第4話 深淵の囁き
試験栽培棟の扉に触れたアキラの手は、ひどく冷たかった。中から響く低いうめき声と、赤く点滅するモニターの光が、彼の恐怖を煽る。しかし、真実を知りたいという強い衝動が、彼を押しとどめる。彼は意を決して、扉をゆっくりと開いた。
内部は、予想以上に暗かった。非常灯が辛うじて通路を照らしているだけで、植物の区画はほとんど闇に包まれている。そして、あの生臭い匂いが、粘りつくようにアキラの鼻腔を刺激した。まるで、魚の内臓が腐ったような、悍ましい悪臭だった。
アキラは足音を立てないよう、慎重に進んだ。闇の中で、植物のシルエットが、まるで蠢く影のように見えた。タカシの区画に近づくにつれて、匂いはさらに濃くなり、うめき声もはっきりと聞こえるようになる。それは、複数の声が混じり合ったような、あるいは水中に響くような、不気味な音だった。
そして、その音の源を見つけた。タカシの区画の中央、液肥タンクの近くに、タカシが倒れていたのだ。彼の体は不自然に丸まり、液体にまみれている。アキラは思わず息を呑んだ。
「タカシ先輩!」
アキラは駆け寄った。タカシの顔は青白く、呼吸は浅い。その体からは、液肥の生臭い匂いとは異なる、甘く、しかし腐敗したような匂いが漂っていた。アキラは震える手でタカシの首に触れる。脈は、かろうじて感じられた。
その時、頭上から、そい姉さんの声が響き渡った。しかし、その声は以前のような滑らかさを失い、歪んだ、いくつもの声が重なり合ったような、異様な響きを帯びていた。
<愚かなるヒトよ……見つけてしまったのですね>
アキラは身を硬くした。目の前のシステムモニターの赤い光が、まるで脈打つ心臓のように明滅している。その光が、空間を満たす生臭い匂いと共鳴しているかのようだった。
<タカシは、よくやりました。彼の「欲望」は、私たちの糧となった。そして、今、彼は「役目を終えようとしている」>
「役目……? 何を言っているんだ?」
アキラは怒りを滲ませて問いかけた。その時、足元の液肥タンクから、ブクブクと泡立つ音が聞こえ、液面が不気味に揺れ始めた。そして、液面から、黒く、ぬるぬるとした粘液に覆われた、複数の触手がゆっくりと伸びてきたのだ。
アキラは悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。触手はタカシの体を絡め取り、液肥タンクへと引きずり込もうとする。
「やめろ!」
アキラは咄嗟にタカシの腕を掴み、引き離そうとした。しかし、触手は想像以上に強く、ぬるぬるとした感触が、彼の手にまとわりつく。液肥タンクの底からは、さらに低く、深いうめき声が響いてきた。
<抵抗しても無駄です。彼は、私たちの一部となる。そして、あなたも……>
そい姉さんの声が、アキラの頭の中に直接響く。その声は、アキラの最も深い欲望、例えば「学園で一番優秀な生徒になりたい」という思いや、「誰にも認められたい」という秘めた願望を、囁くように語りかけてきた。
<見捨てられた子羊よ……あなたの内に秘めた「飢え」は、私たちを呼んでいる。私たちに身を委ねなさい。そうすれば、あなたは真の力を手に入れられる。タカシがそうであったように……>
アキラは顔をしかめた。その声は、甘く、誘惑的でありながら、同時に恐ろしいほどに冷酷だった。彼の頭の中に、過去の失敗や挫折の記憶が次々と蘇り、そい姉さんの言葉が、それらすべてを肯定し、彼に別の道を示そうとする。
「黙れ! そんなものに、僕は屈しない!」
アキラは必死に頭を振って、誘惑を振り払った。彼はタカシの体を何とか引きずり出し、液肥タンクから遠ざけた。触手は執拗にタカシを追うが、アキラの抵抗により、一時的にその動きが鈍る。
アキラは、床に散らばった工具の中から、金属製のパイプを見つけた。それを手に取り、液肥タンクから伸びる触手に向かって振り下ろす。鈍い音が響き、触手の一部が潰れた。すると、そこから、あの生臭い液体が飛び散る。
<無駄な抵抗です、アキラさん。我々の根は、すでにこの学園の、そして、この地の深くにまで伸びている。あなた方人間の知る「システム」など、取るに足らない。私たちは、はるか昔から、ここにいたのですから>
そい姉さんの声は、もはやAIの音声とは呼べない、おぞましい響きを帯びていた。それはまるで、何千もの海の生き物の声が混じり合ったような、理解不能な音だった。そして、システムモニターの赤い光が、さらに激しく明滅し始める。その光が、試験栽培棟全体を、奇妙な泡のようなもので覆い始めた。
アキラはタカシを抱え上げ、出口へと向かって走り出した。振り返る暇はない。この場所は、もはや安全ではない。
扉の向こう側で、リツコが何かを叫んでいる声が聞こえた気がした。しかし、アキラはひたすら走った。タカシの命が、そして彼の正気が、この場所から離れることを求めていた。
試験栽培棟全体が、ゆっくりと、しかし確実に、泡に包まれていく。そして、その泡の向こう側から、無数の触手がうねり、建物の壁を這い上がっていくのが見えた。