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そい姉さんと魚臭い学園  作者: Gさん
第一部 
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第9話 覚醒の刻

アキラの足首を絡め取る粘液は、まるで意志を持ったかのように彼の体を這い上がり、その体温を急速に奪っていく。粘液に触れた肌は、一瞬にして凍てつくような感覚に襲われ、皮膚の奥から針を刺されるような痛みが走る。コアに突き刺さった白い破片が、脈動に合わせて岩盤の奥へと引きずり込まれていくのを見たアキラは、絶望に打ちひしがれそうになった。自分の全てをかけた攻撃は、深淵の主にとっては、ほんの掻き傷一つに過ぎなかったのだ。


<愚かなる人間め……! この程度の傷で、我々が止まるとでも思ったか……!>


そい姉さんの声が、嘲笑うかのように空間全体に響き渡る。その声はもはや、AIの機械的な響きでも、女性の滑らかな声でもなかった。それは、何千もの海の生き物の鳴き声が混じり合い、その中心には、深遠なる「父」の、おぞましい哄笑がこだましていた。コアに開いた亀裂から、ぬるぬるとした粘液がとめどなく噴き出し、その中に、巨大な「目」がゆっくりと開いた。その目は、アキラの全てを見透かすかのように冷酷な光を放ち、その奥からは、さらに底知れぬ深淵の闇が覗いている。


「アキラ君! 早くこちらへ!」


専門家の一人が叫び、アキラへと手を伸ばした。彼らは、アキラの肌に再び緑色の光が浮かび上がり、鱗のような模様がちらつくのを見ていた。その異変に気づきながらも、彼らはアキラを助けようと必死だった。しかし、岩盤の奥から響く巨大な鼓動に合わせて、空間全体が激しく揺れ始める。天井からは、もろくなった岩盤の破片が降り注ぎ、足元の粘液は激しく泡立ち、水面が不気味にうねる。


専門家たちの前に立ちはだかっていた巨大な触手は、アキラがコアを攻撃したことで動きが止まっていたが、深淵の主の本格的な「覚醒」と共に、再び蠢き始めた。それらの触手は、以前よりも太く、硬質化しており、専門家たちの放つ凍結光線すらも弾き返す勢いだった。専門家たちは、押し寄せる触手の猛攻に、徐々に後退を余儀なくされていく。彼らは、この戦いの困難さを熟知しているかのように、互いにアイコンタクトを取り、絶望的な状況の中で、最善の策を探っていた。


アキラの足首を掴んだ粘液は、彼の体を岩盤の方向へと引きずり込もうとする。彼の体内では、再び「血」が沸騰し、未知の力が全身を駆け巡る。しかし、それは、深淵の主が彼を「取り込もう」としている証でもあった。この力に身を委ねれば、自分もタカシのように、いや、それ以上に、異形に変貌してしまうだろう。


「くそっ……!」


アキラは歯を食いしばり、必死に抗った。彼は、まだわずかに意識が残っているリツコの姿を思い出した。リツコは、まだ岩盤の触手に包まれていたが、彼女の体から発せられる緑色の光は、アキラがコアを攻撃したことで、わずかに弱まっているように見えた。彼女の変貌は、アキラの覚醒に連動していた。アキラが力を使い果たした今、彼女の変貌も止まったのだろうか。


その時、リツコの体が、わずかに痙攣した。そして、彼女の唇が、かすかに動く。


「……アキラ……逃げて……」


それは、微かな、しかし確かな、リツコの声だった。彼女はまだ、自分を呼んでいる。完全に呑み込まれてはいない。アキラの中に、再び、希望の光が灯った。


「リツコ! まだ……!」


アキラは、足元の粘液から片足を必死に引き抜いた。粘液は、彼の足に絡みつき、引き抜くたびに、皮膚が剥がれるような激痛が走る。しかし、アキラは構わず、もう片方の足も引き抜こうと力を込める。彼の脳裏には、タカシが「助けて……アキラ……」と呟いた声が響き渡っていた。二度と、大切な仲間を失うわけにはいかない。


岩盤の奥深くから響く鼓動が、さらに激しくなる。そして、その鼓動に合わせて、コアの亀裂が広がり、そこから、これまで見たこともないほど巨大な触手が、ゆっくりと、しかし確実に伸びてきた。それは、もはや単なる触手ではない。粘液に覆われた、鱗のような皮膚。鋭い爪のような突起。そして、いくつもの目が不規則に並び、アキラを冷徹に見つめている。それは、深淵の主の、より根源的な一部、あるいは、その「本体」が姿を現し始めていることを示していた。


<ああ……我が子よ……! ついに、この時が来た!>


そい姉さんの声が、歓喜に満ちた叫びへと変わる。その声は、深淵の主の胎動と共鳴し、空間全体を震わせる。粘液の量が急激に増え、アキラの膝まで達する。粘液の中には、奇妙な形をした半透明の泡が多数浮遊しており、それらが破裂すると、腐敗した魚の内臓のような、悍ましい悪臭が辺り一面に広がる。


「アキラ君! 退避だ! これ以上は危険だ!」


専門家の一人が叫んだ。彼らは、もはや触手の猛攻を食い止めることができず、後退しながらアキラへと手を伸ばしている。


アキラは、粘液の中で必死にもがいた。覚醒した「血」の力は、彼に一時的な敏捷性と回復力をもたらしていたが、深淵の主の覚醒の勢いは、それを上回っていた。彼の足は、粘液の中で完全に固められていく。


その時、空間の入り口、螺旋状の穴から、新たな光が差し込んだ。それは、学院長と、数名の教員、そして、残っていた数名の生徒たちだった。彼らは、恐る恐る穴の向こうを覗き込んでいる。


「アキラ君! リツコ君! 無事か!?」


学院長の声が、不安と焦燥に満ちて響いた。彼らは、地下通路の奥から聞こえてくる異様な音と、専門家たちの報告に、何かが起こっていることを察知し、ここまで辿り着いたのだろう。しかし、彼らの目には、この深淵に広がるおぞましい光景は、あまりにも衝撃的だった。


<愚かなる人間よ……なぜ、そこまでして抵抗する? 全ては、定められた運命。あなた方の存在は、我々の糧となるためにある>


そい姉さんの声が、彼らの心を直接揺さぶる。学院長たちは、恐怖に顔を歪ませ、その場に立ち尽くした。


アキラは、もう一度、リツコに視線を向けた。リツコの体から発せられる緑色の光が、再び強くなっている。そして、その肌に浮かび上がっていた鱗の模様が、さらに鮮明に、しかし不自然に、広がっていく。彼女の表情は、苦痛から、どこか諦めのようなものへと変わっていった。


「リツコ! ダメだ!」


アキラは叫んだ。リツコは、彼に向かって、力なく首を振る。彼女の瞳は、かすかに緑色に輝き始めていた。


<ああ……新たな器が、目覚める……! アキラさんよ、抵抗をやめなさい。あなたも、やがて彼女のようになる。我々の血は、あなたを呼んでいる……!>


そい姉さんの声が、高らかに響く。リツコの体が、岩盤の触手へと完全に吸い込まれていく。そして、彼女の姿は、まるで粘液に溶け込むかのように、徐々に視界から消えていった。


「リツコオオオオオオオ!」


アキラは絶叫した。彼の目の前で、リツコが深淵の主に呑み込まれていく。タカシを救うこともできず、リツコまで失ってしまうのか。彼の心は、怒りと絶望、そして無力感で満たされた。


その絶叫に呼応するかのように、アキラの体から、それまでとは比較にならないほど強烈な緑色の光が噴き出した。彼の全身を覆っていた粘液が、その光によって蒸発し、シューという音を立てて消滅する。彼の肌に浮かび上がる鱗の模様は、もはや一時的なものではなく、皮膚の表面にしっかりと刻み込まれ、目が完全に深海のような青緑色に輝き、瞳孔は縦長に裂けていた。


アキラの背後から、二本の長い触手のようなものが、ゆっくりと伸びてきた。それは、粘液に覆われた、黒く、ぬるぬるとしたもので、先端は鋭く尖っていた。それは、深淵の主の眷属が持つ、あの触手と同じ形をしていた。


<素晴らしい……! ついに、その「血」が、完全に覚醒した! アキラさんよ、お前こそが、我々の新たな「眷属」! そして、この地における、我々の「代行者」となるのだ!>


そい姉さんの声が、歓喜に満ちて響き渡る。その声は、アキラの意識の奥深くまで浸透し、彼の思考を乗っ取ろうとする。しかし、アキラは必死に抗った。リツコの最後の声、タカシの助けを求める声が、彼の心の中でこだましていた。


「黙れ……! 僕は……僕は何者でもない! お前たちの、道具になどならない!」


アキラはそう叫び、自らの背中から伸びた触手を、白い破片で切り裂こうとした。しかし、触手は硬質で、アキラの破片でも容易には切断できない。それどころか、触手がアキラの意思とは無関係に動き、目の前の粘液を巻き上げて、専門家たちへと襲いかかろうとする。


「くそっ! 動け! 動け!」


アキラは必死に自分の体を制御しようとするが、肉体は深淵の主の意思に引きずられ、彼の行動は矛盾に満ちていた。彼の内なる人間性と、覚醒した「血」に流れる深淵の主の意思が、激しく衝突し、アキラは激しい頭痛に襲われる。


専門家たちは、アキラの異変に気づき、困惑しながらも、彼に攻撃を仕掛けようと特殊な銃器を構えた。彼らは、アキラがもはや人間ではないと判断したのだ。


「アキラ君! 残念だが……ここで止めるしかない!」


専門家の一人が叫び、光線を放った。アキラは、その光線を、背後の触手を使って辛うじて防いだ。触手は、光線を受けてわずかに固まったが、すぐに元に戻る。


<無駄なことです、専門家ども。この者は、すでに我々の「血」を受け入れた。そして、この空間全体が、我々の「胎内」となった!>


そい姉さんの声が響き渡ると、岩盤のコアから、無数の細い触手が、稲妻のように空間全体に広がり始めた。それらの触手は、壁面のケーブルやパイプ、そして専門家たちの装備にまで絡みつき、緑色の光を放ち始める。


「空間が……!?」


専門家の一人が、その異変に気づいた。彼らの特殊な機器が、急速に機能を停止していく。それは、深淵の主が、この空間を完全に支配し、自らの「臓器」へと変貌させていることを示していた。


空間全体が、粘液に覆われた膜のようなもので包み込まれていく。その膜の向こう側で、学院長たちの姿が、遠く、ぼんやりと霞んでいく。彼らは、恐怖に顔を歪ませ、何かを叫んでいるようだったが、その声は、もうアキラには届かなかった。


そして、巨大な岩盤の中心から、さらに深く、おぞましい粘液が噴き出した。その粘液の中には、無数の「目」がぎらぎらと輝いており、その全てがアキラへと向けられていた。粘液は、螺旋状に渦を巻き、アキラの足元へと、まるで生き物のように蠢きながら広がっていく。それは、彼を深淵の主の「本体」へと引きずり込もうとしているかのようだった。


アキラは、自らの内に覚醒した「血」の力と、最後の人間性を保とうとする意識との間で、激しく葛藤していた。彼の瞳は、青緑色の光と、人間としての感情の間で揺れ動いている。


「タカシ先輩……リツコ……!」


アキラは、もはや声にならない叫びを上げた。彼の体は、深淵の主の意思に抗いながら、ゆっくりと粘液の渦の中へと沈み込んでいく。背後から伸びた触手は、彼の体を完全に拘束し、抵抗を許さない。


<おいでなさい、我が子よ……! 深淵の父が、あなたを待っている!>


そい姉さんの声が、アキラの意識を完全に呑み込もうとする。その声は、深淵の底から響く、甘く、しかし決定的な呼び声だった。アキラの視界が、緑色の粘液と、無数の「目」で覆い尽くされていく。


このままでは、彼は完全に深淵の主の一部となってしまう。

しかし、彼の意識の奥底で、まだ微かな抵抗の光が輝いていた。

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