第8話 胎動する血脈
アキラが白い破片を握りしめ、深淵の主の一部である巨大な触手へと向かって駆け出したその瞬間、彼の体内で何かが弾けた。それは、まるで凍てついていた血液が、一瞬にして沸騰したかのような感覚だった。白い破片から放たれる微かな光が、アキラの腕を伝って全身を駆け巡り、彼の視界が緑色の光で満たされる。耳の奥では、そい姉さんの叫びにも似た声が、何千もの海の生物の鳴き声と混じり合い、彼の内側に直接響いてくる。
<覚醒なさい、アキラさん……我々の「血」を継ぐ者よ……。我々の「父」が、あなたを呼んでいる……!>
その声が、アキラの頭の中を嵐のように駆け巡る。嘘だ、と否定しようとする理性とは裏腹に、彼の肉体は熱く脈動し、血潮が異様なリズムを刻み始めた。幼い頃から感じていた、どこか人とは違うという漠然とした感覚。それが、今、確かな「力」となって、彼の全身を満たしていく。
アキラの肌に、緑色の光が薄く浮かび上がった。そして、その光の中で、彼の皮膚の表面に、かすかに鱗のような模様が浮かび上がっては消える。目は、深海の色にも似た、不気味な青緑色に輝き、暗闇の中でも周囲の細部まで見通せるようになった。足元の粘液のぬるつきが、まるで自分の皮膚の一部であるかのように感じられ、その中で蠢く小さな生命体の動きすらも、鮮明に感じ取れる。
「これが……僕の、血……!」
アキラは驚愕した。恐怖よりも、未知の力が己の内に宿ることに、奇妙な高揚感を覚えた。しかし、その高揚感の裏には、深淵の主が彼の内なる欲望に付け込もうとする甘美な誘惑が潜んでいることも、同時に感じ取っていた。彼はその誘惑を振り払うように、白い破片を強く握りしめた。
白い破片は、彼の「血」の覚醒に呼応するように、さらに強い光を放つ。その光は、触手の黒い粘液を焼くかのように蒸発させ、触手の動きを鈍らせる。アキラは、その光を盾に、巨大な触手へと肉薄した。
巨大な触手は、まるで山のようにそびえ立ち、その先端に開いた巨大な口からは、おぞましい粘液が滴り落ちている。口の中には、無数の鋭い歯が不規則に並び、深淵へと続く暗闇が広がっていた。その口から、腐敗した甘い匂いが、猛烈な勢いでアキラに襲いかかる。
アキラは、白い破片をまるで剣のように構え、その巨大な口元へと突き出した。破片から放たれる光が、口の中の闇をわずかに照らし出すと、口の内壁に無数の小さな目が開閉しているのが見えた。
<愚かな! その程度の力で、この偉大なる父を止められるとでも!?>
そい姉さんの声が、嘲笑うかのように響いた。巨大な触手は、アキラを叩き潰そうと、猛烈な勢いで振り下ろされる。アキラは、覚醒した「血」の力で、信じられないほどの敏捷性を見せた。彼は粘液にまみれた床を滑るように移動し、触手の攻撃を紙一重でかわす。
しかし、攻撃は止まらない。巨大な触手が連続して降り注ぎ、アキラは防戦一方となる。その衝撃で、岩盤の壁から無数の破片が飛び散り、空間全体が激しく揺れた。このままでは、リツコが危険だ。
アキラは、ちらりとリツコの方に目をやった。リツコは、まだ緑色の光に包まれたままだが、その体からは、鱗のような模様がさらに鮮明に浮かび上がっていた。彼女は苦痛に顔を歪めているが、完全に変貌しきってはいない。彼女の役割は、自分を「覚醒させること」。ならば、彼女はまだ、自分を助けてくれるはずだ。
「リツコ! 聞こえるか!?」
アキラは叫んだ。彼の声は、空間を満たすおぞましい咆哮と、そい姉さんの声に掻き消されそうになる。
<無駄です、アキラさん。彼女は、あなたをここへ導くための、そしてあなたの血を覚醒させるための存在。役目はもうすぐ終わり、いずれ我々の仲間となるでしょう>
そい姉さんの声が、勝利を確信したかのように響く。リツコの体が、ゆっくりと岩盤の奥へと引きずり込まれていく。
アキラは歯を食いしばった。リツコを助けなければ。そして、タカシを。
彼の心の中に、タカシのあの微かな声が蘇った。「――助けて……アキラ……」。
その声は、深淵の主の誘惑的な囁きを打ち消す、唯一の光だった。
アキラは再び、巨大な触手へと突進した。今度は、その攻撃をかわすだけでなく、反撃の糸口を探る。彼は白い破片を構え、触手の表面に開閉する「目」の一つへと狙いを定めた。
「そこだ!」
アキラは渾身の力で白い破片を突き刺した。破片が目にめり込むと、触手は激しく痙攣し、おぞましい液体を噴き出す。そして、そい姉さんの声が、初めて苦痛に歪んだ。
<グァアアアアァァァ……! よくも……!>
巨大な触手が、苦悶の叫びを上げながら激しく暴れ出す。その暴れぶりは、空間全体をさらに揺るがし、壁面に新たな亀裂を生じさせた。天井から岩の破片が降り注ぎ、粘液の波がアキラに襲いかかる。
アキラは、好機を逃さない。白い破片を何度も何度も触手の目に突き刺していく。その度に、触手は黒い粘液をまき散らし、そい姉さんの叫びが空間に響き渡る。
<やめろ! 愚かなる人間が……! あなた自身の血に、背を向けるというのか!?>
そい姉さんの声は、もはや母性的な響きを失い、怒りと苦痛に満ちた、異形の叫びとなっていた。その声は、アキラの頭の中にも直接響き、彼の思考をかき乱そうとする。しかし、アキラはタカシとリツコの顔を思い出し、その誘惑を断ち切った。
アキラが触手を攻撃し続ける中、空間の奥から、さらに異様な、しかしどこか聞き覚えのある音が聞こえてきた。それは、水の流れる音と、微かな機械の駆動音だった。
「これは……外から誰かが!?」
アキラは、ふと、学院長が「外部の専門家」を呼んだ、と言っていたことを思い出した。彼らが、試験栽培棟の異常に気づき、この地下へと侵入しようとしているのかもしれない。
その予感は当たっていた。鋼鉄の扉の螺旋状の穴から、強い光が差し込み、専門家たちの影が通路に現れたのだ。彼らは、特殊なライトを手に、重装備でアキラたちの方へと進んでくる。彼らの表情は、緊張と、しかしどこか安堵のような色が混じっていた。
「アキラ君! やはりここにいたか!」
専門家の一人が、アキラの名を叫んだ。彼らは、アキラが持っている白い破片と、彼から放たれる微かな緑色の光に気づいているようだった。
<邪魔者どもめ! この覚醒を、止めることはできない!>
そい姉さんが怒りの咆哮を上げた。巨大な触手が、専門家たちへと向かって襲いかかる。専門家たちは素早く隊列を組み、手に持った特殊な銃器のようなものを構えた。銃器の先端から、眩い光が放たれると、その光が触手に触れた部分を凍らせるかのように固めていく。
「アキラ君! そこから離れるんだ! 我々が食い止める!」
専門家がアキラに叫んだ。彼らは、この異常な存在との戦いに慣れているようだった。彼らの攻撃は、触手の動きを一時的に麻痺させる効果があるようだ。
アキラは、その隙を見逃さなかった。彼は再び、そい姉さんの本体である岩盤へと視線を向けた。そい姉さんの声が苦痛に満ちている今が、最大のチャンスだ。
岩盤の中心には、脈打つように輝く、球状のコアが見えた。それが、そい姉さんの、そして深淵の主の、真の心臓部なのだろう。
「あれを、破壊する!」
アキラは、白い破片を強く握りしめ、コアへと向かって走り出した。専門家たちは、巨大な触手の猛攻を受け止めながら、アキラの進路を確保しようと奮闘している。彼らの援護がなければ、アキラはここまで辿り着けなかっただろう。
アキラがコアに近づくにつれて、そい姉さんの声はさらに激しく、おぞましい叫びへと変わっていった。
<来るな! 来るな! お前も、我々の一部になるべき存在! なぜ、逆らう!? なぜ、父の呼び声に応えぬのだ!?>
アキラの脳裏に、かつてそい姉さんが語りかけた優しい声が蘇る。あの頃の彼女は、生徒たちの心に寄り添う、良き教師だった。それが、今やこんなおぞましい存在になってしまった。それは、タカシの欲望に付け込み、彼の骨を喰らい、そして今、リツコをも変貌させようとしている。
「もう二度と、誰の心も、食い物にはさせない!」
アキラは叫び、白い破片を振り上げた。破片から放たれる光が、コアを包む緑色の光を打ち消すように、空間全体に拡散していく。
アキラは、渾身の力で白い破片をコアへと突き刺した。
その瞬間、空間全体が、まばゆい光に包まれた。そして、地を揺るがすほどの、巨大な悲鳴が響き渡る。その悲鳴は、そい姉さんの声と、深淵の主の咆哮が混じり合ったような、おぞましい音だった。
コアから、緑色の粘液が噴き出した。粘液は、まるで血のように、空間中に飛び散り、壁面のケーブルやパイプを腐食させていく。触手は力を失い、その動きを止めた。岩盤の脈動も、ゆっくりと弱まっていく。
光が収まると、アキラは息を切らして立っていた。白い破片は、コアに深く突き刺さったままだ。コアは、亀裂が走り、緑色の光が不安定に明滅している。
専門家たちは、呆然とした表情でアキラを見つめていた。巨大な触手は、もはや動きを止めており、床に横たわっている。
「やった……のか……?」
アキラは、朦朧とした意識の中で呟いた。彼の体は鉛のように重く、覚醒していた「血」の力も、急速に失われていくのを感じた。肌に浮かんでいた鱗のような模様も消え、目の輝きも元に戻っていく。
しかし、安堵したのも束の間、空間全体が再び揺れ始めた。今度は、岩盤の奥深くから、これまでとは比べ物にならないほど、巨大で、重厚な鼓動が響いてきたのだ。それは、まさに地の底から響く、根源的な存在の胎動だった。
アキラの足元の粘液が、激しく泡立ち始めた。そして、コアに突き刺さった白い破片が、脈動に合わせて、ゆっくりと岩盤の奥へと引きずり込まれていく。
<愚かなる人間め……! この程度の傷で、我々が止まるとでも思ったか……!>
そい姉さんの声が、嘲笑うかのように響き渡る。だが、その声は、もはやコアからではなく、空間全体から、さらにはアキラの心の奥底から響いているかのようだった。その声は、何千もの海の生き物の声が混じり合い、その中心には、深遠なる「父」の、おぞましい哄笑が聞こえる。
コアに開いた亀裂から、おぞましいものが蠢き始めた。それは、粘液に覆われた、巨大な「目」だった。その目は、アキラの全てを見透かすかのように、冷酷な光を放っていた。そして、その目の奥から、さらに巨大な、深淵の闇が覗いている。
深淵の主は、まだ、完全に目覚めていなかった。アキラが破壊したのは、あくまでその一部、あるいは先端にすぎなかったのだ。
「そんな……!」
アキラは絶望した。彼の努力は、無駄だったのか。
その時、岩盤を覆っていた触手の一部が、まるで殻が剥がれるように剥離し始めた。剥離した部分から、本来の岩盤の姿が露わになる。しかし、それは岩盤ではなく、巨大な、骨のような構造だった。そして、その骨の隙間から、これまで見たこともないほど強烈な、生臭い粘液が噴き出した。
アキラは、足元の粘液が、彼の足首を絡め取るのを感じた。粘液は、まるで生きているかのようにアキラの体に這い上がり、その体温を奪っていく。
「アキラ君! 早くこちらへ!」
専門家が叫んだ。彼らは、アキラの異変に気づき、彼を救い出そうと手を伸ばす。
アキラは、最後の力を振り絞って、リツコの方へと視線を向けた。リツコは、まだ緑色の光に包まれたままだが、その体から発せられる光が、わずかに弱まっているように見えた。彼女の変貌は、アキラの覚醒に連動していた。アキラが力を使い果たした今、彼女の変貌も止まったのだろうか。
アキラは、リツコを救い出すこと。そして、この深淵の主を完全に目覚めさせる前に、何とか食い止めること。その二つの使命だけが、彼の意識を繋ぎ止めていた。
彼は、骨のような岩盤の中心から覗く、巨大な「目」を見つめた。その目には、底知れぬ深淵と、そして、宇宙的なほどの冷酷な知性が宿っていた。それは、はるか古代から存在し、全てを呑み込もうとする、悍ましい存在の象徴だった。
アキラは、自らの血に流れる、その「父」の呼び声に、抗い続けることができるだろうか。