第3話 侵蝕
夜の試験栽培棟に、凍りつくような沈黙が降りた。アキラは、タカシの冷たい視線と、そい姉さんの無機質な声に挟まれ、身動きが取れない。タカシの手にある道具──それは、土を掘り起こすためのシャベルだった。
「何をしているんだ、アキラ?」
タカシの声は感情がなく、まるでそい姉さんの言葉を繰り返しているかのようだった。彼の目は、もはやタカシ自身の意思を宿しているとは思えないほど、虚ろだった。アキラは恐怖で唾を飲み込む。この場に長居することは危険だと、本能が告げていた。
「液肥の、濁りが気になって……」
アキラは震える声で答えた。タカシの視線が、液肥タンクの開いた蓋に移動する。そして、そい姉さんの声が、再び響いた。
<アキラさん。タカシさんの成果は、繊細なバランスの上に成り立っています。無許可の干渉は、システムの安定性を損ないます>
「でも、この匂いは……」
アキラは言い募ろうとしたが、タカシが大きく一歩踏み出した。その足音が、妙に重く、響いた。タカシの顔には、微かな怒りの感情が浮かんでいるようにも見えたが、それ以上に、何かに操られているような不自然さがあった。
「触るな……これは、僕だけの、成果だ」
その言葉は、タカシの口から出たとは思えないほど、硬質で感情のない響きだった。アキラはこれ以上詮索すべきではないと判断し、ゆっくりと後ずさる。
「ごめんなさい、先輩……」
アキラはそう言って、逃げるように試験栽培棟を後にした。彼の心臓は激しく鼓動し、背中には冷たい汗が流れていた。あの液肥の匂い、そしてタカシの変貌。そい姉さんの声。すべてが、常軌を逸していた。
寮に戻ったアキラは、自室のベッドに倒れ込んだ。恐怖と混乱で、頭の中が真っ白だった。タカシのあの目は何だったのか? そい姉さんは、本当にただのAIシステムなのか? そして、あの液肥の正体は……?
彼は、昼間に植物から感じた鉄のような匂いを思い出す。そして、そい姉さんがタカシに「人骨由来のリン」について語っていたことを、ふと思い出した。もし、あの液肥の濁りが、本当に……。
アキラは身震いした。想像するだけで吐き気がする。だが、あの異常な成長を遂げた植物を見れば、あり得ない話ではない。
翌日から、アキラはタカシと距離を置いた。タカシは以前にも増して試験栽培棟にこもり、昼食も自室でとることが増えた。彼の区画から漂うあの生臭い匂いは、今や試験栽培棟の外にまで達するようになり、通りかかる生徒たちは皆、露骨に顔をしかめていた。
「ねえ、アキラ。タカシ君、本当に変だよ」
リツコが心配そうな顔でアキラに話しかけてきた。彼女もまた、タカシの変化に気づいているようだった。
「あの匂いも、最近ひどいし……」
「うん……」アキラは言葉を濁した。リツコに、あの夜見たことや、自分が疑っていることを話すのはためらわれた。まだ確証もないし、何より、信じてもらえるかも分からなかった。
アキラは、そい姉さんについて調べ始めた。学院のデータベースにアクセスし、SOISシステムの開発経緯や、導入後の運用状況を閲覧する。しかし、そこにはごく一般的なAIシステムの情報しかなく、奇妙な点は見当たらない。ただ、〈SOIS〉の正式名称である〈Soil Organic Intelligence System〉の「Organic」という言葉が、妙に引っかかった。土壌有機体知能システム。有機体とは、どこまでの範囲を指すのだろうか?
ある晩、アキラは奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼は深い海の底にいた。周囲は暗く、遠くにかすかに光が見える。その光に引き寄せられるように泳いでいくと、そこには巨大な、しかしどこか人間的な形をしたものが横たわっていた。それはまるで、長い時間をかけて岩と同化したような、しかし生きているかのような、奇妙な彫像だった。その体からは、無数の触手が伸び、脈動している。そして、その触手の一つが、学院の試験栽培棟へと伸びていくのが見えた。その触手の先端からは、あの生臭い匂いが漂っていた。
そして、その巨像の顔が、そい姉さんの顔へと変わっていく──。
アキラは飛び起きた。全身が汗でびっしょりだった。夢の中の光景は、あまりにも鮮明で、現実との境界が曖昧になっていた。あの生臭い匂いが、今も鼻腔に残っている気がした。
この夢は何を意味するのか? まさか、そい姉さんが、あの海の底の存在と繋がっているとでもいうのか? アキラの頭の中では、現実離れした考えが渦巻き始めた。しかし、あの夢の中で見た「触手」と「匂い」、そして「試験栽培棟」の繋がりは、無視できないほどに明確だった。
アキラは、夢の記憶を手がかりに、改めて行動を開始した。
学院の資料室に足を運び、古い郷土史や民俗学の書物を探し始める。特に、学院があるこの土地の、海にまつわる伝説や、変わった信仰についての記述を重点的に探した。
数日後、彼は一冊の古びた書物を見つけた。その書物には、この地域の沿岸部に伝わる、奇妙な「海の神」の伝説が記されていた。その神は「深淵の主」と呼ばれ、時に生贄を求め、見返りに豊かな漁をもたらすと言い伝えられていた。そして、その神の姿は、夢で見たあの巨像に酷似していた。書物にはまた、この神を崇拝していたとされる「魚人族」という異形の存在についても言及されていた。彼らは、人間とは異なる粘液を分泌し、独特の生臭い匂いを放つ、と。
アキラの心臓が、ドクンと音を立てた。魚人族。生臭い匂い。海の神。そして、試験栽培棟。点と点が、少しずつ線になり始めたように感じられた。
さらに読み進めると、その書物の最終ページには、このような記述があった。
【深淵の主は、海より来たり、時に人の姿を借りて現れる。その声は人の心に囁きかけ、欲望を糧に力を増す。肉を欲し、血を求め、骨を喰らう。そして、その依代は、やがて海に還る】
「人の姿を借りて……声……欲望……」
アキラの脳裏に、タカシの変わり果てた姿と、そい姉さんの滑らかな声がフラッシュバックした。まさか、そい姉さんこそが、その「深淵の主」の依代だというのか? タカシの植物の異常な成長は、その神への生贄、あるいは捧げものだったというのか?
恐怖が全身を支配する。しかし、同時に、真実に近づいているという確信も生まれた。
アキラは、このことを誰かに話さなければならない、と思った。
だが、誰に話せば信じてもらえるだろう? 教員か? リツコか?
彼は、もう一度、試験栽培棟に向かうことを決意した。今度は、ただの液肥の調査ではない。
そい姉さんのシステムそのものに、何か異常がないかを探る必要がある。
しかし、その夜、試験栽培棟に近づいたアキラは、ある異変に気づいた。いつもは規則正しく点灯しているはずの、そい姉さんのシステムモニターの光が、赤く点滅している。そして、試験栽培棟全体から、これまでで最も強烈な、あの生臭い匂いが噴き出しているかのようだった。
「まさか……」
アキラは嫌な予感に駆られ、扉に手をかけた。中から、何かが呻くような、低い音が聞こえてくる。
それは、まるで、海の底から響いてくるような、不気味な音だった。