残った。
「行ってきます」と僕は言ったが、それは配達員が郵便受けに手紙を入れるときのような音、いや、コンビニ店員の「いらっしゃいませ」だった。届くかどうかは重要じゃない。
ドアを開けると、雨はやんでいた。空はまだ濡れたグレーのままだったが、道は妙に静かだった。音が一つひとつ、遠くに響いていた。
僕は制服の襟を少し直して、歩き出した。
学校までは十五分。僕の足で十三分。少し急げば十一分半。だけど今朝は、十四分かかってもいいと思った。
「おはよー!今日もかっこいいね!」
女子の声が背後から飛んできて、僕の肩をぽんと叩いた。
振り返って笑った。たぶん、僕の笑顔はよくできていたと思う。
1限目は現代文だった。
教科書の中で今日も太宰治が死にたがっていたけど、僕は彼の気持ちがよく分からなかった。
代わりに、机の上に落ちていた消しゴムのカスの方が気になった。
昨日、自分が落としたのかもしれないし、他人のものかもしれない。
どちらにしても、それを拾って捨てるほどの意味はなかった。
「この文の主人公は、なぜ電車を見つめているのでしょう」
教壇の先生が言った。僕はその声が少しだけ高いことに気づいた。
眠そうな男子が「気分じゃないですか」と答えて、教室にうっすら笑いが広がった。
僕も笑ったけど、声には出さなかった。
なんだったのだろう。「あれ」は、
昨日の出来事が夢だったかのようにも思える。全てが自然でいつも通りで、皆んな変わらない日常を送っている。
それはそうだろう、あれは皆んなの人生には関係のない、いや、ひょっとしたら僕の人生にも関係のないことだったのかもしれない。
妹が人を殺していた。
大きな鎌を持って、足元には横たわる男と血の湿った床。
鮮明には思い出せない。
でも、たしかに現実だった……ような気がする。
窓の外を見た。
雨に濡れた校庭の端っこに、傘が一本だけ、裏返しになって転がっていた。
誰のかは分からない。
でも、なんとなく“あるべきでないもの”のように見えた。
僕はそれを見て、ちょっとだけ呼吸が浅くなった。
でも、その理由はうまく言葉にできなかった。
気づけば昼休みになった。教室の中には、パンの袋を開ける音と、くだらない動画の笑い声が交じっていた。
僕はカバンからサンドイッチを出して、机の上に置いた。コンビニの袋を開ける音が、思ったより大きく響いた。
「今日もそれ?コンビニのたまごサンド、好きだねー」
斜め前の男子が言った。僕は笑って「落ち着くんだよ」と返した。
本当は味なんか、どうだっていい。
でも、毎日同じものを食べていると、誰もそれ以上聞いてこない。
それがちょうどよかった。
僕は少し顔を上げて、教室を見渡した。
誰かが靴下を脱いでいたり、誰かがスマホで恋バナに夢中になっていたり、誰かが机に突っ伏していたりする。
そういう“普通”の風景のなかに、僕も混ざっている。たぶん、うまく。
「それ、今日の体育やる気ないって顔だよ」
女子が笑って言った。僕は「バレた?」と答えた。
嘘じゃない。けど、本当でもない。
サンドイッチをかじると、からしの味が強かった。
こんな味だったっけ、と僕は思ったけれど、たぶん昨日も同じことを考えていた。
チャイムが鳴る少し前、前の席の女の子が椅子をくるっと回した。
「今日、掃除当番だよね?」
「ああ、そうだったね」
僕はうなずいた。
本当は昨日だった。
でも彼女の言い方が、あまりにも自然だったから、僕はそのままにした。帰るにも落ち着かなかったからだ。
「じゃあ、どうする? 教室と廊下」
「教室でいいよ」
「ラッキー。廊下のほうが空気が軽いし」
僕は少し笑った。
廊下の空気と教室の空気の違いなんて、今まで考えたことがなかった。
でも彼女が言うと、そうかもしれないと思えた。
「田邉、昨日は何してたの?」
「ん?」
「当番、本当は昨日だったよね。……って、私も忘れてたんだけど」
僕は答えず、机の中の消しゴムを指で弾いた。
「まあいいや。今日やれば帳消し」
彼女はそう言って立ち上がった。
「教室、よろしく」
「任された」
彼女のスニーカーが廊下に滑っていく音が、思ったよりも長く耳に残った。
僕は立ち上がって、ほうきを手に取った。
教室の隅に陽が差していた。
床には、誰のものか分からないペンのキャップが、じっと転がっていた。
ほうきで床をゆっくりなぞっていると、
砂粒が何かを主張するみたいにザラザラと音を立てた。
四限目の終わりに誰かがこぼしたお菓子のかけら、
黒板の前に落ちていた紙くず、
誰のでもないゴミばかりが、教室の隅に集まってくる。
教室の静けさのなかで、僕は呼吸の音まで意識していた。
妹のことを考えていたわけじゃない。
ただ、掃き集めた埃のなかに、
どこか家の空気と似た匂いを感じた。
妹は、今朝もリビングの隅に座っていた。
声もかけず、僕もかけられず、
ただ同じ家の空気を吸っていた。
昔はもっと喋っていた。
よく僕のシャツの袖を掴んで他愛もない話をしてくれた。
今はもう、そんなことはない。
それが、どこから壊れたのかは、よく分からない。
僕が避けたのか、妹が閉じたのか。
もしかしたら、家全体が静かすぎるのかもしれない。
僕は教室の角にたまった紙屑をちり取りで拾い、
無意識のうちにもう一度同じ場所を掃いていた。
教室の外から、廊下の足音が近づいてきた。
彼女のスニーカーの音だった。
僕は立ち上がって、ほうきを壁に立てかけた。
教室に音が戻ってくるだけで、少し安心した。
「田邉終わった?」
振り向くと、彼女がちり取りを手に立っていた。
「うん」
僕はほうきを立てかけながら答えた。
教室には、夕方の光が斜めに差し込んでいて、
窓の外の空が少しだけ朱に染まりかけていた。
「あんた、家遠いんだっけ?」
「いや、十五分くらい」
「ふーん。じゃあさ、家帰ったら何してんの?」
「……何って」
少しだけ考える。特別なことはない。けど、答えにくい。
「夕飯食べて、風呂入って、寝る」
「健康優良児か」
彼女は笑った。でも、そのあと少しだけ真面目な声で、
「兄弟とかいるんだっけ?」と訊いた。
僕はうなずいた。
「妹がいる」
「へー。年下? 何歳差?」
「三つ下」
彼女はうんうんと頷きながら、ちり取りのゴミをゴミ箱にあけた。
細かい砂が、プラスチックにぶつかって軽い音を立てた。
「仲いい?」
僕は答えなかった。というか、ちょうど答えようとした瞬間に、
黒板の上の蛍光灯がパチッと音を立てて、少しだけ明るさを増した。
「なんか、教室ってさ、みんないないとと広く感じるよね」
彼女は言った。そして続けた。
「私、お兄ちゃんがいるの」
ちり取りを空にしたあと、彼女が唐突に言った。
まるで話の途中を僕が聞き逃したみたいな言い方だった。
「へえ」
僕は少しだけ間をおいてから答えた。
「三個上。昔はめっちゃ仲良くて、ゲームとか漫画とか一緒に読んでたのに、最近ぜんぜん部屋から出てこないの」
僕は返事をしなかった。代わりに、黒板の下に溜まった埃をほうきで掃いた。
「話しかけても、うんとか、うるさいとか、そんなのばっか」
彼女はゴミ箱のふたを閉めながら続けた。
「なんかさ、…変わっちゃったっていうか。それとも私が変わったのかな」
言葉がしばらく途切れた。
僕はほうきを止めて、手すりに寄りかかるように立った。
「なんで変わるんだろうね、家族って」
彼女のその一言に、僕はうまく言葉が出せなかった。
教室の時計がカチリと小さく鳴った。秒針の音が、やけに遠くに感じられた。
「ごめん、なんか変な話」
「別に」
僕はそう言っただけだった。
でも、本当は“ありがとう”と少しだけ思っていた。
その理由は、自分でもよく分からなかった。
教室を出るとき、彼女がふと立ち止まった。
「あのさ」
「ん?」
僕が振り返ると、彼女は廊下の窓の外を見ていた。
「お兄ちゃんさ、家族のこと嫌いなのかな」
それだけ言って、彼女は軽く肩をすくめた。
「じゃね、また明日」
足音が、下駄箱の方へ消えていった。
僕はすぐに歩き出せなかった。
教室のドアが閉まりきる音が、背中に静かに響いた。
学校を出たとき、夕方の空はまだ明るかった。
でも空気はすこし冷えていて、風が制服の袖口から入り込んだ。
十五分の道のりを、僕はゆっくり歩いた。
彼女の「家族のこと嫌いなのかな」という言葉が、耳の奥にひっかかったままだった。
僕は、妹のことをどう思っているんだろう。
いまの家の空気を、好きかどうかなんて、考えたこともなかった。
カーブを曲がったところで、前から猫が歩いてきた。
首輪はついていた。けど、知らない顔だった。
僕が立ち止まると、猫も立ち止まって、
しばらく沈黙があった。
やがて猫は細い路地に入り、何も言わずに消えていった。
僕はまた歩き出した。
家に帰れば、たぶん妹は今日も、
リビングの隅で窓の外を見ているだろう。
-
目覚ましが鳴る三分前に目が覚めた。
こういうとき、得をしたのか損をしたのか、よく分からない。
カーテンの向こうにうっすらと朝の気配。
たぶん、夜に雨が降った。空気が少しぬるくて、匂いが湿っている。
廊下を歩くと、兄の部屋のドアはいつもどおり閉まっていた。
昨日の朝も、その前も、そのもっと前も。
母は洗濯かごを抱えながら、「圭吾、起きた?」と訊いた。
「分かんない」
答えながら、自分の声が少し冷たく聞こえてしまって、
そのことに自分が一番びっくりしていた。
台所に行くと、父が新聞を読んでいて、
ページをめくる音だけが規則正しく響いていた。
食パンが焼き上がると、母がバターを塗ってくれる。
そんな風景が毎朝続いている。
でも、兄だけが、そこにいない。
父も母も、兄のことを心配しているのがわかる。
声に出さなくても、雰囲気でわかる。
会話の途中に、兄の名前だけがふっと重たくなる瞬間がある。
「お兄ちゃんさ、なんか最近、ご飯ちゃんと食べてる?」
そう訊いたら、母はうなずいたけど、その表情は笑ってなかった。
私は兄の部屋のドアの前にもう一度立った。
ノックするほどの理由はない。けど、放っておいていいほど軽いことでもない。
そういう時に、どうしたらいいか、よく分からない。
昔はくだらない話で、しょっちゅう笑い合ってたのに。
「うちの兄ちゃんバカだから」とか言いながら、
でもほんとはそれがちょっと誇らしかったのに。
何がきっかけだったんだろう。
たぶん、きっかけなんて、なかった。
何もないまま、少しずつ、遠くなった。
朝食を食べ終えると、母が「行ってらっしゃい」と言った。
父も新聞から顔を上げて、軽く手を振った。
私は玄関で靴を履きながら、「いってきます」と言った。
でも、その声は兄の部屋までは届かなかった気がする。届いて欲しいと、まだ…思える。
ドアを開けると、空気がほんの少し冷たかった。
雨は上がっていたけど、空はまだ曇っていて、
靴の裏がアスファルトを踏む音だけが、やけに大きく響いた。
駅から学校までの坂道を登っていると、前の方を歩いている男子の背中が見えた。
制服のシャツはきれいにアイロンがかかっていて、
背筋もまっすぐで、歩幅も安定している。
遠くから見てるだけなのに、妙に“整っている”印象を受けた。
同じクラスの田邉くん、だ。
名前はよく知られている。顔も、人気もある。
坂の途中で、彼の背中に向かって女子の声が飛んだ。
「おはよー!今日もかっこいいね!」
振り返った彼は、笑って何か返していた。
声は聞こえなかったけど、笑顔だけはちゃんと届いてきた。
ああいうふうに、
人に声をかけられて、自然に笑って返せるって、すごいことだと思う。
でも私は、その背中に何かを重ねたりはしなかった。
「わたしとは違う世界の人だな」と、ただそれだけ思った。
近づきたいとも思わなかったし、遠ざけたいとも思わなかった。
ただ、
ちゃんと歩いているその姿を、なんとなく目で追ってしまった。
それだけだった。
教室に入ると、すでに数人の友達が来ていて、窓側の机に鞄を置いていた。
「おはよー。ねえ聞いて、今日の占い最下位だったんだけど」
「え、何座?」
「牡牛座。マジで納得いかない」
「でもそれって逆に一番運いい日らしいよ、下がってるから上がるって」
そんな根拠のないポジティブさが、朝の教室にはよく似合っていた。
野村先生は、教卓の前で手元の教科書を一度だけ見てから、声を出した。
「この文の主人公は、なぜ電車を見つめているのでしょう」
教室に、曖昧な沈黙が広がる。
窓の外から、かすかに電車の走る音が聞こえてくるような気がした。
「気分じゃないですか」
前の席の男子が、寝起きみたいな声でそう言って、
教室にうっすら笑いが広がった。
私も笑ったけど、声には出せなかった。
文章は、太宰治の短編だった。
主人公は、なぜか朝のホームに立ち、電車の往来をじっと見つめている。
乗るでもなく、降りるでもなく、ただ立っている。
「主人公はこの場所に立つ理由を、自分でも知らないのかもしれません」
野村先生が言った。
声はやっぱり少し高くて、抑揚が薄い。
眠くなるトーンだと有名だけど、私はその静かさが嫌いじゃなかった。
「でも、知らないまま立っている、ということが……たぶん大事なんですね」
野村先生は、教科書の該当部分をゆっくりと読み上げた。
〈私は駅のベンチに座ったまま、四十分間、何本もの電車を見送った。
人が乗り降りするたびに、なぜだか、自分が取り残されている気がした。
けれど、乗る理由もなかったし、降りるべき駅も思い出せなかった。〉
取り残されている、という言葉に、心が少しだけ引っかかった。
それは、誰の気持ちでもなかったけど、
どこかで私もそう思っている気がした。
でも、それが「兄のこと」なのか「自分のこと」なのか、よく分からない。
野村先生の声が、ページをめくる音といっしょに、教室に漂っていた。
教室の中には、窓から差し込んだ光と、誰かの消しゴムの匂いと、
そして、どこかに向かおうとして向かえないままの気配が、うっすら残っていた。
昼休みになると、私たちのグループは、いつものように教室の後ろの窓際に集まった。
誰が言い出すでもなく、それぞれ机を少しずつ寄せて、四人の輪ができる。
私はバッグから、母の作った弁当を取り出す。
少し甘い卵焼きと、ウィンナーと、冷凍のグラタン。
特別なものは入っていないけど、アルミカップの並び方に、
なんとなく“今日も大丈夫”って思わせてくれる感じがある。
「てかさ、あの動画見た?」
「めっちゃ笑った、あれ」
「やばい、涙出た」
スマホを囲んで笑い合う友達の声に混ざりながら、
私も適当に笑って、箸を進める。
ふと、視界の端に田邉くんが映った。
斜め前の席で、いつも通り、サンドイッチを取り出している。
また、たまごサンドだ。
それだけのことだけど、
「やっぱり」という言葉が心の中で自然に浮かんだ。
いつも同じものを食べてるって、不思議だな、と思う。
でも、そういう“変わらなさ”が、
逆に、何かを隠してるようにも見えたりする。
「なに見てんの?」と友達がのぞき込んできた。
「ううん、なんでもない」
私は笑って答える。
友達の声、スマホの画面、昼休みのざわめき。
そのすべてのなかで、私は、ちゃんと笑えてる。
だけど、“ちゃんと混ざれてるか”は、また別の話だった。
...チャイムが鳴る数分前だった。
教科書を閉じかけていたとき、ふとカレンダーが目に入った。
小さな赤ペンの印。
……え?
今日じゃなくて、昨日だったじゃん。掃除当番。
私はそっと振り向いた。
後ろの席の男子が、教科書を閉じて鞄に手をかけていた。
「今日、掃除当番だよね?」
普段使わない言葉遣い。そして
声が、思ったより変に明るかった。
「……ああ、そうだったね」
田邉くんはちょっと間を置いてから答えた。
「じゃあ……教室と廊下、どっちがいい?」
私が訊くと、彼は軽く首をかしげた。
「教室でいいよ」
「ラッキー。廊下のほうが空気が軽いし」
自分でも、何を言ってるんだろうと思った。
廊下の空気と教室の空気の違いなんて、今まで考えたこともなかったけれど。
昨日だったはずの掃除当番。
でも、彼はまるで“今日で正解”みたいに、ごく自然に頷いた。
そのことが、引っかかった。
「田邉、昨日は何してたの?」
少しの間があって、「ん?」とだけ返ってきた。
「当番、昨日だったよね。……って、私も忘れてたんだけど」
彼は答えなかった。
机の中で、何か――消しゴムのようなものを指で弾く小さな音がした。
私はその沈黙を、見て見ぬふりをするように笑ってごまかした。
「まあいいや。今日やれば帳消し」
そう言って、私は席を立った。
椅子が少し軋んだ音を立てたあと、
「教室、よろしく」と軽く彼に伝えた。
「任された」
彼の返事も、やっぱり自然だった。
廊下にひとり。
拭き掃除って、たぶん会話しながらやるものだと思ってたけど、
こうして黙々と一人でやってると、
自分の中の音だけがやけに大きく感じられる。
さっきの「そうだったね」って返事。
あれが、どうしてこんなに気になるのか、自分でもうまく言えない。
とても自然だった。やさしいし、無理もなかった。
あんまり自然すぎて、どこにも引っかかる場所がないような感じがした。
彼は私が昨日掃除当番を忘れたのも、ごまかして今日だと言ったのも、全てお見通しなのかもしれない。...完璧に。
それなら昨日、声掛けてくれたって良いじゃん。
そんな気持ちになった。
拭き終えた部分を何度もなぞっていると、
頭の奥で、兄の部屋のドアのことを思い出した。
あの部屋の前で、何回くらい立ち止まったっけ。
声をかけようとして、やめて、
靴下の音だけ立てて通り過ぎたこと、何回あったかな。
返事があるかもわからない沈黙。
それに勝手に気まずくなって、
勝手に自分が悪いような気がして、
なんだか怒りも湧いてきたり、
でも、ほんとうは理由なんて分かってない。
私は今、誰のことを思い出してるんだろう。
雑巾を持ち直して、手を止めずに廊下を進んだ。
窓の外に影がひとつ通り過ぎたけど、
それが何だったのかは、よく見えなかった。
廊下を歩いて教室に戻ると、ほうきを立てかける音が聞こえた。
静かな教室に、小さく確かな音。
それだけで、少し安心した。
「田邉、終わった?」
私が声をかけると、彼は「うん」と短く答えた。
振り返ったときの彼の表情に、何かがあった。
でも、その“何か”が何なのか、うまく言えなかった。
夕方の光が斜めに差し込んでいて、彼の顔が少しだけ陰って見えた。
それでも、整っていた。まるで誰かが意図して作ったみたいに、きれいな輪郭で。
「家、遠いんだっけ?」
「いや、十五分くらい」
「ふーん。じゃあさ、帰ったら何してんの?」
彼は少し間を置いてから答えた。
「夕飯食べて、風呂入って、寝る」
私は思わず笑った。「健康優良児か」
彼も軽く笑ったように見えたけど、声はなかった。
その笑いが、ほんの少しだけ映像みたいだった。
明るいけど、体温は感じにくい。そんな印象。
「兄弟とかいるんだっけ?」
「妹がいる」
答えはすぐだった。迷いも、詰まりもなかった。
でも私は、その“すぐさ”がちょっとだけ気になった。
「へえ。年下? 何歳差?」
「三つ下」
私は頷きながら、ちり取りのゴミをゴミ箱に入れた。
静かな音がして、ほんの少し空気が動いた。
「仲いい?」
そのとき、彼は一瞬だけ動きを止めた。
ほんとうに一瞬だった。でも私は、気づいてしまった。
それから、彼は何も言わなかった。
ちょうどそのタイミングで、蛍光灯がパチッと音を立てた。
光がわずかに揺れて、彼の影が床に伸びた。
私はそれ以上深く聞かず、少し話題を変えることにした。
「なんか、この教室ってさ、夜になると広く感じるよね」
彼は反応しなかった。
だから私は続けた。
「私、お兄ちゃんがいるの」
唐突だったかもしれない。でも、止められなかった。
「三個上。昔はめっちゃ仲良くて、ゲームとか漫画とか一緒に読んでたのに、最近ぜんぜん部屋から出てこないの」
彼はまた黙っていた。ほうきで、黒板の下をゆっくり掃いていた。
「話しかけても、うんとか、うるさいとか、そんなのばっか」
言ってから、自分の声が少しだけ幼く聞こえた。
「変わっちゃったのかな。……それとも私が変わったのかも」
ふたりの間に静けさが落ちてきた。
私は、それを壊すようにもう一つだけ言葉を置いた。
「なんで変わるんだろうね、家族って」
答えはなかった。けれど、その沈黙もまた、会話のようだった。
「ごめん、なんか変な話」
「別に」
その言い方が、どこまでも自然で、あたたかかった。
彼の中にちゃんと人間がいることは、分かる。
だけど、その人間がどこにいるのかは、いまいち掴めない。
帰り際、ドアの前でふと立ち止まった。
光の角度が変わっていて、教室の影がのびていた。
「あのさ」
「ん?」
振り返った彼の顔は、変わらず整っていた。
まるで、何かを映すためだけに用意されたスクリーンみたいだった。
私は窓の外を見ながら、なんでもないふうに言った。
「お兄ちゃんさ、家族のこと嫌いなのかな」
答えは求めなかった。
ただ、その場に置いておきたかっただけ。
軽く肩をすくめて、「じゃね、また明日」と言って、歩き出した。
後ろでドアが閉まる音がして、
その音だけが、不思議と心に残った。
足音が階段の方へ続いていく間、私は後ろを振り返らなかった。
彼の表情は変わらなかった。声の調子も、自然だった。
なにひとつ、不自然なところなんてなかった。
なのに、私はつい、彼の目の動きや口元をじっと見てしまっていた。
感情がない、というわけじゃない。
むしろ、きちんと反応してくれていたと思う。
聞いてくれている感じもあった。ちゃんと、会話だった。
でも――なんだろう。
あまりにも完璧に“それっぽく”て、
まるで、彼の中に「彼」がいないみたいな気がした。
私の話に対する答えは、どれも普通で優しくて、
間違ってなくて、ちゃんとしていて、
だからこそ、どこか物足りなかった。
そう感じている自分のほうが、変なのかもしれない。
でもあのとき、私ははっきりと、
田邉くんの顔を見ながら、
“この人の奥には、何があるんだろう”って、考えてしまっていた。
答えなんて、分かるわけないけど。
それでも、目が離せなかった。
-
朝起きたとき、空気の匂いが少し違っていた。
生ぬるくて、どこか鉄の匂いがした。湿った空気と混じって、鼻の奥に残った。
廊下に出ると、足元がやけに静かだった。
物音ひとつしないいつもの朝。だけど、その静けさはいつもの静けさと少し違っていた。
リビングのドアが半分開いていた。中から光が漏れていたけど、色がなかった。
妹が鎌を持って立っていた。
普段なら見かけようがない、非日常的な大きな鎌だった。
足元には男が倒れていた。見たことのない顔だった。
動かない。というより、もう動けないのかもしれない。
妹は無言だった。僕も何も言えなかった。
ただ、「どうしたの」とだけ訊いた。
それしか言葉が出てこなかった。
妹は少しだけ間をあけて、鎌を床に置いた。
ゆっくりと、音を立てないように。
僕はリビングには入らなかった。
洗面所に向かって、顔を洗って、歯を磨いた。
鏡の中の自分は少し眠そうだった。
いつもより顔色が薄いような気もしたけど、たぶん気のせいだ。
キッチンで食パンをかじった。
焼けた表面が少しだけ硬くて、咀嚼音が耳に残った。
妹はソファに座っていた。
さっきと同じ服。さっきと同じ表情。
鎌はもうなかった。どこへ行ったのか、僕は探さなかった。
父は新聞を読みながら、靴を履いてそのまま出ていった。目も合わせていなかった。
靴を履く音と、玄関のドアが閉まる音だけが、僕のそばに残った。
「行ってきます」
そう言ってドアを開けた。空はまだ曇っていた。
地面が少し濡れていたけど、雨は降っていなかった。
近所の電柱にカラスが止まっていた。僕の方を見ていた。
何か言いたげだったけど、何も言わなかった。
十五分の道のり。いつもは13分。今日は十四分でいいやと思った。
今朝のことを思い出そうとしたけど、うまく映像にならなかった。
色も音も、どこか抜け落ちていた。
学校では、いつも通りのことが、いつも通りに続いていた。
教科書のページをめくる音、誰かのくしゃみ、チャイムの電子音。
でも、そのすべてがどこかでワンテンポずれて聞こえた。
音に輪郭がないというか、自分の耳がフィルターを通しているような感覚だった。
黒板に書かれた太宰の文章が目に入ったけれど、意味はほとんど頭に入ってこなかった。
「死にたい」という文字が見えて、それをしばらく眺めていた。
妹のことを考えていた。
直接的には考えていないつもりだったけれど、頭のどこかで、ずっとそこに引っかかっていた。
あの鎌の重さ、男の姿勢、血のにおい。
それらを正確に思い出そうとすると、映像がにじんで、途中で止まってしまう。
自分の記憶のはずなのに、途中から他人の夢みたいになる。
「田邉ー」
声をかけられて、少しだけ肩が跳ねた。
「またたまごサンド? 本当好きだね」
僕は笑って「落ち着くんだよ」と返した。
それが嘘だったかどうか、自分でもよく分からなかった。
放課後、チャイムが鳴ったとき、掃除当番だったことを思い出した。
だけど僕は、誰にも何も言わずにカバンを持った。
廊下にはすでに人の波が流れていて、そのなかに混ざるようにして、昇降口へ向かった。
外に出ると、空はまだ少し明るかった。
風が制服の袖を通って、うしろへ抜けていく。
僕は少しだけ早足になっていた。
十五分の道のり。今日は、十一分で歩いた。
家のドアを開けると、玄関には誰の靴もなかった。
でも、リビングの奥からテレビの音がしていて、
妹がいるのだとすぐ分かった。
音量は小さく、画面はニュース番組だった。
アナウンサーが誰かの名前を繰り返していた。
僕は靴を脱ぎ、リビングに向かう足音をできるだけ静かにした。
妹はソファに座っていた。
何も言わずに、画面を見つめていた。
さっきまでの教室のざわめきと、ここにある沈黙が、うまくつながらなかった。
でも、どちらが本当の音かと訊かれたら、僕はこっちを選ぶと思った。
妹は、ソファに座ったまま、窓の外を見ていた。
テレビはついていたけど、画面の内容はほとんど入ってこなかった。
僕はコップに水を入れて、静かに一口飲んだ。
部屋の空気が、なんだか重たく感じた。
少しして、妹がぽつりとつぶやいた。
「お兄ちゃん、私のこと嫌いじゃない?」
その言い方に、とくに感情は乗っていなかった。
ただ事実を確認するような声だった。
僕は一瞬だけ黙って、それから「好きだよ」と答えた。
妹は、すこしだけ目を伏せて、
それから自分に向けて言うように、こう言った。
「……疲れちゃったんだ」
声は落ち着いていた。
僕はその言葉の意味をすぐには掴めなかった。
でも聞き返すには、部屋が静かすぎた。
だから、何も言わなかった。
テレビの音だけが続いていた。
明日の天気は曇りのち晴れ。
降水確率20%。風は北から。
妹はじっと画面を見ていた。
でも、本当にそこを見ていたのかは分からなかった。
僕は残っていた水を飲み干して、
コップをシンクに置いた。
音はほとんどしなかった。
-
目覚ましが鳴るより少し前に、目が覚めた。
こういう朝は得をした気がする時もあれば、損をしたように感じる時もある。
カーテンの向こうに、うっすらと朝の気配が見えた。
空は晴れているようだった。
廊下に出ると、兄の部屋のドアは、昨日と同じように閉まっていた。
「圭吾、起きた?」
背中から母の声がした。洗濯かごを抱えながら、いつものように。
「分かんない」
そう答えた自分の声が、昨日よりも少し冷たく聞こえた。
台所では父が新聞を読んでいた。
食卓の上には焼けた食パンと、ゆで卵と、いつものバター。
「お兄ちゃん、今日学校あるんだっけ?」
私が訊くと、母は「あるはずだけどね」と笑った。
その笑い方に、ちょっとだけ力がなかった。
食パンを食べながら、兄の部屋のことを考えていた。
起きているか、寝ているか。
ご飯を食べているか、何か考えているのか。
でも実際のところ、何も分かっていない。
小さい頃は、兄が家にいることが当たり前だった。
ゲームの話とか、学校の話とか、
お菓子の取り合いとか、くだらないやり取りばかりだった。
それがいつの間にか、話さなくなって、
部屋のドアの閉まり方だけが、彼の機嫌を教えてくれるようになった。
何がきっかけだったのかは、よく思い出せない。
本当に、思い出せない。
朝食を終えると、父が新聞をたたんで顔を上げた。
「学校まで送ろうか」
「いいよ、恥ずかしいし」
そう答えて立ち上がると、母が「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。
私は「いってきます」と言った。
でも、その声が兄の部屋まで届いたかは分からなかった。
ドアの前で一瞬、立ち止まった。
ノックしようかと思った。
でも、しなかった。
何を話せばいいのか分からなかったし、
話すべきことがあるのかどうかも分からなかった。
靴を履いて、ドアを開ける。
朝の空気は思ったよりも冷たくて、
指先が少しだけ冷えた。
通学路を歩きながら、田邉くんのことを思い出した。
今日も、いつもと同じたまごサンドを食べるのかなと思った。
昨日の放課後の教室で、
「家族のこと、嫌いなのかな」って、
自分が口にしたその言葉が、
まだどこかに引っかかっていた。
…
「いってきます」
そう言ったあと、私はいつものように玄関に向かった。
けれど、靴を履く前に、なぜか一度だけ、
廊下を引き返した。
兄の部屋の前で、しばらく立ち止まった。
ノックしよう、という意志があったわけじゃなかった。
手が自然に動いていた。
「……圭吾」
そう名前を呼んで、小さくノックをした。
二回。強くもなく、軽すぎるわけでもなく。
返事はなかった。
中から物音もなかった。
だけど、その沈黙には、たぶん何かがあった。
私は、それ以上何も言わず、玄関に戻った。
ドアを開けると、朝の空気が流れ込んできた。
昨日より少し冷たくて、
でもそれがちょっと気持ちよかった。
靴を履いて、階段を下りながら思った。
私は何を期待してノックしたんだろう。
声が欲しかったのか。
無視されたかったのか。
よく分からなかった。
ただ、少しだけ後悔していた。
それは、ノックしたことに対してじゃなくて、
ノックを“してから何もできなかった自分”に対してだった。
駅から学校までの坂道を登っていると、前の方を歩いている男子の背中が見えた。
昨日と同じ制服。昨日と同じ歩幅。
背筋がきれいに伸びていて、シャツはしわひとつなかった。
昨日と、まったく同じだった。
なのに今日は、なぜか声をかけていた。
「おはよう、今日もかっこいいね」
自分でもびっくりするくらい、軽い口調だった。
呼びかけた瞬間、彼の肩が少しだけ動いた。
振り返った田邉くんは、昨日と同じ笑顔をしていた。
きれいに整った笑い方で、表情の筋肉の動きも、タイミングも、全部が“正解”のようだった。
嫌な感じはしなかった。
冷たいわけでも、嘘っぽいわけでもない。
でも──なぜか、その笑顔を見て、
昨日と同じように、また少しだけ胸の奥がざわついた。
「おはよう」
彼はそう返して、歩きながらほんの少し笑い直した。
それもまた、自然で完璧だった。
私は何も言わずに、その背中の数歩後ろを歩いた。
昨日より少しだけ距離が近くて、
でも、そこにはまだ境界線のようなものが残っていた。
なぜ声をかけたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、たまにはこういう朝があってもいいのかもしれないと、
思うことにした。だから続けた。
「昨日はありがとうね」
坂道の途中、少し呼吸が落ち着いてきたところで、私はそう言った。
田邉くんは一歩前を歩いていて、少しだけ振り返った。
「……なんで?」
その言い方は、いつも通りの調子だった。
「掃除当番、私が忘れてたの、分かってたでしょ?」
私は笑いながら言った。
「でも何も言わずに、私に合わせてくれた」
田邉くんは少しだけ眉を下げて、
「そんなことないよ、僕も忘れてたんだ」と返した。
声に詰まりはなかった。
だけど私は、ほんの少しだけ沈黙を挟んで、
「……やっぱ君、モテそうだね」
と言った。
田邉くんは反応しなかった。
だから私は、
「よっ、イケメン」
と軽く手を上げて茶化すように続けた。
それでも彼は、やっぱり自然に笑った。
まるで、その場にぴったりの表情が、
最初から用意されていたみたいだった。
空は今日も、昨日と同じように明るかった。
4限目の現代文は、予想通り眠くなった。
野村先生の声はいつも通り淡々としていて、
板書はきれいだけど、感情の起伏はあまりなかった。
後ろの席から、ノートをめくる音が小さく聞こえた。
おそらく、田邉くんだ。
彼の気配は、妙に落ち着いていて、
それだけで教室の空気が少し整う気がした。
「この文の“移動する電車”は、なぜ必要だったのか――」
野村先生の声が、教室にすべるように広がった。
誰も答えず、静かにページをめくる音だけが続いた。
チャイムが鳴ったとき、私は思わず肩の力が抜けた。
後ろから椅子を引く音がして、気配が少しだけ近づいた気がした。
振り向くつもりはなかったのに、
なぜか視線が後ろへ滑っていった。
田邉くんが、たまごサンドを取り出すところだった。
昨日と同じ。包みも、動きも、表情も。
「……今、見てたでしょ」
クラスの友達、綾が声をひそめて笑いながら言った。
「見てないし」
「絶対見てたって〜! たまごサンド好きだな〜とか思ってたんでしょ」
「いや、ほんとに違うから」
私は笑ってごまかした。
箸を取り出して、弁当のふたを開ける。
でも──
自分が思ってたよりも長く、後ろを見ていたことに、
少しだけ驚いていた。
弁当のふたを開けながら、
私はまた少しだけ、後ろを見た。
田邉くんは、いつも通りたまごサンドを取り出していた。
包みを開ける動きが、昨日とまったく同じだった。
でもそのまま席に座るかと思ったら、
サンドイッチを片手に、隣の列のグループに向かって歩いていった。
そこには、男子と女子が二人ずつ。
笑い声がぽつぽつと飛び交っていて、
田邉くんが加わった瞬間、輪が自然に広がったように見えた。
「ほらね、やっぱり人気者」
「てか芽衣、今日の朝も田邉くんと一緒だったじゃん」
「……たまたまだし」
「ふーん、たまたまねえ〜」
私は箸を止めずに、「うん」とだけ返した。
見ていたつもりはなかったけど、
気づけば目が、またそっちに向いていた。
田邉くんは誰かの話に笑っていた。
声は聞こえないけれど、笑い方はとても自然だった。
だけど、
どうしても“演技みたいだな”と思ってしまう瞬間がある。
別に不自然ではない。冷たくもない。
でも、整いすぎている。
まるで“ちゃんとした人間”を、
どこかで習った通りに再現してるみたいだった。
「好きなの?」
「違うってば」
それだけ言って、私は卵焼きを口に運んだ。
好きとか、そういうのじゃない。
チャイムが鳴って、今日の授業がすべて終わった。
教室のざわめきが、少しずつ廊下に流れていく。
椅子の音、鞄のファスナー、誰かの笑い声。
私は帰り支度をしながら、鞄の中をぼんやり見ていた。
なぜか、もう一回だけ後ろを振り返りたくなった。
田邉くんは、まだ席に座っていた。
鞄を閉める動きも、姿勢も、静かで落ち着いていた。
私は立ち上がって、廊下に向かいかけたけど、
何となく足を止めて、声をかけた。
「ねえ」
田邉くんが顔を上げた。
「ん?」
「今日、自分の席でたまごサンドじゃなかったね」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
「あのグループ、席が空いてたから」
「そっか。田邉は人気者だもんね」
そう言った自分の声が、ちょっと軽すぎた気がした。
「……って、友達が言ってただけだから。別に私がそう思ってるわけじゃないし」
「うん、分かってる」
彼の返事は、優しかった。
だからこそ、私はつい、こう言ってしまった。
「……ねえ、私の名前、知ってる?」
一瞬だけ間があって、田邉くんはまっすぐに答えた。
「なんでそんなこと。清水さん、でしょ?」
私は、思っていたより早く返ってきたその言葉に、
なんて答えていいかわからなかった。
「……なんでもない」
言葉がそのまま教室の空気に溶けた。
「じゃあね」
「また明日」
教室を出て廊下に出たとき、
足音が少しだけ大きく響いた気がした。
そして私は、さっきの会話の意味を、
自分でもうまく掴めないまま、歩き出した。
-
玄関を開けると、靴の並びは朝のままだった。
家の中は静かで、キッチンの時計の音だけが遠くで響いていた。
両親は珍しく留守にしているようだ。
私はリビングを横切り、廊下を進んだ。
兄の部屋のドアは閉まっている。いつも通り。
ドアノブに手をかけるわけでもなく、
ノックをするわけでもなく、
ただ、目の前に立ってみた。
中からは何の音もしなかった。
……今日も、返ってこない。
私はしばらくその場にいたけれど、何も起きなかった。
それから、ふと、田邉くんのことを思い出した。
「清水さん、でしょ?」
そう言ったときの声。
ちゃんと返ってきた答え。
言葉も、態度も、形としては完璧だった。
でも、何かが足りなかった気がする。
兄は、何も言わない。
田邉くんは、完璧に返事をくれる。
だけど、どちらの言葉にも、
その先に触れられない感じがある。
まるで、手前までは道があるのに、
そこから先は靄がかかっていて、
“これ以上進んではいけない”と、
自分のほうが思い込んでいるような。
...目の前の扉はいつだって開けられるのに
私は、あの掃除当番の日、
なんであんな話をしたんだろうって、少し思い返してみた。
家族の話なんて、普段はあまりしないのに。
でも今なら、
少しだけ分かる気がする。
届かないところに何かがある気がして、
誰かに話してみたかったのかもしれない。
-
教室の窓から見える空は、いつもきれいだった。
晴れていても、曇っていても、それなりにきれいだった。
でも私は、そこに何も感じなかった。
他の子たちは、昼休みに笑って、帰り道で喋って、
家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って、眠るんだと思う。
私も、同じようにしていた。
ちゃんと笑って、ちゃんと喋って、
できるだけ「誰かが期待する妹」になろうとした。
それはたぶん、努力という名前の行為だった。
父が振り向くには、どうしたらいいか。
兄が目を合わせてくれるには、何が必要なのか。
わからなかったから、とりあえず笑ってみた。
世界のなかに自分の居場所をつくるのは、
思っていたよりむずかしい仕事だった。
ある日、ひとつの音が止まった。
それは誰かの叫びかもしれないし、
自分の靴が床に落ちた音だったかもしれない。
その瞬間、私の中のなにかが、
ほんのすこし静かになった。
それが良いことかどうかは、よくわからない。
でも、その静けさは今もまだ、どこかに残っている。
だから私は、もうあまり喋らない。
音を立てずに、部屋の隅で座っている。
それがいちばん、楽だからだ。
-
空はよく晴れていた。
昨日より少しだけまぶしかった気がするけど、正確なところはわからない。
朝の光は、だいたいいつも似たような顔をしている。
靴音を聞きながら、学校へ向かう。
途中で犬の鳴き声が聞こえたけど、すぐに止んだ。
「よっ、イケメン」
後ろから声がかかって、肩を軽く叩かれた。
僕は振り返って笑った。
いつものように、ちゃんと。
「朝から元気だね」
「きみがが落ち着きすぎなの」
彼女は僕の隣に並ぶと、特に急ぐ様子もなく歩きはじめた。
「あのさ」
少し間を置いて、彼女が言った。
「……いや、やっぱいいや。今度にする」
僕は返事をせず、代わりに少しだけ歩幅を合わせた。
少し間があいて、また彼女が言った。
「じゃあ、代わりにどうでもいい話していい?」
「どうぞ」
「昨日、夢でさ、学校の机が全部“トースター”になってたの」
僕は彼女の顔を見た。
「……パン焼くやつ?」
「うん。で、席に座ろうとすると“ガチャン”って沈んで、勝手にパン焼き始めるの」
「熱そうだね」
「そう、めっちゃ熱いの。しかもみんな真面目に授業受けてるのに、
教室じゅうパンの匂いなの」
「先生は?」
「ふつうに授業してた。たまに『2段階で焼きましょう』とか言ってたけど」
僕は何を想像すれば正解なのかわからなかった。
「で、私だけ間違えて“冷凍うどん”持ってきちゃって。
入れたら中でバチバチに焦げて、爆発して起きた」
「……それはうどんのせいだね」
「たぶん」
彼女は軽く笑った。
僕も少しだけ口元をゆるめた。
そのやりとりは、とても他愛のないものだったけど、
どこかで“続かなくてもいい”という了解が、お互いにあった気がした。
学校が近づくにつれて、靴音の数が増えてきた。
誰かの話し声が、風にまぎれて遠くから聞こえてくる。
僕たちはそのまま歩き続けた。
たぶん今日も、何も起きない。
でも、それはそれで、少し安心だった。
校舎に入ると、空気が少しだけ冷たくなった。
廊下を抜けて教室に入ると、まだ半分も席は埋まっていなかった。
僕はいつものように席に向かって歩いた。
途中で、近くの男子が声をかけてきた。
「おー、誰かと一緒に登校って珍しいじゃん」
僕は軽く笑ってみせた。
「たまたま一緒になっただけ」
「ふーん」
彼は、僕の後ろの席をちらっと見てから、
わざとらしく肩をすくめた。
「最近、清水さんと仲いいよね」
「そうかな」
「よく話してるじゃん。」
僕は席に鞄を置いて、ゆっくり椅子を引いた。
「会話くらいは、誰でもするでしょ。席近いし」
「そりゃそうか」
彼は笑って、それ以上何も言わなかった。
僕は窓のほうを見た。
ガラス越しの光は白くて、どこか嘘っぽかった。
彼女はもう席についているだろう。僕の席の方から話し声が聞こえる。
背中のあたりが、ほんの少しざわついている気がした。
一限目は数学だった。
ノートに公式を書き写していたはずなのに、ふと目を離した隙に黒板がひとつ先に進んでいた。
チョークの音が、今日は少しだけ耳に響いた。
僕は数式の並びよりも、右の列に座っている誰かの靴下の柄が気になった。
隣の席でペンを落とす音がしたときも、手が遅れた。
いつもと同じ時間が、ほんの少しだけズレて流れていく。
時計の針はいつも通り進んでいたけれど、
僕のなかだけで、時間の歯車がかすかに噛み合っていなかった。
二限目の終わりに、先生が「じゃ、宿題出すね」と言った。
その声も、少し遠く聞こえた。
でも誰も気にしていない。
僕だけが、その「少しずれた何か」に気づいていた。
チャイムが鳴って昼休みに入る。
いつもなら、そのままカバンからサンドイッチを取り出して、
自然に別のグループの席に移る。
でも今日は、それをしなかった。
前の席に座る彼女のもとに、友達が二人ほど近づいてきた。
いつものように机を少し寄せ合って、話しながらお弁当を広げている。
その何気ない輪の中で、
彼女はいつも通り笑っているように見えたけど、
弁当箱の蓋を開けるとき、
一瞬だけ、ほんの少し、表情が緩んだように思えた。
僕は、なぜだか立ち上がって、声をかけていた。
「一緒に食べる?」
自分の声なのに、少し他人のものみたいだった。
彼女が顔を上げた。
ほんの一瞬、何かを探るような目をして、
それから、うんと頷いた。
その返事を聞いたとき、
僕の中でずれていた何かが、
少しだけ元に戻ったような気がした。
彼女の隣に座っていた友達が、ちらっと僕の方を見た。
少しだけ間をあけて、ちょっと気まずそうにに言った。
「私たちも、一緒でいいの?」
僕は迷わず答えた。
「もちろん」
その返事を聞いた友達は、ちょっと驚いたように目を見開いたあと、
なんとなく納得したように笑った。
僕は自分の席からサンドイッチを持って、彼女たちの机に少しだけ近づいた。
笑い声やスマホの画面、
箸を動かす音、
サンドイッチの袋が鳴る音。
それらの音が、昼休みの空気にまじって、
やけに静かに感じられた。
僕が近づくと、彼女の友達が少しだけ体をずらして、自然に間を空けてくれた。
空気がやわらかくなるには、もう少し時間がかかりそうだったけれど、
それでも誰も変に構えている感じはなかった。
「ねえ、聞いて」
友達のひとりが、急に声を弾ませた。
「うちの犬、昨日ベランダに人形持っていって、それをまくらにして寝てたの」
「え、それもう犬っていうか、子供じゃん」
「でしょ?しかも寝言みたいな声出しててさ、ちょっと笑っちゃった」
くだらない話だと思ったけど、
その“くだらなさ”が、ちょうどいい温度だった。
僕はサンドイッチの袋を開けた。
たまごの匂いがふわっと鼻をくすぐった。
「あ、それ、またたまごサンドでしょ」
前に座っていた彼女が言った。
「……なんで知ってるの?」
僕が訊くと、彼女は少しだけ笑って、
返事をしようとはしなかった。
代わりに、隣の友達が言った。
「そりゃあ、田邉くんはクラスの人気者だからね」
「そうそう、何食べてるかくらい、誰でも見てるよ」
冗談まじりの言葉に、僕は何も言わず笑った。
本当に人気者なのかどうかは、自分では分からない。
でも、見られてるというのは、たぶん本当なんだろう。
その「見られている」という感覚が、
不思議と今日は、あまり嫌じゃなかった。
「よー」
後ろから声をかけられた。
いつも昼を一緒に食べている男子だった。
ニヤニヤした顔で、僕の机に手をついてくる。
「今日、お昼さ。あっちで食ってたじゃん、清水さんとこ」
僕はカバンの肩ひもを持ち上げながら答えた。
「別に、そんなつもりじゃないよ」
「へえ〜?」
彼は目を細めて、からかうように笑った。
「俺、一回も誘われたことねーぞ」
僕は机に手を置いたまま、ふと思いついて訊いた。
「僕のこと、“人気者”だって言ってたけど、どう思う?」
友達は一瞬、驚いたように口を開けた。
というか、唖然としていた。
「……お前、そんなこと今気づいたの?」
僕は何も言わなかった。
「学年で一番モテてるって、普通に言われてるぞ。
清水さんのグループでも、そう言ってたし」
僕は視線を少しだけ落とした。
「でも、モテてないよ。告白だって、されたことない」
「そりゃ、お前がそーゆー雰囲気からだよ」
友達は、冗談めかすでもなく、まっすぐ言った。
「隙がないっていうか、さ。
いいヤツなのはみんな分かってんのに、
なんか……ちょっと手前で止まっちゃう感じ?」
僕は、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。
でも、言われてみれば、自分でもそうかもしれないと思った。
家に帰ると、玄関の空気が少しだけ冷たく感じた。
でも、それは多分、気のせいだった。
玄関に靴が二足並んでいて、いつもの位置にある。
僕は靴を脱ぎ、部屋の奥へと進んだ。
リビングの隅に、妹がいた。
窓の外を見ていた。
膝を抱えて、じっとしていた。
僕が「ただいま」と言っても、返事はなかった。
その沈黙自体は、いつものことだった。
でも、今日の“いつも”は、どこか違った。
声をかける前に感じる、目に見えない距離。
呼吸のリズムが、空間と噛み合っていないような感じ。
「……なにしてんの」
僕は、テレビのリモコンを手に取りながら訊いた。
妹は首を動かさなかった。
目だけが、窓の外を見たまま。
「雨、降るかな」
声は細くて、届いてるのか分からないほどだった。
それきり、彼女は何も言わなかった。
僕はそれ以上何も聞かず、リモコンを戻して、
自分の部屋に戻った。
ドアを閉めたとき、ノブの感触が少し冷たく感じた。
鞄を机に置き、ベッドに倒れ込む。
天井のシミをぼんやり見ながら、
妹の表情を、もう一度思い返す。
何かを考えていたようにも見えたし、
何も考えていないようにも見えた。
その“空白”が、いつもより濃かった。
僕は目を閉じて、少しだけ眠った。
夢は見なかった。
でも、誰かに見られているような感覚だけが、
起きてもまだ、うっすらと残っていた。




