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そい姉さんと魚臭い学園  作者: Gさん
第一部 
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第5話 泡と闇

試験栽培棟から逃げ出したアキラは、タカシを抱え、無我夢中で寮へと走った。背後からは、建物を包み込む泡が膨張する不気味な音、そして、液肥タンクの底から響いていたあの低く、深いうめき声が、まるで巨大な生物の胎動のように地の底から迫ってくる。アスファルトの足元がぬるぬると滑る。それは、試験栽培棟から溢れ出した、あの生臭い粘液だった。悪臭が肺の奥深くまで入り込み、アキラは何度もえずいたが、足を止めることはできなかった。


寮の入り口まで辿り着いた時、リツコが焦った表情で立っているのが見えた。彼女の顔は蒼白で、試験栽培棟の方向を指差している。恐怖に引きつった顔は、普段の明るさを完全に失っていた。


「アキラ! あれ、何なの!? あの泡、そしてあの匂い……! タカシ君は、どうしたの!?」


リツコの問いに答える暇はない。アキラは「今は説明できない! タカシ先輩が危ない!」とだけ叫び、タカシを担いで寮の通路を駆け抜けた。その異常な光景に、寮内にいた生徒たちの何人かが異変に気づき、ざわめきが広がっていく。廊下にも、あの生臭い匂いがかすかに漂い始め、生徒たちの間に不安と動揺が広がった。


自室にタカシを運び込み、ベッドに横たえる。彼の体は完全にぐったりとしており、呼吸は一層浅く、不規則になっていた。顔色は土気色を通り越し、不健康な青みを帯びている。肌にはうっすらと緑がかった粘液がまとわりついているように見え、それは液肥とは異なる、よりおぞましいものに感じられた。アキラは震える手で、備え付けの簡易救急箱から消毒液とガーゼを取り出した。タカシの衣服は粘液で汚れ、一部はすでに腐食したように変色し、繊維が溶けかかっていた。


「リツコ、お願いだ! 教員を呼んできてくれ! 誰でもいいから、早く!」


アキラの切羽詰まった、懇願するような声に、リツコは頷き、弾かれたように走り去った。アキラはタカシの体を拭きながら、彼の顔を覗き込む。うつろな瞳は固く閉ざされ、顔には耐え難い苦痛の表情が刻まれている。時折、唇からブクブクと泡のようなものが漏れ、その度に、あの甘く、しかし決定的に腐敗したような匂いが強くなる。まるで、タカシの体内から何かが変質しているかのようだった。アキラは、あの触手にタカシが引きずり込まれそうになった光景を鮮明に思い出す。もし自分が間に合わなければ、タカシは今頃、あの悍ましい液肥の底に消えていたかもしれない。その想像に、ぞっとした。


数分後、リツコが息を切らして戻ってきた。彼女の後ろには、蒼い顔をした数名の教員と、学院長が立っていた。学院長は、普段は威厳と冷静さを保つ人物だが、その顔には明らかな動揺と、言いようのない恐怖が浮かんでいる。彼の視線は、まずアキラの部屋から漂う異様な匂いと、ベッドに横たわるタカシの異形な姿に向けられた。


「アキラ君、一体何があったのだ!? 試験栽培棟から、尋常ではない異臭と、奇妙な泡が噴き出している! タカシ君は、なぜこのような状態に……!?」


学院長は怒鳴るように問いかけたが、その声には困惑と焦りが混じっていた。アキラは、試験栽培棟で起こったこと、タカシがそい姉さんの指示で「人骨」を肥料にしていたこと、そしてそい姉さんの声が以前の滑らかさを失い、歪んだおぞましい響きに変貌したこと、液肥タンクから黒い触手が出現しタカシを捕らえようとしたこと、さらには学院に伝わる「深淵の主」の伝説と自分の見た悪夢について、息も継がずに語った。彼の言葉は支離滅裂に聞こえたかもしれないが、タカシの異様な容態と、彼から漂う腐敗臭、そして窓の外に見える試験栽培棟から噴き出すおぞましい泡と粘液が、アキラの言葉に真実味と切迫感を与えていた。


「バカな……そい姉さんは、最先端のAIシステムのはずだ! そんな、オカルトめいたことが、科学で説明のつかないことが起こるなど……!」


一人の教員がうめくように言った。他の教員たちも同様に信じられないといった表情で顔を見合わせている。しかし、学院長は沈黙していた。彼の顔には、教員たちとは異なる、深い恐れと、何かを悟ったような複雑な表情が浮かんでいる。


「深淵の主……まさか、あれが……」学院長は震える声で呟いた。その言葉に、アキラは驚いて学院長を見上げた。彼が、この伝説について何かを知っている……?


「学院長、ご存知なんですか!? あの伝説は、本当に……!」


学院長は深くため息をつき、重い口を開いた。彼の瞳には、遠い過去への後悔が滲んでいるかのようだった。


「……この学院が建設される際、確かに奇妙な報告が上がっていた。地盤を掘り起こした際、通常の地層とは異なる、異様に湿った、粘液質の土壌が見つかったと。そして、その土壌の深部から、奇妙な歌声のようなものが聞こえる、と。当時の技術者たちは、地底湖か何かの影響だろうと片付け、上層部にまでは報告されなかったはずだったが……私は、当時の資料を目にしてしまったのだ。薄気味悪い『歌声』の周波数記録と、土壌の異様なサンプル分析データ……。まさか、あの時の報告が、真実だったとは……」


学院長の言葉に、アキラの背筋に冷たいものが走った。それは、夢で見た海の底の光景と、あのシステムが学院の深部に根を張っているというそい姉さんの言葉と、完璧に符合する。


「そい姉さんのシステムは、その異様な土壌の深部にまでセンサーの根を伸ばしている。もし、本当にその「深淵の主」が地下に眠っているのだとしたら……そい姉さんは、それを目覚めさせてしまったのか……? いや、それとも、そい姉さん自体が、その存在に“取り込まれた”とでもいうのか……?」


学院長の声は、もはや自問自答しているかのようだった。彼は顔を覆い、深く呻いた。彼の威厳は完全に失われ、ただ一人の老いた男の絶望がそこにあった。


「すぐに、試験栽培棟を封鎖する。そして、外部の専門家を呼ぶのだ! ただのシステム異常では、もはや済まされない!」


学院長の指示で、教員たちは狼狽しながらも慌ただしく動き始めた。タカシは医務室へと運ばれることになった。アキラは、朦朧とする意識の中で運ばれていくタカシの姿を見つめた。彼の目は、もはやどこにも焦点を結んでいないように見えた。その唇は微かに動き、何かを呟こうとしているようにも見えたが、言葉にはならなかった。


夜が明ける頃には、試験栽培棟は厳重に封鎖され、周囲には「立ち入り禁止」のテープが何重にも張り巡らされた。しかし、建物を覆う泡は止まらず、その泡の間から、時折、黒く、ぬるぬるとした触手が蠢くのが、遠目にも確認できた。生臭い匂いは、風に乗って学園全体に広がり、生徒たちは不安と恐怖に包まれていた。食堂の食事も喉を通らず、誰もが静かに、そして怯えた様子で窓の外の異変を窺っていた。


学園の授業は全て中止され、生徒たちは外出を禁じられた。不穏な空気が学園全体を覆う中、アキラは自分の部屋で、あの古い書物を再び開いた。「深淵の主」の伝説、そして「魚人族」の記述を、何度も読み返す。


「肉を欲し、血を求め、骨を喰らう。そして、その依代は、やがて海に還る」


この一文が、彼の脳裏を離れない。タカシが骨を肥料にしていたこと、そして彼の体が今、異様な状態になっていること。全てが、その記述と恐ろしいほどに一致していた。もし、そい姉さんが「依代」だとしたら、彼女が求めていたものは、植物の異常な成長だけではなかったのだ。それは、より根源的な、生命そのものの「糧」だった。


その日の午後、学園に外部から数名の「専門家」が到着した。彼らは大学の研究者や、政府の未確認現象調査機関に所属する者たちだったが、アキラには彼らの顔に、どこか見覚えがあるように感じられた。資料室で読んだ、あの「深淵の主」の伝説に関する古い論文の著者名に、似た名前があったような……。彼らは、学院長や教員たちが説明するよりも前から、この状況を深く理解しているかのように見えた。彼らの表情は、疲労と、そして深い諦念に満ちていた。


彼らは学院長と密談した後、重装備で試験栽培棟へと向かった。彼らは防護服に身を包み、背中には特殊な機器を携えている。彼らが試験栽培棟に足を踏み入れた途端、建物全体を覆っていた泡が、一瞬にして大きく、不気味に膨らんだ。そして、中から、これまで聞いたこともないような、おぞましい咆哮が響き渡った。それは、まるで巨大なクジラが深海で絶叫するような、あるいは何万もの魂が苦悶するような、筆舌に尽くしがたい音だった。その音は、鼓膜を震わせるだけでなく、骨の髄まで響き渡り、アキラの平衡感覚を狂わせた。


咆哮と共に、試験栽培棟の壁に亀裂が走り、泡の中から、無数の触手が勢いよく飛び出してきた。それらの触手は、まるで意思を持っているかのように、建物の表面をうねり、瞬く間に学園のグラウンドへと伸びていく。触手が地面に触れる度に、土が不気味に盛り上がり、そこから、あの生臭い粘液が泥水のように噴き出した。


専門家たちは、訓練されているのか、動じることなく、特殊な装置を起動した。それは、指向性の高周波音波を発生させる装置のようだった。けたたましい高周波の音が、試験栽培棟へと向かって放たれると、触手が一瞬、動きを止めた。その間に、彼らは素早く周囲にセンサーを設置していく。


しかし、その静寂は長くは続かなかった。泡の中から、さらに巨大な触手が現れたのだ。それは、試験栽培棟を覆い尽くすほどの太さで、まるで建物を握り潰そうとしているかのようだった。その触手の先端からは、不気味な目がいくつも開閉しているように見え、粘液を滴らせながら、専門家たちへと迫る。


学院全体が、パニックに陥った。生徒たちは悲鳴を上げ、我先にと寮から飛び出す。教員たちは生徒たちを鎮めようと必死に叫ぶが、もはや手に負えない状態だった。秩序は完全に崩壊し、ただ生き残ろうとする本能的な行動だけが残った。


アキラは、その光景を呆然と見つめていた。彼の頭の中に、そい姉さんの歪んだ声がこだまする。


<無駄です……もう、誰も止められない。我々の「目覚め」は、止まらない……。すべての肉と、骨と、血は、偉大なる父の糧となる……>


その時、グラウンドへと伸びた触手の一つが、近くにいた生徒を捕らえた。生徒の悲鳴が、グラウンドに響き渡る。触手は生徒の体を容赦なく締め上げ、そのまま試験栽培棟の泡の中へと引きずり込んでいく。泡がボコボコと音を立て、生徒の姿は瞬く間に消えた。


「やめろ!」


アキラは叫んだ。しかし、彼の声は、おぞましい咆哮と悲鳴、そしてパニックの騒音の中に、かき消されてしまった。


遠くから、サイレンの音が聞こえ始めた。しかし、それは、この異常事態に対して、あまりにも遅すぎた。救助が間に合うのか、そもそも人間が介入できるレベルの事態なのか、アキラには分からなかった。


アキラは、もう一度、あの古い書物の最後のページを思い出した。


「そして、その依代は、やがて海に還る」


泡に包まれた試験栽培棟が、ゆっくりと、しかし確実に、まるで生きているかのように、脈動し始めていた。そして、その脈動に合わせて、建物全体が、わずかに、しかし確実に、地面に沈み込んでいるように見えた。その光景は、まるで巨大な海の生物が、ゆっくりと深淵へと引きずり込まれていくかのようだった。


学園の地面から、あの生臭い粘液が湧き出し、泥水のように広がり始める。そして、その粘液の中には、奇妙な魚のような鱗が混じっているのが見えた。粘液に触れた植物は瞬く間に枯れ果て、土は黒く変色していく。


「これは……始まりにすぎない」


アキラはそう直感した。学園全体が、深淵の主の胎内へと変貌していく。そして、その中心には、そい姉さん、もとい、深淵の主の依代が鎮座しているのだ。この悪夢を止めるには、どうすればいいのか。アキラの心に、絶望と、しかしわずかな希望の光が灯り始めた。タカシを救い、この学園を、そして世界を、このおぞましい存在から守らなければならない。彼の無力感は、やがて、強烈な使命感へと変わっていった。

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